一橋的雑記所

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2006年03月30日(木) 徒然なるままに。(ホントは091013)



喫煙の習慣は、自分に取って幸せな記憶と結びついているのかもしれないと思う。

足下に、ほんの少しの寒さが立ちこめる時期になって、久し振りにパッケージを開く。小さな台所の小さな明かりの下で、ノベルティのガスライターをスライドさせて、小さな炎を灯す。濃い味と香りを胸一杯に吸い込んで、薄くなった煙を換気扇に向けてはき出す。口の中に残る苦みが、あまりに一度にいろんなものを脳裏に浮かび上がらせるものだから、何一つ確かな形を結ばない。

久し振り過ぎて強く感じる刺激に軽い目眩を覚えながら一本吸い終え、蛇口から滴らせた水で消火する。何かのおまけで手に入れた陶器の器に吸い殻を仕舞い、素焼きの小皿で蓋をすると、その上に長い梅の薫りの線香を立てて火を点ける。立ち上る甘い香りが懐かしい。

懐かしい筈だな、とふと思い至る。
自分にとって一番懐かしい人が纏う薫りに、それはとてもよく似ていることに、今更、本当に今更、初めて気づいた。

悔しいので、絶対、教えてやらない、と心に決める。


<091013.>


2006年03月29日(水) ホントは20090227.

続いているかもしんない。




誰にだったら救われると思っているのだろう。
そんなの、好きって言わない。
言えない。



あたしたちを乗せた黒くておっきい車は、知らないけど広くて長い道をどんどん走っていく。
乗り物、特に人の運転する自動車はそんなに得意じゃないと思っていたけど、少しも気持ち悪くならなかった。

「ねえ、何、この音楽」
「えーと、私の好きなグループっていうか」
「ふうん、変な声」
「な……! 変とか言わないで下さいよ! 良い声じゃないですかっ」

何処かで聴いた覚えはあるけど、低過ぎてあんまし上手には聴こえない単調な声が、だらだらと何か喋るみたいに歌ってる。そんなにしんどいならキーもうちょっと上げたら良いのにって思ったけど、鼻歌みたいに合わせて歌ってるあの子がご機嫌だったからそれ以上は言わない事にする。あたしって大人、なんて考えながら窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺める。
何処まで行くんだろう。
訊いたってきっと、良く分かんないから訊かないでいるけど、何にも説明しないあの子もあの子だと思う。

「……ゆかりさん?」
「ん?」
「あの、音楽止めた方が良いですか?」

なんで?、ってあの子の横顔に視線を向ける。鼻歌もいつの間にか止んで、真剣な顔してフロントグラスを真っ直ぐに見てる、アーモンドみたいな形の目がちょっと細くなってた。

「良いよー別に」
「や、だって、」
「余計な事考えないで、運転に集中ー」
「えー……」

困ったように眉根が下がる。いつもそうだな、って思う。あたしはあの子の事、いつもいつも、困らせてばかりだ。分かってるのに、でも。

「じゃ、あの、他のにします?」
「他のって?」
「ゆかりさんの、とか、」
「却下」
「えー!」

反省し掛けた気持ち、却下。何考えてんだ、こいつ。

「なんで自分の歌とか聴かされないといけないの、冗談じゃなーい」
「え? だって、ほら、ゆかりさんの歌、好きですし私」

何言ってんだ、こいつ。

「つーか、奈々ちゃん、あたしのCDなんか積んでんの?」
「勿論ですよっ」
「……抜いて良い?」
「や! だ、駄目ですよ、勝手に触らないで下さいっ」
「奈々ちゃん、前見て、運転に集中して」

