草原の満ち潮、豊穣の荒野
目次前ページ次ページ

99 草原の満ち潮   6 街の灯

...ああ、風が吹いている....歌が聞こえる。
鳥だろうか、娘達だろうか。
遠すぎてよくわからないが....穏やかだ。


草の中、ひとりの男が湿地に沈んで空を見ていた。
銀の小魚達が彼をつついては跳ね、水場へ去っていく。


...私は、これで消えて行ける。
約束は次の命へ受け継がれた。すべての者達が生まれ変わり
大地でそこに生きるものとして生きて行くだろう。

長い..長い夜だった。
私は何度生き死んだろう。
ただひとり、あの少年だけがあの約束を生きて受け取ったのだ...
本当ならすべての人々にそれを叶えたかったけれど...
鬼でも罪人でもいい。

これで私はもう眠るのだ...永遠に。


男は青く長い髪を草の根元に絡ませて空を見つめていた。

ひとつだけ心残りなのはこの最後の体の持ち主の一生を道連れにする事だけ...

彼は頬の傷に手を当て目を閉じた。

「すまない...」


「すまないじゃないだろう」


「!」


青い髪の男は上から覗き込む顔を見つけた。

「........」

「僕の浄眼は節穴じゃない。戻って来い」

「申し訳ないがもう火が残っていない。私はあなたのいう
人物の人生を奪った。戻す事が出来るものなら...」

覗き込んだ顔はカノン。
彼は草に沈んだオンディーンの胸元を掴むと勢い良く引き上げた。

「寝ぼけるんじゃない!僕の前で寝ているのは生きた人間だ。
さんざん問題を起こして、いや街をひとつ焼き払い、街人を一文無しにした
張本人そのものだ」

オンディーンは困ったように黙り込んだ。
カノンはため息をつくと引き上げた相手を座らせ、己も銀棍を置いて座った。

「........」

遠くまで草を払い風が駆け抜けてゆく。
カノンは真面目な表情で語り始めた。

「いいですか。きちんとお話しましょう。あなたは僕の心にやってきて
過去の僕と接した。僕には火があったからだ。それは海のものでした。
僕の父方の遠い縁に海の者がいたのです。
僕は眠っている時、赤ん坊の時に亡くなった両親を見ました。
追い出された僕の魂を守っていたふたりの姿を。
覚えてもいない父はあなた達と同じだった...」

オンディーンは黙って聞いている。

「父の瞳は青かった。母は黒髪で瞳は赤く、焔に仕える巫女でした。
ふたりは海の火を僕という命に託した。
その為に厳格な司祭であった祖父に追われたのです。
僕の邪眼は『ブルー殿』の体の変化と同じです。
生きた人間に埋め込まれた異物が副作用を起こしたようなものだ。
あなたもそれを知っていたはずだ。
だから僕は幼いながらも火を渡したのです。
いいですか。
僕は焔を守る番人です。渡してはならない者には幼くとも渡さない」

カノンは黙り込んでいる相手に尚も訴えた。

「あなたが本当に『ブルー殿』の体を奪って支配した怨念であるのなら
決して僕の火、命の焔に耐える事はできなかったはずだ」

「........」

オンディーンは困惑したようにカノンを見た。

「私は....人の心をあまりにも長い時間が奪う事を怖れました。
だから...切り離し、何度も生きたものへ寄生して生きては死んだのです。
犠牲を出すつもりはなかった。
もうひとつの心に恨みや悲しみ、憎悪を預け、出来る限りの手段で
未来を開こうとしたつもりでした。
私にはこれが精一杯です。許して下さい。
どうしても最後のこの若者の体の魂だけは、私から解放できない...
どうか、許して下さい」

