草原の満ち潮、豊穣の荒野
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50 Something to Talk About 2  Remembrance Day


ある記憶。



月が出ている。
波の寄せ返す音だけが響く。
乾いた潮風がひりついて痛い。

ここはあのじじいの海のようだ。
幻の浜辺。
ずっとずっと昔から聞いて夢見た浜辺。
いつしかその夢は子供時代の
記憶の彼方に放り込んでいた。

誰もいない。
じじいも人魚も海人も。
二本の足で歩いてみる。重い。
砂地は今までいた所と似ているが
とてつもなく体が重い。
引き摺って歩いてみる。
やや離れた場所に死体が転がっていた。

手を空に伸ばし開いた口。
目玉は飛び出し人相も変わり果て...

自分もこうなるのか?
たまたま運良く無事地上に出ただけなんだろうか。
もうひとりの囚人も何処かで死体になっているのだろうか。

暗い海。
月明かりの下以外暗闇。
星もない。
白い波だけが化け物のようにうねる。

熱い。全身がひりつき浅瀬に倒れ込む。
そのまま深い沖を目指した。
戻ろう。こんな幻の海から元の場所へ。
生まれた深海へ。

「!」

長い手が絡み付いてくる。
影のような長い、長い手ばかりの....


「こいつらは...」

その手は全身を絡め取って波間に押さえつけてきた。
口から気泡が溢れ出して行く。
何かがおかしい。
苦しい...?
息が出来ない.....

地上と海の間にはだかった『影の手』
海に戻るのを拒絶するかのようにゆらめいている。

....拒絶?いや違う。
オレはさっきの死体を思い出した。
何故オレだけが生きている?
ごぼり、と息を吐く。
呼吸器官の一部でもある髪だけが僅かに
己がこの海で生まれ育った事を忘れていなかった。
まるで地上の両棲生物のように。


『タチサレ』

長い手が再び砂浜へと押し戻して行く。

「やめてくれ!オレは海の者だ!
海から出て生きてはいけない!」

海面に顔を出し空気を飲み込む。
叩き付けられるように砂地へ打ち上げられた。

....戻れない。
波の音が『影の手』の言葉を投げ付けてくる。

『タチサレ、チカヅクナ....』

「じじい!いったいどうしろって言うんだ!!」

届くはずのない叫び。答えはない。

生きておけだと?帳尻が合うだと!
そんなはずがあるものか!
こんな乾いた場所で立っているだけでも...

オレは思い付く限りの悪態をつきまくった。
答える者もない。
星すら出ていない。青白い月だけがよそよそしい光を落とすばかり。
オレはじじいから渡された皮袋をこじあけた。
手が震える。

オレは素っ裸のまま嫌な記憶を思い出していた。
あの時も『月』だけが見ていた。
スラムを去り、血まみれの皮袋を握りしめ歩いたのだ。
あの時と何も変わらない。
ひとりただ歩くしかなかった。
誰も声などかけなかったし、自分も求めなかった。
ただどうにもならない衝動で女神を叩き壊しただけだった。

皮袋には様々な物が詰め込まれていた。
宝物殿にあった秘宝の数々、高価な装飾品...
オレはそれを放り投げて吠えた。
海の彼方へむかって。
声は響かず振動だけが波を打って行く。
だがそれも深海の者が耳にするにはあまりにもか細すぎて
届く事はない。

叫びがやがて嘆きに変わる。オレは三日三晩泣き喚いた。
始めての朝、その太陽の強さに絶望し、夜は恐ろしい孤独に
泣いた。ガキの頃のようにみじめで情けない姿で。
転がった死体の方がよっぽど幸せだ。
ガレイオスの言葉が甦る。べろべろじいさんの
酒臭い地上の大冒険物語が甦る。

オレは膝を抱えてずっと海の事を思い出していた。
波打ち際から離れる事も出来ず、昼は暗い洞くつへ隠れた。
あんなに辛かった事ですら懐かしさを伴って思い出された。
母の仕打ちさえ許せる気がした程に。
憎しみを持てるだけでも自分に近いのだ。
今はなにもかもが遠い。


じじいの言う事を何故もう少しよく聞いておかなかったのだろう。
何故もっとうまく立ち回れなかったのだろう。
後悔ばかりが押し寄せて今まで生きて来たうちで
一番みじめだった。


そして三日目の晩。ひとつの記憶に行き当たった。
血。臓物。断末魔の痙攣。激しい餓え。
そして嘔吐。
断片でしか思い出せない記憶を孤独に任せて辿る。
化け物は追放されたのだ。
いっそこのまま化け物になってしまえばまだ楽かもしれない。
だが今こうやって考える事ができる。
己で考えていられるうちは化け物ではない。

そう思わねば耐えられなかった昔。
じじいの薬はなんだったんだろう。あの老人が自分を
あの境界線で引き留めていた事だけは理解していた。
何者だったんだろう...
何故、化け物まがいのガキを....

4度目の朝。
太陽が登った時、オレは打ち上げられていた襤褸布を引っ被って
砂浜を歩いていた。少しは耐えられる。
不思議なのは限界にくると何かの笑い声のようなものが聞こえる。
どんなに焼かれて死にかけようとまた元に戻るのだ。

5度目の夜。
泣くのに飽きた。
ようやくまわりの風景に目を向け、音を感じるゆとりが生まれた。
砂地に立つ足も感触に慣れてきた。
6度目の朝、オレは登る太陽に向かって叫んだ。








くそったれ!!!







朝が来たのだ。
オレは漁師小屋に潜んで地上の人間を観察した。
やがて言葉や習慣が近い事を知り、少し気が楽になった。


「おい!誰かいるぞ」

「難破でもしたのか、素っ裸で」


オレは黒い肌や白、褐色の肌をした漁師達に引きずり出され
黒い肌の男が白い歯を剥いて笑った。

「お前さんもおいらと同じクチかい?」

「奴隷船が遭難するおかげでここらは人種のるつぼだな」

「とりあえず服着せてやれ。ま、こいつが人間で男だっつう
事は間違いないな」

褐色の大男が豪快に笑った。
誰も何処から来たのか聞こうともしない。
オレは皮袋を砂の中に隠して遭難者になった。

地上。
オレはその日から太陽に中指を突き立て罵るのが日課になった。

海には二度と戻らない。