草原の満ち潮、豊穣の荒野
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83 長い悪夢  2 二つの過去、満ち潮の予兆

ブルーは空を駆けた。
黒い翼、赤く燃える小さな胸の焔。
青空を高く高く突き抜けながら彼はいつかの夢を思い出した。

あの星だ...
空の巨大な獅子の胸に燃える心臓星。
地上ではそれをレグルスと呼んでいた。

何故オレは鳥なんかの姿をしてるんだ?
オレはなんにでも願った姿に変わる事が出来る。
急いでいたから鳥のように飛べと思っただけだがそれなら獅子にだって。
幼い頃に憧れた空の王だ。
誇り高く、孤高にして揺るがない。
あれならどんな辛い事も飲み込んで立っていられる。そう信じた。
ブルーは獅子を脳裏に描いた。そうだ、青の空に駆けるのなら白い獅子でもいい。
彼は念じてみた。変われ、と。

「.....」

何も変わらない。黒い鷲はまっすぐに飛び続けるのみ。

「ちっ」

まあ、いいとブルーは目指すヒダルゴへ目を向けた。

「ん?」

目前に青い光と赤い光が浮かんでいる。
街の上空に唐突に現われたそれはブルーの行く手を遮るようにあった。

「なんだ、こりゃ。..げ!」

赤い光は突然ブルーを飲み込むように膨張し、間抜けな黒い鷲はあっという間に
光の中へ踏み込んでしまった。


.......見るがいい。...を持つ者よ...


ブルーの脳裏に声が響いた時、彼は自分が地面に立っている事に気付いた。
足元は火が燃え....

「あぶない!」

ブルーは思い切り何かに突き飛ばされて吹っ飛んだ。

なに..オレはこんな...

彼は口から血を吐きながら地面に叩き付けられる寸前、滑り込んだ黒衣の男に抱きとめられた。
目の前に巨大な黒い獣が金色の目を三日月のように光らせて舌なめずりをしている。
ブルーは口を開こうとしたが首ががくりとありえない方向へ曲がった。
おかげで彼は自分の体をよく見る事が出来た。
小さな手足。あちこちが焼け折れた無惨な子供の骸。

「くっ...」

その滑り込んできた男は骸を地面に置くと黒い獣の前に立った。
右手には長い銀色の棍。
...どこかで見たような...

「ヴァグナー!戻れ!」

まだ若い声でその男は獣に絶叫した。
黒い獣は多すぎる腕と足に長い爪を血で彩っていた。
その血はそこらに転がる人間達のものだ。血と内蔵の匂い、そしてそれが焦げる嫌な悪臭。
獣は魔獣と呼んだ方がふさわしかった。耳まで裂けた口から覗く歯は人間のようだった。
黒いたてがみは人間の髪のようにも見える。
そして魔獣は金の目から血の涙を流した。

「ヴァグナアアアアア!!」

黒い魔獣は若い男に凄まじい勢いで腕を伸ばした。
明らかに殺す意図を持って。
男はその腕の中へ銀の棍を握りしめたまま突っ込んで行った。
ブルーは骸の目でその横顔を見た。


.........カノン。


「クソ間に合わんかったか!」

正面衝突するように向き合い止まった魔獣と若い男の姿を見て駆け込んで来た男が呻いた。
魔獣の背中から銀の棍が突き出し赤い血に染まる。

「...浄火...」

若い男が絞り出した言葉。
一瞬で魔獣は焔に包まれ崩れ落ちた。
僅かに焼け残った灰に何かが落ちて光る。
ひしゃげて焦げ、変型した護符のような銀。

「うっ...うっ」


若い男は膝を付くと地面を激しく叩きながら慟哭した。
ちょうどブルーの骸の目の傍で何度も。
血が流れ出しても彼は拳を地面に叩きつけるのをやめなかった。
彼は言葉にならない言葉を狂ったように吐き続け転げ回った。


「カノン、もうやめえ」

後から来た男がそう言って彼の血まみれの腕を掴むまで。

「俺が悪かった。すまん、すまんかったなあ」

男はカノンの鳩尾に突きを入れ、動かなくなった彼を肩に担いだ。
黒い丸眼鏡にざんばらで放り出した白い髪。
ぞんざいに染めた黒でまだらになっている。
彼の後ろで何人もの子供たちが固まって泣いていた。
彼等だけがかすり傷以外見当たらない。
子供たちは死んでいる子供や大人達を見て泣き叫んでいた。


「許してくれなあ...カーくん...
ヴァグは俺が頼まれとったのに....」


ブルーはこの男がナタクだとすぐわかった。彼は全く変わらない姿だったのだ。
ナタクはあたりの骸を集めて火に入れて焼いた。
ブルーの目が宿った子供の小さな骸も火に入れられた。


なんだったんだ?今のは。
ヴァグナーって確か....




