草原の満ち潮、豊穣の荒野
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34 決別(1)

独房。

まだ夜も明けきれぬ薄闇。
小さな窓から海の光が囚人の顔を照らす。

俯いて青い髪に隠れた顔。
床を見つめた眼は何も見ていない。


「盗賊の一味だったんだと」

「海ヘビなんか置くからこんな事になったんだ」

「何人死んだ?」

「門番が3名と人魚の神学生がひとりらしい」


厚い扉を隔てて聞こえる会話。
見張り番のひとりが格子の隙間から中を覗く。

「おい、殺したのはお前だろ。
人魚殺しは極刑だぜ」


オンディーンは何も答えなかった。
聞こえてすらいない。
肩を落として座り込んだまま。


「....おい」

「こいつさっきから全く動かないぜ。
生きてるかどうか試してみるか」


見るからに荒そうな男が立ち上がった。
もうひとりは素早く扉を開け、囚人の口に粗布をねじ込んだ。


「押さえてろ」
















夜明け。



囚人を引き出しに来た司祭達は
彼を引きずって行かねばならなかった。
全身を叩きのめされた囚人は歩く事もおぼつかず、意識も
朦朧としていた。肩を貸す者などいない。
物のように縄をつけて神殿内広場へ引きずって行く。
早朝だというのに黒山の人だかりがそれを見ていた。


「裏切り者!!」

「盗人の人殺しめ」

「神聖な場所でなんという真似を」


石を投げる者すらいた。
人魚の学生達は仲間が殺された事に戦慄しながらも
己でなくて良かった、と罵声を浴びせ続ける。
ガレイオスはそれを黙って見ていた。
彼を広場に引き出し、就任の式典が終わるまで
晒しておくように指示すると表情ひとつ変えず立ち去った。


駆け付けた人魚の親族は司祭にすがりついて
囚人の極刑を嘆願して叫んでいた。
誰ひとりオンディーンを弁護する者もなく事情聴取もない。
人魚殺害と盗賊の手引き、窃盗。
そればかりか大量の余罪が密かに加えられた。


神殿始まって以来の『大罪人』は動物のように
一本の杭に繋がれ投石を受け続けていた。













「いかにあなたでもこの状態であの者を庇う事は
ありますまい」


ガレイオスは式典の最中、頭上に海流神の紋章が刻まれた
見えない冠を戴きながら笑った。
建て前上、人魚の王族が権力を所持していたが
実際にそれを支える4つの神殿の総指導者こそ
真の権力者だった。

4人のマーライオン。
彼等は表面に出る事を避けていた。
人魚の姿は海流の女神を象徴し、人々の畏敬の念を容易く手に入れる。
知力、体力共に秀でてはいても彼等は獣人。
神殿をバックに人魚の一族は海を治めていられた。

海の灯をマーライオン達が守らねば都市も
まわりのスラム同様に荒廃する。
豊かな生活と支配者としての名声の上に
人魚は生かされていた。



そしてひとりの老人。

人魚でも獣人でもない
彼は初代の守人として特別な位置にあった。
彼以上に生きた者はなく、都市の機能の基礎を作り上げた
偉人とも呼ばれていた。
女神の寵愛を受け、不死になったと噂する者もあった。
その老人がマーライオン達を指導、教育してきた。
だが、あまりにも長い年月はそれを必要としなくなるのに
充分だった。
老人もまた己の組んだシステムが最早自分から離れている事も
知っている。

任を退くその日、最後の問題は最悪の形となって
彼の前にあった。




「さて、お前に任せる以上、庇うもへったくれも
あるまい?」



老人は祝福を詠唱し終えると素っ気なく呟いた。
僅か数人の上位者に見守られ、ガレイオスの手に海の宝珠が
手渡された。海の水晶、と呼ばれるその透明な球体の中に
青い火が燃える。

東西南北に渡って4つ。
この火をひとつでも失えば海は破滅に向かう、と言い伝えられていた。
事実は老人しか知り得ないが、穏やかな気候と
めぐみをもたらす物には間違いない。


