せらび
c'est la vie
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みぃ


2004年12月16日(木) 昨日は一日氷点下だったけれど、今日は少し温んで氷点上

とある虐待のサバイバーの為のサイトで書き込みをしていて、行き違いが起こって困った。

元々インターネットやメールでの文章というのは、誤解が生じやすいものではあるが、加えて少々デリケートな話題だったので、尚更拗れてしまったようだ。

尤もワタシを含めて様々な虐待を受けて育った人々が議論をする場所だから、過去の経験を触発されて過剰反応を起こしたり、また気分が悪くなったり鬱になったり不眠になったりと、色々と事情もある。

そういう事を踏まえた上で話をしていく訳だが、虐待については周囲の認識不足から理解されずに辛い思いをする事も沢山あるから、せめて此処だけでも心の拠り所となってくれればと集う人々がやって来る。ワタシもそのうちの一人である。同じ様な立場の人々同士だから分かり合える事もあるし、多くを語らずして理解が得られるとの思いもある。時にはそれを過信してしまう事もあって、今回の件などは恐らくそれだと思う。またはワタシの日本語能力の問題もあったのかも知れない。


話題は同性愛者に関してのものだったのだけれど、ワタシの住む街にはどっさり住んでいるし友人も何人かいるから、彼らが日頃受ける差別や偏見についてはよく聞くハナシである。以前いた街でも同性愛者の集中する小さなコミュニティがあって、彼らは一様に親切で「小さなアジアの女の子」(=ワタシ)を可愛がってくれたから、ワタシに取っては馴染みのある人々というか大切な友人らである。

しかし日常会話やテレビ等でも、彼らの人権を無視した品の無い冗談はよく飛び交うし、またこの同性愛者めなどとからかわれて本気で怒っている異性愛者の友人(これは特に社会的少数派、有色人種の男性に多いようである)もいるくらいだから、ああまたかと半ば呆れて見ている。

尤もワタシ自身が「黄色いヒト」扱いだから、人種にまつわる無礼な行為を目の当たりにするのも日常茶飯事だし、それで悔しい思いをしたり不条理に憤ったりするのも、またよくあるハナシであり、しかしそれで一々反応していては身が持たないからそれなりに適応するというか妥協するというか、まあ慣れっこになっているわけだ。何年もこういう土地で暮らしていると、来た当初よりは当然経験を積むから、少々の事では憤慨しないようになる。単に歳を取った所為もあるだろうが。

そういう訳だから、ある人が同性愛者に関して誤った認識があった某件について「ショック」だと言っているのを聞いて、正直随分ナイーブな人だなと思った。昔の方が今より偏見を持たれていたのはある意味事実だし、それがそんなにショッキングな事だろうかと、不思議に思った。

それで、まあそう気を落とさずに、というつもりで、その件は偶々そういう経緯だったかも知れないが、何年か前に偏見に基づいてそういう次第になったとしても悪気があった訳では無くて、偶々便宜上の措置であったのだろう、という様な事を書いた。そうしたら奇麗事だ自意識過剰な「投影」だ、悪気が無ければ何を言っても良いと思っているのかと言う人がいた。その余りの勢いに、ワタシは暫し言葉を失った。


書かないで言外に含めたつもりの点は次の様な事である。「クローゼットから出て来て」(自分が同性愛者であると対外的に告白して)以来何年経つのかは知らないが、少なくともいい歳の大人ならば、ワタシたちが生活するこの社会がどれだけ不公平で様々な差別や偏見に満ちたところかというのは承知しているだろう。そして残念ながら自分が少数派である場合、その少数派の意向は度外視されがちな社会でもあるという事は、そのモラル的善し悪しは兎も角、そういう事情が存在するという事自体は事実としてある程度受け入れられなければならないだろう。

…冷たく聞こえるかしら。でもそう心得ておかないと、自分が傷つくだけじゃないかと思うのだけれど。

これがまだ若い人だったら、話は違うかも知れない。世の中の苦く辛いところをまだ知らない若者だったら、こんな事を聞いたらショックを受けるのかも知れない。でも凡そ察しは付くものではないかとも思うけれど。

それとも日本ではそういう事は表立って話し合われないから、免疫が出来ていないのだろうか。ワタシはそれこそ奇麗事だと思うから、こういう事ははっきり本当のところを言うべきだと思うけれど、言わないのが良いと思う人もいるのかも知れない。


例のショックを受けた人は、性虐待のサバイバーである所為もあってか、随分ショッキングな事として受け取ったようだけれど、案外それは実際以上に受け取って反応しているのではないかとも思う。悪く言えば、本人にそういう認識は無いかも知れないが、「被害者意識」が強く前面に出た様な感じがする。

これはワタシ自身も時折反省するのだけれど、虐待の日々を耐え忍んで生きて来たという感覚は、下手をすると自分を過剰に被害者扱いしてしまいがちである。自分を可哀想がってしまうと、物事を自力で処理出来無くなってしまう。運命を呪い過ぎると、日々降って掛かる大小の困難に立ち向かうのが鬱陶しくなってしまう。これはワタシの場合、後の様々な苦労も重なっているから、満更被害者であるのに間違いは無いのだけれど、だからと言って自分を甘やかしてもいけないとも思う。自分を労わるのは大いにやるべきだけれど、そして虐待サバイバーは概してそれを知らずに育っているから尚更重要だけれど、しかし甘やかすのは命取りでもある。

…などと思える辺りまでワタシは回復したから良いようなものの、そうでない人々が沢山居るサイトだから、そういうところでこんな冷めた現実的な事を言ってはいけないのかも知れない。日々の様々な症状を乗り越えるのに精一杯な人々に対して、仕様が無いじゃないそれが現実なのだから等と言ったら、却って症状が悪化してしまうだろう。それでは余りにデリカシーが無いというものだ。

ここいらが丁度潮時なのかも知れない。

此方のサイトに出会ってから、何度救われたか知れない。遠い空の下に似たような境遇の仲間が居る、と思えば、辛い事もまだ耐えられる気がして、本当に心強かった。お陰でワタシも漸く心の安定を取り戻す事が出来た。

しかしワタシは今、有難いのと同時に、同朋の執拗な追及というのか、ちょっとのミスも許さず徹底的に息の根を止めないと気が済まないかのような非難の応酬に、すっかり閉口している。そういえばいい年をした大人が職場でも「いじめ」をするように、陰湿な抑圧された恨みのようなもの、何かこう、何としても誰かを蹴落としてやらないといられないという様な鬱屈した気味の悪い性質が、どんよりと回線を超えて伝わってくる様な気がしている。辛うじて保たれているワタシのエネルギィが吸い取られ、呼吸困難に押しやられていく。

星回りも良い頃合の様だから、やはりここいらが潮時か。

楽しい事には、全て終わりがやって来る。


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