草原の満ち潮、豊穣の荒野
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70 砂塵の荒野 1〜浸食

ブルーは小さなカフェの前に立っていた。
深く被ったフード姿はいつもと変わりない。
背後の歩いて来た街道に赤茶けた埃が舞い上がる。

「頼まれてたもんは運んであるよ」

街道の脇にある空き地に唐突に立つカフェ。
正確にはカフェだった空き家。
街道に舞い上がる赤い砂塵にざらついて寂れた看板。
入り口の階段はところどころ踏み抜かれたまま。
窓ガラスは割れてこそいないがたっぷりと枠に土がたまっている。
階段に腰掛けていたごつい人相の男がふたり、足下で煙草を踏み消すと
ブルーに鍵を投げ寄越した。

「ま、少しばかり修理が必要だろうが
家財道具は前の奴がそのまま残してある。
水はそこに井戸があるから汲むなり引くなり好きにしな。
ま、馬が飲んでたらしいけどよ」

ブルーが鍵を差し込むと、ドアはきしんだ音をたてながら開いた。
差し込んだ光と流れ込んだ風にたっぷり埃が踊る。
積まれっぱなしの食料品や酒瓶、寝具。
枯れたままの一輪挿し。
ブルーは椅子の埃を払いもせず腰掛けた。


「アルファルドがそのうち顔出すってよ。
それとそこに置いた小瓶、そいつは酒じゃねえから間違えるなよ。
どこかは知らねえが海の水を適当に詰めたんだってよ。
頼んでたろ」


男達は面倒そうに言うとそのままブルーの顔を見て固まった。
ブルーの青い目がふたりの男をじっと覗き込んでいる。
感情の無い目。
男がひとり突然倒れた。
もうひとりは脂汗を垂らして震えていた。
顔を反らしかけて男は短い叫びをあげ、倒れた。
ブルーは微動だにしていない。
彼等には外傷もなく呼吸もあった。動かないだけで。


少しばかりそのまま転がっていた男は、やがて何事も無かったように立ち上がると
もうひとりを起こしブルーに軽く頭を下げた。

頭を下げられた青い髪の男はいつのまにか両の手を握って立っていた。
彼はそのまま手に何かあるような仕草でテーブルに転がったグラスに目をやった。
ひとりの男は素早くそれを察するとグラスの埃を拭い差し出した。
もうひとりはさっき己が海水を詰めてある、と言った小瓶をグラスに注いだ。
掌を握った男はグラスにその手をひとつずつ開いて何かを滑り落とし
飲み干した。

「まだ、たりない」

彼の呟きにふたりの男は顔を見合わせると素早くカフェを出て
どこかへ立ち去りそのまま戻ってこなかった。
ブルーは夕方近い陽の光が差し込む窓の外を眺めている。
まともに陽の光を浴びる彼にはなんの変化も起こらなかった。

やがて日が沈み星空になった。
近くに人家は無く、カフェはおろか街道にも灯りは無い。
星だけが瞬いている暗闇。
ナタクは街道の壊れかけた看板で遮るように立ち
じっと見ていた。
灯りの無いカフェの上空を黒い鳥がふたつの金の目を
星のようにちかちかさせながら旋回している。




「憑かれたんとちゃう...
ありゃ自分から呼んだんや...」


ナタクは黒眼鏡の奥の目で、起こった出来事を見ていた。
普通の人間の目には映らないものがそこにあった。
いくつもの黒く長い手のような影が、波のように近付いては
ある地点を境に引き戻される。
空に向かって噴き上がっては限界のように崩れ落ちる人影。
カフェを中心にゆらゆらと揺れては消える。
黒い鳥はそれを避けるように旋回していたが、やがて何処かへ飛び去った。

「こらあかん」

ナタクは急いで街道に飛び込んだ。
いつのまにかブルーがカフェの外に立ってナタクを見ていたのだ。
扉が開けられた気配もない。
彼はどこまでも感情のない穴のような目で、黒眼鏡の竜人の背中を見ていた。
ブルーの青かった髪は下から薄い白銀の青へ変わり始め
顔の傷は跡形も無い。

ナタクは見えない手が届かない所まで転がるとそのまま走り出した。
翼は用心して出さなかった。
そこからヒダルゴまで歩けば半日はたっぷりかかる。
彼は充分な距離まで離れると、ようやく翼を使って舞い戻った。


「聖印渡したんはルーくんで良かったかもしれんな....」

ナタクは顔をしかめブツブツ呟いた。

「ことによっちゃルーくんも....」


彼は嫌な想定を頭の隅に押しやるとカノン達の姿を探して
夜も尚賑わう街を走った。
すぐさま彼等は見つけられたが、ナタクの目に飛び込んで来たものは
派手な女神の胸に挟まれてふにゃふにゃになっているルーだった。

「ええかげんにせえ〜」

酒屋がどさりと座り込んで呻いた。
カノンは横目でナタクを睨んだが何も言わなかった。

「アホはどうやらほんまもんらしいわ...
カーくんも平和ボケ返上やで...ってわかっとるか」

カノンの手には何処から出したのか愛用の銀棍。
銀に刻まれた呪言が召還を受け、現れた名残の光をかすかに放っていた。

明るい夜。

花火がいくつか上がっては群衆が歓声をあげる。
踊り子の手足で鳴る鈴の音、飾られた駿馬の嘶き。
酔っぱらいの放歌...
ブルーがよく訪れていた静かな泉は岸辺の灯りで水面を
赤、青、緑と華やかに彩られている。

何もかもが暗闇の静寂のカフェとは正反対だった。