〜鳥籠の中の戯言〜
鳥籠の中で空を見上げる…
鎖された世界でも…夢は見れる…
だから私は此処で戯言を呟きつつける…

2007年07月21日(土) 松永久秀。

…BASARAの新キャラが発表されましたね。
ごめんなさい…って誰ですか…?という感じだったので調べてみました。

永正7年(1510年)に生まれる。久秀の前半生には不明な点が多い。出身説にも阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身、もしくは商人という説がある。ただ、この商人であったという説は、久秀と同世代の斉藤道三も久秀と同じような人生を歩んでいることから可能性があるとして出てきている説でもある。俗説では久秀と道三は旧知の仲だったともいわれる。


[編集] 三好長慶時代
天文9年(1540年)から細川氏の被官三好長慶の右筆として仕える。

天文18年(1549年)、長慶が細川晴元、足利義輝らを追放して京都を支配すると、長慶に従って上洛し、三好家の家宰に任じられ、弾正忠に任官され、霜台と称する。長慶は久秀の才能を早くから見抜いていたようで、のちには自分の娘を久秀に嫁がせている。

その後は長慶に従って幕政に関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられ、永禄2年(1559年)、大和国信貴山城に移って居城とする。永禄3年(1560年)には興福寺を破って大和一国を統一する一方で、長慶の嫡男・三好義興と共に第13代将軍・足利義輝から相判衆に任じられ、従四位下、弾正少弼に叙位・任官する。永禄5年(1562年)、多聞山城を築城して移り住んだ。

このように久秀は長慶の信頼を得て勢力を増加させていくが、主君・長慶は弟の十河一存や実休(義賢)の相次ぐ不慮の死、さらに嫡男・三好義興の死去などの不幸が重なって、年々、気力を失くしていった。十河一存や三好義興については久秀による暗殺とも伝えられているが、これらは推測の域を出ない(通説の死因は、一存は落馬による負傷、義興は病死とされる)。

このように長慶の統率力の低下は久秀の勢力拡大をさらに助長し、久秀は主家の実権をめぐって対立する安宅冬康(長慶の弟)を長慶に讒言して、謀殺させた。冬康の死去により三好家では久秀に並ぶ実力者はいなくなり、久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。永禄7年(1564年)に長慶が没すると、久秀は長慶の養子・三好義継を傀儡として三好三人衆と共に三好家を専断するようになった。


[編集] 畿内の覇権をめざして
長慶の死後、三好三人衆とともに長慶の後嗣・三好義継の後見人となり、永禄8年(1565年)には幕政を牛耳るために将軍・足利義輝を攻め殺した(永禄の変)。さらに義輝の死後、キリシタン宣教師を追放した。

こうして畿内に君臨するようになったが、同年に弟・松永長頼が丹波で敗死している。さらに永禄9年(1566年)に入ると、畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようになる。この三人衆との戦いにおいては、久秀は劣勢に立たされていたが、永禄10年(1567年)には三好三人衆とその同盟者の筒井城主・筒井順慶と上芝で戦い、両者の挟撃を受けて敗退した(上芝の合戦)。

10月、三好三人衆が立てこもった東大寺を攻撃して大仏殿を焼き払った。ただし、フロイスの「日本史」には三好方のキリシタンが放火したと記述されている(一説には、久秀軍の将兵が三人衆の軍勢と戦っているとき、勝利の勢いのあまりに焼き払ったともいわれる)。


[編集] 織田信長時代
永禄11年(1568年)9月、織田信長が上洛してくると、いちはやく降伏して名茶器といわれる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示したため、大和一国を安堵された。元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に参加し、信長が妹婿・浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされると、信長と行動を共にし、近江朽木谷の領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている。

その後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するなどしたが、次第に信長包囲網が結成されてゆくにつれて信長が不利になると、第15代将軍・足利義昭の誘いに応じて信長を裏切り、信長包囲網の一角に加わった。元亀4年(1573年)3月には将軍・足利義昭と同盟して信長に背いたが、4月に信長最大の強敵・武田信玄が病死して武田軍が甲斐に撤退し、織田軍の反攻が開始され、7月には義昭が追放されて幕府が滅亡し、天正元年(1573年)11月には三好義継が河内若江城で敗死すると、多聞山城を差し出すことで再び信長に降伏した。


[編集] 最期
その後は信長に従って石山本願寺攻めに参加していたが、天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長の命令に背いて本願寺攻めから勝手に離脱し、大和信貴山城に立て籠もってそのまま反逆に及んだ。

信長は嫡男・織田信忠を総大将とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。このとき所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば信長は助命すると述べたが、久秀は拒絶する。このため、信長のもとに差し出していた2人の息子は、京都六条河原で処刑された。そして織田軍の攻撃が始まると、平蜘蛛を天守閣で叩き割り(茶釜に爆薬を仕込んで自爆したとも言われている)、10月10日に爆死した。享年68。

奇しくも、この日は10年前に東大寺大仏殿を焼き払った日と同日であった。

首塚が奈良県王寺町の達磨寺に存在する。

法名:妙久寺殿祐雪大居士。墓所:京都市下京区の妙恵会総墓地。奈良県北葛城郡王子町本町の片岡山達磨寺。奈良県三郷町に供養塔。


…小十郎の邪魔をするって某雑誌に書いてあったんですが、信長に仕えていたということは長政やお市のストーリーモードにも関わってくるんでしょうね。
ちなみに、第一印象は「雷様みたいなおっさん」でした(爆死)


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沙神 [HOMEPAGE]