慌ててこっち見ようとするから、びしっと言ってみたら、生真面目に視線が前に戻る。

「……すみません」
「何謝ってんの?」

いえその、とかごにょごにょ言って、ほんのちょっとあの子は小さくなって、あたしは溜息を零しながら、窓の外に視線を移した。
歌うのは、好きだ。でもそれは多分、あの子が歌うことを好きな気持ちとは全然、全く違う気持ちなんだと、それは凄く感じる。あの子は、歌も好きだし、自分の歌も好きだろうし、歌ってる自分の事もきっと、大好きなんだろう。食べることや旅行や、声のお仕事すら、あの子には大好きで括れちゃうものなんだろうけれども、それとは全然比べ物にならない次元で、歌が好きなんだろう。あの子のちっちゃな身体の真ん中にそれは物凄く確かな形で存在して、だからこそ、いつでもきらきらしているし、想像もつかない大きなステージでも堂々と、全力で歌えるんだろう。他の何を奪われても、多分、歌さえ残っていれば生きていける。そういう人なんだろう。
でもね、だからって歌う事を好きな人、全部が全部、そうじゃないこと位、分かって欲しいな、とか、そんな勝手な事を考えてしまう。
それが、少し前は何だかとても、悔しかった。悔しかったけど、そんな風に思うこと自体、無意味なんだって気付いてしまった。あの子のその気持ちに張り合おうなんて、あたしは最初っから考えていなかった、その事に気付いたから。

「……じゃ、奈々ちゃんのCD、掛けようよ?」
「……え?!」

何気なく言った言葉に、奈々ちゃんが酷く大きな声を上げたから、あたしの方が吃驚する。

「え?!って何、え?!って」
「え、や、あの、ええと」
「いいじゃん、ゆかり、奈々ちゃんの歌、聴きたいなー」

駄目、なんて、ルームミラー越しに、奈々ちゃんに向けて小首を傾げて見せる。何、今更動揺するんだろう。自分の歌、大好きな癖に。

「何でも良いよ、今直ぐ掛けられる奴なら」
「あ、あの……」
「知らない人の歌より、ゆかりは奈々ちゃんの歌、聴きたいな」

冗談めかして言ったつもりだったけれども、フロントグラスを凝視していたあの子の横顔が、何故だか少し、強張った気がした。

「……奈々ちゃん?」
「わ、わかりました、掛けます」

ほんのりと薄っすらと、あの子の頬に赤みが差して、慌しくその手がオーディオに伸びる。がしゃんがしゃんって音がして、CDが入れ替わって、少ししてがりがりっとしたギターの音が流れ出した。これ、知ってる。お正月のアリーナのコンサートのオープニングで歌ってたあれ。とか思っていたら、あの子の手がもう一度オーディオに伸びて、音量が少し絞られる。

「何してんの?」
「や、ええと、音、おっき過ぎたかなあって」
「んーん、大丈夫、平気」

ぶるん、と首を振って見せたら、あの子の手がちょっと躊躇うようにしてヴォリュームボタンから離れて行った。
狭い車内一杯に響き渡るバンドの音と、あの子の声は、正直確かにちょっとうるさい感じだったけど、でも別にそれはそれで構わなかった。遠慮なくガンガンと響く音に負けない位、ガンガンにかっ飛ばしてるあの子の声。相変らずかっけーよな、って思う。ライヴで聴きたいとは思わないけれども。生でこんな音に囲まれたら、多分、あたしの耳は一発で駄目になるに決まってるから。
そんな事考えながらあの子の声に耳を傾けていたら、忘れた振りをしていたあの事が、不意に甦る。やってやれない事はない。けどでも、こんな強い音と歌声に囲まれて、あたしが同じ事が出来るとは到底思えない。

「……ゆかりさん?」

気遣わしげな声がして、ふっと意識が引き戻される。

「何?」
「ええと、大丈夫、ですか?」
「何が?」

我ながら不機嫌だなあと分かる声。なんでだろう、あの子の前なのに、それともあの子の前だから、だろうか。自分でもいらいらする位、剥き出しの気持ちが露わになってしまう瞬間が、ある。

「えっと、あの、すみません」
「……奈々ちゃん」

だからこそ、こんな風に敏感に、謝られても、困るんだけど。

「言ったでしょ、運転に集中!」
「うっ、はいっ!」

窓の外の景色は気付けばうっすらと夕闇色に染まり始めてた。







時間切れ(何)。
もしかしたら後から続けるかもです。
あくまで、もしかしたら、ですけど(何々)。





2006年03月28日(火)

