せらび
c'est la vie
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みぃ


2004年11月10日(水) 事実は小説より奇なりと言うから、訴訟其の一、第三話

訴訟其の一、第三話。

年明けのある日、誰かがドアをノックした。覗き穴から覗いて見ると、見知らぬ長い黒髪の女性が、俯いて立っている。一先ず現地語でどなたと聞くが、それには答えないで、更にドアをノックする。

不審に思いドアのチェーンを掛けたまま応対すると、日本の方ですよね?ワタシ隣の部屋に越して来たばかりの者なんですけど、と日本語で言う。なら早くそう言えよ、と口には出さぬものの、また非常識なニホンジンがやって来たものだと溜息を付く。

特にタオルやら石鹸やらの典型的引越用粗品を手にしている様子でもないので、ああそうですか、よろしく、と愛想を言って早急にドアを閉めようかと思ったのだが、実は聞きたい事があるんですと言う。

お宅に暖房は入ってますか?

いいえ、今は入っていません。

どうやって生活してるんですか?

どうやってと言われても、とりあえず布団を重ねて、こうして衣類も重ねて、オーブンも点けたりして、なんとかやっていますよ。

それでいいんですか?

は?

それで貴方は構わないんですか?

いや、別に良いとは思っていませんけど、一応ワタシなりに大家にも市にも電話はして訴えていますし、出来る範囲の事はやってますけど?

ワタシ、そういう事ではいけないと思うんですよね。そういう自分だけ良ければ良いというようなやり方は、やっぱり良くないと思うんですよ。ここはやはりニホンジン住民が一致団結してですね、何とかして立ち向かって行くべきじゃないんですか?

・・・・・・


初っ端から唖然としたが、兎に角こうしてワタシたちは知り合った。後にワタシたちは、この訴訟を通して意見の食い違いが大きくなった末に、大喧嘩になってしまったのだけれど、こうして見ると初めからなんとなく不吉な予感が立ち込めていたようにも思う。

この隣人のお姉さんはワタシより七つ程年上で、東北のある街の看護婦をしていたが、更に看護学校でも教えていたと言うのが自慢で、以後幾度と無くこの話を聞かされた。それをどういう訳だか放棄して外国まで出掛けて来てしまったのだが、現在はこの国での資格がないので「ヴォランティア」という形で、ある大学病院の研究室に時々手伝いに行っているという。

その所為か「過去の栄光」に拘ってよく一端の事を言うのだけれど、実際いつもこの人の言う事はどこかしら間が抜けていた。

例えば彼女は靴の収集が好きだったとかで、日本から送ってきた手持ちの靴を全て、クローゼットのドアの裏面に備え付けた靴掛け一面にずらりと並べて、一人悦に入っていた。

しかしよくよく聞いて見ると、今ではサイズが変わってしまったので、そのどれも入らないのだと言う。捨てれば?とついついワタシなどは思ってしまうのだけれど、随分執着があるらしいので、黙っておいた。

また独身看護婦または看護学校教員の見入りは随分良いんだなと思わせる話に、マイケル・ジョーダンの「追っかけ」をしていたというのがある。このバスケットボールチーム「シカゴ・ブルズ」の当時の花形選手の大ファンであったという彼女は、知り合いの「つて」を駆使してチケットを入手しては、アメリカへ夜勤明けの日帰りとか、または有給を当て込んで一泊、二泊などしては、あの街からこの街へとチームが遠征するのを「追っかけ」ていたと言うのである。

その話を聞いていて、この人は随分思い込みが激しい性質なのかしらと、ワタシは少々不安になった。「ストーカー」というのが居るけれど、本人は気付かないでやっていることが多いから、気をつけないとねぇ。

また「金に糸目はつけない」と言うのが口癖でもあったから、日頃倹しい生活をしているワタシなぞはそれを聞く度、却って自分の財布の紐がきりきりと絞まっていく様な心地がしたものだ。


兎に角そういうワケで、彼女がワタシを随分自分勝手な人呼ばわりするので、仕方が無い。売られた喧嘩は買おうじゃないか。

じゃあ具体的に貴方はどうしたいと思ってるんですか、と聞いてみた。彼女は、このアパートには日系の不動産会社を通じて入居したニホンジンが多く住んでいるから、その人たちを集めて署名運動をしたらいいという。そしてこんな暖房も入っていない不良物件を紹介したという事で、その仲介会社にも責任を取って貰うべきだと言う。でも、このビルにはニホンジンだけが住んでいる訳ではないから、その非ニホンジンについてはどうするのですかと聞いた。すると、それも含めて、一度聞き取り調査をするべきだと言う。実際暖房が入っているのかいないのかも確認するべきだと。

それで、ワタシとそのお姉さんとで、アパート内の世帯をひとつひとつ尋ねて、聞き取り調査をした。

もっともその時になって分かったのだけれど、彼女は言葉が殆ど出来なかった。だから元々、ニホンジンしか集める気はなかったようだ。それで結局それ以外の住民には、ワタシが事情説明をしてあれこれ聞き出し、特にワタシたちより長く住んでいる彼らと大家との関係なども垣間見れるまで、何度か足を運んでみた。

ニホンジン宅では、お姉さんはやはり饒舌だった。自分より若い住民たちを相手に、説得というか説教というか、こうするべきだ、そんなことじゃ駄目なのよ、と片端から強力に説いて回った。大家の逆襲を恐れて数名は二の足を踏んだが、他は大家の態度が悪いと日頃から不満を抱えていたので、ワタシたちのチームは少しづつ大きくなって行った。

そうしてワタシたちは、大家に対して暖房を入れてくれという旨の陳情書を作成する事にした。これはお姉さんの不倫相手である大学病院の医師(彼女は「フィアンセ」と呼んでいたが、実はその研究室にやってくるニホンジン看護婦を片端から手篭めにするので有名なドクターだと言う事が、後に判明する)が下書きを書いて、それをワタシが修正した。そうして一軒一軒説得を重ねて、住民のうち七割の署名を集める事に成功した。

訴訟其の一、第四話へつづく。


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