一橋的雑記所

目次&月別まとめ読み過去未来


2006年03月27日(月)

※ホントは、090111.


続くかどうかは、不明です(えー)。
例に拠って、良く似たお名前とお仕事をお持ちの二人のお話。
時間軸は、08年夏前。




理由なんて知らないし。
分からない。








ライヴまでは超タイトだったスケジュールが通常モードに戻ったお陰か。
いままでは後回しになってたこととか。
後は、ご飯を炊いたりお料理もどきなことをしちゃったり出来る位には。
余裕出てきたかなあとか思っていたりしていたのは、ほんの僅かな間で。
気付けばふと、独りきりの部屋のソファの上で。
膝を抱えて座り込んでいたりする。
スケジュールが通常に戻ったってことは。
あの子と逢える機会だって、少しは増えたってことでもあるのだ、けれども。
その事に思い当たるとなんだか余計に。
瞼が重くなって、何にも考えたく無くなってしまうのは。
どうしてなんだろう。




― Your melancholy. ―




いつまでも仏頂面をしていてもどうしようもないことなんて分かってる。
思えば随分と長い付き合いになるその人は、困ったような顔で笑いながら、でも、間違いなくどこかで高を括っている。
こういうの、見透かされてるっていうのかな。ちょっと腹立たしいけれども、でもホント、こればっかりは、仕方が無い。
いくらお仕事でもやってやれない事なら断固として拒否するけれども、やってやれない事じゃないって、もう分かってるし。
ただ、話が話だけに、避けて通れない部分があって、それが、あたしの気持ちを酷く重くしていた。


「今日は溜息多いですねー」
「お疲れなんですよ、ライヴ後だから」


事情を知らない筈は無いのに、いつもより少し広めのブースに集ったいつものメンバーが気遣うように、でも面白そうに声を掛けに来る。それも、次々と。
ホントに、もう。


「だめー、今日は何読んでも頭に入んないー」
「んじゃ、それで行きましょう今日は」
「……ゆかり、ほんっとーにそうするよ?」


良いですよ、と半笑いで台本にメモを書き込む作家さんの頭に、本気で自分の台本を投げたいなあなんて思ったのはここだけの内緒。自分が先に幸せ掴んだからって、浮かれちゃって。


「もーっ! ちょっときゅーけーいっ!」


とっくに打ち合わせ自体は済んでいたからわざわざ宣言する必要もなかったんだけども、そう叫んでから席を立つ。
足音を心持ち高く立てながら歩く。ろそろ今年は履き納めかなあと思う、頑丈な編み上げブーツがいつもより重く感じてまた溜息が零れる。こめかみに熱が集まる。体調はそれほど悪い訳じゃない。でも、ちょっと、イライラが酷い。
だからかな。


「あ。」
「あれっ?」


ベンダーコーナーに近づくまで、そこに佇む存在に全く気付けなかった。


「ゆかりさんっ」


真っ直ぐな笑顔で駆け寄ってくるあの子の足元も、踵の高い頑丈そうな皮ブーツ。だけどもその足取りは迷い無く軽やかで。


「おはようございます!」
「ん、おっはよー」


今日は取材関係のお仕事は無いのか、いつも以上にナチュラルっぽいメイク。相変らずきらっきらな笑顔はだから、ちょっとだけ幼く見えるのに何故かどこと無く落ち着いても見えた。
この年末年始に掛けて何かしらの山を越えちゃって、その上、次の山場が直ぐ近くに待ち構えているからなんだろうな……なんてことをぼんやりと思う。同時に、ずるい、とか思っちゃってる自分に気付いた瞬間、こめかみに蟠った熱が更に上がった気がした。
やれやれ。