※ホントは090111.その2。
まさか容量オーヴァーにつき。
27日付の続き。




イメージに合わない。
送りますよ、なんていわれて呆然としているあたしをさっさと助手席に誘導するや、いかつい車をいとも軽やかに発車させた彼女に向けて思わず口にした一言に、あの子は薄い苦笑いを浮かべた。


「よく言われちゃいますけど、でも、体が少々ちっさくても運転するのには別に支障ないんですよ?」
「や、サイズの問題だけじゃなくってさ。おっきい車って運転、辛そうじゃん?」
「んー、今時はパワステ……ハンドル軽くする仕掛けなんてどんな車種にも普通についてますし、後は車両感覚っていうか」
「しゃりょうかんかく?」
「ええと、ちょっとカッコいい言い方すると、車体の輪郭を自分の体みたいに感じ取れるセンスといいましょうか」


えへへ、と照れ交じりに説明するあの子にミラー越しに何ソレ、な顔みせたら案の定、得意げな表情は瞬く間に恥ずかしげに朱に染まりながら崩れていった。


「あー……スミマセン、水樹の癖に調子に乗りました……」
「やだな、そこまで言ってないよ」
「ていうか、あの、真面目な話、」


慎重だけれども臆病という程じゃない穏かな運転を続けながら、あの子は少しだけ表情を改める。


「実は私も最初はもっとこぢんまりっていうか、身の丈にあった可愛い車にしようかなあって思ってたんですけど、うちの親が『最初に乗るのは、ぶつけられても大丈夫な頑丈で大きい奴にしときなさい』って」
「へえ……」
「確かにそうかもしれないけどでも、自分からぶつけたとき、相手に酷い事になりそうだから怖いっ

て言ったら、『自分からぶつける心配しなきゃなんないほど自信ないんだったら車なんて乗っちゃ駄目』って」


その時のことでも思い出しているのか、あの子は目元を緩ませて小さく笑い声を立てる。余りにもあの子らしいエピソードに何気なく相槌を打ってから、なんでだろ、胸の奥にさくっと差込む感じを覚

えて、あたしは目を伏せた。


「……あ、えーと、ゆかりさん? 気分でも悪いですか?」
「あ、ううん、平気」
「あの、安全には気をつけてるつもりなんですけど、乗り心地が良い運転かと言うとさすがにそこまでは自信ないんで……すみません」
「大丈夫、奈々ちゃん、上手だよ?」
「ホントですか?」
「うん、タクシー乗ってるより普通にずっと、良い感じ」


胸はまだ少し痛いけれど、それは決してあの子の運転のせいなんかじゃない。ちらっと一瞬だけこちらに向けられた視線にあたしは強く頷いて見せた。


「ほんとほんと。このままどっか遠くへ乗せてってもらいたいくらい」
「遠くへ、ですか?」
「うん。うーんと遠くへ」


何故だか繰り返してしまったあたしの言葉に、あの子の横顔がほんの少し真剣になる。あたしは慌てて顔を背け、窓に軽く額を預けた。緩い冷房に冷やされたガラスのひやりとした感触が気持ち良い。


「――それじゃ、ホントに行っちゃいます……?」
「え?」


思いも掛けないほど真面目な声が返ってきたことに驚いて、振り返る。けれども、声とは裏腹に彼女の表情はどことなく悪戯っぽく崩れて見えた。


「実はですね、ワタクシ、今からちょっとばかり遠くへ出掛ける予定だったりするんです」
「え? 何? 今から?」
「ええ。打ち合わせも早く終りましたし、明日は午後からしかお仕事入ってませんし。だもんで、準備万端、今日のお仕事にも車で来ちゃいました」


笑い混じりに続けられた言葉に思わず振り返った後ろ座席には、ぱっつんぱつんのお仕事鞄以外にも、膨らんだボストンバッグっぽいのがぼてっと積み込まれている。


「今回はさすがに急すぎて、友だちにも振られちゃったんで、けえたんだけ預かってもらって独りで行くことになっちゃったんですけど」
「急すぎ……って、奈々ちゃん、そんなにしょっちゅう旅行とか、友だち誘ったりとか」
「ええ、まあ」