ゴボ。
ブルーは火に入った瞬間水中に沈んでいた。

「ここは...」


全身が痛い。
さっきとは比べ物にならない激痛が彼を襲った。
岩と岩に彼は挟まって埋もれていた。
手だけが辛うじて出ているのを誰かが必死で掘り出そうとしている。
こんなひどい痛みがするのはまだ生きているからなのか?
あまりの痛さにブルーの意識は混濁してきた....









「これは....」

眠るように岩と瓦礫に埋もれていた幼い児。
傷がほとんど見当たらない。
まるで生きているような......

「...生きてる!生きてますよ。この子は!!」


白銀の男が振り向いて叫んだ。
子供の胸から鼓動を聞いたのだ。
黒い男は一瞬呆然としたあと、眉間に深い皺を
刻んで眺めた。
その子は眠っている。体のあちこちに深かったであろう
傷らしきものが残っていた。
いずれも薄く、一見無傷にすら見えていた。

「....再生種か」



黒い男が立ち上がる。ゆっくりと白銀の男に
近付いて行く。

「刻んで焼き払うしかないな」

「...........」


白銀の男が子供をかばうように後ろへ隠して下がった。
黒髪の男はゆっくりと何も待たない素手を差し出した。

「渡せ」

「渡さない」

その顔は何かを決意したかのように
黒い男を見ていた。
黒い男はまたか、と頭を振り問うた。

「失敗を認めるべきだ。過ちを償うのは残った者の
役目ではないかね?」

白銀の男はその問いにまっすぐな視線を返す。
断固とした拒否の色が浮かぶ。

「犠牲をこれ以上増やすな。
失敗したんだ。もうここで終わりにしろ」


「この子に可能性が残されています。まだ
諦めるべきじゃない」

微動だにせず、子供の前に立つ白銀の男。
その目は穏やかながら、確信と怒りが浮かんでいた。



「何人死んで行ったと思ってるんです。
失敗の名の元に処分され、化け物扱いさえ
された彼等がこのまま化け物のまま
葬られるのは絶対許さない」


「地上への夢はもう潰えた。
お前とてずっと見て来てわかっているはずだ」

「それはこの子が死んでいたらの話です。
この子は生きている。しかも己の生命を
補って生きる力を授けられた。
これこそ私達が求めていた..」

「この様を見てもそう言い切れるか?」


黒髪の男は転がる死体とかつて研究施設だった
残骸を顎で差した。


「あの若い娘もそうやって安心した矢先に
魔獣化したのを忘れたかね。
老人も、子供も、若者も
何人がどんな姿に変わり果て
この惨状を引き起こしたか忘れたか?

我々が出来たのは『女神』を護る事だけだった。
この塔を護り、彼等に安息を与える事しか
残ってなどいない」



白銀の男は一度だけ下を見た。
足元に転がった死体の半分は集められた人々だった。
黙とうのように目を閉じ彼は再び顔を上げた。

「覚えていますか?」


白銀の男はひとつの童話を諳んじはじめた。


       むかしむかし、南の浜に
       特別な椰子の木がはえていました。
       その木はまっすぐ
       月に向かってはえていました。
       一本だけの神様の木で
       月や星をひとやすみさせるために
       はえている木でした。

       それはとても高く
       空にむかってのびていました。
       月や星はその枝に腰掛けて、こっそり
       ひとやすみしては
       夜空へ登っていったのです。
 
       ある夜、ひとりの少年が月をさわりたくて
       木に登ろうと思いました。
       とても高い木です。なんにちもずっと
       登り続けなければなりませんでした。
       少年はとうとう力尽き、下に落ちました。
       まっさかさまに落ちて行く少年を
       風が吹き飛ばし
       その体は海へ落ちて
       沈みました。


黒い男は聞きながら表情を歪めて言った。


「どけ...。過ちは償わねばならない」

「いいえ。こんなことは償いなんかじゃない。
理不尽な悲しみには怒るべきだ。
抵抗すべきだ。
諦めてまだある命を絶つのは間違っています」

「その子を誰が保証するというんだ」

黒い男がイラついた声で問う。


「それが我々の仕事ではなかったか」

静かな声。はっきりと白銀の男は答えた。



「死んでしまった彼等こそが犠牲だ。
集められた人々は昔話を信じて自らやってきた。
空へ、南へ行こう、と。
遥かな地上へ。
遠く、道は長いけれど、誰かが行きつけば
あとに皆が続いて行ける、と。

そう皆が信じたからこそ彼等は身を投げ出して
実験台になったのだ。
地上で生きられる強い抵抗力、身を守り
荒野を切り拓く強い肉体と精神力。
困難を乗り越えて導く海流神のしもべ。

