みみずのたはごと

2004年12月05日(日)  とりあえず大河感想だけ。

うにゃあーっとか、ぎゃひーっとか、しゃげーっとか(ごめんなさい最後のは嘘っぽい)、悲鳴が止まらない回でした。いろいろな意味で。
プロフェッショナルの人たちの精魂こめた作品にこの言い方も大概失礼ですが、とても巧い回でした。大好きでした。私が。世の中に沢山の流山があってよくて、その中の一等がどうしたって自分の中に漠然と、まだしっかりとした形にならずに、でも間違いなく存在する流山であるという事実は、どんな素晴らしいものを見せられたって変わらないのだけれど(そうでなきゃわざわざ自分でSSを書くという意味がない)、でもあの流山は好きでした。近藤さん恰好よかった。
有馬トウタさんがね、あんな登場の仕方でどうしようかと思いましたが(笑)、でもたった一話の中でずんどこオトコマエになっていってしまわれて、ますますどうしようかと思いました。あと、これまでの話の流れで「周平脱走」をどう収拾つけるのかという問題も、成程こうきたか!という感じ。局長がこの期に及んで「どうしたらいい」と宣いはじめたときは力一杯どうしようかと思いましたが(そればっかりだな)、トウタさんを待たせ過ぎてる状況はともかく(だって最後トウタ一人だけだったら斬り捨ててすたこら逃げれば済む話だったよね?←身も蓋もない)、幼馴染二人の会話もずんときました。しかし今回の一等賞は、最後の組長ズでしょう。斎藤がこの後どういうふうに生きるかということを知っているから、カメラのアングルともども、敗北です。白旗です。蟻ンコも捨てがたいけれどね。

近藤さんの、「正義は我にあり」発言について少し。
宮地先生が『歴史の中の新選組』の中で「近藤の正統性論理」と題して、近藤さんが「公武合体」の論理において「一会桑」の立場や政策(新撰組の活動もこの中に含まれる)こそが正統であると、情勢が転覆しつつある状況においても毅然としていたと論じておられます。
この箇所こそが、実は、私の近藤勇像を本格的に変えた要因です。どうも、永倉とか土方とかそっち側から小説を読んでいると、近藤勇の最期って、不恰好なんですよね。勝沼で叩きのめされてぼろぼろになって疲れ果てて、だんだん減速して他の高回転続ける歯車に置いてきぼり喰らって、失意のうちに、前進ルートから零れ落ちた、みたいな。そういう印象を持ってました。私の惚れたあの人とかあの人が惚れ抜いてくっついてった人物なのに何だそれ、と、よく知りもしないまま見縊ってました。いろいろ知っていくにつれ、そういう固定観念が少しずつ揺らがされてきて、宮地さんの本で覆されたと。いや、恰好よかったね、近藤勇。(そしてそうなると、今度はまた甲州とか流山とかのストーリーの考え甲斐が出てくるというか)
そんなわけで、大河でのあの発言。嬉しかったです。
どの時代どの場所においても、各々の立場に論拠があって、各々の立場なりの正義が存在する。それが噛み合わないから、争いが勃発する。和を尊ぶことは大切だけれど、どれほど不利な立場に追いこまれても、捨ててはならない最後の一線として、どうして自分がその道を択んだかという理由だけは、譲ってはならないとも思う。


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葛生冴 [MAIL] [HOMEPAGE]