少しも悪びれない様子に、呆れるのとはまたちょっと違う、何だか落ち着かない気持ちになる。


「私と同じで不規則な仕事してる友だちが一人いて、いつもはその子に付き合ってもらってるんです。高校時代からの付き合いなんで、まあ大体の無理はきいて貰ってるっていうか」


何で、だろう。
よどみの無い運転と共に続くあの子のいつもどおりの饒舌が、そのまとう雰囲気も口調もいつもとは少し違って聴こえるのは。
何で、だろう。
いつものようには、上手く茶化せない気がする。
何でなんで、と繰り返す内に。
不意に気づいた。
あたしは。
こんな風に。
あたしの見知らぬ誰かのことを話すあの子を。
今まで全く、知らなかったことに。


「……ゆかりさん? ホントに大丈夫ですか?」


赤信号で止まった瞬間、こちらを覗きこむように体ごと近づいてきたあの子に、あたしは思わずびくり、と肩を震わせた。


「もしかして、やっぱりどこか具合……」
「何でもないよ、大丈夫」


あたしのテンションが変わる度に、酷く心配そうにちょっと自信なさげに下がる眉尻も。
何か言いたげに小さく開いたり閉じたりを繰り返す唇も。
いつもの、あの子のものでしかないのに。
その手は、ハンドルから離れなくて。
当たり前なんだけど、信号が変わった途端、その瞳も顔も、見慣れたそれとはちょっと違うものになっちゃうんだなって。
そんな当たり前の事にさえ、なんだか、ひどく、どきどきしている自分が、おかしくて。
だから。


「……ホントに」
「え?」
「連れてって、くれる?」


気付いたら、するり、と。
そんな言葉が、唇から零れ落ちていた。


「奈々ちゃんが今からいくとこに、あたしも、連れてって」




明日の仕事は、とか、誰に連絡も無しで大丈夫ですか、とか、そもそも旅行の仕度どうするんですか、とか。
青に変わってしまった信号に慌てて前に向き直りながら、矢継ぎ早に言葉を繰り出すあの子に。
明日はあたしも半日オフだから、とか、連絡なんてしなくても平気、とか、仕度なんてなくても出先で買えばいいじゃん、とか、あたしも間髪いれずに淡々と答え続ける。


「でもあの、結構遠くまで行く予定なんですけど。着いたら多分、晩ご飯時で、お買い物する暇なんて……そもそも、そんな便利なお店がある場所かどうかも分かりませんし」
「だったらちゃんと支度するからゆかりんちに寄って。どうせ送ってくれるつもりだったんでしょ?」
「そ、それはそうですけど、でも、」
「てか、ホントはやっぱり、連れて行きたくないんでしょ、ゆかりのことなんて。だったら、」


だったらなんで、って続けそうになった瞬間、ずきり、と胸の奥が今度ははっきりと痛んだ。
さっきのは多分、まさかあたしが乗り気になるなんて思っていなかったからこその冗談で。
だから、あの子もこうまでしつこく食い下がられるとは夢にも思わなかったに違いなくて。
でも、調子が良いだけじゃなくって、どっか気持ちの優しいところのあるあの子は。
こんな風に言われちゃったら、きっと、断り切れなくて困っちゃうだろう。
そこまで分かっていて、どうして、あたしは、こんなこと。
ぐるぐると回る考えと一緒に、こめかみを締め付けている鈍痛が、熱に代わる。
脈打つたびに、何かを打ち込まれるみたいに鈍い痛みが熱と一緒に溢れ出して、胸の中まで達するみたいで、まともにあの子の顔をみることも出来なくなる。

真っ直ぐに座っている事も難しくなったあたしは、胸元を自分の掌で抑えるようにして俯いた。


「…………」



小さな、溜息みたいな声であの子が何かを呟いた、けれども、痛みに気を取られていたあたしにはそ

れは意味のある言葉としては、感じ取れない。
気まずい沈黙に満たされたまま、あの子の車はいつしか、あたしのお家の近くに辿り着いていた。


「……着きましたよ?」


緩やかに路肩に停車させた後、あの子の遠慮がちな声があたしの肩を叩く。
ありがと、ごめんね、困らせて。
冗談だってば、もう、本気にしちゃって、やだな。
言うべきそれらの言葉は実際には、あたしの引き結ばれた唇からはこれっぽっちも紡ぎだされることは無くて。
すくんだままの身体も、動かなくて。
どうしたら良いのか分からないままじっとしていたら、小さなため息があの子の口元からもう一度零れ落ちて、瞬間、ぎくりと身体を強張らせた。


