一橋的雑記所

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2003年03月01日(土) 下書き0704。





日暮れ時、随分と陽が長くなったとふと思う。
少し前までは肌寒くて上着無しには廊下を歩くのも辛かったのに、今は背中に走る汗ばむ気配が少し煩わしい程だった。
このまま真っ直ぐ帰っても良かった。けれど、春を迎えてからこの方、少しずつ集まり始めた断片的な情報に逸る気持ちが抑え切れない毎日が続いているから、いつもの様にこの足はあの部屋へと向かう。
長い影が足元に落ちるのを見るとも無く見下ろしながら扉に手を掛ける。開こうとして寸前、中からいつもとは違う気配を感じてその手を止める。
賑やかな複数の笑い声、時折聞こえる、はんなりとした特徴的な言葉。
どうやら来客中らしいと気付いてそっと扉から離れ、後ろ扉の前へと移動する。漏れ聞こえる会話の端々から、彼女の相手が校内新聞を発行している報道部の連中らしい事が知れた。
どこか落ち着かない気分で待つこと数分、口々に辞去を告げる声が聞こえ始めた。その瞬間を捕まえて、後ろ扉をそっと開く。
少しだけ覗かせた視線の先、真っ先に飛び込んできたのはまだ真新しい白い制服の後姿。前扉から出て行った報道部の連中を見送っていた彼女の背中は、後ろ扉から中へと滑り込んだ刹那、当たり前のようにこちらを振り返った。

「あら、なつき。どないしたん?」

驚くでも無い、いつものおっとりとした笑顔を見せ付けられて、一瞬、言葉に詰まる。

「ああ……お客さんやったから、遠慮してくれはったんやね」

やんわりと微笑まれ、思わず視線を逸らして「別に」と応じる。

「もしかして随分待たせてしもた? 堪忍な」
「そんな事は……」

無い、と口籠もりながら歩み寄る。目線を心持ち俯き加減にしていたせいで、彼女が手にする校内新聞がイヤでも目に付いた。目ざとくそれに気付いた彼女は、緩く小首を傾げた。

「なつき、まだ読んでへんかった? さっきの人たち、これの御用で」
「知ってる」

さっきまで感じていた、どこか落ち着かない気分がまだどこかに残っていたのだろうか。自分でも少し驚く程強い声が口をついて出てしまう。けれども彼女は気にした風も無く、その新聞を差し出してくる。

「春先やし、記事に出来るほどの話題もそうそうあらしませんからやろね。うちとしては面映い限りやけど」
「どうだか」

惚けているのか天然なのか計り知れない彼女の口調に、ほんの少し呆れて溜息をつく。

「いややわあ、なつき、ヤキモチ妬いてもくれへんのん?」
「や……?!」

反射的にバカ、と口にした瞬間、彼女はくすくすと笑い出した。

「冗談どす。堪忍」
「……ったく」

いつもの、意味不明なからかいにあっさりと乗ってしまった気恥ずかしさも手伝って、彼女の手から少し乱暴に新聞をひったくり、ばさりと広げる。
二面目の下半分を埋めているのが例の記事だった。
「藤乃新生徒会長に訊く!」などと、平凡きわまりない見出しを掲げたインタビュー記事。まるでアイドルさながら、先程の連中に取り囲まれ一問一問に一見律儀に、でも何を考えているのか分からない笑顔で答え続ける彼女の姿が目に浮かび、改めて呆れるような、苦笑するしかないような気分に襲われる。

「好きな食べ物だの、スリーサイズだの……訊いて記事にして一体、どうする積もりなんだろうな」
「どうする積もりて」

何が可笑しいのかにこにことこちらを覗き込んでくる彼女の方は敢えて見ない振りでざっと記事を追っていたが、何だか見慣れない表現の羅列に思わず眉をしかめる。

「『好きな言葉』……『玉の緒よ 絶へなば絶へね 長らへば』……?なんだこれ?」

どうにも不可解な文字列から目を上げると、彼女はきょとんとした顔をして見せた後、ふわりと笑った。

「何て、見ての通り短歌やけど」
「そんな事くらい、分かってる」

バカにしたつもりはないのだろうが、わざとの様に応えた彼女を睨みつけてから、改めて目を落とす。回答に続くインタビュアーの「普段の会長さんからは想像もつかない、情熱的な回答ですね」などと言ったコメントから察するに、これは所謂恋歌らしい。