「この時間に逢えるなんて、今日は早かったんですね」
「んー、ちょっとねー」


元気一杯な声をいつもどおりの調子で聞き流してみせながら、目の前の赤アンプの灯ったボタンを幾つか見比べた後、ミルクティーを選ぶ。いや、選んだつもりだった。


「……あちゃー……」


間違えた。


「あれ? ゆかりさん、いつから珈琲飲めるように?」
「……これ、要らない」


全く悪気の無いその顔目掛け紙コップを突き出すと、あの子は反射的に手を出しながら仰け反った。


「え? あ、ちょ、あの?」
「リベーンジーっ」


自分でも良く分からないまま叫びながらもう一度、今度は慎重にボタンを選んで、事無きを得る。あの子はと言うと、押し付けられたカップを両手で包み込んで小首を傾げたあと、何を思ったのかそれを近くのテーブルの上に置いて、肩から下げた鞄の中ををがさごそ探り始めた。


「あったあった。ええと、はい、これどうぞっ」


差し出されたのは、指先で摘める程度に薄くて平べったくて小さい、けれども綺麗な包装紙に包まれた何か。


「なに、これ?」
「フレーバーチョコです。ちっさいですけどすっごくフルーティーですっごく美味しいんですよー」
「へえ……」


笑顔に押されて反射的に出した手に乗せられたそれをまじまじと眺めた後、色んなチャームとか缶バッジとかついてて可愛いのに、中身詰め込まれ過ぎてぱつんぱつんになってるあの子の鞄へと視線を逸らす。


「四次元ポケット……」
「はい?」
「んーんなんでもない。ありがとー」


どうにも思ったことがそのまま口を付いて出るのはあの子の前でのいつもどおりなんだけど、われながら切れがないと溜息をつきながら、手近なベンチに腰を下す。ミルクティーをテーブルに置いて、両手を使ってゆっくりとチョコの包み紙を解く。途端に香る、甘くてほんの少し酸っぱい、ベリー系の香り。


「ホントだ、良い匂いがするー」
「でしょ? それはブルーベリーですね。他にも、ほら、」


思わず上げてしまった声に無邪気に微笑み返しながらちゃっかり隣に座ると、あの子は再度鞄を探り、目の前のテーブルの上に更に三枚、色も絵柄も違うチョコを並べてみせた。


「これはミントで、これはラズベリー、それからオレンジかな。ホントは他にも幾つかあったんですけど、すみません、食べちゃいました」


ぺロリ、と小さく舌を出すその仕草は相変らず小動物っぽい。


「で、残り全部ゆかりにくれるの? 相変らず太っ腹だねー」
「でしょ? ……なんちゃって。お裾分けです、実は、差し入れに頂いたんです」


差し入れ、と聞いて、口元へとチョコを運びかけていた指先が止まる。さっきあったあの人は何て言ってたっけ。


『奈々ちゃんも一緒やし、安心やろ?』


「……もしかして、みっしー?」
「あれ? 何で知ってるんですか、ゆかりさん」


しまった。
うっかり滑った舌を誤魔化すべく、チョコを口の中に放りこむ。
多分、この話はまだ、あの子には届いていない筈で。


「てか、DVDの打ち合わせとか、だったの? 今日は」
「あー、はい、私の方は。それと、夏のライヴの件とか……ゆかりさんは?」


間近な場所からきらっきらの眼差しで見上げてくるあの子を見返しながら、口の中のチョコをもごもごと咀嚼することで返事を保留にする。


「あ、もしかして、ゆかりさんもライヴDVDのお話だったとか?」


やっぱりまだ聞いていなかったらしいその様子にちょっとだけほっとして、「どうかなー」なんて呟きながらチョコを飲み下す。甘苦いチョコが舌に絡みつくのも、ベリーの香りが鼻の奥を強く刺激するのも、美味しいけれどもちょっとだけ苦しい。ちっさいのに自己主張激しいなんて、まるで誰かさんみたいだ、そんな事を考えながら、ミルクティに手を伸ばして冷めたそれを一気に飲み干した。


