WHITESTONE
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小学生の頃、学校までの道のりは数百メートル。 大人が歩けば5分とかからない。
その道のりを途中でバッタを見つけては立ち止まり、図書館に寄ったり、図書館の中庭の池のザリガニを見たり、民家の間をすり抜け探検したり・・・
20分、30分とかけてやっと家に着く。 その行為に何の意味があったかというと別になんも無いよね。 意地悪なやつは「そんなことして意味あんの?」なんてさも大人ぶって言ったりしていたけれど、もう一度言う、意味は無い。
いや、正確に言うとその時は意味は無かった。
大人になって、特に最近道草の意味というか大切さっていうのがわかってきたような気がするんです。
通勤路時々自転車を止めて信濃川の川面を眺める。 これだけで何か心のなかが洗われていくような気分になったり、公園を歩いて抜けて行く時に見かけるバッタに子どもの頃を思い出したり・・・ 余裕を無くしている時に道草すると張り詰めていたものがまた緩んでくれてまだまだやれそうな気になる。
人生においても僕は1本の道を歩いてきたわけではない。 紆余曲折、寄り道だらけだ。 前へ進もうと思っても途中に面白そうなことがあると立ち止まってそれを眺めてしまう。 それに意味はあったかっていうと無いんだよね。その時は。
でも後になって、時間が経つと一つ一つのことが僕の考え方に影響を与えてきて意味を持つようになってくる。不思議だ。
他人の人生が面白そうに見えてくる。 人に雇われている時は独立した人が羨ましく思えてくるし、独立すれば会社勤めの人が羨ましくて仕方ない。 結局同じなんだよね、というのが最近感じること。
「世界に一つだけの花」っていう歌が流行った当時は僕も良い歌だなと思ったんだけど、最近は振り子が逆に振れてきてあの歌をあまり好きになれなくなってきた。
個人個人がそんなに違うんだろうか? 個人個人がそんなに違わなくてはいけないんだろうか?
自営業も会社勤めも大変なのには大差ないし、大人も子どももそれなりに大変だ。金持ちには金持ちなりの、貧乏人には貧乏人なりの苦労があり、男にも女にも独自の悩みはある。
心に病を抱えている人も体に障がいを持っている人も大きな枠では大差無いじゃんって思う。
究極のところ、なんだかんだ言っても人間だろ、ってことでいいじゃないかと最近思うんです。
個性を出さなきゃって必死になりすぎて結局廻りまわって皆同じ方向を向いている最近の雰囲気に「もっと肩の力抜いて道路脇を眺めて見ろよ、結構きれいだぞ」って教えてあげたい気持ちなのです。
決して最近の社会のスピードについていけなくなってきたオッサンの愚痴ではないぞ、負け惜しみじゃないからな(笑)
ちょっとまとまりのない文章になってしまいましたが久しぶりに長々と書いてみました。
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