みみずのたはごと

2005年01月14日(金)  日記。

東京都写真美術館(東京都恵比寿)で開催されている『明日を夢見て〜アメリカ社会を動かしたソーシャル・ドキュメンタリー』を見てきました。

ジェイコブ・A・リースとルイス・W・ハイン。リースはニューヨークの移民の悲惨な生活(酷いものだ)を、ハインは少年・少女の酷使の実情を、鋭く抉り出した。
1890年、ニューヨークの下町。そこは町というより、ゴミ捨て場だ。4畳半くらいの空間に、6人がひしめきあって暮らす。それでも寝る場所があるだけマシで、公共の簡易宿泊所には大勢の人々が着の身着のままで並ぶ。宿泊所といっても、板敷の屋根付き空間というだけだ。襤褸を纏い、痩せこけて、目ばかりギラギラしている若者、そんな活力すら見えない大人たち。「世の中が浅ましくなった」という大久保の言葉が脳裏を過ぎる。アメリカは1890年代に工業生産で世界第一位になった。南北戦争のため遅れた産業革命を達成し、英国が抱えた社会問題をもそっくり受け継いだ。国は違えど、木戸や大久保が見た「悪党の巣」はこんなかんじだったのだろうと思わされる。自身も移民であるリース(ただ彼は新大陸で成功した)は、町の最も荒れた通りに住民のための公園を造る活動に励んだ。ふと、グラスゴーのジョン・エルダーを思い出した。
ハインは1910年に、ノースカロライナの紡績・缶詰その他の工場や炭鉱の年少者酷使の実態を写真によって告発した。14歳以下の労働が厳しく規制されているにも係わらず、州全体で当時不当労役についていたとされる少年少女の数は4000人。母親について一日中牡蠣の殻を剥く幼女は4歳、大型カッターの扱いを誤って指を失くした少年は7歳。身形の良い幼い姉妹が遊ぶ人形は、同じ年頃やもっと幼い子供たちが、母親の内職を手伝って作っている。朝は日の出る前から、夜は8時9時まで働き続ける。学校になど通う暇はない。家計を助けなければならないから、年齢を聞かれると子供たちはサバを読み、不法就労を隠そうとする。ませた表情、暗い目、疑い深いまなざし。「彼らを救う力を持っているのも、救う義務を負っているのも、我々の社会なのだ」とハインは訴える。
翻って日本の話。
殖産興業をスローガンに産業革命を推し進めた日本も、欧米の轍を踏んだ。『あゝ野麦峠』の舞台は明治末期。『女工哀史』の発表は大正14年。取組みがまったく為されなかったわけではなく、明治23年の「職工条例の草案」に始まり、工場法案はくりかえし議会に提出されている。しかし流れに流れ、ようやく成立したのが明治44年。施行は更に遅れて大正5年。しかもこの法律には抜け穴があり、少年工・女工の深夜業が完全に禁止されたのは、最初の「職工条例案」から39年後の昭和4年になってからだった。
しかし当初、お雇い外国人から様々な技術を教わる紡績工場の伝習女工たちは、日本の未来を担う若者として、大切にされたという。木戸や大久保ら、欧米の繁栄とともに暗部をも具に見てきた初期のリーダーたちが、二の舞は演じるまいと心を砕いたのかもしれない。けれど木戸は早々と政界を離れ、大久保も暗殺された。相次ぐ政変と動乱のうちに、「世の中が浅まし」いと感じられるほどの社会問題への認識は、忘れ去られてしまったのかもしれない。

幕末と無関係といえば無関係ながら、グラスゴー調査の延長で、いろいろ考えさせられた展覧会でした。1月16日(日)まで。


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葛生冴 [MAIL] [HOMEPAGE]