せらび
c'est la vie
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みぃ


2004年12月09日(木) 心に迷いがある時は尚更読書が良い

先日は眠れなくて、この間の 感謝祭の休暇中に買って来た日本語の本をつらつらと読んでいたら、ついつい徹夜になってしまった。

元々ワタシは、出掛けには必ず文庫本を一二冊カバンに詰めて行く程度には読書が好きだったのだけれど、片道二時間半の学校へ通っていた頃はもう乱読で、古いのから新しいのまで片端からよく読んだ。とはいえ、いつまでも飽きが来ないのは、やはり実のある古典的な作品で、明治から大正辺りのが好きで、新しいものはノンフィクション以外好まなくなった。

尤も後になって、業務上止むを得ず日々吐くほど読まされるようになってしまったから、読書が趣味で御座います等と呑気な事を言っておれなくなってしまった。

それに今となっては日本語の本は中々手に入らないし、いや勿論売ってはいるのだけれど、ワタシの経済力ではそうちょくちょく買う訳にもいかないので、その辺りは控えめである。自ずと、同じのを何度も読み返す羽目になる。言い換えれば、何度も読むに耐えない本は、手持ちの中には置いていない。なにしろ隙間という隙間をやり繰りして埋めた本棚には、もう余裕がないのである。

そういう訳だから、先日の買い物は、久しぶりの贅沢である。本屋は何時行ってもわくわくするね。


今回は平岩弓枝の『御宿かわせみ』と宮尾登美子の『陽*楼』(ようきろう、「き」は日偏に軍だが、ワタシのコンピューターの辞書には出て来ないから、常用外か)を買った。女モノばかりである。

時代劇も好きで、お気に入りは『鬼平犯科帳』なのだが、あれは大長編だから、一から揃えていくとなると置き場所やら資金やらの心配も出てくるし、なにしろ次に引越しをする時の事を考えると無闇矢鱈と物を増やすのも考え物だから、容易に手が出せない代物である。『御宿かわせみ』もシリーズがあるようだが、今のところはこれひとつを大事に読んで行こうと思っている。どちらも、いつもいつも「此れにて一件落着」とばかりに上手く解決が着く事ばかりではない、現実的なところが、大人向け、世の中の在り様を分かっている人向けな感じがして、気に入っている。

『陽*楼』は比較的新しいところで、昭和初期の作品である。今回これを徹夜で読んだ次第だが、この読後の感じはなんとも言い難い。

というのも、ワタシはこの主人公に、なんだかすっかり嫌気が差してしまったのだ。人から何と言われようと黙って耐える女、というのは、日本的には美徳のうちとして良い印象があるのかも知れないが、こうまで言う事を言わないで遣られっぱなしなのも、見ていて苛々する。まるでその「耐えている」という事を周囲(または読者)が当然好感を持ってくれるものという前提があっての話、という日本特有の文化的背景があるから、尚更嫌らしい。しかもこの人の場合、自分の言い分を言える機会はそう無い立場だというのに、僅かな機会すら活かしていないのも、余りに間抜けで腹立たしい。

そうは言っても、或いはワタシ自身の中にそういう「負け犬」的要素(と書くと今時の流行言葉の所為で誤解を招きそうだから気が進まないのだが、他に適した語が見当たらないので致し方無い)があるのを承知しているから、まるで鏡を見ているようで気に入らないのかも知れないとふと思う。

苦い話を序でに話せば、こんな次第である。ここで ほぼ日さんというところから週に何度か届くメールサービスの中で、父親についての投稿を集めた中に手頃なのが丁度あったので、例に挙げる。おとーさんの話はこの際無関係である。


「数年前の今ごろ、父はガンで入院し、
  もう末期で寝たきり、
  ほとんど何も分からなくなってしまってた。
  私のレポートを丸写しした女が
  それで何かの賞を取った。
  父の病室で,寝ている父越しに、
  怒りを母にぶつけてた私に向かって
  突然父が
  『見ている人は見ているもんだ、またがんばれ』
  と言った。
  そのまま亡くなったから、その言葉が遺言です」

