土曜日は小説の勉強をする日でした。先月さぼったのですが、やっとこさ同人ででもひとまとめすることができたので、これを先生に見てもらいに行きます。
先生:「頑張ったなあ。でも前半と後半で別の話になっちゃってるよ。 じゃあまあ、これはリハビリってことで、次を頑張ろうね」
私:「はい(TT)」
持っていく前からよく分かってはいたのですが、いざ評価をもらうとやっぱりへこみます。姉弟子方は最近めきめき力をつけているところで、昨日もちょうど処女作の発売日にあたる人が拍手をもらっていましたし。(「これは普通に文庫本で売りに出されていても、何も不思議はありませんね……」と言われている人も)ただ、一番うらやましいのはデビューした人ではありません。デビューする予定も何かの同人に出すわけでもないのに、実に楽しげに伸び伸びと一年で四千八百枚小説を書きまくっている御仁です。おおおおお。(くずおれる)
結局のところ、自分が一番いやなのは『自由でない』ということですね。私は思いつくことは脈絡無くポンポン思いつくのですが、それを一本の小説にするまで足回りをじっくり固めるとか、「こういう部分を考える必要があるから必要の部分を中心に思いつこう」と思うと、途端に根気が続かなくなっちゃうたちです。根気が続かなくならないように、しっかり準備をしてから始めると、肝心な書く作業の途中で飽きちゃったりします。そこには「納得のいく小説を完成させたい」という望みに対する自由がありません。
今回ゲストで来ていた編集者の人にも質問を受けてもらったりしていて気づいたのですが、「編集だって楽しみたい」んですね。職業的に作品を扱う立場にある人でさえ、あれこれ相談してそうなる予定だったところに作品が落ち着いたりされると「……」となる。考えてみれば書くほうもそうです。自分で書く小説の先が読みたいじゃありませんか。
私:「……『プロットは予定表じゃない』?」
先生:「そう」
じゃないとすると「作品に対するビジョン?」と尋ねて同意してもらいましたが、それを具体的にどういう形で作っていくかは個人個人で違います。プロの小説家でも、フローチャートで完全に固めてくる人も、わざとおおまかな状態から始める人もいるそうです。「タイトルとキャッチコピーと人物配置」しか決めない剛の者も。こりゃ、うちの先生ですが。
大姉弟子にあたる人が講義をしていかれたこともありますが、作品の構成を完全に作曲の技法と同一視していたので、生徒の大半と先生でさえも口が半端な大きさに開いていました。頭の中で形にならない物語の流れを、どういった方法で手にとるか。それをどういう段階を踏んで文章に翻訳していくか。これは実際に書きながら、自分でつかんでいく以外にありません。
「このまま死ぬまで長編小説の書けない人生なんて、冗談じゃない!!」 というのが、学生時代一旦やめていた小説を再開した主な理由でした。こういった方面で、私は未だに切実に自由になりたいと考えます。で、本当に自由になるとはどういうことなのか、それも百人いれば百通りの答があるんだろうなあとも思っています。
追記:
先生:「ついでに、君いい加減人間の名前を名乗りなさいね。なにこのアルファベット一文字。その前は記号だったし、作者の顔が見えなくて気味悪い」
その場では理屈をこねてましたが、まあそりゃそうです。考えてみます。
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