めめんと森
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ここに日記をUPするのは何年ぶりだろうか。 最後に何を書いていたのかも思い出せない。
東日本大震災の後しばらく、死ぬかもしれないという恐怖に憑りつかれた。 首都圏の家を出て、学校を休ませた息子と娘を連れて、関西の実家に向かって避難したのがあの年の3月16日。 夫は仕事を休むわけにいかず、飼い猫と残った。 別世界のように明るく緊迫感のない関西の実家のリビングで、ショーでも観るような感覚で、爆発する原発のTV映像を観た。 4月に子どもと帰宅すると、原発の近くの町から義母と義妹が避難所や親戚宅を転々としてうちにやって来て、一か月ほど共に暮らした。
彼らの抱えていた不安や恐怖は、不思議なほど稀薄に見えた。 朗らかな義母の性格のお蔭だと思う。 あの日確実に私よりも“死”に近かった二人は、とても健気に振る舞っていた。まだ余震でヒヤリとすることも多かったが、結構揺れたねー、と笑っていた。 それから彼らは再び福島に帰って行った。足を踏み入れる事の出来なくなった故郷の町ではない、雪深い町の仮設住宅へ。
あれから3年経って、義両親たちはまだ仮設に居る。
震災直後は、何もかもが終わってしまったかのように感じられて、胸が締め付けられるような日々だった。 それでも、生きている以上は生活は続く。 何とか西日本へ移住をしようとして、仕事を失いたくない夫と険悪になった。 そうしているうちに、段々と麻痺しては来た。
食べ物は出来るだけ選んでいるけれど。 何事もなかったかのようにお金を動かし始めたこの国で、どこまで抵抗できるだろう。 生活はやっと安定し始めたばかりだし、何もかも捨てて子どもだけを連れて、放射能から逃げる事のメリットとデメリットを目が回るほど考えた。
今でも考えている。
首都圏の片隅のこの町に、家を買っても。 命からがら、という状況になったら、子どもたちの命以外のものは捨てる。 なんとしても生き延びる。 …日々そんな事が頭に張り付いて、消えることはない。
大震災は死ぬことをいつも考えさせる生活を私にもたらした。 日々思い詰めて暮らしているわけではないけれど、人はいつかは死ぬ。 そのきっかけになる出来事は日常のすぐ後ろに潜んでいる。
適度に、死を思って生きて行くこと。 普段は表に出さない、死ぬことから考える生き方みたいなものを、こっそりここに綴る為に帰って来た。
希死念慮に囚われてしまっている時は、書かないことに決めている。 それはメメント・モリではない、感情の暴走だから。
結局はただの日記になるかもしれないけど、それでもいいかな。
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