風の中で鳥が鳴き続けている。
仲間を呼ぶ声。
オンディーンは太陽の日差しに小さなうめき声をあげた。
カノンは自分の上着を脱ぐと頭からすっぽりと被せ、言った。

「それは君が当の本人だからだ」

「え、いや...」

うろたえるようにオンディーンは口ごもった。

「君はバカで考え無しの粗暴でケンカ好きの大酒飲みだ」

「..............」

「他の人間の振りをしたって僕の浄眼に君の魂はひとつしか見えていない」

「いや、それは...」

「オンディーンだって?そんな女性の名前。君の名はブルーだ。いつまで寝ぼけている」

「じょ...女性...」

「ああ、君はケンカっぱやい男だ。似合わないね、そんな名前」

「......」

「君はカマ野郎なのか?」

「.....」

「君にはキンタマもついてないのか?」

思わず、青い髪の男はかけられた服を取って目を剥いた。

「臆病者め。都合が悪くなると他人の振りなんて最低だ。
女々しい弱虫だってもう少しマシじゃないのか」

「なん...」

「文句があるのかい?腰抜けの癖に」

「...てめえ、いいかげんにしとけよ」

勢い良く立ち上がった青い男はカノンの胸ぐらを掴んで叫んだ。

「誰がタマなしだって?てめえこそタマを引っこ抜かれたくなきゃ黙れ」

「何か言ったかい?オンディーヌ」

「その呼び方だけはやめろ!くそったれめ!!」

「わかった、ブルー」

「あっ...」


青い男はカノンを放すと太陽に頭を抱えて座り込んだ。

「それが君の地らしいね。別人なんかじゃなくて。
いいかげんで認めたらどうなんだい?」

「くそったれ...やりやがったな。
どっちにせよこの太陽じゃオレは生きていけねえよ...」

カノンはブルーを見下ろすと笑った。


「ところがいくつか帰り損なった連中がいるんだ」

「え?」

「君はまだその体を大事に扱うべきだ」


汚れたカッターシャツ姿の司祭は掌の上にいくつか小さな青い火を灯して見せた。

「それは..」

「6つある。君に縁ある人々達がどうしても残ってしまったんだ。
他は皆、生まれ変わって新しい命を得るべく去って行ったのに」

ブルーは青い火を見た瞬間、嗚咽がこみあげた。

「...リラおばさん..べろべろじいさん、じじい、デライラ...それから..」

ふたつだけやや暗い。
ブルーはすぐにわかったが口に出さなかった。ひとつは腰巾着だった学生の人魚。
もうひとつはかつて自分が喰った......

「君は君のと併せて7つの命を持つ事になる。せいぜい死なないよう
気を付けて彼等のぶんまで生きるんだな」

「あ...ああ。」

「ブルー!」

背後で少年の声がした。
ルーだ。
あの長い願いの生き証人であり、唯一地上にそのまま辿り着いた少年。

「あ、泣いてるの?ブルー。駄目だなあ」

「バカ!泣いてるんじゃなくて..」

「いてーっ!ぶつ事ないじゃん。人が心配して探してたのに!」

ルーが頭を抑えながら怒鳴った。

「おお、ブルー殿、死に損なったんかー」

「ナタさん...おかげさまで....あ、いやそれより
いろいろ迷惑かけちまって...」

「あー?まあええわ、いや、俺急いで帰らんとあかんのや。
ルーくん、挨拶がすんだか?ほな行くで」

「行くって?」

ナタクはルーを片手で背中に放り投げると竜の姿になってまくし立てた。

「ルーくんに酒屋稼業を手伝ってもらうんや。これから忙しくなるって時に
呼ばれたから助っ人のひとりも連れて帰らんとボコにされるわ。
ほな、またいつかな。
カーくんも無茶すな」

「ブルー、ちょっとアルバイトに行ってくる。さよならカノンさん。
お世話になりました!」

「ああ、ルー君、また機会があったら勉強しにおいで」

「おいル...ぶは」


勢い良く飛び立った竜人は湿地の水と泥と銀の魚をブルーとカノンにひっかけて消えた。

「行っちまった....あいつあっというまに順応しちまって」

「ブルー殿...いやブルー。君はこれからどうする?」

「まだ何も考えてねえよ。死んだと思ってたんだから。
あんたこそどうするんだ?」

「決まっている。君達がやらかした後始末で朝から晩まで働くよ」

「あ...」

「街の人達は皆、住む家も財産も失った。幸いこの草原が恵みだったから
なんとかやりなおせるだろう」

「恵み?」

「見てごらん。この草原は麦だ。刈り入れまではあちこちから救援物資をもらいに
いかなければならないが」

「......手伝うわ」

「やめた方がいい」

「なんでだよ」

「街が消えた原因が君だと知れたら袋叩きに合うだろう。
出来るならあちこちの街へ行って救援を仲介してくれた方がありがたい」

「仰せの通りに...」






「秋にはパンを焼けるかな」

「畑を作れ。馬や家畜に被害がないのがありがたい」

「馬の品評会を開け!ここは名高い名馬の都なんだ!」

「とりあえず皆が雨露しのいで眠れる場所を」

「女達は救援物資を調理して皆に配れ」

「さあ、なくしたものは泣いても戻らん。皆一文無しだ。
金持ちがえらそうにしてないだけ気分がいいや」

「わーっ、私の屋敷が、倉が、財産がー!!」

「ざまあみろ」

「泥棒の心配がいらないねえ」

「なんてみじめなんだ」

「仕立て用の針と糸を救援メモに!」

「医療用品をもらってきてくれ!メモはこっちにもまわしてくれ」

「教科書と筆記用具を!教育を忘れてはいけない」

「学校なくなっちゃった。ばんざーい」

「牛は乳絞らなきゃ。つかまえて、いそがしい」

「かんたんな道具だけでもチーズを作れるかしら?」

「草でソリ遊びが出来るよ」

「魚取りに誰かいかないか」

「きれいな服、頼んでもらえない?」

「お菓子〜」

「酒ー!」

「バカ!薬が先だ!」

「火を灯せ!焔の女神に感謝を忘れるな」

「家屋敷はなくとも、街の灯を絶やすな!」


かつて名馬で名高かった商業都市ヒダルゴ。
今はどこまでも緑が広がる。
馬達はいっそう美しく、力強く駆け回っている。
空は完全なる青空。
穏やかな風は雲を一片たりとも寄せ付けていない。