心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2013年10月15日(火) 12ステップの利点・欠点

「12ステップに欠点はないのか?」という質問を受けることがあります。自分のやっている手法の欠点を知ることはとても大切だと思います。

欠点の話をする前に、12ステップの優れた点にちょっと触れておきます。

12ステップの良いところは、手順が明確であることです。12ステップの手順は、AAのビッグブックという本に「正確に、詳しく、はっきりと」説明されています。だから、ビッグブックという手順書に従って行えば良いわけです。

ビッグブックは料理のレシピ本に例えられます。レシピに書かれたとおりの材料を集めて、手順通りに調理すれば、本に載っているのとだいたい同じ料理ができあがります。違った手順を踏めば、違ったものができあがります。例えば、沸騰したお湯で5分間煮ると書いてあるところを、その代わりに300℃に熱したサラダ油で15分間揚げたら違った料理ができあがります(たぶんそれは食べられないシロモノでしょう)。

12ステップをやっても良い結果が出ない場合には、たいていこれと同じ間違いを犯しています。ビッグブックという手順書を読みながらも、そこから外れたやり方をして、違った結果をもたらしてしまっているのです。

手順が明確に確立されている点が12ステップの良いところです。

ただ、このビッグブックという本が少々分かりづらい本なのです。今は世界的に出版不況と言われ、本を読む人が減っています。しかし、この本が書かれた1930年代には多くの人が本を読んでいました。ラジオ放送が始まってまだ10年あまり、テレビ放送はまだ始まっていない時代です。人々は娯楽のため、教養のため、情報を得るために良く本を読みました。ビッグブックでも引用されているウィリアム・ジェイムスの『宗教的体験の諸相』は、この時代のベストセラーなのだそうです。こんな小難しい本がベストセラーになるなんて! ですが、ビッグブックはそういう時代の本なのです。

洗練された文章を書くためには修辞が欠かせません。「修辞って何?」といういう人は
wikipedia.jp:修辞技法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BE%9E
三省堂:修辞法
http://www.sanseido.net/main/words/hyakka/rheto/03.aspx
あたりを読んでください。ビル・Wは大学で修辞学を学んだだけあって、彼の文章は修辞に満ちています。たとえば、p.38にある、

「足もとに並べられた簡単な霊的な道具一式を手に取るよりほかなかった」

という文章は、12ステップに取り組むほかなかったと言いたいだけなのですが、転義法(比喩)という手法が使われています。

修辞された文章を読み慣れた人ならともかく、そもそも本を読み慣れていない人がビッグブックを読むと「???」ということになってしまいます。比喩を読み解くのが苦手な人たちもいて、「12ステップを足下に並べるってどういう意味ですか?」なんて質問が出てきたりします。(まあ、そういう質問が出てくること時代は真面目に取り組んでいるからこそだと言えますが)。場合によっては1行、1行解題していく必要すらあります。現代文に訳さないと枕草子が読めないみたいなものでしょうか。

一般に、子供向けの絵本やジュブナイル小説では修辞を少なくし、大人向けの小説やエッセイでは修辞を多くして凝った文章になります。村上春樹が人気があるのも、彼の修辞がある種の人たちの心の琴線をかき鳴らすからでしょう?

AAを最初に作ったのは、禁酒法と大恐慌の時代に酒で身を持ち崩した白人男性たちでした。経済的にも社会的にも落ちぶれた彼らには自らが身につけた教養しか頼れるものがありませんでした。また当時は人種差別も、男女差別も激しい時代であり、彼らがターゲットにしたのは自分たちと同じような白人たちでした(だからビッグブックの初版には白人のストーリーしか掲載されていません)。やがて、彼らの見つけた12ステップという原理は、人種・性別・貧富・教養のあるなしに関係なく役に立つことが分かってきてAAが大きく発展するのですが、ともかくAAを始めた人たちは、その時点では「本を読み慣れていない人たちのために、平易な文章でビッグブックを書く必要がある」とは考えなかったようです。

ビッグブックの内容(あるいは12ステップ)を批判する人たちは、その内容よりも、ビル・Wの修辞に惑わされてしまっている場合が多いのです。そういう人たちでも、12ステップの本ではないけれど同じAAの本である『どうやって飲まないでいるか』ならば受け入れやすいと言います。こちらのほうが平易な文章で書かれているからでしょう。

じゃあ、ビッグブックがそんなに小難しいなら、易しい文章に書き直したらどうだ? と思うかも知れません。しかし、それは無理です。ビル・Wやドクター・ボブは特別な存在であり、彼らの代わりができるメンバーはAAにはいないからです。ビッグブックの読みづらさ、使いにくさはAAの中で意識されていますが、現実問題として当面それが解決される見込みはありません。

ビッグブックを教科書とするなら、参考書みたいな本はいくつもあります。ビル・W自身も十数年後に『12のステップと12の伝統』(12&12)を書きました。しかしこれは、ビッグブックを補う立場の本です(なので12&12だけでは12ステップは分からない)。

他にもAAメンバーが12ステップの参考書・解説書を書いてきました。古くは『リトル・レッド・ブック』、『スツールと酒ビン』、最近訳出されたジョー・マキューのものもそうです。これらに人気があるのは分かりやすいからです。しかし、これらの参考書は「ビッグブックを置き換えることを目的としない」としています。あくまでもビッグブックを補うもので、ビッグブックの代わりにはなりません。

そんなわけで、AAメンバーが12ステップに取り組むときは、どうしてもこの小難しいビッグブックを相手にせざるをえません。だからこそ、その人を一人でビッグブックを読んで陥る「???」という状態から救い、手順通りにことを進める手助けをしてくれる介助者が必要になります。それがスポンサーの役目ですね。

他にも、12ステップに取り組むには、少なくとも数週間から数ヶ月の期間は必要ですし、もっと長い時間が必要な人も確かにいます。労力も時間もかかります。

また相手をするスポンサーが必要です。12ステップの中には自己査定が含まれています。しかし、自分で自分を吟味するのは大甘な評価になりがちです。自分で吟味するより配偶者や親に吟味してもらった方が正しい評価がされるぐらいなんです。でも妻に棚卸しを聞いてもらおうという人はまずいませんから、「もう一人のアルコホーリク」が必要です。その人の労力や時間も必要になります。

こうしたように、12ステップに取り組むには、それなりの労力と時間がかかるのです。これが12ステップの欠点と言えると思います。

最近では断酒補助薬も発売されました。薬を飲むだけで断酒維持率が約10%向上したそうです。薬を飲むだけで、10%改善されるのです。素晴らしいことじゃありませんか。12ステップよりもずっと簡単で、労力も時間も少なくてすみます。だが、それでも100%ではない。いままでのどんなやり方でも100%のものはありません。

それを考えると「12ステップさえあれば良い」とは言えません。他のやり方も必要だし、時には組み合わせていく必要もあるでしょう。

12ステップは、手間も労力も必要ですが、奥深い変化をその人にもたらすことが可能です。それは12ステップの利点であり、断酒補助薬ではなかなかこうした変化は呼び起こせないと思います。また、ビッグブックに沿って12ステップを提供できるスポンサーが日本のAAにはまだ少ないことも問題です。

20世紀には、アメリカでも日本でも、AAがビッグブックから離れていきました。それはビッグブックの文章の小難しさと無関係ではありますまい。近年になってAAの原点に立ち返ろうとする運動が起きてきました。それらは例外なくビッグブックを重用しています。しかし、その運動が、ビッグブックを書いた人たちが求めた教養を皆に要求するような展開になっては良くありません。原点回帰運動のキモは、テキストの内容をいかに分かりやすく伝えるか、にかかっていると思います。

当然僕自身にとってもビッグブックは難しい本です。何年取り組んでも十分分かったとはまだ言えません。けれど、彼や最初のAAメンバーたちが今の僕らに伝えたかったことを読み解いていくのは心躍る冒険です。


2013年10月11日(金) AAはAA、断酒会は断酒会

AAは「言いっぱなし、聞きっぱなし」というやり方でミーティングをやっています。AAに馴染みのない人には聞き慣れない言葉かも知れません。AAでやっているのは「ミーティング」といっても会議ではなく、他の人の発言に意見したり、批判したり、質問を挟んだりしません。人の話は黙って聞き、自分の順番が来たら話をする。このやり方を日本では「言いっぱなし、聞きっぱなし」と名付けています。

