一橋的雑記所
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――また、この夢か。
夢の中でその先に起こる事が分かっていながら。 それでも、止まらない、動けない。 じわじわと肌を圧するような熱気と蝉の声。 地道をガタガタ揺れながら走る自転車。 狭い視界の中、流れてゆく景色。 それが一瞬の内に、大きく傾いて。 投げ出される。
纏わりつく、冷たい流れ。 息苦しさの中、見開いた目にきらきらと光る空。 それとも、水面。 苦しいのに、綺麗だと思った。 遠くなる意識の中、とても綺麗だと思っていた。 それを最後に、失われていく世界。 穏かな、諦めるような気持ちはでも。 始まった時と同じ位唐突に引き戻されて。
蝉の声は同じ、なのに、体中がまるで。 氷を当てられたように、冷え切っていて。 背中の下、ごつごつとした岩だけが熱を帯びていて。 眩しい空のどこまでも澄んだ青に目を細めた時。 視界を、濃い影が覆いつくした。 頬に触れた手は、やっぱり冷たくて。 その指が震えながら唇をなぞるのも、冷たくて。 身震いした瞬間、その影が大きく揺れた。
――………。
声にならない呟きが聴こえて。 それに応えるように、無意識に言葉が零れ落ちる。
――……泣いて、るん……?
かすれた声が自分のものだとは、どうしても、思えなかった。
目覚ましの音がなる前に、飛び起きる。 着慣れた夜着の背中が張り付くように濡れているのが分かる。 反射的に振り返った隣の布団は、既に畳まれている。 その事にほっとすると同時に体中の力が抜けて、再び、布団に仰向けに倒れ込んだ。
「……久々、や、なあ……」
声にしてみた言葉は、酷く擦れている。 幼い頃から繰り返し見る夢はいつも恐ろしいほどリアルで息苦しい。布団の中、唸りながら四肢を伸ばしたり縮めたりしている内に、それも少しずつ薄れてゆくのだけれども。 子どもの頃、法事で出掛けた先で自転車ごと川に転落するという事故を起こした、らしい。 らしい、というのは、自身の頭の何処をどう探してもその時の記憶がどうしても見当たらないからなのだった。 姿が見えない事に気づいた大人たちが探し出した時には、河原の大きな岩の上に寝かされていて、その傍らには、同じくずぶ濡れの綾ちゃんが佇んでいたという。けれども、前後の出来事含めて何もかもがすっぽりと抜け落ちていて、夢で見ている場面が実際のものなのか、人伝に聞いた話が再構成されて作られたものなのかすら、わからない。 一つ分かっている事は、それ以来、自分ひとりで自転車に乗って出かけることが出来なくなったという事実。 誰かが併走してくれれば……もっというと、綾ちゃんさえ一緒ならば大丈夫なのだ。一人きりだと、3分と立たない内に酷く不安になって、何処にもいけないまま引き返したくなる。 高等部へ進学した当初には何度か試したけれども、未だに克服できないまま、現在に至っている。
「……まあ、ええか」
あれやこれやを思い起こした後苦笑い混じりに呟いた頃には、随分と頭がすっきりとしてきていて、その分、夢の中の光景は更に希薄になる。 一つ大きく伸びをして、布団を勢い良く跳ねのけた。
えーと。 続いてるのかどうなのか、さっぱり(何々)。
終了の合図、それに続く礼、後片付け。 それらの喧騒から距離を置いて待っていた所へ、道着姿の綾ちゃんがゆっくりとやってくる。汗一つかいていないその手には、先ほど小さな後輩から渡されたタオルが一本。
「お疲れさんやったね」
笑って見上げた綾ちゃんはそうでもないです、と言いたそうに表情を緩めた後、振り返る。
「今日はもう、上がってもええのん?」 「みたいです。着替えて来ますから、外で」 「ん」
ほな行ってらっしゃい、とその背中をひと叩きして、また先輩方に捕まらない内にと道場を後にする。綾ちゃんは、後片付けに奮闘する後輩の群に向っていく。タオルを返しに行くのだろう。やれやれ、と何となく凝ってしまった肩を回しつつ道場を後に仕掛けて、背後で湧き上がった歓声に吃驚して振り返る。どうやらその歓声の中心には、後輩たちに囲まれた綾ちゃんが居るらしい。 珍しい、と思ったのは、後輩たちに取り囲まれた綾ちゃんが目に見えて困惑しているのが分かったからだ。いや多分、傍目にはいつもどおりのポーカーフェイスにしか見えないのだろうけれども、その泳いだ視線が此方を探し当てた瞬間、それが分かった。頑張りやー、と視線だけで笑って見せたら諦めたように溜息をついたのが少し、面白かった。
傾き掛けたお日さんの元、自転車を押す綾ちゃんと並んで下校の途につく。心なしか考え事でもしているように視線が落ち気味の背中に、笑いかける。
「さっきは何やったん? えらい大騒ぎしてたけど」 「……別に」
と、言い掛けて、言い淀むその姿が珍しくて、その背中を突く。
「別に、やないやん。えらい楽しそうやったで?」
楽しそう、の言葉に穏かな無表情に困惑の色が差す。
「や、綾ちゃんが、やなくて、皆が」 「そんなに、大した事じゃなかったんですけど……」
諦めたように呟くと、綾ちゃんは足を止め、片手を上げてくしゃり、と自分の前髪に指を通す。ありゃ、本気で困っているのかと、流石に少し、驚いた。