その誇りを彼等は命と代えたはずだった!」



「もう夢は終わった。無理だったんだ....
このまま引きずれば犠牲を増やして行く。
それがまだわからないのか。

俺だって好き好んで処分してきたわけじゃない。
最後の通告だ。

..................渡せ」


白銀の男は首を振った。
黒髪の男の手が彼の喉元に近付いても。

「あなたの選択は間違って...」


白銀の男は最後まで言葉を続ける事はなかった。
ゆっくりとその頭部は後ろに
赤い血を噴き上げながら海流に流されて行く。

黒髪の男の指先はその細胞配列を変え
固く鋭い刃となってその言葉を永遠に断ち切った。

頭部を失った体はゆっくりと崩れ落ち...


....おのれ...おのれ...裏切るのか、女神よ、いや信じた全てが..
人の願いを踏みにじり、笑顔を奪い、失敗の償いを負わせて殺したのか...


流されてゆく白銀の男の頭部は血を呪詛に海流に流した。


愛していた。人々を。
信じていた。海流神と未来を。
今はなくとも明日の為に願いを叶えようと挑んだ筈だった。
集めた人々から犠牲が出る事は覚悟していた。
しかしこれは違う!
責任のすべてを血で誤摩化し屍の上に未来を積むというのか。

我々は誰かが笑う日の為に命を捧げたのだ。
これでは誰も笑うものなど
だれひとり....
ただのひとりも!!
在ったのは悲鳴と絶叫と絶望だけだったのか?


転がる生首は何億回もその疑問を繰り返した。

笑ってくれ...誰かお願いだから笑って今日を明日に繋いでくれ....
たったひとりでもいいから笑って命の代償を彼等に返してやってくれ...
ああ、だれか...お願いだから...



小さな子供は目を見開いた。
彼は笑い始めた。
ただひとりの小さな生残りは慟哭する男の傍で笑い続けた。
その子供はブルーと同じ顔をしていた。
そして横にいる黒い髪の死刑執行者はやがて白髪になった。
嘆きの果てに深く刻まれた皺は恐ろしい早さで彼を老いさせた。
しかし子供は笑い続けその願いを呪いに変えた。
老人の姿のまま死ぬ事が出来ない。


奪われたおびただしい数の命が子供と老人を生かし続けた。
生首は海中に呪詛を吐き散らし海中の命を掻き集め呪いに変え続ける。
いつしか白銀のオンディーンと呼ばれた若い男はなんの為だったかも忘れた。
彼は怒りと憎しみと悲しみで命を喰らっては種を蒔き続けた。
ブルーの父親にもその種はいつしか巣食い.....



ブルーは笑いながらようやくすべての真実を知った。
自分が地上へ出た理由、老人に出会うまでは別の人生で生き、死んだ。
しかし深い呪いはその命を飲み込み、小さな子供に注ぎ込んだ。
全ては地上へ出る為に。
かつて夢見た日を叶える為に...
ブルーはそれを叶えるまでは死ぬ事がない。
彷徨い、掻き集められた魂が願いを叶えるまで生きなければならない。

...そうだ。ルーは笑い声で人の傷を治した。
この小さな子供の姿をした魔獣。

オレはこいつに喰われたのか....
オレは片腕の野郎に騙されたあの日、死んでいたのだ....

ブルーは突然空に引き戻された。
彼の脳内におびただしい数の声が流れ込んでくる。
どの声も生きたい、生きたいと悲痛に叫んでブルーを混乱に陥れた。


「やめろ!やめてくれ!オレは何も見てない!知らない!何も...」


黒い鷲は真っ逆さまに落下して行った。
下はヒダルゴの街。
落ちて行きながらブルーはつきまとって笑うバカな子供の目が
本気で笑ってはいなかったのだと気付いてしまった。
老人は何故オレとルーを分けたんだろう...
それだけがわからない。
何故あの似た顔の男は.....ブルーはその疑問を理解した事を認めない為に思考をやめた。
思い切り頭から地面に激突する事で思考停止を試みたが
彼は大きなこぶを作っただけでその考えから逃れる事はできそうになかった。

目の前でカノンが鎌を振るうのが見える。

「別人みてえだ...」

ブルーは頭を振ると人の姿で立ち上がった。
いつの間にか回りには青い肌をした人間達が集まってブルーに手を伸ばした。
ひとりの若い女が駆け寄りブルーを抱きしめる。

『待っていました。さあ、連れて行って。
私達をあの浜辺へ』


カノンがこちらを向いた。
眼鏡は飛び、赤と氷青の瞳を見せたまま。

「どうしろってんだ....」

ブルーは青い人々を従えるような格好で立ち、カノンと向き合う羽目になっていた...


夕刻が近い。