「……つか、DVDになんか出来るのかなーあれ」
「えー、私は是非、観たいです、ゆかりさんのライヴ」
「観せるだけのならあるけど。スタッフさんが撮ってくれてた奴、でも――」


出来ればそれもどうかな、と続けかけたのに、あ、それそれ、とあの子は大きな声を被せてくる。


「それも勿論、観せて頂く予定ですけど! やっぱり、ちゃんとした形になったの、みてみたいじゃないですかー」
「……ええと、なんでそっちが勿論なの?」


しまった、みたいな顔してあの子が口を噤んだ。あの野郎、いつか締めてやる、なんて物騒な事考えたあたしに気付いたのか、慌てて両手を振ってみせる。


「や、私が三嶋さんに頼んだんです。だって、ゆかりさん……呼んでくれなかったですし」


焦りの余りにか変形しそうなくらいカップを握り締めながら、あの子は困ったような顔になる。




「いえ、あの、ファンの人以外にチケット回すの嫌なんだろうなって……前々から思ってましたし、多分今回も駄目だろうな、ってわかってたんです、けど。でも、この前のラジオとかのお話聞いて、なんていうか、その、ちょっとショックだったっていうか……」
「ショックって、なにが?」


聞き返しながら、その理由は実は分かっている。
この前ラジオで、今回のライブにも誰も呼ばなかったとか、過去に何度かだけ事務所の後輩の子を招待したことがあった、なんて話をネタにした。あの話には、もうちょっと何ていうか、別の意図もあったりなかったりしたんだけど。てか、あの子があたしのラジオをこんなにちょくちょく聴いてるらしいこと自体、ホントは凄く、なんていうのか、嫌、っていうか、困る、みたい感じなんだけど。
けどでも、あの子はそんなあたしの内心なんてお構い無しに、続ける。


「今度のライヴだって、そりゃ、お仕事入ってましたけど、でももしも万が一にでも呼んで貰えてたなら、何が何でも駆けつけたと思いますし、」
「ちょっと待ってちょっと待って! さすがにそれは無理でしょ」


仕事の都合つけてまで、なんて、ホント、冗談でも勘弁して欲しい。
力一杯否定するあたしの突然の大声に、ぎょっとしたようにあの子が振り返る。驚いたようなその眼差しに向けて、あたしは考えるよりも早く、次の言葉を口にしていた。


「ていうか、ゆかり、奈々ちゃんだけは絶っ対、呼ばない」


言い切った、瞬間。
あの子の目が、物凄く大きく、見開かれた。
怖いくらいに。
だから、あたしも、怖くなった。
胸が変に、ドキドキして、止まらなくなった。


「……絶対……って……、」
「え、や、あの、DVDとかなら観てくれて良いよ勿論全然、でも、ライヴだけは絶対、無理」
「あ、あの……ゆかりさん、なんでそんなに……」
「なんででもっ」


被せるように叫ぶと、あたしは立ち上がった。
他の誰かに説明できるような理由なら。
幾らでも並べられる。
でも。
あの子に対してだけは。
言葉にして説明なんて、出来る気がしない。


「じゃ、ゆかりお仕事に戻るからっ」
「え? あ、ゆ、ゆかりさんっ!」


あたしに追いすがるようなあの子の声を振り切って。
あたしは駆け出した。
折角もらったチョコレートを置き去りにしてきたことに気付いたのは、ブース近くで足を止めた、そのずっと、後のこと。




今日はホントに、どうかしている。
結局、痛む頭と胸を抱えてぐだぐだ状態のまま収録は終わった。あたしのコンディションを分かっくれてるというか、勝手知ったるスタッフの皆は寧ろ、そんな状態を逆手に取るように盛り上げてくれたけど、なんていうか、だからこそ、余計に辛い。
ブースを出た後、反射的に電源を入れてしまった携帯がゆるゆると揺れる。開くまでもなく、あの子からだと分かってしまう。でも、確認する気にはなれなくてそのまま鞄に仕舞いこんだ。
今日はこれでお仕事終了。このまま、お家に帰ろう。
明日の午前休も、寝て過ごそう。
もう、何も考えたくない。
ぐちゃぐちゃだった。