「……どういう意味の歌なんだ、これは」
「どういう意味て」

くすくすと、何が面白いのか笑い声を立てた後、彼女は更に顔を寄せてくると、新聞の上、その歌の部分につい、と人差し指を滑らせる。

「て、いうか、なつきはまだこの歌、習てへんのやね。ほな、まだ教えん方がよさそうどすなあ」
「あのなあ……」

すっ惚けた声はからかうような響きが濃厚で、思わず声を荒げたけれども、堪忍、と軽くいなされる。

「せやけど、なつきもいよいよ高校生やし。いつまでも理科数学だけに頼ってんと、文系科目もちゃんと勉強せんとあきませんえ?」
「う、うるさいっ」

明らかに面白がっている彼女の言葉が図星だったことも手伝って、いらだつ気分もそのままに手の中の新聞紙をくしゃりと握り潰して付き返す。

「成績なんか、どうだって良いんだ、どうせ……!」

高ぶる気持ちのまま言い掛けて、はっと口を噤む。

――どうせ、この場所からは逃れられないんだから。

嫌な事を思い出した。

「なつき……」

心配そうな彼女の声音に、我に返る。

「なんでも、ない」

頭の中を過ぎった何かを振り切るように言い放つ。

「そんな事よりも、ちょっと調べたい事があるんだ……構わないか?」
「ええよ。他ならぬ、なつきの頼みやもん」
「おまえなあ……」

そんな言い方はやめろ、と睨みつけた彼女の顔には、何のかげりも無い。くしゃくしゃになってしまった校内新聞を丁寧に畳み直しながら、自分の席へと戻るその背中を見やって、どうしてだか、寂しいような落ち着かない気分に、なった。



モニタの中を流れる情報に目を走らせている間、彼女は決して邪魔をしたり話しかけてくることはない。給湯室で茶の支度をしていることもあれば、少し離れた場所で、事務仕事を片付けていることもある。何のために何をしているのか、気にはならないのだろうか、と不思議に思ったこともあったが、訳を話せる筈も無かったから、彼女の自然な無関心な態度は本当に有難い。

――変な奴だな。

癖のように時折、思う。
以前から周囲に人の耐えない奴ではあったけれども、生徒会長に選ばれてからはいっそう、注目を浴びるようになった彼女だが、その実、何ともつかみ所のない、一種の変わり者である事は間違い。
そんな彼女に友だち扱いをされるようになってから、この春でちょうど、三年。勉強だの食生活だの、日常に関するあれこれには煩いほど口出ししてくるくせに。







― 続きはまた明日!(何)。


2003年02月23日(日)

珍しい、そして、懐かしい顔を見掛けたから。
声を掛け、お茶に誘った。
彼女は、私の記憶の中の姿よりも、ほんの少しだけ。
輪郭が柔らかくなった、そう思った。
私の大切なあの子も、そうだと良いと、ほんの少しだけ。
そう思った。







最初は、当たり障りの無い話題から。
そう、お互いの近況だとか、近づいてくるクリスマスについてとか。

「そういえば」

私は、やんわりとした微笑を浮かべて見せる。

「クリスマスといえば、一昨年は大変だったわね」

それまでの話題では何故か触れられる事の無かったあの子を匂わせた途端。
彼女の綺麗に切り揃えられた髪が、その形の良い顎の線辺りで僅かに揺れた。

「あなたにも、随分と御世話になったし」
「そんなこと……」

幾分歯切れ悪い口調で呟いた後、彼女はそっと視線を落とした。
私の最愛の妹――あの子が引き起こした一連の出来事を今だに一番重く記憶しているのは、もしかしたら彼女なのかもしれない。
その事に気付いて、ほんの少しの憐憫と同情と嫉妬を同時に覚えた。

「あの子は元気?」
「……だと思います」

そして彼女は語り出す。出身校の学園祭には一緒に行ったのだと。
彼女の口から改めて窺い知るあの子の姿は、私がその場所に居た頃には望んでもなかなかに眺める事の出来ないもので。