海外のAAでも、おおむねこのやり方だそうです。僕の数少ない経験からもそうですし、海外でAAに出席した人たちに聞いても同じです。

「言いっぱなし、聞きっぱなし」を英語で何というのだ? と聞かれることもありますが、それに相当する言葉はないみたいですね。ポピュラーだからこそ名前が必要ないってことなのでしょう。ビル・ホワイトの『米国アディクション列伝』では、これを「crosstalkを排除した」やり方と呼んでいます。

あらかじめ話し手が決まっており、他の参加者はそれを聞くために参加するというミーティングを speaker meeting (スピーカー・ミーティング)と呼びます。そうではなく、参加者の中から適当に話し手が選ばれるのを discussion meeting と呼びます。ディスカッションと言っても議論(debate)ではなく、その中身は「言いっぱなし、聞きっぱなし」です。

いずれにせよ、AAのミーティングは対話を排したやり方が主流です。なぜそうなのか理由は分かりません。意外に思われるかも知れませんが、AAは特に「言いっぱなし、聞きっぱなし」のやり方をするとは決めていません。別のやり方をしても良いのだし、実際別のやり方をしているところもあります。

僕はアメリカに行ったときに、講師役のAAメンバーがホワイトボードに図を描きながら他のメンバーにステップを「教えて」いるミーティングに出ました。その会場はたくさんの参加者で溢れかえっていました。また、ビッグブックを少しずつ読み進めながら、1行1行の意味を読み解いていく形式もあるそうです。メンバーお手製のテキストを使っているところもあります。参加者が「その場で」ステップに取り組むワークショップもあります。共通しているのは、経験の深いメンバーに新しい人が導かれていくという形式になっていることです。「議論(ディベート)」を行うやり方をしているところは聞いたことがありません。

最近、断酒会の関係の人と話す機会がありました。(具体的に名前を挙げて良いのか分からないので伏せておきます)。近年断酒会はその人数を減らしています。なぜ減っているのかその理由はいろいろあるのでしょうが、(AAの影響を受けて)「言いっぱなし、聞きっぱなし」を望む声が増え、そのように運営される断酒例会が増えたことも一因だろうという話を聞きました。

本来、断酒例会は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではないわけです。会員が順番に話をするという点ではAAの discussion meeting と同じですが、話をした後に、進行役である会長さんから、話の内容を褒められたり、逆に一くさり小言を頂戴したりします。あまり莫迦なことを言えば、他の「先輩」や家族からも批判を受けます。このようにして褒められたり、批判をされたりしながら、断酒会的な考え方と行動を身につけていくのが断酒会のやり方なのだそうです。

断酒例会を「言いっぱなし、聞きっぱなし」にしてしまうと、考え方や行動を修正する機会が失われ、回復が難しくなってしまう。それが会員の減らす原因(少なくともその一つ)になっているのだと。

では、AAはなぜ「言いっぱなし、聞きっぱなし」なのか。それは、AAにはミーティングの他にスポンサーシップという一対一の関係があるからです。メンバーシップ・サーヴェイという調査によれば、「スポンサーシップが弱体化した」という日本でもAAメンバーの半数はスポンサーを持っており、アメリカでは実に8割のメンバーがスポンサーを持っています。

スポンサーという言葉は日本では経済的な援助をする意味で使われますが、AAのスポンサーは本来の英語の意味(引受人の意)で使われます。AAの回復の原理は「12ステップ」に表されていますが、12ステップに取り組むのにスポンサーは欠かせないものです。AAに真面目に取り組む多くの人たちが、指導役たるスポンサーを持ち、一対一の関係の中でアルコホリズムから回復していきます。ただし、その関係は個人的なものであるだけに、公けに目立つことはありません。

このように「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけに着目するのは片手落ちです。AAにおいてはスポンサーシップが回復をリードする(lead = 導く)役割をしています。スポンサーというのはリードする者(指導者)です。どのようにリードするかはそれぞれのやり方があるでしょうが、導く者とそれについていく者という関係が確かにAAの中にあります。また、本来の断酒会の例会は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではないことによって、例会そのものが回復をリードする(導く)場になっています。

ところが「言いっぱなし、聞きっぱなし」さえあれば十分だという考えの人たちが、AAの中にも外にもいます。導かれたくない人もいるし、回復に導きは不要だと考える人もいます。「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけの場を作りたい人もいるし、実際それを作る人もいます。それはその人の自由でしょう。しかし、AAは「言いっぱなし、聞きっぱなしだけではない」ところです。

松村春繁が、高地で断酒会を始めたのは、下司孝麿医師にAAの存在を教えられたからだそうです。その後、彼は全国を回って断酒会を組織し、全日本断酒連盟の初代会長となります。彼は断酒会をAAの日本支部として認めるようにNYのGSOと交渉をしますが、GSO側ではAAの12のステップや12の伝統をそのまま採用することを求めました。それが日本人の気性に合わないと考え、断酒会はAAに合流することを諦めました。これが1960年代のことです。それ以降、断酒会とAAは別の道を歩むことになりました。日本で現在のAAが成立するのは1970年代になってからです。

断酒会がAAを参考にして作られたのは間違いありません。後に作られた「指針」と「規範」が、AAの12のステップと12の伝統の影響を受けているのも、その類似性からして明らかです。しかし、文化の移入がAA→断酒会の方向にだけ行われたと考えるのは誤りです。

断酒例会は「酒害」を語るところとされます。また「例会は体験発表に始まり体験発表に終わる」と松村語録にあります。「酒を飲んで酷いことをしてきた過去の自分」を語ることが推奨されます。しかし、本来AAではこの類の話はドランカローグとして避けられる傾向があります。AAのミーティングは「経験と力と希望」すわなち12ステップを伝える場であり、ステップの経験が望まれるところです。ところが、日本のAAではドランカローグ(飲酒譚)が好まれる傾向があります。これは、酒害や体験発表を軸とした断酒例会の影響を日本のAAが受けているため、と考えられます。

日本においてはAAは断酒会よりずっと後になって成立しました。AAグループが誕生するところでは、すでに断酒会が活動していることも珍しくありませんでした。AAのやり方をよく知らない人たちが、断酒会のやり方を取り入れ、それが「AAのやり方」として後の人たちに受け継がれていったことが少なからずあるはずです。

AAも断酒会も似ている部分があります。みんなで集まって順番に話をするところなど、そっくりです。しかし、どうやって回復を導くか、やり方はずいぶん違います。AAはAA、断酒会は断酒会です。似ている部分もありますが、違っているところも多い。違いは理由があって生じたものです。違っていなければ、別々に存在している意味がありません。

AAは「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけでは成り立ちません。スポンサーシップがあればこそです。「言いっぱなし、聞きっぱなし」の部分だけに着目するのは、木を見て森を見ずです。


2013年10月07日(月) AAはどれほど有効か

AAに効果があるのか、それともAAには効果がないのだろうか・・・。

「AAに効果がないかも知れない」という話は、AAで回復した人にとっては噴飯物かも知れません。しかし、効果が「ある」か「ない」かは、議論の対象にすべきことです。

AAの有効性について良く言われることは、ビッグブックの「再版にあたって」にビル・Wが書いている言葉です。この「再版にあたって」は1955年に出版されたビッグブックの第2版に加えられた部分で、アメリカでAAが始まってからちょうど20年という節目の年でした。

「AAに加わって真剣に努力して取り組んだ人の半数は、すぐに飲酒がやめられて、飲まない生活を続けることができた。何度か再飲酒をしたがやめられた人は二十五パーセント、残りの人もAAにつながっているかぎり、良いほうに変わり、いろいろな改善が見られた。ほんのちょっとAAミーティングに顔を出して、プログラムが気にくわないと決めつけて来なくなってしまった人は何千人もいたが、そのうちの約三分の二は、後になって戻ってきた」(AA, p.xxv)

すぐに酒をやめられた人が50%、何回かスリップしたけれど最終的に酒をやめた人が25%。あわせて75%がAAで酒をやめていると述べています。これが「50%+25%=75%」という話です。

この文章が書かれてから五十数年が経過しました。どうでしょうか、あなたの周りのAAは75%という回復率を達成できているでしょうか?