「何があったん?」
思わず真面目に問い掛けながらその目を見上げる。複雑な色の眼差しに複雑な表情。
「……明日」 「ん?」 「明日の早朝練習に、出てきてくれないかと」 「中等部さんの?」
頷いた綾ちゃんに、拍子抜けした気分で、溜息をつく。
「それであの騒ぎやったん? なーんや」
我が学園の剣道部は基本的に朝は自主練習に任されている。普段は直接綾ちゃんに助っ人をしてもらう事の無い中等部の皆が、勇気を奮って直にお願いをして了承を得た、というのが先の騒ぎの真相だったらしい。
「まあ、偶のことやし、ええやん。行ったり行ったり」 「……はい」
朝練習に付き合うとなれば、明日は別々に登校ということか。久々に自分で自転車を運転する事になりそうなのがちょっとアレだけれども、でも、綾ちゃんが決めたことなら良しとしよう。
「済みません」 「え? 何で謝るん?」
きょとん、と訊き返すと、綾ちゃんの視線がするり、と逃げた。夕映えの逆光の中、表情を掴ませない影の中にその横顔が逃げる。
「大丈夫やよ、私のことやったら。一人でも」
時々、ものすごく心配性になるその肩をぽんぽんと叩いてみせる。
「いつまでも、綾ちゃんに甘えてばっかりも居てられへんしなあ」
出来るだけ明るく冗談っぽく続けたけれども、黙り込んだ背中は振り返らない。
「なんやったら、私も付き合おか? 朝練」 「……いや、流石にそれは」 「まずいかー。連子先輩を調子付かせるだけやな」
むう、と眉根を寄せたあと、まあ、ええか、と肩をすくめた。
「取敢えず、明日の朝だけは綾ちゃんに付き合うわー。一人で自転車乗るのんにもそろそろ慣れんとアカンし。久々に、並んで行こ。な?」
真っ直ぐに前だけ見て自転車を押す綾ちゃんの視線に回り込むようにして、その顔を見上げる。夕陽を集めたその目の色は相変らず複雑で、金色にも真紅にも見えて、少し眩しかった。
引っ張りますが後先の事はあんまし考えてません(何々)。
板張りの道場に響き渡る裂帛の気勢。鋭く行き交う剣戟の音。 この空気は幼い頃から慣れ親しんだそれに比べると少し粗雑ではあるけれども、その場に浸っていて心地良い事には変わりない。 それでも、その中に入り混じることを期待されるのは困りもので。
「何で今年は駄目なのよ」
大きく嘆息しながら肩を竦める連子先輩の言葉も今日だけで何度目か。
「あかん言うたらあきませんて。私らが出たらまた諸々揉めるだけやて、先輩らかて分かってはるでしょ?」 「女子部の方だけで良いのよ? 正真正銘、交流試合として」
正真正銘て、と流石に連子先輩の隣に佇む男子部部長の藤堂先輩が苦笑する。我が清陵学園の剣道部は女子部と男子部の人数差が生徒総数のそれに比例して大きい関係で、稽古は常に合同で行われている。それでも今年の男子部は何とか団体戦を行えるだけの頭数は揃っていた。
「それこそ、レギュラーで活躍してるほかの部員さんに失礼やないですか」 「大丈夫、あなたたちが出てくれるのなら私が控えに回ったって構わないし」 「先輩……」
真顔で冗談を言うからこの人は怖い。引き攣り笑いを浮かべて引いた肩に、ぽす、と誰かの肩が触れた。
「あ……っと、すみません!峰倉先輩!」
タオルを抱えた女子部員が慌てたように頭を下げる。顔を上げても年齢標準サイズよりも小さい自分の視線よりも低い所にその子の目線があって、おや、と目を細める。
「中等部さんやね」 「あ、はい。中等部3年橘です」
ぺこり、とお辞儀した彼女のつむじに二回目の対面。こういう場面には滅多に居合わせないので思わず頬が緩む。
「かいらしなー。頑張ってる?」 「はい」 「ちょっと、何後輩口説いてるのよ」
話を逸らしたつもりが、ぐい、と襟首を引っつかまれる形で連子先輩の方に向き直らされる。
「兎に角、私は諦めてませんからね?」
にっこりと笑う先輩は、真顔で迫る時よりも更に怖い。わはは、と誤魔化し笑いで逸らした視線の先、ええと綾ちゃんは……と背の高い姿を探す。
――おや?
先ほどのちびっこい後輩が同輩たちと共に両手に抱えたタオルを一稽古終えた部員に配りまわっていて、丁度綾ちゃんが彼女からそれを手渡されたところだった。
――電柱に、蝉。
「峰倉さんちの似てない双子」は昔良くそう評されたものだけれども、その光景を客観的に眺めるような錯覚に思わず陥って小さく唸ってしまう。
「あら、こうしてみると河南ちゃんって」
同じ事に思い当たったのか、連子先輩が感心したように呟く。
「髪型のせいかしらねー、良く似てるわ」 「はあ……」
河南ちゃん、というのかと、道場の壁に掛かった名札から彼女の名前を探し出してふむ、と頷く。
「どっちが苗字か分からない名前ですね」 「それ、私に対する皮肉?」 「いえ別に」
再びにっこりと笑う先輩に今度は負けじとにっこりを返した後、なにやら熱心に綾ちゃんに話しかけている小さな後輩の背中に視線を戻す。 綾ちゃんの表情は相変らず、少し長い前髪に隠れて良く分からなかった。
続いてますねえ……(えー)。
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