「妬けるわね」
「……はい?」

正直に呟いてみせた言葉に、彼女の言葉と表情が一瞬、凍りつく。
その顔はかなり見ものだったので、私の機嫌は一気に上向いた。

「良いわ、ともあれ、あの子は元気なのね?」
「ええ…はい」

答えた彼女の要領を得ない様子は、私の反応とあの子の現状の両方に対するものだと思った。
進路を違えた二人は、あの頃以上にお互いの日常に踏み込む事無く、あの場所だけを接点として付き合い続けているのだろう。
それは彼女の律儀さとあの子の臆病さが招いたものなのだろうか、それとも。
私は、ふと思いついて、背もたれと背中の間に挟みこんでいたハンドバックを膝に移すとそのまま、金具を開いて中から小さなポーチを取り出した。
彼女の瞳が、私の手元とその動作に引き付けられるのを確認してから徐に、中身を引き出す。
あ…と彼女は、吐息のような声を漏らした。
薄いセロファンに包まれた、薄青いパッケージ。

「懐かしい?」

悪戯っぽく呟いて、私は銀の紙を開いて中から一本を取り出す。
彼女は何と言ったら良いものか…といった顔でただ戸惑っている。

「流石に、あの日の残りじゃないわよ、これ」
「……今でも、お吸いになるのですか?」

ようやっと、という感じで零れた彼女の声に、私は思わず微笑んだ。

「吸い始めたのは、つい最近の事よ?」

一応、法律上の違反を犯さずに済んでからだから、と付け加えると、大学で法学を学んでいるという彼女は、再び何とも言えない表情で黙り込んだ。
その眼差しを受け止めながら、フィルターを咥えてその先に火を灯す。

「……私は懐かしいわ」

軽く、メンソールの香りのする煙りを口中に含み、彼女から顔を逸らしながら吐き出す。

「そして、ちょっと、気恥ずかしくもあるの」

彼女には、分かってもらえるだろう。
そう思った。
あの日、私の大切なあの子が最愛の人を失ったあの夜。
あの子の為に奔走してくれた彼女ごと、私はあの子を自宅へ連れ帰った。
適度に放任で適度に子どもに甘い両親が私に与えてくれた離れの一室に二人を連れ込んで、本来なら許されないものに手を出させた。
甘い口当たりの発泡酒程度なら平気で口をつけた彼女も、適度に酔いが回った頃私が取り出した小箱を目にした時は、流石に顔色を変えた。

――それは…さすがに身体に悪過ぎます。

生真面目に自分だけではなく、あの子に受け取らせる事さえも拒絶した彼女を思い出して、私は小さく微笑んだ。

「でも、あの時のあの子には必要だと思ったのよ私は」

二人が思う以上に私は、あの子の事で、おかしくなっていたのだと。
今なら、分かる。
私は、私の居ない場所であの子が幸せでいる事は全然構わなかった。
誰かの側で、誰かの腕の中で安息を得られるのなら。
あの綺麗な顔が、誰かを思う事で憔悴する姿は、美しいとさえ思えた。
けれども、私は、怖かった。
私の居ない場所で、あの子が。
何かに溺れ、自らを傷つけ、損なう事が。
だから、必死だったのだ。
彼女にも、あの子にも気付かれない部分で、必死になっていたのだ。

「……白薔薇さま」

彼女の唇から、懐かしい呼び名が零れ落ちた。
そのまま、躊躇いを纏った沈黙が彼女から言葉を奪うのを認めて、私は軽く頷いた。
彼女は、気付いたのだろう。
あの頃の私の臆病さにも、必死さにも。

「あの子が未だにお酒にも煙草にも手を出せないでいるなら大成功なのだけれども」
「お酒はどうか知りませんけれども」

やっと、彼女の頬から強張りが取れた。
あの頃よりもずっと柔らかくなったその輪郭が、仄かに綻ぶ。

「煙草だけは駄目みたいです」
「試したの?」

ええ、と頷いた彼女が。
あの場所を越えた接点を持ってあの子と今なお繋がっている事にようやく気づいて。
私は、笑った。
心から。

「私は、当分止められそうにないけれども」

あの子とも、彼女とも遠く離れた場所で。
自分の弱さを許す為には、どうしても、必要だから。
けれどもそれは、言葉にしなかった。
彼女もその訳を、尋ねようとはしなかった。
クリスマスを間近に控えた冬の一時。
私は、あの子を想う時間を得た幸せに、深く白い息を吐いた。


一橋@胡乱。 |一言物申す!(メールフォーム)

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