草原の満ち潮、豊穣の荒野
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88 戦闘人魚  5 想い出と決意

荒野には老人が立っていた。
街道の傍ら、赤茶けた砂が駆け抜けていく古いカフェ。
無人の朽ちかけた店内に声だけが時折響く。
青い瞳、青く長い髪のブルーに似た男は窓から外の老人を眺めていた。
首からは切られた跡のような傷。彼は歌うように呟いていた。

「地獄はここなんだがね...」



老人とブルーに似た男だけが比較的はっきりした姿をしていた。
あとはゆらゆらと青い焔のような影が歩いている。
影であるだけで、普通に笑い、会話する人々。
音も無く、声のみがさんざめく。

ひとつの影が老人の元へ近付くと声をかけた。

「あなたがあの子を世話して下さったんですね?」

バケツを持った白い髭の老人は微笑みで答える。


「あの子が街を出てからきっと元気でいると信じていました。
何処へ行っても大丈夫だと」


青い焔はうっすらと女性のような形を象って揺れた。

「あの子は私の幼い子が亡くなってすぐ、やってきたのです。
もうずいぶん昔の事ですが、大きな声で泣き、よく眠る赤ん坊でした」

老人は一度だけカフェの窓辺に目をやると青い焔と並ぶように座った。
手に持ったバケツの中で少しばかりの水が揺れ
沈められたいくつかの石のかけらが魚影のようにひらめく。
ブルーが吐き出したもの。
彼女は水面を覗いて言った。


「きれいですね...」

「奥さん、あなたには見えているのですかな?」

「ええ、これがあの子の想い出...」


青い焔は老人に自分の名前がリラだと名乗ると少し泣いた。

「あの子は帰って来るつもりだったのですね」

「そのようでしたな。あれは....そう、何も無ければわしも都に置いて
辺境の事を任せるつもりでおりました。
とにかく頑固で激しい性格をしておりましたが、奥さんのような女性に育てられたのなら
概ね問題はなかったでしょうな」


「....あの子、私はなんと呼べば良いのでしょう?私達はブルー、と呼んでいましたが
もう...」


「あなたがブルーと呼びたければそれでよろしい。
わしも出来る事なら別のものと考えたいのじゃが...」


「あの人は何故、そんな事を?」

「.........」


老人はただ寂しそうに笑って答えなかった。

リラはバケツの水底に映る景色を視て感嘆の声をあげた。

何処までも遠く広がる緑の草原、黄金の穂を揺らして渡って行く風。
青い空を駆けて行く白波のような雲、花の舞い散る賑わった街道。
大道芸人のバイオリンに踊る猿、賑やかな酒場、
桜色のドレスの娘、街並...
そして何より幼いブルーを抱いた自分の懐かしい姿...

「きれいな娘さんがいますね。少年のままいなくなってしまったから
なんだか切ない気持ちになりますわ」

「わしは別の意味で切ないですわい」


老人は娘が女装した少年である事に気付いていたが口に出さなかった。

「アホなバカ弟子のままでおってくれたなら....」

「もし、何も起こらなかったならあの子は医者にでもなっていたでしょうか」

「...そうかもしれませんな。薬学の知識がありましたがあれはあなたが?」


リラは嬉しそうに笑うと空を見上げた。

「風が出て来ましたね。嫌な....暗い風..」


老人の顔から微笑みは消えた。
彼はカフェの方を厳しい表情で見て立ち上がった。

「奥さん、あなたの望みは?」

リラはカフェで酒を飲み続けている別の老人を見つめていた。
ブルー達が『べろべろじいさん』と呼んだぼろぼろの酔っぱらい。
嘘と後悔まみれの一生。
ブルーがはじめて立ち会った別れ。
夢の薬と信じて毒薬を持って行こうとした少年....

