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2003年06月04日(水) 壁の向こう側の貴方へ


デジタルカメラで撮られた画像が、
そこかしこのWeb Siteでアップされてゆく。

これらの画像は、はたして写真なのだろうか。

紙媒体に変換されるわけでもなく、
その僅かな命をまっとうするだけの画像たち。

そこには確かに、よく小林先生が言う「はかなさ」がある。

しかし、問題はこれらの画像が写真であるか否かではない。
そんなことはもっと偉い評論家が考えればいい。

では、ぼくにとっての問題はどこにあるのか。

端的にいうと、デジカメの画像は誰のものか?
と言えるかもしれない。

デジカメ写真におけるアイデンティティ。


親友小西俊也のサイトはほぼ毎日更新されている。
その日撮られた「写真」が、ボコボコとアップされゆく様は、
見ていて気持ちのいいものである。

が、それを見ていた別の友人が、こんなことを漏らした。

「どれも一緒に見えるね、他のデジタルで発表してる人たちと」

…確かにそうかもしれない。

この現象は、何も小西俊也に限ったことではない。
たかだか300〜400万画素のデジタルカメラは、
フィルムと違い、色味の癖であるとか、質感の違いを
表すほどの幅を持たない。幅のない写真。

それ故に、風景、人物を選んで撮ったところで、
どれもある程度似たものになってしまう。


しかし、ぼくはこのデジカメの幅のなさが好きだ。
妙な私的情緒を排除してくれるし、写真とは
ただのコピーであることを教えてくれるからだ。


コピーはそれ以上でもそれ以下でもない。
他人といくら似ていようが、そんなことは承知の上なのだ。
その視点に立ったところから、違いも浮き彫りになってくる。


人の生活なんてどれも大差ないと思えることがある。
とはいえ、その視点は千差万別である。
だから、小西俊也の写真は誰に似ていても構わない。


繰り返すが、似ていても「同じ」にはなり得ないし、
銀塩にありがちな嘘の個性を押し付けられるよりは潔い。


銀塩を否定はしない。
現に今日もペンタックス67で撮影してきたばかり。
ただ、デジタルのあり方も、
もう少し認めてもいいんじゃないか。


オリジナルという概念の持たない、
デジタルの自由で儚い命を、ウェブが紡いでいく。
やってみると、この相性は思ったよりいいみたいだ。




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