ゼロノオト

2010年06月09日(水) 日々の色彩

サーバーの更新をほったらかしているので、ここは陸の孤島的な、場所になってしまっている。
ふと気になり、0px.orgドメインの期限を調べてみたら、残り二ヶ月を切っていた。
あぶねぇあぶねぇ。ひとまずドメインだけは契約延長手続きをした。さて再び5年契約。31歳、かぁ。
契約時のメールアドレスは、とっくに使えなくなっている大学のになっていたから
送られているであろう契約更新のお知らせ的なメールも届かず、
ドメインを取ってから使っていたアドレスもサーバーの契約が切れているために数ヶ月前から死んでおり、
ウェブ上で行方をくらましかけている。
(グーグルさんのメールが唯一生きてます)

これはまあ、すんでのところでセーフ、だったわけだが
5月末締め切りの原付の税金(いっせんにひゃくえん)は、払いそびれたことに昨日気づいた。。
ふつうにアウトである。
で、今日遅れてでもコンビニいって払わなきゃ、と思っていたのだが、
案の定帰宅してから今日も忘れたことに気づいた。

そんなこんなで各種契約更新やらなんやらで、歳月の流れを知らされている。
だけども、今の日々と、ドメイン取ったころの日々は、決定的に違うなあ、と思う。
その違いに、はたと気づいた
というか、うすらぼんやり思っていたことがどういうことなのか、ことばを見つけた。
色彩、というか、輪郭である。
かつての日々は、鮮やかな色彩を帯び、一日いちにちの輪郭がくっきりしていたように思い出される。
昼夜逆転のぐーたらな日々でさえ、だ。

今でこそ毎日会社に行って、規則正しい、社会的に「正しい」生活を送っているが、
あのころに比べて彩度が低いように感じられるのか。
学生時代はひどかった日々も多々あったというのに、なぜこんなにも記憶が鮮やかなのか。
これが青春マジックなのか。

写真のある生活かどうか、というのはひとつの理由・答えになろうかと思う。
それこそ、息をするみたいにシャッターを切っていたあのころとは、
世界の見方が変わっている。
また、いまから写真を取りまくれば、日々はゆたかになるのか、というと、ある程度はそうかもしれない。
けれども、おそらくあのころの色彩には、二度とお目にかかれないのだろうとも思う。
あれは貴重な時間だった。

「今」というのは、渦中というのは、見えにくいもので、
いったん過ぎて「過去」となったのを振り返って、振り返っている地点との差異でもって、
日々の色や形、“感じ”を認識できるようになる。

たまーに、現在進行形のさなかに「あ、この感じはずっと忘れないだろうな」と直感する瞬間もあるが
だいたいは過去になってから―対象の日々から少し離れて外側から観察できるようになってから
「あの日々はどーだった、こーだった」とラベリングできていくような気がする。

あ、あと、これ。
ここ。
こまめにnoteを更新していたかどうか、というのも写真に次いで、あのころとの差異を生む要素だと思う。
書くこと、は考えることであり、脳内整理・記憶整理になっていたのだ。
だから日々の色彩が、くっきりと整理されながら記憶に刻み込まれているような感じがする。


ここ数年、日々に追われて、というのを言い訳に、
撮ることも、書くことも、考えることも放棄してきてしまった。
日々に追われて、などと言える期間はごくわずかなくせに、ねえ。
生活のパターンが、サイクルが、いつの間にかに変わってきてしまったのだ。
卓球が君臨したこともデカイが、卓球君臨前にすでに色彩は褪せ始めていた。
卓球も、ちょっと改革させないと、なあ。

たらたらと書いたら、まとまってないけど、ちょっと爽快。
彩度を上げられるかどうかは、環境ではなく、自分次第。
これだ。
知ってはいたけど、わかってなかった。

また明日がんばる。




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