| 2005年08月15日(月) |
聖会のメッセージ。その�� |
先に楽しかったことばかりを書いたが、 今回の聖会で恵まれたのは、遊んだ事ばかりではなかった。 集会のメッセージが素晴らしかった。
その中で、心に残った事を少しまとめてみたいと思う。
☆拒絶について。
聖書の中に、放蕩息子の話がある。お父さんからもらった財産を 湯水のように使い果たし、疲れ果てて、ようやく、お父さんのところに 戻ってきた弟。しかし、お父さんはそんな息子をかわいそうに思い、 かけより、抱きしめ、そして息子のために宴会をひらく。
面白くないのが、兄。「どうしてだよ、お父さん。あいつは、 お父さんを裏切って、放蕩の限りを尽くしてきたんじゃないか。 あんなやつのために どうして宴会なんか開くんだよっ!」
でもお父さんは「あの子は、いなくなってたのが帰ってきたんだ。 死んでたと思ったのが、生きてたんだ。 だからお祝いするのは当たり前じゃないか」と言うのだ。
感動(−。−、)
でも、このお兄さんのスピリットは、私たち、みんなにもあるという。 自分と誰かを比較して、自分は愛されてない。自分は価値がない。 そう思ってしまう。
その根っこにあるのは、「自分はお父さんから愛されていない」 そのようなものらしい。
この兄が、自分は本当にお父さんから愛されている。 そう信じていたなら お父さんの愛を心から理解できていたなら このように、弟の幸せをねたむ事もなかったろうに。
ここで言う、お父さんとは、神様。すなわち天のお父さんの事である。 兄は、私たちという事になる。
なるほど。私にも拒絶の根っこがある。そう思った。 もうだいぶ治ったが、私の中にも、 人と自分を比べ、そして、いじけている部分がまったくないとは いえないのだ。
それは、お父さんの愛を疑っているからなのだ(−。−) ショックだー。
それから、もう1つ気がついたのは、 私は実は、自分自身を拒絶していたという事であった。 それが一番ショックだった。 誰よりも、自分自身のことを、けなす。 誰よりも、自分自身を否定する。 そうなんだなぁと思った。 誰が否定したのか?私自身だ。 神様はそんな事していないのに。
神様が造られた尊い私自身を、私が否定する。 そんな権利はどこにあるんだろう。
そして、その根っこを、抜き去るお祈りをした。 すっきりした。 そのような根っこを置いといて、サタンのつけこむすきを 与えてはいけないのだ。
人と自分を比べる。。。それは罪だ。 でも、どうしてもそうしてしまう。 そのようなものの背後にあるものを知れてよかった。 そして、それを取り去るお祈りが出来て本当に良かった。
私はもっともっと神様の愛の大きさを知りたい。
「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを 理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えた キリストの愛を知ることができますように。 こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、 あなたがたが満たされますように」
エペソ人への手紙。3章18〜19節
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