「AAで酒をやめる人は数%」なんじゃないか、という話はよく聞きます。良い数字を挙げる人でもせいぜい2割ぐらい。ことによると100人に一人も助かっていない、なんて言う人もいます。AAはメンバーの名簿も作らないし、追跡調査もしないので、正確な数字は誰も知りません。でも、誰の言うことであれ、それなりに実感のこもった数字です。

いずれにせよ75%という数字に比較すると、あまりにも「しょぼい」数字です。するとさっそく原因探しが始まります。いったい何が悪いんだ? 1950年代のアメリカのAAと現代の日本のAAでは何が違うんだ?

あるいは、AA外部の人たちが、クライアントをAAに送り込んでもなかなか酒をやめてくれないので、「AAは役に立たない」なんて言う人もいます。

だが少し考えて欲しいのは、有効性とは何なのかです。

新しい薬を発売する前には、必ず「治験」が行われます。その薬が本当に効くのか(有効か)、また副作用がどれぐらい出るのかなどを確かめるために行う試験です。

治験を行う場合には、その新薬だけをテストするのではなく、比較対象となる薬を用意します。それは効果がない偽薬だったり、あるいは従来から存在する薬だったりします。いずれにせよ、新薬を飲む群と、対照となる薬を飲む群に分け、この二つの群の結果を比較することで、新薬の効果を判定します。

ところで、薬は誰もが真面目に飲んでくれるとは限りません。途中で飲むのをやめちゃう人もいますし、毎日飲みなさいと指示しても、一週間に二回しか飲まない人もいます。これを「服薬コンプライアンス不良」とか「服薬不遵守」などと言います。

服薬してない人が混じり込んでしまうと、データの精度が落ちて結果の比較ができなくなってしまいます。なので、そういう人のデータは集計時に取り除かれることになります。

このように「有効性を議論する場合には、条件を守った人の結果のみ採用して集計したデータを用いる」ということが前提になっています。

AAが効果を上げるには、対象者がAAミーティングに通い続けるという条件があります。AAは一生ミーティングに通い続けなさいとは言っていませんが、回復の初期におけるAAミーティングの必要性はAAの様々な書籍やパンフレットで強調されています。

AAミーティングに通ってこない人には、AAは効果を現しません。しかしミーティングに通うように言われても、途中で出席をやめてしまう人もいます。これは薬で言えば、途中で服薬を止めてしまったのと同じです。「ミーティング出席コンプライアンス不良」とでも言いましょうか^^;

ところで、先ほど、現在の日本のAAの回復率の話をした時に出てきた数字は、分母に「AAミーティングに通うのをやめてしまった人たち」まで含んでいるのじゃないでしょうか。服薬をやめてしまった人たちまで含めてデータを比較したら治験にならなくなります。AAミーティングの有効性の議論をするときも同じでしょう。回復率の計算をするには、ミーティングに来なくなってしまった人たちの数は分母から取り除かないとなりません。

AAをある程度長く続けている人なら、「頻繁に再飲酒を繰り返したけれど、めげずに根気よくAAミーティングに通い続け、最後には安定したソブラエティを達成した人」という少なくとも一人は知っているのじゃないでしょうか。

「AAミーティングに出席を続けている人の中で、酒をやめている人の割合」を計算すれば、どれぐらいの数字になりますかね? その数字が有効性とか、回復率ですよね。

先ほどのビルの上げた数字をもう一度見ると、「AAに加わって真剣に努力して取り組んだ人」という条件が加えられているのに気がつきます。「ほんのちょっとAAミーティングに顔を出して、プログラムが気にくわないと決めつけて来なくなってしまった人」は分母から除かれているのです。

でも、それは数字のマジックでもごまかしでもない、有効性の議論をするなら、それでいいのです。

僕はAAの有効性はちっとも損なわれていないと思います。きちんと評価すれば、今の日本のAAでも75%ぐらいの数字は出るのじゃないでしょうか。

もっとも、有効性の話と服薬コンプライアンスの話は別のものです。服薬コンプライアンスの悪い薬ってのはあるものです。妙に大きくて飲みにくい薬とか、一日に何度も飲まなければならない薬は、コンプライアンスが悪くなります。

その点ではAAも、ミーティング出席コンプライアンス?が改善されるような努力が必要です。「引きつける魅力」がないとなりませんし、会場がたくさんなければ遠くまで通うのが負担になりますし、良いスポンサーがたくさん供給できたほうが良いでしょう。AAの本質を曲げずに改善できるところはたくさんあります。

もちろん、AA側で改善すべきことなのですが、一人のメンバーとして言わせてもらえば、AAの外側でももうすこし努力して欲しいと思います。「AAが良いのは分かりますが、患者さんがAAに行きたがらないんですよ」などと言い訳をぶつくさ言っている医療関係者に出会うと、それをその気にさせるのがあなたの仕事じゃないの? と内心ツッコミを入れたくなる時もままあります。そういう言い訳がましい人は、患者がAAに通い始めると後はAAに丸投げ・・っていう良くないパターンだったりするわけです。

薬を処方するときには、どの薬がこの患者に合うのかって考えて出すわけでしょ。それを考えずにいつも同じ薬ばっかり出して、効果が出なかった時に、患者や薬のせいにしてたら良い医者とは言えません。AAにも合う人合わない人がいるわけですよ。「どんな人がAAに合うか」を考えもせずに、誰でも彼でもAAに送り込もうとするのは良い援助者とは言えません。

ああそれから、ビル・Wは、すぐに来なくなった人の「約三分の二は、後になって戻ってきた」と書いているでしょう。2/3という高い割合かどうか分かりませんが、年単位で観察していれば、かなりの割合の人がAAに戻ってきます。断酒が続いている間はまず戻ってきませんし、死んでしまっても戻ってこないわけですが。たいていは飲み続けた挙げ句に戻ってくるか、ある程度の期間飲まないでいても再飲酒してしまった時がAAに戻るチャンスです。酒がやめられない、あるいは再飲酒というのは、その人にとっては危機に違いありません。しかし、やり方を変えるチャンスでもあるのです。

話がすっかり逸れちゃったので、元に戻してまとめますと、AAの有効性は決して低くありません。高い回復率を達成していると言っても良いでしょう。しかし、その恩恵にあずかるには(薬を飲み続けるように)ミーティングに通い続けるという条件が守られねばなりません。そこに難しさがある。改善すべきところはそこでしょう。


2013年09月24日(火) 医学の価値+宗教の価値=AAの価値?

英語のAAの文章を読んでいると、時々 coincidence という言葉に出会います。インシデンスは発生という意味です。co というのは「一緒に」という意味ですから、コインシデンスは「同時発生」あるいは「偶然の一致」という訳になります。

この言葉がAAの歴史に対して使われる場合には、12ステップの成立に先んじて起きたさまざまな出来事に対して使われます。もしその出来事が起きなかったら、AAが成立しなかった、もし成立していたとしても今とは全く違った姿をしていただろう、という出来事を指して使われます。

ローランド・ハザードが会いに行ったのがカール・ユングだったこと。これも coincidence のひとつです。

当時のヨーロッパには他にもジークムント・フロイトやアルフレッド・アドラーがという精神医学の権威がいたにもかかわらず、なぜかハザードはユングを選びました。僕は精神医学に詳しいわけではありませんが、フロイト、ユング、アドラーの3人の中で、唯一ユングだけがスピリチュアル(霊的)なことの価値を認めていたと言います。ハザードがユングを選ぶ偶然がなかったら、AAは成立しなかったわけです。

ビル・Wが、1930〜40年代のアメリカの状況について、こう書いています。

> 精神医学のいくつかの学派を代表する探究者たちの問には、この新しい発見の真の意味をめぐって、当然、かなりの意見の相違があった。一方でカール・ユングの弟子たちは宗教的信仰に価値と意味と現実性とを認めていたが、当時の精神医学者の大多数はたいてい、ジークムント・フロイトの説を固守していた。その説とは、宗教は人間の未熟さゆえの苦しみを和らげる空想であり、人が近代学問の光の中で成長したときには、もはやそのような支えは必要としないであろう、というものだった。(『AA成年に達する』 p.4)

ビル・Wは、彼自身がAAの原理を創造したのではなく、医学と宗教から考えを借りて作り上げたに過ぎないと言っています。結果としてAAは医学でもなければ、宗教でもない存在になりましたが、AAの源流が医学と宗教の両方にあることは強調しておきたいところです。

AAは、医学という点ではカール・ユング、ウィリアム・シルクワース、ハリー・ティーボウらの、宗教という点ではリチャード・ブックマン、エドワード・ダウリング、サミュエル・シュメイカーらの影響を受けています。

