ふつうのおんな

2013年11月15日(金) 父が亡くなりました

あさ、着替えて鏡で自分を見たとき 何故かわからないけど自分の姿が喪に服してるように見えました。
黒いニットの半そでワンピースに茶色のタイツ
メガネ
いつもの格好なのに、そう思いました。

12時46分、客先で会議の席に着きプリントが配られたとき携帯が鳴り。
妹から。

廊下に飛び出したら「お父さんが呼吸が止まった!dkjgぱwぴえがkd」
「わからない!ちゃんと話しなさい!!」
「お父さんが透析中に呼吸が止まったの。もう、心臓マッサージはいいよね?」
泣きながら妹が叫んでた。

「いい もういいよ。お姉ちゃんもすぐ行くよ。」

11月3日 「おかあさん(私の母)に会いたかねえ」「おばあちゃん(母の母)の味噌汁ば食べたかなあ」といったことを急に言い出す。
     母が亡くなって一度もそんなふうに母のことを言ったことはなかった父。
     ああ、もう近いのかもしれない。父も母も互いを許しあったのかもしれないと思った。

11月6日 言葉が言葉にならない

11月9日 寝てばかり。瞳孔が開いているとのこと。妹が病院に泊りこむ。

11月10日 家を出た後で「これから別の病院に救急搬送されるからそっちに来て」といわれむかう。
     病室に入る前の父に「おとうさん!」と大きい声で話しかけると「あああ」と声を出ししっかりを私を見る。ナースが「娘さんだと反応が違うのね」と驚く。
     これが父との最後のコミュニケーションになる。

脳内出血がわかり、人間らしさをつかさどるところがダメージを受けている。
外科的処置をしなければ認知症が進むがそれが致命傷になるわけではないといわれる。
妹が初めて私の前で、父のことで大声をあげて泣く。
「やっぱりね 肺炎なんかじゃないって思ったよ!」

今更父の頭蓋に穴を開けて血を抜くなんてできない。
処置を断る。


11月11日 透析

11月13日 透析

15日 処置をしないならやれることはない、と元の病院に朝一番で戻される。
   父が外の風に当たる最後の日。
   透析の終わりのほうで急に呼吸が弱くなり、急いで器具を外したらしい。
   病室で待機していた妹は、廊下からばたばたと音がして「呼吸が止まってる!はやく!」というナースたちの声を聞いたそうだ。

私が行くまで父の体は温かかった。

私も妹も母もたくさん たくさん泣かされた。
だけどいつも心にかかる愛おしい人だった。

4年も患っていたので、いつでも別れの覚悟はできていると私も妹も思っていたのに全く違った。

認知症でも何でもいいから、生きて体温を伝えていてほしかった。

お母さん、お父さんがそっちに行ったよ。
とてもさみしいよ。
お墓参りのときいつも「もうちょっとまってね」ってお願いしてたけど、もうお母さんもさびしくなってしまったのかな。

親がいなくなるというのはこんなにも心細いものなのか。

父の棺が炉に入るとき、私と妹は泣き叫んだ。
私は「お父さん お母さん」と叫び続けた。

もうちょっとで誕生日だったのに。

母は誕生日まで生きると執念を燃やし、誕生日の朝「えっちゃん 生きてたよ」と私にしがみ付きその後現実を認識できなくなり6日間戦って苦しんで 亡くなった。

父は誕生日を認識できなくなっており、誕生日の10日前に眠るように亡くなった。

2人とも 心からお疲れさまでした。
ほんとうにたいへんだったね。きつかったね。
ありがとう
ありがとう
また会いたい。

chick me
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