「あっれー、もう上がり?」


定まらない気持ちのまま廊下を歩いていたら、かつーんと届く声に背中を叩かれ思わず振り返る。


「あー、ますみんかー」
「かーって何よ、かーって」


勢い良く駆け寄ってきたのは、これまた結構長い付き合いの同業者。
というか、多分、お友だちって呼んでも構わない相手だった。


「ライブおつかれーってこれもう言ったっけ?」
「んーん、聞いてない」
「良かったー。んじゃ、ライブお疲れさまっ」


傍若無人に見えて結構折り目正しいというか生真面目なところのある彼女は真顔で一礼すると、ん?と軽く眉根を寄せた。


「なんかホントに疲れてるっぽいけど。なんかあった?」
「別にー」
「うん、まあ、ゆかりんは基本、いつも疲れてる感じなんだけど、」


今日はちょっと違う感じ、とか言いながら首を捻っている。


「ライブ終ったから、ちょっとは元気になってるかと思ってたんだけどなー」


んんー?って分かり易く眉を顰めてみせる彼女に、あたしはなんと返したものか分からなくて曖昧に笑ってみせた。

ラジオとかでも日常でも、こんな感じである意味フリーダムな言動を隠すことの無い彼女だけども、その容量のおっきそうな頭脳は常に自動的に高速回転している、そんな気がしてならないから、裏も表も無くさらっと零されるその言葉に、あたしはいつものように動揺して曖昧に笑うしか出来なくなる。


「もしかして、なんか新しい仕事でも、決まった?」
「えっと、ま、そんなとこか、な」
「相変らず人使い荒いなーゆかりんとこ。稼ぎ頭だから、ま、しょうがないんだろけど」
「えー、ゆかり、そんな稼いでないよー。少なくとも、ますみんが喜ぶほどには」
「ははは、あたしはあたしの懐に入らないお金の事では別に喜ばないっ」


軽い笑い声を立て、冗談何だか本音何だか分からない感じでさらっと返すと、ふむ、と彼女は腕を組んだ。


「ま、ともあれ、体が資本だからねー。お仕事終わったんなら早く帰ってゆっくり休むと良いよ」



「ありがと、ますみんもね」
「やー、あたしはまだこれから打ち合わせだし。っつーか、毎週土曜夜生放送ってホント、きっついわー」


ははははは、と真っ直ぐな笑い声と共に零された愚痴に、あたしの胸が勝手にどきっと跳ねた。
8月最後の土曜日。
多分、首を縦に振るしか残されていない選択。


「あ、そうそう、」


じゃあ、って行きかけた彼女が、くるん、と器用に頭だけで、ぼんやりと佇んでたあたしを振り返った。


「なんかほっちゃんがね、この夏、おっきなお仕事することになりそうって言ってたよ。ほら、例の

愉快なバンド絡みらしいんだけど。詳細は本人に訊くと良いよ」


しかし忙しいのは結構な事だよね、なんて言って、じゃあねとさっさと背中を向けた彼女を見送るあたしは、その言葉を何度も反芻するうちに、さっきの比じゃない位の痛みを胸の奥に感じて。
息さえ忘れて、その場に立ち竦んでいた。