AAの価値を理解するためには、医学の価値と宗教の価値の両方が分かっていなければなりません。多くの人は医学の価値を認めています。なぜなら、幼い頃から医者にかかったことがない人はまずいませんから、誰もが医学の世話になって、何らかのかたちで自分が救われたという経験を経ているからです。医学の価値は経験的真実として皆の身に沁みています。

ところが、宗教によって何らかのかたちで自分が救われた経験を持つ人は、(少なくとも現代の日本においては)かなり少ないのです。なぜなら困ったときに宗教の世話になろうという人が少ないからです。

戦前の日本について当時の外国人が書いた文章を読むと、日本人はたいそう信心深い民族として描かれています。現在でも街のそちこちに神社仏閣という宗教施設がたくさんあり、人々は誕生・結婚・出産・死亡という節目に、さらに年始にまで宗教施設を訪れて熱心に祈りを捧げています。そのように極めて信心深い民族であるにもかかわらず、今の日本人は宗教を頼ろうという意識は薄く、むしろそれは危険であるとすら感じる人が目立ちます。

戦前は内面でも行動面でも信心深かった日本人が、戦後になると行動面では信心深いものの、内面では宗教を忌避するようになったのはなぜか。それは敗戦後の日本を占領したGHQの方針によるそうです。

GHQは占領政策として、対米戦争を支えたさまざまな仕組みを解体したり、統制の対象としました。その中には宗教も含まれていました。なぜならば宗教も戦争遂行に協力したからです。その点は、神道だけでなくキリスト教その他も同じでしたが、やはり目立ったのは国教とされていた国歌神道でした。神道指令によって政教分離が図られ、同時に国民に信教の自由も与えられましたが、日本人にとって敗戦は新しい宗教への移行の機会ではなく、むしろ宗教を信じることの失敗体験として世代の記憶に刻まれることになりました。

そんなわけで、戦後生まれの僕らは、宗教によって自分が救われたという経験を持ちません。医者を頼って何らかの困難から救われた人は(例えその困難がインフルエンザ程度のものだったとしても)、医学の価値を認めます。その人にとってその救済は経験的真実であって、他者が何と言おうと否定できないものだからです。

宗教を信じている人は、信じることによって困難から救済された経験を持っています。その人にとってその救済は真実ですから、当然宗教の価値を認めます。しかし、はなから宗教を試してみようとしない現在の平均的日本人は、困難から救われた経験を持たないわけですから、その価値を認めることがなかなか難しいのです。

(つまり、人間は自分が経験していないことの価値を認めることは難しく、それをするためには意識的な努力が必要なのでしょう)。

AAは医学でも宗教でもありません。しかし、その両方から考えを借りています。だから、AAの価値を理解するためには、医学の価値も、宗教の価値も分かっていないとなりませんが、後者の条件はちょっと難しいのかもしれません。

ビッグブックの第4章にこうあります。

「自分を超えた偉大な力への信仰と、その力によって人生に現れる奇跡は、人類が始まってからずっとあったのだ」(AA, p.80)

医学や精神医学や心理学は、多くの人を困難から救ってきました。しかし、近代にそうしたものが登場する以前から、信仰は多くの人を困難から救ってきました。そして、現在でも信仰は多くの人を救い続けています。医学や心理学だけが人を救いうるわけではない、当たり前の話ですが。

AAは常任理事会という執行機関を持っている、という話を前の雑記で書きました。常任理事会にはA類(Class A)と呼ばれる「アルコホーリクでない人たち」が混じります。多くの場合、アルコール医療に関わる専門職の人にお願いしています。それだけでなく、海外では宗教家にA類をお願いしている例が多いのです。このことはAAが医学と宗教の両方に立脚している事実からすれば自然なことです。

しかし、日本のAAでは(僕の知る限り)過去から現在まで宗教家にA類常任理事を依頼したことはありません。これも日本の社会が日本のAAに与えている影響のひとつでしょう。AAも社会の中に存在する以上、社会の影響を受けるのは当然ですが、あまり医学の側に偏りすぎるのも心配です。

AAは宗教ではありませんが、人間(やその集まり)を越えた偉大な力を信じることが含まれています。12ステップの再興運動が何年も続いた結果、最近では「私は12ステップをやった」と言う人もずいぶん増えてきました。しかし中には本当に12ステップに取り組んだかどうか怪しい人もいますね。もしその人が、12ステップを通じて「神によって自分の人生が救われた」という経験を持つなら、12ステップがその人に効果を現したと言えるでしょう。

宗教や信仰によって救われた経験を持たない人が、宗教・信仰の価値を認めるためには、知性の働きが必要です。けれど、わざわざ難しく考えなくても、実際に経験してみればよいのです。普通の人は、経験をするために宗教に入ってみようとは思わないでしょうし、そんな深刻な困難も抱えていないことでしょう。だが、アルコホーリクであれば、アルコホリズムという深刻な困難を抱えているわけですから、12ステップに取り組んで経験してみる、というのもひとつの手だと思います。

信州の山村には「医者どろぼう」という言葉があったと聞きます。医療が現在ほど進歩も普及もしていない頃、山村で病人が出ると里まで医者を呼びに行かねばなりませんでした。そうやって大金をかけて医者を呼んでも結局は助からない病人が多かったので、医者を金だけ取る「どろぼう」と呼んだのでした。医者によって困難から救われなかった村人達は、医学の価値を認めることはありませんでした。やがて誰でも良質の医療によって救われうる時代が訪れましたが、村の老人達は命に関わることであっても医者にかかることを拒否し、説得に耳を貸さなかったそうです。価値を認めないとはそういうことです。

霊的なことについて、あるいは信仰について、その価値を認めない人はたくさんいます。医療を拒む山の老人達とかぶります。宗教の立場からその価値を発信する人はたくさんいますが、非宗教の立場から価値を発信する人がいてもいいかな、と思うのです。


2013年09月19日(木) AAを統治するもの

AAには統治機構はありません。他のメンバーやグループに命令を発することができる人は誰もいません。

AAも、国や自治体のように、三権分立になっています。まず評議会という決議機関があります。これは国や自治体で言えば議会のようなもので、選挙で選ばれた代表が集まって方針を決めます。日本のAAの場合にも20人の地域選出評議員がいます。

内閣に当たるのが常任理事会です。そして内閣が政府を設置するように、理事会もJSOというオフィスを構えてサービス活動をやっています。

評議会も理事会も、メンバーやグループに命令を発することはできないのです。そこがよく誤解されるところです。ビッグブックやミーティング・ハンドブックには「12の概念」が載っています。普段あまり注目されることはありませんが、その12番目に書かれていることは「6つの遵守事項」と呼ばれて、とても大事なことだとされています。

その中には、評議会は「他のメンバーに対して絶対的な権威の地位に着く」ことがないとか、個人を罰したり、「政府の役割」をしないという項目があります。同じことは理事会にも当てはまります。

理事会というのは、AAメンバーやAAグループを統制をする側ではなく、(評議会機構を通じて)AAグループから統制を受ける側なのです。

だから、理事会といえども、AAメンバーやAAグループに対して命令を発することはできませんし、従わない人を罰することもできません。ただ穏やかな「お願い」をして自発的な協力を求めることができるだけなのです。

オフィスには数人の職員がいるだけですし、それに理事会のメンバーを加えても全部で十数人にしかなりません。そんな少人数ではAAのゼネラルサービス活動を全部まかなうことはできませんから、そこで「お願い」をして、様々なAAメンバーの自発的協力を求めます。命令して人を動かすことをしなくても、協力のお願いだけで、多くの人が自ら進んで時間や労力を割いてくれ、これまでなんとかやってこられたわけです。

理事会はそうした「お願い」が無視されたとしても憤ることはありません。例えば、2015年に横浜で40周年集会を開くために、メンバーやグループに追加の献金の「お願い」がありました。お願いをしても、追加献金に協力してくれるのは一部のグループだけです。応じてくれないグループやメンバーに命令を下したり、罰したりすることはできません。お金の集まりが悪く、これでは足りないと思ったら、追加で「お願い」をするだけです。

ところで、AAのミーティングでAA以外の本を使うことについてはどうでしょう。各グループがミーティングでどんな本を使うかについて、評議会や理事会が何らかの見解を発表したことはありません。ただ一つ、数年前に、病院メッセージなどAA外部にて行うものについては、AAの本を使うように、という「お願い」が出されたのみです。これはAAのことを外部に知らせる場合に、個人の見解ではなく、AA全体の共通した見解を伝えて欲しいからです。