「……ゆかり、さん、」


躊躇うような、一瞬の間を置いて。
あの子は、うー、と軽く唸った。


「15分で、、仕度、してきてください」


……15分?
一体、何を言われたのか咄嗟には分からなくて、思わず振りかえる。
視線の先、ハンドルを両手で握り締めたままフロントガラスの向こうを見据えていたあの子は、困ったように、項垂れた。


「やっぱり駄目だって思ったらそのまま降りてこなくて良いです、15分経ったら、私、このまま一人で行きますんで」
「……奈々ちゃん?」
「あ、15分じゃ短すぎでしたか! じゃ、ええと、」
「……十分だと思う、けど」
「そ、ですか。分かりました、それじゃ、」
「まって、奈々ちゃんは……っ」


何故だか、泣きそうな顔で笑って目を逸らしてしまったあの子に、あたしは焦って声を被せた。


「ホントに、待っててくれる? ゆかりのこと、置いてかない?」


吃驚したように、あの子が勢い良く振り返る。
大きく見開かれた瞳が一瞬、泳いだ気がしたけれども、次の瞬間、へにゃり、といつもの困ったよう

な笑顔がその顔全体に浮んだ。


「そんなに、信用ないですか、私」
「や、だって、迷惑かなあって、流石に」
「そんなこと、無いです」


区切るように力強く返ってきた声に、寧ろ却って不安になる。
この子の優しさに、あたしは、時々、すごく、怖くなる。
真っ直ぐに邪気なく近づいてきたと思ったら、微妙な距離を置いて、あたしの出方を探って、それから慎重に言葉を紡いだり、かと思うと、思いもかけない行動に出たりする。
そんな、酷く曖昧な、なのにどこか大人びた反応に気付くたびに、あたしの胸には怯えにも似た、痛みが走る。
黙ってしまったわたしに何を思ったのか、いっそう苦笑を深くしながらあの子は、シートベルトを外し、後ろの席へと腕を伸ばした。


「それじゃ、これ、預けます」


言葉と共に、とっさに広げてしまったあたしの掌に、ずしり、と重い感触。
ルームランプを反射して、きらきらと輝くシルバーのチェーンに繋がれた、変わった形の鍵らしきものが、二つ。


「なに……これ?」
「鍵ですけど、私の部屋の」


鍵なのは分かってる、けど。
なんで、こんなもの。
戸惑うあたしを振り向きもせず、フロントグラスの向こうを見据えたまま、彼女は口元を綻ばせた。


「やっぱり、15分縛りは無しにします。けど、もし、行く気がなくなっちゃったら、これだけ返しに来て下さい。それまでは待ってますから」
「え? え? 奈々ちゃん?」
「これでも、信じてもらえませんか?」


笑い含みの、でも何だか苦しげな声を呟いて伏せられたあの子の首筋が、ほんのりと色づいているのに気付いて、あたしは鍵ごと自分の掌をぎゅっと握り締めた。


「……奈々ちゃん、へんなドラマの人みたい」
「え?! へ、へんなドラマって?!」
「仕度、もしかしたら一時間くらい掛かっちゃうかも」
「え、あ、さすがに一時間は……って聞いてます、ゆかりさん?!」


あの子の焦った声を背中に聴きながら、あたしはさっさと車を降りる。
あの子は、優しい。
馬鹿みたいに。
でも、その優しさを向けられることを恐れ続けているあたしは、多分。
もっと馬鹿なんだろう。
けど。
預けられた鍵を、着替えを詰めたボストンバッグの底に押し込みながら。
あたしは、少しだけ、泣きたくなっていた。








ええと。
でっかい黒い車を運転するシーンを書きたかった模様。
続くかどうかは、やっぱり未定(えーえー)。





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