毎度の事ながら、芸術祭直前になってはじめて焦る。
先週とか全然時間あったのに寝てばっかだった。
時間をドブに捨ててたようなもんだ。
だから今になってテンパる。
とりあえず頭の中はゲイサイ一色なので、ゼミの課題をやってなくて、
っていうかほとんど考えてもなかったので、ゼミを休んでしまった。
とはいえ、時は待ってくれないし、ゲイサイも待ってはくれないので、
息も絶え絶え、突っ走るしかないのだ。
芸術祭でわたしは、9号館地下大展示室の倉庫で展示をします。インスタレーション。
ウェブも作った。が、まだ調整中なので、整い次第、ここにまたお知らせします。
話は変わるが、今日学校に向かう電車のなかで、ふと考えたこと。
「今」に未来はない。
未来は、たぶんあるだろう、という頼りない予測のみによって存在する。
でも「今」の時点で実存はしない。
「今」あるのは「今」という一点と、そこから深く深く続く過去のみなんじゃないか。
でもその深く深くまであると思っていた過去も、もしかしたら相対的に短い時間になりうる。
「今」の時点で、あるだろうとされている未来のほうが、もしかしたら長いかもしれない。
ただ、それを確かめるすべはないのだけれど・・・。
今という時は、常にあるけれど、その今は常に過去に変化していて、捉えどころがないようだ。
でも確かにその今に触れたことは確かである。
何もしなくても次から次へとやってくる今に、触れることができる。
まるで川の中の杭のように。ただしそれより上流は無い、というか見えないんだけど。(とすると湧き出る水の根源ともいうべきか)
カメラも「今」に触れ、それを記録できる装置だけど、撮った次の瞬間には
もう過去の記録になっている。痕跡になっている。
カメラは今を捉え、「今」の痕跡、という過去になって写真が現れる。
そう考えると、即興音楽なんかは、鼻歌でもなんでも、そのときの「今」を捉え続けるものかもしれない。
だからといって写真は過去にすがりつく駄目なもの、ってわけじゃなくて、
それはもうしょうがないことで、絵画だって彫刻だってCDに焼かれた音楽だって、みんな痕跡じゃん、
ということになるかもしれない。が、やはりそうとも言い切れない気がする。
それは痕跡となって現れた瞬間に、また痕跡として「今」に触れることになるから。
一秒後の「今」や、一分後の「今」や、100年後の「今」にだって触れられるかもしれない。
そしたら、即興音楽にも負けない、流れくる「今」を常に捉え続けるものであり続けることも可能なわけだ。
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