風邪かな、それとも目眩のせいかな。
自分でもどうしたものか分からないぐらぐらとした熱をこめかみから頭の天辺に掛けてのあちこちに感じながら、駅を目指す。
まだ早い時間だから、電車を乗り継いで帰ってもそんなに人ごみに揉まれる事もないだろう。そう思って表通りに面した交差点で信号待ちをしていた時だった。
直ぐ脇に停車した黒っぽい、ちょっとごつい輪郭の車が唐突に短くクラクションを鳴らしたものだから、どきっとする。思わず反射的に目を向けたら運転席の窓ガラスの上半分に濃い目のスモークが掛かっていて、それが何だかちょっと柄が悪そうで、慌てて視線を逸らした。
その瞬間、再び短いクラクションが鳴り響いて、更にびくっとした。
何が気に入らないのかな。
分からないから酷く不安で、早く信号が変わってさっさと走り出して欲しい、そう思った時、その車があたしの方へと車体をゆっくりと近づけてくるのがわかってぎょっとなる。正確には、路肩に路駐でもしようとしているのか、ウィンカーを二つともちかちかさせて、路肩に車体を寄せてきたのだった。
次の瞬間、待ち望んでいた青信号が、あたしの真正面で灯ったから、慌てて足を踏み出そうとしたその時。


「ゆかりさんっ」


その、一見柄の悪そうな車のドアが素早く開いて、聴き慣れた、でもちょっと慌てた感じのあの子の声がそこから飛んできて。
あたしは、ものすごく、間抜けな顔をそちらに向けたに、違いなかった。







まさかの容量オーヴァー(えーえー)。
翌日分に、続きます。




2006年03月26日(日)



止まらない。
止まれない。




Our sadness and painfulness




一日が終って。
逸る気持ちを抑えて。
タクシーのシートに沈めた身体が今にも駆け出しそうで。
何が切っ掛けか何て、考えたくない程に。
今は只、あなたに逢いたくて。


チャイム鳴らして、魚眼レンズの向こうが少し暗くなるのを眺めながら。
頭の片隅、何かがカウントダウンを始めるのをぼんやりと感じて。
ゆっくりと開かれる重たい扉の向こう、ほんの少し身を屈めた彼女がそっと上目遣いで見上げてくるのを確認するのと同時に踏み込んだ。

「……っ!」

何か言い掛けた言葉を吐息ごと奪って。
胸元を、握り締めた拳が打ち付けるのも構わずに。
ほっそりとした背中に両腕を回して、精一杯、抱き締める。
身じろぎした彼女の首筋をなぞって形の良い頭の後ろに回した右の掌を、ゆっくりと上下する。
唇に感じる温かさに、泣きたくなる。

