行ってみた。やってみた。
おやつの最後は甘系で〆る派です→今日のおやつ

2005年11月08日(火) 久しぶりにおばあちゃんを思い出した。


5年程前に亡くなった母方の祖母の病名が脊髄小脳変性症であったと今日知りました。
ドラマ【1リットルの涙】でも取り上げられているので、今は割と知られているかもしれないけれど、当時病名を聞いた時には小難しい病名だなぁと思い、聞いたそばから忘れてました。
ドラマではかなりのスピードで病が進行してますが、うちのおばあちゃんの場合はもっとゆっくりだったなぁ。


おばあちゃんが体調の異変に気づいたのは、亡くなる15年近くも前の事でした。
『何かね、身体がフラつくのよ』
うちの母親にそう話していた記憶があります。
でもその時はまだ、生活に支障が出るレベルではなくあくまで「なんか変」程度のもので。むしろ見た目だけでいえば健康そのものな感じでした。


病院で検査を受けても原因は分からず。病名がハッキリとしたのは、おばあちゃんが『なんか変』と感じてから10年近くも後になってからの事でした。当時は今よりも更にこの病気が珍しかったからなのかもしれません。
その頃には病気も進行していて、おばあちゃんは杖をついてやっと歩けるような状態でした。また、上のリンクにもあるように姿勢が保ちにくくなり腰がだいぶ曲がってしまっていました。リュックを背負うと背中が引っ張られて腰も伸びるからと好んでリュックを背負っていた事を思い出します。
更に少しすると立っている事自体が困難になり、台所の横に小さなテーブルを置いて正座しながら料理等をするようになりました。料理なんて無理してしなくても良いのに・・多分おばあちゃんは家事さえままならない現実を認めたくない部分もあったのだと思います。同居のお嫁さん(私の叔母)が台所に立つ横で小さなテーブルを台に野菜を刻むおばあちゃん。見ていて切なかったです。


でも、この病気は稀な場合を除き知能には何ら影響がないんですよね。
だから自由が利かない身体でも会話は可能でした。そしてそれが私達にとっても救いでした。でも、それすらも少しずつ困難になっていったのです。
病気が進行していくに従って構語障害が現れ始め、おばあちゃんの言葉が少しずつ聞き取りにくくなっていったのです。それでも最初は耳を澄ませれば何とか聞き取る事もできたのですが、じょじょにその言葉も理解しにくくなっていきました。






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すぐに気づきましたが、一瞬でもそう思ってしまった事が悲しかったです。


亡くなる前の一年程は、寝たきり状態のおばあちゃんでした。
何をするにも自分ではできない。言葉が聞き取れないどころか言葉を発するのがやっとな状態。
頑張って頑張ってやっと発した言葉も、聞き取る事ができず途方にくれる私やお母さんを見て、おばあちゃんも困ったような顔をしたり・・そんな事が何度もありました。その時のお母さんの悲しそうな様子を今でもハッキリと覚えています。その時、おばあちゃんはまだ70歳を過ぎたばかり。元気な人なら旅行だ何だと楽しんでいてもおかしくない年だものね。


おばあちゃんが亡くなって、もう5年程になります。今では毎日思い出しはしないけれど、結婚式の時など何かある度に「おばあちゃんが生きていたらなぁ」とふと思い出したりします。きっと、お母さんはもっとその気持ちが強いんだろうな。


+++


実は、父方の叔母もこの病気を患っています。
10万人に5〜6人という割合で発症すると言われる位珍しい病気なのに。


叔母さんの場合も、おかしいと感じてから数年の間は病名が分からずにいました。
遠くに住んでいるので直接会う事はなかなか難しいのですが、叔父さんからの電話などで訊く症状がおばあちゃんとよく似ていた事もあり、同じ病気を疑ってみたら?と助言したら本当に同じ病気で。
おばあちゃんの病気が進行する様をリアルで見ているだけに、やるせない気持ちです。


この病気には今のところ有効な治療法がなく、薬で病気の進行を遅らせる事くらいしかできません。
それでもおばあちゃんが病気になった頃よりは薬も開発されているそう。
少しでも早く特効薬が開発されて叔母さんの病気が治る日が来る事を願ってやみません。この病気に限らずね。


よくよく考えてみたら、私の知ってるおばあちゃんの半分は病気のおばあちゃんなんですよね。それがちょっと寂しい。
皆が元気で笑顔の絶えない世の中になればいいのになぁ。。


   カコ  モクジ  ミライ


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