草原の満ち潮、豊穣の荒野
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42 幻の海〜毛の生えた心臓

....月だ。

あれが地上の月だという事を
オレは知っている。

オレは腕を空にかざして『見た』
青白い肌。
月光の灯が冷たく光る波打ち際。
ボロボロの神官服は切れ端。
爛れたケロイドのような赤と
本来の青い肌が入りまじっている。


横に転がっているのはあの時渡された
旅用の皮袋、それから...




「わあっ!!」


ブルーは叫び声をあげて跳ね起きた。

「何?うるさいわね」

宿屋らしき一室。
狭いベッドの横で体を丸めた女が面倒くさそうに
シーツを引き寄せた。
浅黒い肌に僅かばかりの下着。

「.....ええと」

ブルーが頭を振った。

....なんでここにオレはいる?
この女はなんだっけ。


「まだ真夜中じゃないのさ。あんたみたいな間抜けな
酔っ払いの相手なんかもうやんないよ」


あ。

...しまった。

そういえば店で唄ったあと客と飲み比べて
それからよく覚えてない。
この女が声をかけてきたような気はするし...。

彼は教会の裏通りを思い出して苦笑いを浮かべた。
ベッドの中の自分は服を着ている。
しかもブーツを履いたまま。

「....ってコトは逃げても問題なしってコトだ」

女は寝息をたてている。
ブルーはそっとベッドを降りると自分の荷物を抱えた。
抜き足差し足でドアへ。

「ちょっと待ちなァ!!」


女が吠えるように叫んだ瞬間、ブルーは脱兎のように
部屋を飛び出した。

階下の酒場でまだ飲んだくれている客が
顔をあげ眠そうな声をかける。

「...乾杯」

「それどころじゃなああっ!!...」


ブルーが答えかけて階段から転がり落ちた。
呻く彼の後頭部にとどめのような鈍い衝撃。
彼は目の前に転がった女物の靴を見ると
がくりと床に伸びた。



「...あんたいい度胸してるじゃないの。
ヤッてなくたって払うモンは払っていきな。
男ならケチってんじゃないよ!」

店主が十字を切り、気の毒そうに首を振った。


女が腰に手を当て階段を下りて来る。
長い黒髪に浅黒い肌。
明るい場所で改めて見れば南方系の美女に見えた。
しかし男の後頭部に靴を平気でヒットさせるような女だ。

グラマラスな太ももはセクシーというより
破壊力を秘めているに違いない。
赤い唇が強気そうに笑った。

「あんたさあ、ココで唄ってるンだから逃げたって
無駄無駄。その青い顔だって一度見りゃ忘れないよ。
ブルー、だっけ?」

ブルーは諦めて立ち上がると尋ねた。

「では、いかほどで?レディ」

「ああ、もうもらってるわ。釣り、いる?」

「!」

荷袋を覗いて絶句する。
通貨を入れた財布代わりの小袋がない。

女は投げキッスと共に財布を放り渡した。
しっかり中身がいくらか抜いてある。


「ケチな男からは全部頂く事にしてるの。
あたしはデライラ。どうぞごひいきに、ネ」

「..........金輪際ごめんだ」


...いたよな。こういう女。
そうさ、教会裏路地の娼館とかスラムの...。
どこにでもこんな連中はいるらしい。

「じゃ、商談成立って事で私は眠らせてもらいます」

仏頂面でブルーは階段を戻っていく。
頭がガンガン痛む。
これで野宿は勘弁してほしい。そもそも
朝までは自分の宿じゃないか。

「あたしも寝よう」

「...なんで来るんです」

「女を深夜、外に放り出すのは男のコカンに関わるんじゃない?」

「股間がどうした?」

酔っ払いが野次る。


「...コケンもクソもあるか」

「狭いけどがまんするわ。なんかしたら追加料金を取るわよ」

「断じてない!」


冗談じゃ無い。オレの好みはもっと可憐で
気持ちの優しそうな娘さんなんだ。
こんなやばそうな女は願い下げだ。

「太もものガーターベルトに刃物忍ばせてる奴に
そんな気起こす程、心臓に毛は生えてませんね」

「何よ。しっかり見てるんじゃないのさ」

「そりゃグラマーだからさ」



彼はさっさと口論を切り上げた。
ベッドに潜り込み背を向ける。
とにかく眠れる時はよく寝ておきたい。

彼はあっという間に眠り込んだ。
財布は店主に預けてきたから何も心配する事はない。
彼にとってこういった連中はむしろ気が楽になる。


「.....うるさい....」


デライラはまんまとタダ宿をせしめたものの
朝まで何度も大いびきに悩まされる羽目になった。
正確には彼の特殊な呼吸音ではあったのだが。


「この青い坊や、珍しいのは顔だけじゃないのね...」

眠れぬままに抜き取ったブルーの持ち物を
掌で弄ぶ。
淡く青い光を放つ球体。
光に揺れる水底のようにゆらゆらと色を変える。


「アルファルドの言った通り仲間に引っ張り込んだ方が
正解ね。どうせ文無し同然みたいだし...」

デライラは名残惜しそうに青い球体をブルーの荷に戻した。

「あら?」

彼女は寝ている男を振り返った。
完璧に眠り込んでいる。

「今子供の声がしたような気がしたんだけど....」


耳をすますも聞こえるのはブルーの騒々しい
寝息ばかり。

「...全くいびきまで珍しい男だわね。
こちとらこんな奴、願い下げだわよ」


夜半。
狭い宿に響くは賑やかな二人の大いびき。







次回更新は2週間後の予定です。(若干変更あり)