「……ちょっと、まって」

名残を惜しみながら解放した、その次の瞬間、彼女は大きく息を吐きながら声を漏らす。苦しげに伏せられた顔からは、表情が読み取れない。

「……ごめん、なさい」

反射的に謝った瞬間、彼女が顔を上げた。

「謝んな」

顰められた眉と、引き結ばれる唇。
ああ、また、間違えた。

「……大好きです」

正解なんて知らない。
だから、精一杯、気持ちを言葉に乗せてぶつけたら、彼女は困ったように眉根を下げた。

「ななちゃん、いきなり過ぎ」

ご尤もな言葉に、項垂れる。
自分でも掴みかねる感情をただぶつけるだけの行為だったと気付けば、こめかみがきんと冴える。

「……大丈夫、だよ?」

冷え切ったその場所に、彼女の掌が触れる。
目を上げれば、ふにゃり、と柔らかい彼女の笑顔。
ゆっくりと、その手が首の後ろに回されて、引き寄せられる。

「……ゆかりさん」
「うん」
「大好きです」

知ってる。
小さな声が、耳元を揺らした。

「誰にも、渡したくないんです」

うん、って頷く動きが肩先に触れる。

「ゆかりさんにとっての、特別で居たいんです」

うんうん、って彼女の額が、鎖骨の辺りに押し付けられる。
華奢な身体に回した腕に力を籠める。
壊してしまいそうで怖くて、でも手離せなくて。

「ごめんなさい……」
「……もう……」

困らせるのを分かっていて、でも。
ああ。
何処までも、自分本位で。
我侭で、泣きたくなる。

「……ななちゃん?」
「……はい」

ぺし、と、痛くない強さで彼女の掌が頬を打つ。

「謝らないで」
「……はい」
「ゆかりのこと、好き?」
「はい」
「だったら、それだけで良いじゃん」

背中に回された細い腕に、引き寄せられる。

「ゆかりは、ゆかりの事好きでいてくれるななちゃんのこと、好き」

ぎゅっと、引き寄せられる力に、胸が痛いほど、震えた。

「ありがと、ね」
「……っ!」

苦しくて、切なくて、幸せで。
言葉に出来なくて、縋りついた。
誰かに奪われる、その可能性に怯える気持ちが消えた訳じゃない、けどでも。
今は、今だけは、彼女はこの腕の中にいる事を選んでくれる。
その事が、堪らなく幸せで、切なくて、苦しかった。

願わくば。
この切なさが、苦しさが、幸せが。
出来得る限り、続きますように。
ただそれだけを願って。
私は、腕の中の彼女を、力いっぱい、抱き締めた。








幸せで、ありますように。
笑顔でありますように。
ひたすら、それだけを祈るように、願いつつ。




2006年03月25日(土) もしかしなくても、『月下』の続き(えー)。※ホントは、081208.

バックアップを兼ねて(何)。



開け放した扉の向こうから、冴えた月明かりと夜の気配。
何故だか眠れないまま、臥室に身を起こしてさわさわと寄せ返す雲海のざわめきを聴くともなく聴いていた。
もう、何日になるだろう。
下手をすれば溢れそうな感情を制して、職分を全うする事だけに専念する毎日。
もの問いたげな主の表情に気づかぬ振りをするのは、時折顔を合わせる百官の長の何もかも心得た風な穏やかな笑顔に激昂しそうになるのを抑えるよりも、正直な所、辛かった。
でも、それ以上に辛いのは。
日増しに胸の中に降り積もる、失望にも似た悔しさ。自分は一体、何を思い上がっていたのだろう。信頼を勝ち得るだけの何ものをも為しては居なかった。そんな己を棚に上げて、どうして主を……彼女を責められるのか。

「情けない、かな……」

結局の所、自分はまだ何一つ、変われてはいない。偏狭な価値観に捕らわれ守られ、自分の正しさに疑問すら抱かなかったあの頃から。
だから、遠ざけられたのだ。あの場から。
あの時、もし自分がその場に居たとしても、彼女は、自らの命を暗殺者の刃に晒した事だろう。自分が真にしなくてはいけなかったのは恐らく、身を挺して彼女を庇う事でも、王の身で凶刃にその命を晒そうとした行為を責める事でも無い。
あの、怜悧過ぎる程怜悧な男の掌に乗せられて初めて気づいた事が、ひたすらに悔しかった。何より、誰より、自ら気付けなければいけない事だったのに。

かき合わせた夜着の隙間に忍び寄る冷気すら生ぬるく感じられる程、悔しさに熱を帯びる胸をそっと抑える。
今は遠い故国の玉座を文字通り身を以て守るあの人を思う。
この国を……この国の主を守ると決めた時にやっと知ることの出来た、あの人の思い。けれど結局それは、知り得ただけでしか無かったのだと思い知らされたようだった。

「……ほんと、情けないったら」

唇を噛み締め、身を折り、堪える。
これ以上、みっとも無い真似はしたくない。でも。
食いしばった歯列の間を縫ってともすればこぼれ落ちそうな呻きを、何とか堪えようとした、その矢先だった。

「祥瓊……?」

今、一番聴きたくて、でも聴きたくなかった声が、潮騒にかき消される事無く、真っ直ぐに耳朶を打った。

「ごめん、もう寝んでるかな」

年頃を思えばそっけない程に低く、なのに、良く透る声は、主の特徴の一つだった。知らぬ人が聴けばぶっきらぼうを通り越して平坦に感じる程、感情を伺わせない声音はけれども、不器用で嘘のない人柄の故。本当にどうでも良い事を話したり、隠したい事がある時程、人は、際限なく愛想の良い声を出せるものだ。良い悪い、では無く。

