草原の満ち潮、豊穣の荒野
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2 深海の少年

ブルー、旅のはじまり 』


深い海の底。

穏やかな気候の海底都市、 鮮やかな衣装の住人が暮らす
地上から隔てられた世界。

地上の者はその存在を伝え聞くのみ。 深海の住人もまた
地上を知る者は、ごく一部の者ばかり。


マーメイド、マーマン、マーライオン、海人、
海獣と海人の間に生まれた種族、獣人。
水妖、魚類、あらゆる命に溢れた海。

女神と呼ばれる海の光が、昼を太陽のように照らし
夜は眠るように翳る。




隅々まで手入れの行き届いた公共設備。
豊かな海底都市。
魚影は、珊瑚の森を飛ぶように行き交い
海獣は、地上の家畜のようにコントロールされ
人々の暮らしを支えていた。


海の光を祀った神殿が中央に聳える。
東西南北と中央に、それぞれ設置されたそれ。

遠い過去から伝わる海の焔を5つに分け、絶やさぬように
神官や司祭が護っている場所。

尤も今ではその事を正しく知る者は
わずかな聖職者のみ。






夜更け。

誰も歩いていない街並み。
街灯が、ぽつりぽつりと歩道を照らしている。




「げえっ!」




静かな夜を嘔吐のくぐもった声が破る。

荒い息を吐きながら、体をふたつに折って
少年が呻き声をあげた。


年の頃は14か15。 長い髮にやせた体。
人魚のように半身が輝く鱗と、七色のひれではなく
地上人の子供のような姿。


歩道に花のように並ぶ珊瑚。
少年は思いっきり胃の中の物をブチまけた。



全身はどす黒い汚物だか液体だかわからない
シロモノがこびりつき、顔だちもはっきりしない。
目だけが異様な青い光を放っていた。

長い髮もただ、伸ばし放題に伸びたものをくくるのみ。
そんな長い髪のシルエットすら、少女というより
悪餓鬼と言った方がふさわしかった。



美しい都市に似つかわしくない出で立ち。
汚れる前から襤褸だと知れる、シャツとズボン。
やせた手足は、ぎりぎりで生きて来た子供のそれ。



ギラギラと目だけを光らせて彼は
握り締めた汚ない皮袋を見た。






長い長い絶叫。




少年の全身にこびりついた汚れと
同じもので染まったその袋には
一本の腕がブラ下がっていた。



ズシリと重い袋。
ゆるんだ口から一枚の金貨が溢れ落ちる。

一本の右腕は、付け根から引きちぎられたように
元の誰かの体から離され
そこにあった。




金貨の袋を掴むようにブラ下がって。




少年は、もう一度叫び声をあげた。

叫びは、途中途切れて嘔吐と呻き声に変わる。
全身の返り血。

少年は、嗚咽を繰り返して胃の内容物を吐ききった。






静寂。






肩で息をしながら彼は、立ち上がった。
重い袋を腕ごと握りしめたまま。



夜明け。


海の光は、彼とまるで反対の
清潔な街並みを晒し出す。





「....」



彼は、フラフラと歩き出した。
歩きながら涙と汚物で汚れた顔を上げる。

涙が洗い流した左の頬に
まだ新しく深い刀傷が
血をにじませて腫れ上がっていた。



そびえ立つ神殿。
海流の女神像が夜明けの光を浴びて輝く。


長い髪の人魚。


海の水晶で作られた透明な女神像。
朝の光を浴び、海の花と珊瑚に彩られた台座に
そびえて立っていた。

一番美しく優秀とされる支配階級種族をかたどって。








少年は走り出した。
重い汚れた皮袋と腕を
両腕で抱え疾走した。


女神像の元へまっすぐ。




夜明けの静かな神殿。





「わあああああああああああああっ!!」




悲鳴に近い叫び声。

彼は、大きく袋を振り上げると
力まかせに女神像へ叩き付けた。


激しい音。

砕け散る女神。


膝を折る汚れた少年の上にきらきらと
光を増幅した大量の水晶片と
金貨が降りそそぐ。




少年は光の下で絶叫した。




一面の金貨。
飛び出して来る神官。

足元に転がる女神の頭部を彼は
泣きながら掴んで砕く。
散らばった金貨と
泣き叫ぶ少年の姿に戸惑う神官達。

騒ぎは、ひとりの老司祭が少年を
取り押さえるまで続いた。



少年の名は、ブルー。

北の荒野のスラムで育った海の獣人。
彼の体に何の種族が混じっているかすら
誰も知らない。




長い旅のはじまり。








次回は『傷』を予定しています。