「女神の灯はこの命に換えても」

「.....人の造り出した物と等価の命など...」

「何か申されたか?老師」

「いや。だが、ガレイオス。最後の教えとして言うておこう」

「我が恩師なれば、慎んで」


ガレイオスは敬意を最大級の拝礼で表した。
彼にとって老人は親のようなものでもあった。
その恩師に認められる事は何よりの誇りでもあったのだ。
老人は静かに言った。





「失われて良い命などない」





ガレイオスが顔を上げた。
一瞬青ざめたが、即座にそれを隠して笑いに変えた。


「ひとりのために何人もの犠牲を出せと?」


老人は困ったような微笑みを返すと
寂し気に答えた。


「さてなあ。わしにもそれがわからんのじゃよ....」







式典後。

皆が立ち去った後、ガレイオスだけがそこに残っていた。
豪奢な椅子、柔らかな敷布、強力な結界を誇る奥義の紋章が
壁全体に刻まれている。人魚の最上位一族ですらここには
彼の許可なく入る事はできない。

ガレイオスはただひとり、そこに立っていた。
肩で息をしながら彼は歯を喰い縛っていた。
憎悪と怒りに鬣をざわつかせながら。

耳に広場の罵声が飛び込んでくる。
彼は獅子の獣面と化した顔を片手で隠しながら
遥か下を見下ろした。


凄まじい咆哮が響き渡る。
ガレイオスは一冊の書物を床に叩き付けた。




「おのれ!!」







鬣を震わせながら海の獅子は老人の記録書を
踏みにじった。
オンディーンの素性以前に何もかもが気に入らなかった。
己が敬う恩師を軽んじ、ありとあらゆる秩序を乱してきた。
調べあげただけでも充分追放に値する。
それが選りに依ってこの日に殺人を犯したのだ。
それでも尚、老師は....


「絶対に許さぬ。立派な化け物ではないか!
過去の思惑など知った事ではない。
今生きる者に仇なす者なら殺せ!
老師はいつまで過去に囚われておられるのだ。
ならば、俺が代わりに断ち切らねばならぬ」



散らばった数項に眼を向ける。
かつての無謀とも言える計画の顛末。
そして童話や祈りの言葉も丁寧に記されていた。
ガレイオスはそれを読むと高らかに笑い出した。
怒りを含んだ激しい嘲笑。
ひとしきり笑った獅子は吠えるように叫んだ。


「生きられるものなら生きてみろ!
この海に貴様の生きる場などはなからないわ。
死の潮流を抜け、地上へ行くがいい。

そして焼けつく焔に焼かれ
愚かな願いの結末をその身に刻んで死ね!!」




戦闘人魚の記録。
負の遺産。妖魔や魔獣の種となった存在が
長い間に渡って書き綴られていた。
懺悔、祈り、願い、後悔、弔いの言葉と共に。

そしてオンディーンに施された処置が
最新の記録になっていた。



「切り捨て損なった愚かさの結末がこれか。
我が使命は海の守護なり。
塔の灯を護り、民に平和と秩序をもたらす。

化け物はこの海に一匹たりとて生かしてはおかぬ。
薄汚い化け物に命などはなから無い。
そうだ...楽に死ぬ事すら許すまい」



獅子は怒りに任せて飾られていたひとつの
『アクアリウム』を叩き割った。
そこには地上の鳥がひとつがい
入れられていた。

激しい音と共に彼等の『空気』は深海に散り失せ
一瞬で小さな『地上』の籠は地獄と化した。
深海で生かされていた鳥が苦しみ
のたうつ様を見ながら
獅子はその獣面を元の人型に戻して行った。



ガレイオスは部屋の外へ出ると司祭に他の囚人も
引き出せと命じた。




「見せしめだ。秩序を乱す者の結末がどういうものか
すべての海の者は知るがいい。

死体は後で回収しろ。
永遠にその姿だけはこの海に残しておく。
遺族にもその旨を知らせてやるがいい」




穏やかな海の昼下がり。