これもまた、その「お願い」に応じてくれないグループやメンバーがいたとしても、それを問題として取り上げることはありません。もし事態が深刻化すれば、なんらかの「お願い」を追加することはあるかもしれませんが、今のところそんな心配は要らないでしょう。

12の伝統の4番は、各AAグループの主体性が尊重されるべきだ、としています。ここで主体性と訳されていますが、autonomous は「自治権を持っている」という意味です。各AAグループは自治権を持っているので、自分たちのことは自分たちで決められます。

理事会(や他の委員会)の求めに応じて追加の献金をするかどうか、ミーティングや病院メッセージでAAの本を使うか、あるいは他の何かの本を使うか、そのほかのもろもろも、そのグループが決めることです。

こうして見ると、AAはメンバーもグループも「やりたい放題」できるのではないか、とお思いになるかもしれません。だって、評議会という決議機関も、理事会やオフィスという執行機関もあるのに、三権分立の一つ柱である司法機関がないですから。

しかしAAメンバーにも、AAグループにも「見えない強制力」が働いています。その強制力とは「ボトルの中に隠れてやってくるもの」(『ビルはこう思う』134)です。AAメンバーは、12のステップに象徴されるAAの回復の原理から極端に外れればやがて飲んでしまうでしょう。同じように、AAグループはAAを一つの共同体に保っている一体性の原理(12の伝統に象徴される)におおむね従っていかなければ、存続していくことができません。もし、グループがばらばらに分解して存在をやめてしまったら、その支えを失った多くのメンバーは再び酒に戻ってしまうでしょう。AAにいる誰でも、極端に自分勝手なことをすれば、アルコールによる報いを得る可能性があります。

このような強制力があるので、AAには個人を罰する仕組みは必要ない、というのがAAを作った人たちの考えでした。(だからこそ、そうした強制力が働かないアルコホーリクでない人がメンバーがAAに加わっては困るとも言えます)。

12の伝統の1番目では「全体が優先される」とあります。伝統1の「全体を優先する」ことと、伝統4の「グループの自治権」は時に相反します。12の伝統は何番が何番に優先する決まりはありません。だから、相反した場合には、どちらが優先されるべきか「個別のケースごとに」よく考えて判断しなければなりません。

個別のケースごとに判断が必要なるのであれば、それをルール化することはできません(ルールというのは個別判断が要らないように作るものですから、個別判断が必要ならルールは作れません)。追加の献金が必要だからと各グループに献金額を割り当てることもできません。この本は使ってもオーケーで、この本はダメとかも決められません。そうしたルールを決めて、盲目的にそのルールに従うのではなく、一件一件のことについて、頭を使って考えることをAAプログラムは一人ひとりに要求するのです。

AAは人によって統治されているのではなく、ルールによって統治されているのでもなく、原理によって統治されているのです。

人によって統治されているのなら、自分の頭で考えなくても、その統治者の判断に従えば良い。ルールによって統治されているのなら、自分の頭で考えなくても、そのルールにただ従うだけで良い。けれど、原理によって統治されているのであれば、毎回自分の頭で考え、自分で判断しなければなりません。自分で判断することなのですから、もし結果が悪かったとしても、誰を責めるわけにもいきません。

ルールではなく、原理を求めて下さい。


2013年09月02日(月) 信じることについて追加(長いよ)

前回「信じる」ということについて雑記を書きました。そうしたら、結構反響が大きく、質問や相談を投げかけられました。それらにひとつひとつ答えるのではなく、まとめて雑記に書くことで答えたいと思います。

「信じる」ということは、12のステップではステップ2にあたります。ステップ2の話をする前に,簡単にステップ1の話を済ませておきましょう。

ステップ1は「無力を認める」ステップです。具体的には、私たちにはアルコホリズムという問題があり、その問題を「自分では解決できない」と認めることです。

例えば、あなたが自動車を所有していたとします。ある日、あなたが車に乗ろうと乗り込んでイグニッションキーを回しても、エンジンがかかりません。車が故障しているのです。それがガス欠とかバッテリー切れのような単純な問題ならいいのですが、最近の自動車は高度なエレクトロニクスが使われていて、そのあたりが壊れると素人ではどうしようもありません。

あなたは自動車の修理を「諦め」ます。つまり自分の力では解決できないと認めるステップ1です。

同じことはパソコンにも言えます。パソコンを使おうと電源スイッチを入れたのに画面が真っ暗で起動してくれない。そうなったら修理に出すしかないではありませんか。スマートホンでも同じです。自分の力で解決できなければ、車ならディーラーへ、パソコンやスマートホンならショップに修理を依頼するでしょう。

同じことはアルコホリズムにも言えます。この場合の問題は「自分の力では酒をやめられない」ということです。自分では問題を解決できない=自分の力では再飲酒を防げない、ということを認めることです。自動車やパソコンが壊れた時みたいに簡単に認めることができればいいのですが、アルコールのこととなると簡単ではありません。なぜなら人間にはコントロール欲求があり、自分の力で何とかしたいと思うからです。

僕は技術者なので、自動車やパソコンが故障しても、まず自分の力で解決したいと考えます。ボンネットを開けたり、パソコンの裏蓋を開けて、ごそごそやります。時にはうまく直るときもあります。「どうだい、見てくれ、俺ってすごいだろう!」

ところが、一見直ったように見えても、また同じところが具合悪くなったり、たまたま動いただけだったりします。するとまた故障がぶり返します。その度に僕は時間を使って修理し、何度も繰り返した挙げ句に、うんざりして妻にこう言います。

「諦めたよ。やっぱり修理に出そうと思うんだ。しばらく自動車(あるいはパソコン)なしの不便をかけるけれど我慢して欲しい」

そうすると妻はこう返事をするでしょう。

「最初からそうして下されば良かったのに。そうしていれば、もう今頃修理から上がってきたはずじゃない」

いやいや面目ない。最初から意地を張らなければ良かったのですが。

アルコールでも同じことが言えます。自分の力で断酒をしようとします。時にはそれが何ヶ月、何年と続くこともあります。もしその人が自力断酒で一生を飲まずに過ごせるなら、こんなに素晴らしいことはありません。だが大半の人が再飲酒をします。何年か断酒した後に再飲酒する人も少なくありません。

その人は飲んでしまった原因を自分なりに探して、その対処をし、また自力で酒をやめていこうとします。そしてまた飲む。そんなことを繰り返していきます。それを何日、何週間と短く繰り返す人もいれば、何年、十何年という長い周期で繰り返す人もいます。何が問題なのか?

そもそも「自分の力で問題を解決できる」と考えたのが間違いであり、それが再飲酒の原因なのですが、人はなかなかそれに気がつきません。でも、最後の最後にはそれに気がついて、奥さんにこう言うでしょう。

「諦めたよ。自分の力では無理だ。やっぱりAAとかハイヤーパワーに自分をまともにしてもらおうと思う」

おそらく奥さんは、こう返事をするでしょうね。

「最初からそうして下されば良かったのに」

まだ奥さんがいれば、の話ですが。意地を張らなければ奥さんに余計な苦労をかけることもなかったのに。最後まで自力解決を諦められずに、酒で死んでしまう人も多いのです。そういう人に比べれば、生きているうちに「諦め」ることができた人は良かったと言えます。

僕は自動車やパソコンを修理しようとしているときは、それに没頭します。なにしろ、動いてくれないと困るからです。修理に取り組んでいる間は、その時間にする予定だった仕事や趣味には取り組めません。本来やるべきことや、やりたいことがほったらかしになってしまいます。

アルコールでも同じです。自分の力で酒をやめようとしても、やがて飲むことに時間を費やす状態に戻り、入院したり、施設に入ったりしてまた時間を使います。その人が本来生きるべき人生が生きられなくなります。それだったらまだAAに時間を使うほうが、本来生きるべき人生が生きられます。

要するにステップ1というのは、壊れてしまった自分を自分では修理できないと認めることです。どこが壊れたかといえばアルコールに関する部分です。自分で修理できないと諦めたら、自動車やパソコンを修理業者にまかせることができます。アルコールも同じです。壊れてしまった自分を修理できる存在(自分より偉大な力)に委ねるのです。(ただその委ねる手順=ステップ3〜12が少々面倒なんだけどさ)。