ほぼ日刊イトイ新聞(デリバリー版)2004年 12月7日(火)第853号より抜粋


読んだ時、一瞬ぎょっとしたのだが、ワタシも同僚にプロジェクトのアイデアから資料から、そっくりそのままかっさらわれた事がある。更にワタシが四苦八苦しながら会議でやっとこさ発言すれば、必ずその後に続けてなんやかやと難癖を付けたりこき下ろしたりと、意地悪のされ通しだったのである。

ワタシもこの投稿者の様に励ましてくれるおとーさんがあれば、まだ傷の癒えも良かったろう。しかし相手は年下の同朋だったから、この女もまたワタシの知る「同朋に無慈悲で時に競争心を顕にする海外在住二ホンジン」かと、改めてがっかりさせられた。

只解せないのは、この女は業界では有名な学校を出て学位も取っていたし、そのまま某国際機関へ務めたりもしていたから、人のネタを盗まないでも充分実力を誇示出来る筈の人間という事である。それが何でまたワタシのような、当時その業界ではまだ知識も経験も無くお手柔らかにと言ってお茶を濁して居るような新入りと張り合う必要があったろうか。同じ二ホンジンという事を利用して差を付けようとは、なんという性悪かと、思い出してはむかっ腹を立てていた。

尤も、その某国際機関というのは、始終そんな事をやっている処だそうである。あそこでのし上がって行くには、学位と専門分野に於ける職務経験の上に、同僚を蹴落とすあの手この手が要るらしい。それが「国際」になっただけの事で、何処の国でも官僚がやっている事と実質大差は無い。

勿論今ではワタシも少し冷静になって、それだけ自分に自信が無いからそんな姑息な手を使ってまでアピールしたかったのだろうという事は理解出来るけれども、しかしこの女に対して、当時のワタシは然したる手立ても講じられず、結果的に泣き寝入りの状態になったのは事実である。

そしてそういう負け犬の愚痴には滅法冷たいのが、この土地の人々である。誰一人それはお気の毒に等とは言わない。遣られっ放しで泣きべそをかいているのは子供だけで、大人は断固として立ち向かわなければならない。それが出来ないからと言って、誰かが横から手を貸してくれる事もない。弱い者は滅び、強い者だけが生き残る、まるでダーウィン様の仰せの様な世界である。

だから、そういう不甲斐ない自分の姿がかつてあった事は嫌でも良く覚えているから、本なんかで似た様なのに出て来られては、ワタシとしても悔しくてならないのだろう。


しかし参考になる部分もあった。

これは花柳界の話だから、小さい頃から借金の片に連れて来られた娘たちが、日々踊りや三味線、唄等の厳しい稽古に励む訳だが、主人公は踊りの名手という事になっている。しかしそこは子供の事だから、歌詞や筋書きをよくよく理解しての上での踊りと言う訳には行かないで、専ら型通りに踊って上手いと褒められながらやって来たという事である。

それがある時、姉芸妓に唄の稽古を付けて貰っている時、その唄の意味を漸く理解して、そうするとそれに合わせて自然と身体も付いて行く、という事に気付く場面がある。成る程、物事何でも只やれば良いというものではなくて、その裏の意味や道理や理論などを分かっていないと意味が無いとは良く言ったものである。これはワタシ自身の「芸」の向上にも、有益な戒めである。

とまあ、ワタシなりにこれは言い聞かせた次第である。


思うに、どの本を取っても、読み返すに足るものは皆、読む度毎に新たな戒めを発見する事がある。勿論その作品としての完成度や作家の力量にも依るだろうが、飽きずに繰り返し読んでいる内に、以前には発見出来なかった意味合いや前後関係などが分かるようになってきて、それにはまたそれの醍醐味がある。

これは古典扱いして良いものかどうか定かでないが、黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』などは、小学生の頃に初めて読んで以来、何度読んでも同じ味わいと読む度に違った味わいとがあり、そういうものこそベストセラーとして名を残すべきだろうと思う。

その読む毎に発見する別の味わいは、その時の自分の心理状態や人生の指針を計るのにも役立つから、まさに自分の成長の証でもある。


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