「良かったら、少し話したかったんだけど……こんな時間になってしまって……」

独り言めいた声と言葉に、酷く胸が痛む。答えたかった。自分はちゃんとこうして起きていて、あなたの言葉に確かに耳を傾けている、と。
けどでも、口を開けば、言葉よりも先に気持ちが溢れてしまいそうで、いっそう強く唇を噛み締める。

「祥瓊が、ここ暫く、私と話してくれなくなった事、その訳も、分かっているから。分かっているのに、ごめん、私は……」

主の声が、穏かなまま途切れる。不器用で、その癖、酷く潔くて。自分が正しいと信じたことの為には何もかも飲み込んで突き進むだけの信念を持ちながら、けれども、王として相応しくない自分の事は、いつ投げ出しても構わないと本気で思っている。その生き方そのままの声音に、熱を帯びた胸の奥底が苦しいまでに痛んだ。
無私が虚無にどれ程近いものかをまだ知らない、若い王の声。
その側近くに寄り添い、その治世を見届ける事でかつての己の罪を償おうと考えている自分に、出来る事などたかが知れている、けれども。

「……分かっているなら、良いのよ」

小さな溜息の後、深夜の冷気を胸深く吸い込んだ後、声を励まし答える。

「祥瓊? 起きてたんだ」
「起きてるわよ」

臥室の帳を掻き分けて、ひやり底冷えのする床へと足を落とす。

「陽子こそ。政務でも無い夜更かしは感心しませんわよ、主上?」
「……眠れなかったから」

冗談交じりの言葉にまともに答えながら躊躇う素振りを見せる彼女に、肩を竦めて見せた。

「そんな所に長居してたら身体に毒よ? 幾ら神仙の身でも」

手招くと、大人しく従ってやってきた。
こんな刻限になってもまだ起きて何かしていたのか、いつもの簡素な官服にも軽く結い上げた髪にも少しの乱れもなく、かといって、疲れた様子も伺えない横顔は、いつもどおりの穏やかな無表情だった。似たもの主従、とは言うけれども、主が従えるこの国の麒麟の文字通りの無表情とは随分と異なる印象を与えるものだと、どうでも良い考えが脳裏を横切った。もしかしたら、見とれていたのかもしれない。

「来る途中、浩瀚に逢った」

だから、唐突に零された主の言葉の意味を一瞬、取り損ねた。

「……冢宰に?」
「うん。眠れなくて走廊伝いにぼんやり歩いていたら、途中で彼の居拠に行き当たったらしくて。王宮って何処でもこんな造りになっているのかな」

遥か雲上に存在する王宮の、所謂内宮は、王とその側近の住まいとして特別な呪法が施されている。生まれ着いての王族どころか、異世界に生まれ育った主には、その意味や理由を学ぶ機会が無かったのも道理、と溜息を零した。

「王宮の主には、全てを掌握する権利と義務があるものだから」
「ああ、うん、そうだね」

飲み込みの早い主は、あっさりと頷いた。

「だから、夜幾らほっつき歩いても誰も咎めないし、後を付けて行こうにも、王と同じ道を行けるのは台輔だけだけど、程ほどにね」
「うん、気をつける」

生真面目に頷いてから、もう一度、ごめん、と頭を下げられた。そういう意味では無かったのだけれども、と思いはしても、口にはしなかった。気付けば、いつもと代わらない会話がそこにあって、主は、特に思い詰めた風でも無い。その事に安心している自分が、辛い。

