草原の満ち潮、豊穣の荒野
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72 砂塵の荒野 2 Dead Souls

人の噂話はすぐに広がる。
奇跡の子供の話は神殿にも伝わっていた。
正確さを著しく欠き、都合の良い解釈を加えられたそれ。
神官達は女神とやってきた子供に美しい装飾品と衣類を用意した。
デライラは当然のように『奇跡の子供』とセットで恩恵にあずかった。
奇跡の事は知らなかったが、彼女の頭脳は素早くブルーが連れていた子供に
利用価値を見いだし、計算して動いた。

青い子供、ルーは相変わらずぼうっと柔らかい女の肌に惚けている。
別にグラマー美女にわざわざ逆らう理由もなかったし
御託を並べる男にあれこれ指図されるくらいなら美女に付く。
ただそれだけの理由で小鬼のような悪ガキはおとなしくなった。

何も知らない神官は理想通りの奇跡に小躍りしながら急遽
祭りのプログラムを変更した。

「あの子は傷を癒すそうだが」

「病気の者を起き上がらせたそうだ」

「歩けない者が立ち上がったと聞きましたが」

「司祭の説教の後にあの子供を出そう。
病気の者を集めろ、負傷者もだ。なるべく重い者にしろ。
ああ、献金を集めるのは奇跡を一度見せてからにしよう。
恩恵を受けたい者は後日改めて来るように通達しろ。
勿論パレードで回るのも忘れるな」

「献金の下限はどうします?」

「バカ者、神が金額を設定してどうする。
そういう時はどうするべきかよく知っている者に任せろ。
品位を落とすな」


若い新人らしき神官に太った中年の司祭がもっともらしく言い渡す。
後ろで数人の神官達が密かに笑った。

「つまり上品にやれっていう事さ...」




黒髪の若い司祭、カノンは離れた場所でルーを見ていた。
左手には愛用の呪言を刻み込んだ銀の棍。

いつもなら白い手袋に銀棍という出で立ちは暴力的だと苦言が出る。
夜間の外出に限って護身用、と称して黙認されていた。
彼の祖父が神職の高位にある事は一握りの者にしか知らされていない。
それでも敏感な者はカノンが特別扱いされている事に気付く。
何故なら彼が夜間、神殿にいる事は珍しかったし、酒場で淡々と酒を飲んでいる姿は
街の者なら日常の光景だ。かと言って気付いたところで
なまぐさ坊主は珍しいものではなかったからどうという事もない。
うまく立ち回る神官や司祭は女を囲う者までいる始末だった。
尤もカノンの場合、酒場の女に言わせれば『唐変木』ということであったが
酔っぱらいのケンカを笑っただけで片付ける司祭として
彼が来ると歓迎をもって迎えられた。






「あんた、ずいぶん大事にされてんじゃない。
ブルーのとこに行くよりここにいた方が美味しいんじゃない?」

デライラがそっとルーに耳打ちした。


「ブルーって誰?」

「ははん。あんたここにいる気なわけ?とぼけちゃって
ま、あたしはその方がわざわざ街を出てクソ田舎道なんか
歩かなくてすむから助かるわ。
親父にはあとでそう言っとけばいいわね」







カノンはにこやかにそのやり取りを見ていたが何も言わなかった。
ナタクが頭を掻いて呟く。

「そやな。カノン、ルーくんは神殿から出すな。
正体はわからんばっかやけど、その方が無難かもしれん」

「ブルー殿に会ったのか?」

笑顔で顔を反対に向けたままカノンが尋ねた。

「それなんやけどな。
カーくん、まじめな話なあ、お前は関わるな」

「この期に及んで若造扱いか?」

「そうやない。ブルー殿がおるとこは管轄外やし、わざわざ行く事はない。
ルーくんさえここで動かんならひどい間違いは起こらんやろ」

「それは僕の手に余るという事か」

「お前、どう思う」



カノンはナタクの方に向き直るときっぱり、繰り返した。

「いつまで若造扱いするつもりだ」

「お前がルーくん、ちゃんと扱えるまでや。
ガキにガキは扱えん。なんぼ腕上げてお前が強うなっても
そんだけじゃオトナの男の色気は出んのよお」


ナタクが小指を唇に当て、しなを作って見せた。
普通にゴツいオカマのようで男の色気云々の説得力はない。
にこやかだった司祭は露骨に嫌な顔をした。


「誰が色気の話をしている。真面目な話だ。
僕は今までずっと、それなりにやってきたつもりだし
彼と同じ位置に立つ事以外、何の目的も関心もない」

「俺もマジやてさっき言うたやろ。
お前、まだわかっとらんのか」

「だから僕はヴァグナーのようになる事以外...」

珍しく異議を訴えるカノンを酒屋は半オカマのまま遮った。

「邪眼持ちの根性曲がったクソガキ叩き直したんは誰や?」

「....」

カノンは手の中の銀棍を見て沈黙した。


「まっかいマジで言うで。厄介ごとが管轄外におるなら放っとく選択もある。
やっと元に戻ったお前にはなんの保証もない。
自信あってなんぼ大丈夫や思うても予測でコトは動かんから
あん時、俺は間に合わんかったんじゃ」


黒眼鏡をずり上げると酒屋は静かに言葉を締めくくった。


「お前が一番ようわかっとるはずやろ...」



カノンは何も言わず銀棍を見つめている。
刻み込まれた呪言は持ち主の過去。
全体に渡っていくつものそれが繊細かつ、注意深く刻み込まれていた。
一番古い物はかつて、ある人物から教わった護りの呪言。
その人物も既に亡いが、時間の経過をカノンは自分なりに淡々と刻んでいた。

ヴァグナー・ハウライト。

かつて邪眼を持ち、この世を氷のような目で見ていた少年を
助手に連れ、生き、死んだ男。

少し間を置いてカノンはぽつりと言った。

「ああ。あの時の事は忘れはしない。自信も保証もない。
だが手伝える事があるなら、いつでも言ってほしい....」

ナタクは小さくすまん、と呟くと煙草に火をつけながらルー達を眺めた。


既に神官達が迎えに来ている。
彼等は勿体ぶった仕草でいかめしいデザインの長衣を差し出し
高価な宝石があしらわれた首飾りをかけるよう青い子供に促した。
ルーは人前でも意に介さず服を脱いだ。
彼は素っ裸の胸にかけられた大きめの聖印を
脱いだ服と一緒に外してしまったが
それをかけていた事さえ気付かなかった。