WHITESTONE
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通勤路、自転車に乗りながらふと「幸せ」についてあれこれ考えてみました。
僕は「幸せ」か? Yesである。
稼ぎは少ないので好き放題飲みにでかけたり、競馬やったり、テニススクールに通ったりとか散財できませんし、家で好き放題できるわけでもない、ウチの奥さん、息子、義父母との関係をバランスをとりながら気をつかいつつの生活。
独身貴族の人たちはそれを大変だと思うのだろうけれど、僕には今のところ「幸せ」に感じられるのです。
マックのハンバーガー1つ食べて幸せを感じられる。 幸せの「しきい値」が低いんだな。
生徒から「先生、飴あげるよ」と僕にも手渡してくれる、すごく嬉しい。 飴1個だけど人の気遣いってのは本当に嬉しい。
ウチの奥さんが「安かったからさぁ」と言いながらも僕にユニクロやしまむらで何か服を見繕って買ってきてくれた時はとても嬉しい。
ハンバーガーを餌と呼び、ユニクロやしまむらの服をボロ雑巾とまで呼ぶ人たちの「幸せのしきい値」はそうとう高いんだろうけど、その人達が日々幸せを享受する機会というのは365日の中でどれだけあるんだろうか?
僕は単純だから、 マックでもしまむらでも、吉牛でもすき家でも、かっぱ寿司でもたわら屋のラーメンでも「幸せだなー」と思える。
通勤路、晴れた青空の下、柳都大橋から見る河口の美しい景色に「幸せだなー」と思える。
各家庭、いろいろな問題を抱えているとは思うんだけどその問題の隙間に小さな幸せはたくさん落ちていて、それを「ふん、そんなもの」って思ってしまうか、「あ、こんなところに幸せが・・・」って思えるかは長い人生においてとってもとっても大切なことなんじゃないだろうか。
いつきさんの日記を読んでちょっと感動しちゃったのでこんなことを考えたのかな・・・と。
追記: 幸せってのは積み木みたいなものだとも思う。 少しずつ「子どもの積み木」「配偶者の積み木」「仕事の積み木」様々な積み木を根気よく積み上げていって最終的に大きな幸せが手に入るんじゃないだろうか。
突然降ってわいたような幸せはその隣にぽっかりと大きな落とし穴があると思っている。
最近は小さな積み木を積み上げることを面倒くさがっている人が多いんだろうけど、子供の頃、積み木を積み上げるのってスリルもあって楽しかっただろ。 崩れたらまた積み上げればいいって思っていれば、人生の積み木だって似たようなものじゃないか。結構スリルがあって楽しいぞ。
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