あなた自身は最後まで自分の力で自分を修理したいと思うかも知れません。でもハイヤー・パワーがあなたを直してくれても、誰も困りはしませんよ。

 ・ ・ ・

さてステップ2の「信じる」に戻ります。ステップ2の「信じる」は、100%信じていることではなく、疑いが含まれています。

あなたが自動車やパソコンを修理に出すとき、実は100%修理できるとは思っていないはずです。時には電話がかかってきて「お預かりした品は修理不能です」と告げられることもあります。修理に出すときには、「直ると良いな」と期待しながらも、「ひょっとしたら修理できないかも知れない」という疑いも含まれているのです。100%信じていなくてもあなたは修理に出すでしょう。

「信じる」とはそのように疑いを含んだことなのです。人は時にはほとんどが疑いで占められていても、ほんの小さな可能性を信じて行動を起こすことがありあす。前にも例を挙げましたが、宝くじに当たる確率は極小ですが、人は宝くじを買うでしょう。行動を起こすのに、100%(あるいは100%近く)信じる必要はないのです。

(お陰様でAAは宝くじほど確率は悪くありません。いずれ翻訳して紹介しようと思いますが、AAの長期的な成功率はゆうに5割を越えているという論文があります)

さて、ステップ2では「自分を超えた大きな力」だとかハイヤー・パワーと呼ばれるものが、自分を修理してくれると信じるわけですが、当然そこには疑いが含まれています。自分は修理不能で回復できないかも知れない。それでも、修理してもらえる可能性を信じてみるしかありません。信じて行動を起こさなければ、壊れたままの自動車、壊れたままのパソコン、壊れたままの自分を目の前にして途方に暮れるしかないのですから。自動車やパソコン無しでも暮らしていけるかも知れませんが、自分無しでは人生が終わってしまいます。

さて、ステップ2では「自分を超えた大きな力」と言っています。「自分のを越えた大きな力」は実は二つあります。

一つはAA共同体です。AA共同体にはたくさんのAAグループがあり、たくさんのAAメンバーがいます。日本のAAではそれをよく「仲間の力」と呼んでいます。人の集まり(共同体)には力があるのです。

「私はAAのミーティング以外ではAAの本は読まない」という人がいます。その人が一人の時にAAの本を読まないのは本当でしょう。でも、AAのミーティングでは本を輪読することが多いので、その人もミーティングでは本を読むでしょう。これも一人ではできないことを、共同体が可能にする一例です。その人にとって、AA共同体は「自分を超えた大きな力」に間違いありません。

集団の力は様々な面でAAメンバーに及んでいます。僕が遠くの街へ出張に行き、そこでAAミーティングに出ると、今までまったく知らなかった人たちとの間に共感を得ることができます。これも共同体が私たちのソブラエティを支えてくれる一面です。決して一人ではできないことを可能にする「自分を越えた力」です。

ビギナーは、とりあえずこの共同体を「ハイヤーパワー」にして良いと言われます。

> あなたが望むなら、AAそのものをあなたの『偉大な力』にすることもできます(12&12 p.38)。

この集団の力というのは実に分かりやすいものです。AAの外から見ても、おそらく分かりやすいのでしょう。なので、

「共同体の支え(仲間の力)がAAのすべてだ」

という誤解が生まれやすいのです。特にAAの共同体の力は強力です。日本には5,000人しかいない、と言っても全都道府県にいるし、イベントをやれば50人・100人はすぐに集まります。2015年に横浜で行われる40周年集会には2,000人集めようなんて言っているみたいですが、あながち無理とも言い切れません。

アルコホーリク(AAのメンバー)は、他の12ステップ共同体のメンバーに比べて12ステップへの取り組みが甘いと言われていると聞きました。確かに、AAは日本の12ステップグループの中では最大のメンバー数を誇っていますが、AAメンバーの12ステップへの取り組みは、他のいくつかの小さな共同体に比べれば甘いと言えます。それは、AAはサイズが大きいだけに共同体から得られる力が強く、それがAAメンバーがもうひとつの「力」である12ステップに頼ろうとしない原因にもなっているのだろうと思います。

メンバー数が少ない共同体では、得られる「仲間の力」も小さいので、一人ひとりが懸命に12ステップに取り組まなければ個人もグループも生き残っていけません。それが小さい共同体のほうが12ステップに真剣になり得る理由でしょう。AAも最初は小さな共同体であり、ビル・Wやドクター・ボブや他の仲間たちは、「おぼれる者が救命具にすがりつこうとする真剣さ(12&12, p.31)」で12ステップに取り組みました。ところが、アメリカでAA共同体が大きくなっていくと、やはりプログラムが薄められてしまったと言います。

日本のAAでも、ロングタイマーから「俺たちの頃は真面目だったのに」の類のグチを聞かされることがあります。そりゃまあ、厳しい環境が人を勤勉にさせていたのでしょう。そう言うロングタイマーたちが今の恵まれた(?)環境のAAにつながっとしても、同じように真剣に12ステップをやったでしょうか。

ただ、共同体の力(仲間の力)には明らかに限界があります。最近AAメンバー数の伸びが鈍化しているのは、共同体の力だけに頼った限界が来ているのではないでしょうか。より一層AAが広がっていくためには、もう一度12ステップの力をAA全体に取り戻さなければならない、と考えています。

仲間のおかげで幸せなソブラエティを過ごしている、と言っている人の口に12ステップを押し込みたいとは思いません。けれど、あなたがAAにつながっていても、何かしら不全感が拭い去れないようなら、おそらく12ステップに取り組んだ方が良いでしょう。

AAでは「自分を超えた大きな力」をハイヤーパワーあるいは神と呼んでいます。人はハイヤーパワーではないし、人の集まりであるAA共同体もハイヤーパワーではありません。最初はそれでも良いと言われますが、12ステップを進めるうちに、その限界に気付かされるでしょう。

> 一部の新しい人たちや、まだAAグループを「ハイヤー・パワー」にしているかつての不可知論者たちにとっては、祈りに力を求めることなど、(略)、なお納得できないものであり、不愉快なものだろう。(12&12, p.126)

12ステップはどのステップも人の意志をくじく面があります。だから、ステップの途中で立ち止まってしまうのが普通です。そんな時に目の前のステップに取り組むには意欲が必要です。ところが、やる気というのは作り出すのが難しいものです。そういうときには「意欲を与えて下さいと」祈ることを提案しています。AA共同体をハイヤーパワーにしている人にとって、形だけでなく、真剣に祈って力を求めるのは難しいことであり、ステップが途中で止まってしまう原因です。

> おそらくどのような人間の力も、私たちのアルコホリズムを解決できないこと(AA, p.87)

これはAAのミーティングハンドブックにも掲載されている文章で、AAミーティングに出席すればしょっちゅう耳にする言葉です。「どのような人間の力も解決できない」問題を、「仲間の力」が解決できるわけがありません。壊れたあなたを仲間は修理できません。

そうなると、ハイヤーパワーとか神様って何だろう? という疑問にぶち当たることになります。その疑問にはちゃんと答えが用意されているのですが、だがそれにはまず、「自分の力」による解決を諦め、また「仲間の力」による解決も諦めねばなりません。それはそれほど難しいことではありません。車やパソコンが壊れたときにやっているのと同じことなのですから。

俺とポンコツ車とメカニックの12のステップ

あるNAメンバーが12ステップについて語るビデオを拝見しました。彼は「NAはself helpではなく、Higher Power helpなんだ」と言ってました。仲間の力を借りて自分で問題を解決しようとする人にとってはself helpなのでしょう。でも12ステップグループは自分で問題を解決するところではないのですよ。


2013年08月28日(水) 人は行動する前にまず信じる

東京に行くと、高さ634メートルの東京スカイツリーを見ることができます。

僕はその東京スカイツリーを例に使って話をすることがあります(一部はジョー・マキューの話のパクリですが)。

「なぜ東京スカイツリーが建っているのだろうか?」

それは誰かが頭の中で巨大な電波塔が建っている姿を想像し、それが可能だと「信じた」からです。それがなければ始まりませんでした。もし、600メートルを超える電波塔は建てることができると信じる人が誰もいなかったら、いまスカイツリーはあそこに存在していないはずなのです。

誰かが信じたのです。そして、その信じるところに従って計画が立てられ、資金が集められ、設計が行われ、多くの人が建築にたずさわって電波塔が完成しました。そうした「行動」に先だって、まず「信じる」ということが行われているはずなのです。

あなたが誰かに雇われて働くとしましょう。一ヶ月労働をして、翌月の終わりぐらいに賃金が払ってもらえるとします(月末締めの翌月末払い)。月の初めから働き出すとすれば、給料がもらえるのは2ヶ月近く先になります。そんな先のことなのに、あなたが「ここで働かせてもらおう」と決めて働くのはなぜでしょうか?