リラはしばらく黙っていたがやがてこう答えた。

「人が生きるのは一度きり、ですわ」

「では...よろしいのですか?」

「ええ。あのじいさんは嘘を本当だと信じ込もうとしたけれど駄目だった。
逃げる為に酒を飲み、逃げられないまま死んだのです。
そんな悲しい嘘の果てに約束の地や夢があるのなら
人はなんの為に生きるというのでしょう?」


「皆何もかも失うかもしれませんがよろしいのかな?」

リラは笑いながら言った。

「私達はもう死んだのです。失うものなどありません。
あの子はまだ生きているのでしょう?
それを犠牲にしてまで何も欲しくはありません」


「奥さん、あなたは良い人生を送られましたな。
他の者はなかなか...あのオンディーンがその最たるものです」


「良いかどうかなんて自分ではわかりませんわ。
それより....助けてやれるでしょうか?」


立ち上がった老人はにっこり微笑んで手を振るとバケツを持って歩き出した。
街道へ。
ブルーのいるヒダルゴの街へ向かう為に。
カフェの中の『オンディーン』はそれを怒りに満ちた目で見ていた。


「バカな事を。そのまま待っていればいいものを。
今ここから出れば永遠に消える事を知らぬわけはあるまい。
生きた人間の命さえ取ればどこにでも行けるというのに。
必要な数が揃う前に邪魔をされては困る。
仕方ないが消えてもら..」

オンディーンが黙った。
リラの魂が揺れて傍に立っていた。
彼女はオンディーンの頬を思い切りひっぱたいたのだ。

「あんたが何者かなんてどうでもいい。
でもその顔をしている限り
悪い事をするのはこのあたしが許さないよ」

「....」


ぶたれたオンディーンがゆっくりとリラを振り返った。
青く長い髪は見る間に白銀に褪せ、首の傷から血が流れ出している。
ひどく暗い青の眼。
永い時間の果ての怒りと悲しみと恨みと憎悪。

「ならばこれで良かろう。お前も消えてしまえ」



一度だけ女の悲鳴が荒野に響き渡り消えた。
老人はその声を耳にした瞬間、目を閉じたが振り返らず街道へ走った。
道へ出ればオンディーンは追ってこられない。
あの怨霊はブルーや地上の生きた人間の魂を得て行動する事が出来る。
その為に、もうすぐひとつの街が彼の手に落ちようとしていた。

「う...」


街道に足を踏み入れた瞬間老人は凄まじい疲労を感じた。
一歩一歩歩くごとに魂が削り取られて行く。
死んだもの、ましてや地上の者でもない存在があってはならない場にいるのだ。
ブルーのいる場所まで持つだろうか。
なんとかこのバケツの中にあるものを渡さなければ。
老人は今、全てを把握しすべき事を定めた。




オンディーンはブルーになろうとしている。
彼の蒔いた種は命と魂を喰い成長を続けた。
ブルーも人を喰い殺した事で、魂を奪われた犠牲者なのだと考えていた。
だから『種』を眠らせ、あの小さな戦闘種の力でブルーを生かしていたつもりだった。
魔獣となって他の命を奪う事無く、本来生きるはずだった人生を送らせる事で
怨念が慰められるかもしれないと願って。

全くの誤算だった。

小さなブルーが現われたのは、ひとつの正常な肉体に
ふたつの『人』は納まり切らず分離したのだ。
ブルーは最初から魔獣で生まれていた。
問題は彼の意思で人を喰った事なのだが、心で制する意思があるのなら
信じるべきだ。
ふたりめの『戦闘人魚』を。

小さなブルーはそのひとりめなのだ。
傷を癒し、生命を支える力、生きる事をやめない意思。
あの悲劇の時、願いは実現していた。
だからこそ地上に同行させたのだ。
あの怨念も本来、その命を救って死んだ魂から生まれたのだ...
もう憶えてもいないだろう。
オンディーンの思惑が成功すれば、ブルーは生きた怨霊と成り果てる。
それでは駄目だ。


「人でありたければ想い出は持っておけ。
このバカ弟子めが...」


街道を消え行く魂が歩いて行く。
その魂は時折すれ違う生きた人間を見送りながら街を目指した。
自分が完全に無に帰す前にブルーを見つけなければ。

彼は魂を失う事が、死ぬよりも永遠の無だと知っていたが歩くのをやめなかった。
もうすぐ日が落ちる。
嫌な風が先刻から吹き始めているのを感じながら老人の魂は歩き続けていた。