「……祥瓊」
「ん」
「すまなかった」
「もう良いわよ」

真っ直ぐな、曇りの無い、強い輝きを内に秘めた翠の瞳を見つめ返す。

「浩瀚からも、すまなかったと伝えてくれ、と。……わたしには、良く分からなかったんだけれども」
「……そうね、私にも良く分からないけど、」

明らかな嘘を吐きながら、目を逸らさず微笑んで見せた。

「あの冢宰に貸しを作れる機会は滅多になさそうだから、受け取っておくわ」
「違いない」

主は、屈託の無い透明な笑みを浮かべた後、視線を落とした。

「……今回の事、多分、色んな人を怒らせたし失望させたと思う。本当にこの国の事を思うなら、簡単に、命を投げ出すような真似はしてはならないって、本当はそう思う。けどでも、わたしは……」
「陽子」

訥々と話し始めた主を、強く遮る。驚いたように顔を上げた彼女を制して、自分のものよりも少し低いところにある肩に手を置くと、力を込めてとん、と押しやった。完全に虚を突かれたのか、見た目以上に軽いその身体は、軽い帳を押しやって、臥室の中に倒れ込んだ。

「……祥瓊?」
「ねえ、陽子。私は、私たちは、何の為にここに居るの?」
「……え?」
「王は、玉座に居ないといけないものなの。人の暮らしを安寧なものに保つ為に。それは分かっているでしょ?」

柔らかな寝具に仰向けに倒れたまま、主の瞳は真っ直ぐこちらに注がれている。一見すれば、年頃の娘たちよりも明らかに華奢で小柄なその身体には、天命に選ばれた王の血が流れていて、そこには、この国とその大地に安寧を齎す約束が秘められている。

「先ずはそれを全うして。この国の民に、飢えずに済むだけの実りを齎す時間を与えてあげて。あなたがそれすら出来ないような王だっていうのなら、」

主の、曇りの無い真っ直ぐな瞳を、真っ向から見返しながら、身を屈める。その肩にそっと手を添えた後、ゆっくりとその咽喉元へと手を伸ばし、酷く痛む胸には気付かないように、強く、微笑んだ。

「私が、倒してあげる。今直ぐにでも」

瞬間、大きく見開かれた主の……彼女の目が、ゆっくりと細められ、それから、逸らされた。

「……すまなかった。わたしは、随分と、甘ったれていたんだな」

違う、と即座に否定してあげたい気持ちを必死で押さえ込んで、緩く首を左右に振った。

「甘ったれている訳じゃないとは思うけど……でも、うん、これは、陽子一人の話じゃなくて、」

月渓、あなたはどんな風に、王を……父を見ていたのだろう。
共に理想を抱いて、憧れて、信じたくて、庇いたくて。
その想いだけでは、何もかもが全う出来なくて。
失いたくないものを、どうすれば守れただろう。
何度、そう自らに問いかけて、迷い続けた最後に。
残されたその道を、選んだのだろう。

「私は、陽子が王だから友だちになった訳じゃないけど、でも、陽子は王だから。王である陽子とずっと一緒に居たいから、」

不意に、今更こみ上げてきた何かに、思わず言葉が詰まる。こんな所で、と悔しさが押し寄せても、自分ではどうにも出来ないと分かって、情けなさがいや増した。
こんな事では、本当に伝えたかったのは、分かって欲しかったのは何だったのか、結局、自分の気持ちだけのようで、悔しかった。

「祥瓊……」

倒れ込んだまま、彼女はその手を差し伸べる。頬に触れた指が、そのまま目尻へと動いていく。

「有難う、祥瓊」

微笑むように、何かを堪えるように、彼女の眉が下がり、眼差しが細められる。ゆっくりと伸ばされたもう一方の手が、首の後ろへと回り、引き寄せられる。
有難う、と何度も繰り返すその声が酷く静かで。
ああ、主は……彼女は多分、何もかも分かっているのかもしれない、分かっている自分に気付けないだけなのかもしれない、そう思った。
気付けば、潮騒はすっかりと止み、開け放たれた扉の向こうから、遠く西へと傾いた月の光が、臥室の帳を照らし出す場所にまで届いていた。




― 了 ―




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