それは、来月末には給料を払ってもらえる、という結果を「信じる」からです。それを信じることができなかったとしたらどうでしょうか。つまり、この雇用主は絶対給料を払ってくれない、と確信できる何かの理由があったら(誰だってただ働きは嫌ですから)別の仕事を探すでしょう。

労働するという「行動」に先立って、報酬を得られることを「信じる」ことが行われています。

人は結果が明らかでないものでも「信じる」ことがあります。例えば宝くじです。宝くじが当たる確率は非常に小さい。けれど、その確率はゼロではありません。しかし人はその小さな可能性を「信じる」から、宝くじを買い求めます。もし決して当たらない宝くじがあったとしたら、誰も買わないでしょう。そこには小さな可能性すらないからです。

つまり人は、まず結果を信じる。結果が定かでないときでも可能性を信じる。そして、信じたことに従って行動を起こすのです。その行動が結果を生み出します。

アディクションからの回復についても同じことが言えます。まず自分が回復できることを信じなければ始まりません。信じることができれば、それに従って行動し、行動の結果として回復を手に入れるでしょう。

けれど自分の回復を信じることはなかなか難しいことです。「回復したい」と口で言う人も、実は自分が回復できる可能性を信じていないものです。信じていないから、行動を起こすこともなく、現状維持を狙います。その人が依存症ならば現状維持はできません。螺旋階段を下るように、同じことを繰り返しながら徐々に悪くなっていくだけです。

依存症者の家族についても同じことが言えます。「この人に回復して欲しい。酒(や薬)をやめて立ち直って欲しい」と口で言っていても、本当にそうできると信じているとは限りません。

酒をやめることには失敗(再飲酒)がつきものです。失敗を繰り返すと、本人も周りの人たちも成功信じることが難しくなってしまうものです。

ではどうすれば良いのでしょうか。簡単なのは成功した実例を見ることです。

スカイツリーを作る前に見ることはできないわけですが、似たような電波塔は世界にたくさん建っています。カナダ・トロントのCNタワーとか、広州塔とか。そういった例を見れば、スカイツリーが完成することを信じることはできます。

また、働くということについて言えば、周りに働いて金を稼いでいる友人たちがいれば、「働けば報酬がもらえる」ということを信じることができるようになります。

実例を見せるということは、人を説得する(何かを信じる気にさせる)ときによく使われる手段です。

依存症からの回復についても同じことが言えます。実際に酒や薬をやめて、社会に戻って活躍している人の姿を見て、その人たちの経験を聞けば、「酒や薬をやめることは確かに可能なのだ」と信じることができます(これを一般的効力感と呼びます)。

AAがオープン・ミーティングをやっているのは、まだ酒をしっかりやめられていないアルコホーリクやその家族に回復の実例を見せる、という目的も含まれています。(だから、オープン・スピーカーズ・ミーティング(OSM)などのAAイベントには積極的にAA以外の人を招き入れる工夫が必要なのですが、その話は別の機会に譲りましょう)。

僕は時々、依存症者のご家族から「どうしたら良いか」という相談を受けることがあります。この場合の「どうしたら良いか」は、依存症者本人に「何をやらせたら良いか」という意味です。それは、グループのミーティングに通ったり、医者に行ったりすれば良いでしょう。問題なのは、ご本人がそうした行動を取りたがらない場合です。

その場合には、本人を治療に結びつける努力が必要です。その努力の多くは家族が担わざるを得ません。しばらく前までは、本人の底つきを促すためには「家族は手を出さずに何もしない方が良い」と言われていたのですが、最近ではジョンソン式介入やCRAFTなどの「家族がすること」が日本に紹介されつつあります。つまり家族に行動が求められることになります。

上に述べたように、行動に先立ってまず「信じる」ことが必要です。それは「私の愛する人が、酒や薬をやめて立ち直れる」と信じることです。「そうなって欲しいと願う」ことと、「そうなるという結果(あるいは可能性)を信じる」ことは別物で、この二つには隔たりがあります。

だから本人が行動を取りたがらない場合には、家族の人が「AAのオープンミーティングや断酒会に行かれたらどうですか?」と勧めています。もちろんアラノンも役に立つでしょう。依存症のジャンルが違えば別のグループを紹介すれば良いことです。

酒をやめるのは本人なのに、なぜ家族がミーティングに通わなければならないのか? という疑問に出会うこともしばしばです。家族自身の回復のためという理由もありますが、家族が「行動」を起こすためでもあります。家族から本人に何らかの働きかけをするにしても、その行動を続けて行くには「信じる」ことが必要なのです。信じる気持ちを持ち続けるためには、回復の実例を見聞きし、同じ目標を目指す人たちと一緒の時間を過ごすことが役に立つのです。

信じる気持ちを持てない家族は(本人同様に)現状維持を選びます。しかし依存症に現状維持はありません。徐々に悪くなっていくのを傍らで見守ることになります。

依存症が放っておいて自然に良くなることは滅多にありません。回復のためには行動が求められます。そして人の行動には、それに先だって結果(あるいは可能性)を信じる気持ちがある。だから、まず信じることが大事です。信じることができないのなら、まず自分が「信じるようになれる」ことを信じなくてはなりません。

それほどまでに「信じる」ことは重要なのです。


2013年08月05日(月) 日本アルコール関連問題学会岐阜大会の印象(その2)

7月に岐阜で開かれた日本アルコール関連問題学会の大会の感想、その2です。

大会ではシンポジウムや分科会がいくつも開かれており、取り扱うテーマは多岐にわたっています。またこうした学会に限らず、日本国内あちこちで、年がら年中、依存症関係のセミナーや講座がいろいろと開かれています。こちらもやはり様々なテーマを扱っています。

そうした多数のテーマを僕なりに分類すれば、ざっくり二種類。

共通する問題(コモンプロブレム)
個別(その人固有)の問題(スペシャルニーズ)

に分類できます。

まず共通する問題についてです。一口にアルコール依存症の問題と言っても、病気を予防する立場からは国民全体のアルコール消費量の低減や未成年者飲酒の予防などの話になります。いったん病気になってしまえば、治療に結びつけるための介入(インターベンション)が必要ですし、治療の現場では断酒を決意させる動機付けや教育が必要になります。断酒の前段階として節酒という目標もありかもしれない、という話を前の雑記でしました。そして断酒が始まれば、再発の予防が必要です。

AAはこのアルコール依存症に対する長い取り組みのうち、その最後尾である「再発(再飲酒)の防止」に取り組んでいるところです。

この一連の流れはすべてのアルコホーリクに共通のものですし、再飲酒は断酒したすべてのアルコホーリクに起こりうることですので「共通の問題」という分類に入れておきます。学会の大会でも依存症に対する心理療法を扱った分科会がありました。12ステップも同じく「共通の問題」を扱うための手段です。

さて次は、もうひとつの個別の問題についてです。これは非常に多岐にわたります。

例えば就労問題です。断酒して就労することを考えます。酒が原因で職を失わなかった人はそのまま働き続ければ良く、仕事を失っても新しい仕事に就ける人はそれで良いわけです。しかし、なかなか仕事に就けない人もいるし、仕事についても続かない人もいます。こういう人たちには就労支援が必要です。

若い頃から荒れた生活をしていたので定職に就いた経験が薄い人や、そもそも学校にすらマトモに通ったことがない人もいます。手に職をつけるために資格を取ったり、通信制の学校で高卒・大卒を再度目指したり・・という就学支援が必要な人もいます。

発達障害や知的障害が疑われれば、評価をして、公的な支援にむすびつけねばなりません。

洗濯・掃除・ゴミ捨て・炊事などの身辺の管理がおぼつかない、中には清潔を維持する習慣すら怪しい人もいますから、集団生活でそれを身につける訓練が必要な人もいます。こういう人が若くしてシングルマザーになったりすると余計大変です。

一番ありがちなのが金銭の管理ができずに(生活保護であれ親族の援助であれ)もらった金をぱっと使っちゃって生活費が足りなくなったりする。こういう人にはお金を預かる金銭管理の支援が必要です。

