ゼロノオト

2004年10月21日(木) 時の流れ

毎度の事ながら、芸術祭直前になってはじめて焦る。

先週とか全然時間あったのに寝てばっかだった。

時間をドブに捨ててたようなもんだ。

だから今になってテンパる。

とりあえず頭の中はゲイサイ一色なので、ゼミの課題をやってなくて、

っていうかほとんど考えてもなかったので、ゼミを休んでしまった。

とはいえ、時は待ってくれないし、ゲイサイも待ってはくれないので、

息も絶え絶え、突っ走るしかないのだ。


芸術祭でわたしは、9号館地下大展示室の倉庫で展示をします。インスタレーション。

ウェブも作った。が、まだ調整中なので、整い次第、ここにまたお知らせします。



話は変わるが、今日学校に向かう電車のなかで、ふと考えたこと。


「今」に未来はない。

未来は、たぶんあるだろう、という頼りない予測のみによって存在する。

でも「今」の時点で実存はしない。

「今」あるのは「今」という一点と、そこから深く深く続く過去のみなんじゃないか。

でもその深く深くまであると思っていた過去も、もしかしたら相対的に短い時間になりうる。

「今」の時点で、あるだろうとされている未来のほうが、もしかしたら長いかもしれない。

ただ、それを確かめるすべはないのだけれど・・・。


今という時は、常にあるけれど、その今は常に過去に変化していて、捉えどころがないようだ。

でも確かにその今に触れたことは確かである。

何もしなくても次から次へとやってくる今に、触れることができる。

まるで川の中の杭のように。ただしそれより上流は無い、というか見えないんだけど。(とすると湧き出る水の根源ともいうべきか)

カメラも「今」に触れ、それを記録できる装置だけど、撮った次の瞬間には

もう過去の記録になっている。痕跡になっている。

カメラは今を捉え、「今」の痕跡、という過去になって写真が現れる。

そう考えると、即興音楽なんかは、鼻歌でもなんでも、そのときの「今」を捉え続けるものかもしれない。

だからといって写真は過去にすがりつく駄目なもの、ってわけじゃなくて、

それはもうしょうがないことで、絵画だって彫刻だってCDに焼かれた音楽だって、みんな痕跡じゃん、

ということになるかもしれない。が、やはりそうとも言い切れない気がする。

それは痕跡となって現れた瞬間に、また痕跡として「今」に触れることになるから。

一秒後の「今」や、一分後の「今」や、100年後の「今」にだって触れられるかもしれない。

そしたら、即興音楽にも負けない、流れくる「今」を常に捉え続けるものであり続けることも可能なわけだ。




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