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ムシトリ日記
加藤夏来
→ご意見・ご指摘等は

2006年07月26日(水)
壊れたボールペン

<いつもの創作教室にて>

「わたしは五年間も、きみに何とかして自信を持たせようとしてるんだよ」


(´・ω・`)


「自分はこれでいいのかとか、これを書く意味はあるのかとか、迷わなくていいの。文章も技術も確立されてる。元があったって無くたって自分の考えてる方向へ行ってるでしょう。それでいいんだから」





私は、可愛がられてたんだなあ、としみじみ思いました。考えてみれば基本的に周りにいる人はそうです。赤ん坊の頃から何故か「笑っていないときは泣きそうである」という顔だったせいか、随分色々な人に親切にしてもらいました。

お世話になったことも数知れず、回りに人がいなくなると物にまで頼っています。「みんなのお蔭様」と感謝する気持ちの裏側に自分に対する自信のなさがあり、「自分の力でやり遂げなければ」という覚悟の裏側に人を信じる力の欠如があります。どっちも程度問題です。そのちょうどいいペースも、個人の性質のさじ加減で変わるところが多々あります。

ごひいきのほぼ日刊イトイ新聞手帳には、とっても書き味のいいボールペンがおまけでついてきます。これでもって手で文字を書くのが楽しみになり、ボールペンのお蔭様で手書き→タイピングのスタイルを確立しました。数年を遡りますが、手帳の提供する「一日一ページで何を書くのも自由」というテンプレートがきっかけになって、どこへ行くにもA4上質紙を持ち歩いて思ったことをメモする習慣を得ました。両方とも与えられたものです。「採用する」以上の努力はしておりません。そして、自分の力で打ち立てたものでない限り、真の自信を得ることはできないとよく言います。

そうは言っても、私は現在身の周りにあるもので、与えられたものか、与えられたものの上に生い茂ったものでない何かというのを考えつきません。だいたいが、今綴っている文章の中にすら、自分で発明した文字は一つも交じっていないのです。そして、それは生きものの基本的な姿です。与えられた土の上に落ちた種が、やがて花を咲かせることは、みっともなくもなければ許されないことでもありません。

これは、意識の様態の問題ではないかと思います。育ったんだから花そのものだけ見ていればいいという見方もありだと思います。ただ、私の場合は土や周りに生えている植物、少し引いた視点からでないときちんと物事を捉えられた気がしません。ただの癖もあるし、生きてきた歴史もあるでしょう。人それを個性と申します。

ついこの間、手帳のおまけのボールペンはぶっ壊れました。というかインクが無くなって書けなくなりました。去年まではちょうど一年くらいで使い切っていたのですが、書きすぎてその期間が短縮されたようです。芯を入れ替えればまだ使えるんですが、別のに代えてとっておくことにしました。これは私の育てた花です。どこで咲いたか忘れたくありません。

本日で二十九歳になりました。いつも見てくださっている訪問者の皆様、お世話になっております。お蔭様で大変充実した一年でした。これからも精進して参りますので、今後ともよろしくお願いします。