うつ病やパーソナリティ障害などの精神疾患も、こちらに分類して良いでしょう。

こうして見てみると「個別の問題」は非常に多様であり、一人ひとりに固有のものです。だからこれをスペシャルニーズと呼びましょう。そして、このスペシャルニーズは依存症の問題「ではない」のです(少なくとも共通した問題ではない)。

そこを見極めるには頭を使わねばなりません。例えば就労できないのでギリギリの生活費しかないのに、金銭管理ができないので自分の使いたいことにお金を使ってしまって、生活費が足りなくなる。身の回りのことも十分できない・・そんな人が、男をつかまえて生活費を出してもらおうとか、女をつかまえて身の回りの世話をしてもらおうとか、そういう隠れた意図で異性関係を結ぶのは良くある話です。当然上手な関係が築けるわけもなくトラブルになります。それを異性依存(男性依存・女性依存)などと名付けて、「アルコール依存が異性依存にシフトしましたねぇ」などと言って普遍性を発見したように思っている支援者を見ると、このクソ馬鹿野郎○ね!とか思ってしまいます。

その人の問題を良く分解してみれば、社会経験の圧倒的な不足だったり、あるいは知的な弱さだったり、その人固有のスペシャルニーズが見えてくるはずです。

不思議なことに(?)そうしたスペシャルニーズを抱えた人は、パチンコにはまり込んでみたり、スマホのゲームにどっぷり使ってみたりします。それを表面上だけ見てギャンブル依存とかネット依存と見なしてしまうのも残念なことです。

(ギャンブル依存や性依存の存在を否定するわけではありませんが、ギャンブルや性の問題がある=依存症ではありません)

そしてその固有の問題は、実際にソブラエティやクリーンを維持する妨げになっているので、解決のために手助けが必要なのは間違いありません。AAのミーティングに通ったり、12ステップに取り組んでも、そうした個別の問題に対する手助けは期待できません。また家族が支援者に相談に行っても、その支援者がこうした問題が見えていないクソ馬鹿野郎様だったりすると、「家族の手助けは共依存ですから突き放しなさい」とか助言してしまい、家族がそれを真に受けて事態が泥沼化してしまったりします。

こうしたスペシャルニーズを抱えた人は目立ちます。普通の支援だけでは安定した回復に結びつかず、スリップを繰り返しがちな「困難ケース」になりがちだからです。病気が重い人、回復する気(やる気)のない人だと事情を知らない人たちからは思われがちです。でも依存症という病気が重いかどうかは分かりません(ひょっとしたら依存症ですらないかもしれない)。

クソ馬鹿野郎様でない良心的な支援者は、そうしたニーズを抱えた人を集めて支援を試みます。そして、それが功を奏して結果を出します。そして学会の大会や各地のセミナーで発表されていたりします。うん、あなたは素晴らしい支援者だ・・・が、ちょっと待って。それって「アディクションの支援」とは違うんじゃないですか?

アルコホーリクは働かないと飲んでしまうから、就労支援が一番良い、という人がいます。確かに、働ける人は働くべきだし、働きづらい人には綿密な支援が必要です。でも、それってアディクションの支援とは違いますよね。その人の抱えるスペシャルニーズへの支援です。

その人の問題をよく見極め、その人に合った支援をする。画一的な病気への支援とは違う「人に対する支援」です。たしかにそういう言葉を聞く機会が増えてきました。本質だと思います。

さて、このスペシャルニーズへの支援をアディクションの支援者(例えばAAスポンサー)がするべきなのでしょうか? 僕は多様なニーズに応えられるのが良いスポンサー、良い支援者だと思ってきました。けれど、最近では様々なことに手を出すより「共通する問題」に集中したほうが良いように考え直しています。

僕は数年前から発達障害のことに関心を持って、いろいろ学んできました。発達障害のことについては(例えば自閉症の支援者などが)20年、30年に及ぶ支援の経験と知識を集積しています。アディクションに関わる人間が一からノウハウを蓄積しようとするより、任せられるものはその道の専門の人に任せてしまった方が良いんじゃないでしょうか。

知的障害にはそのための施設や支援者があるし、精神障害についても同様。単なる就労支援だったらリワーク施設があるし、金銭管理だったら社協の任意後見制度を使っても良い。(それが使えればの話ですが)。多様な支援メニューを目指すよりは、むしろそういった他分野の専門家と連携して協力できることの方が大切ではないかと。

こうやって共通の問題スペシャルニーズというふうに分類してみると、今自分が取り組んでいる問題がどこに位置するのか見えてくるかもしれません。

依存症は解決が難しい問題です。5年、10年と酒をやめ続けられる人は多くありません。多くの人たちが、本人も、家族も、支援者も、解決を見出そうとしています。その中で成果を上げたことが次々と発表されてきます。けれど、12ステップのような共通の問題への解決策がスペシャルニーズを解決できるわけではありません。また、スペシャルニーズへの対応策が依存症全体の問題を解決できるわけでもありません。全体像を見失うと、右往左往することになります。

問題があって、解決がある。まず問題が何か見極めることで、解決作が見えてくる。ステップ1の教えです。岐阜でのアルコール関連問題学会の大会では、依存症に限らずその周辺も含めて様々な問題が扱われていました。一つの箱の中にたくさんの問題と解決が詰め込まれていたようなものです。まさにアルコール「関連問題」学会なんだなぁ、とその名前のことを深く納得した二日間でした。


2013年07月23日(火) 日本アルコール関連問題学会岐阜大会の印象(その1)

日本アルコール関連問題学会の岐阜大会に出席してきました。2日間の会場にいたのに、分科会やシンポジウムにまったく参加しませんでした。学会と呼ばれる場所には何度も行っていますが、こんなことは初めてです。唯一出たのが、昼食を確保するために聞いた認知症のランチョンセミナーだけでした。「いったいお前は何をしに行ってるんだ?」と言われそうですが、自分が学ぶためではなくAAの広報活動で行ったわけです。

前回に続いて今回もポスター発表を行いました。これは2001年から2010年の4回のメンバーシップ・サーヴェイの結果を比較したものです。これによって、この9年間で女性メンバーの比率が増加を続けていること(20%→27%)。女性の増加は全国7地域すべてで起きていること。また、収入の手段とソブラエティの長さの関係を見ることで、酒を飲まない期間が長くなるにつれて生活保護の比率が減っていく(つまり経済的自立を成し遂げていく)様子が分かりました。興味をお持ちの方はJSOにお問い合わせいただければ資料が得られると思います。この他、資料の配付やAA書籍の販売など、JSOスタッフや地元のAAメンバーが活躍されていました。

分科会やシンポジウムを聞かなくても、会場の中で人と接しているだけで分かってくることはいくつかあります。今回の大会では大きなトピックが3つありました。ひとつは、アル法ネットが取り組んでいる「アルコール健康障害対策基本法」の制定について。もう一つは、レグテクト(アカンプロサートカルシウム)の登場です。

アカンプロサートについては、服用するだけで飲酒欲求を抑える効果があるということで、発売前には「抗酒剤(ノックビンやシアナマイド)が過去のものになる」とか、「AAや断酒会が不要になる」などと言う人もいましたが、実際発売されてみると現場へのインパクトはあまりない様子です。その理由のひとつは、久里浜での治験で有意な差が出たとしているものの、それは従来の手法に追加して使った結果だからです。エフェクトサイズもそれほど大きくはないので、抗酒剤と併用するのが良いという医師もいました。このクスリがAAや断酒会の存在意義を否定するわけではなさそうです。

3つのトピックの最後は「飲酒量低減という治療目標」です。むしろこちらのほうが、AAや断酒会に与えるインパクトは大きいでしょう。実は一緒に参加した妻の気分が悪くなってしまい、救護室で横になって休む脇に付き添っていました。救護室はメインホールの楽屋が使われており、小さなテレビでメインホールの様子が中継されていました。スライドの内容は分かりませんが、音声だけ聞こえていました。

飲酒量低減というのは、ひらたく言うと「節酒」です。日本のアルコール依存症治療では、治療の目標は言うまでもなく「完全断酒」です。AAも断酒会も断酒を目標として掲げています。個人的経験からしても、アルコホーリクが節酒することは無理です。

しかし、世界的にも、歴史的にも、アルコール依存症の治療目標は断酒とは限らず、節酒も節酒の選択肢のひとつになっています。日本でもここ2〜3年ぐらい、節酒を選択肢のひとつにしたらどうか、という定言がされるようになってきました(その発信源は久里浜だという気がしますが)。

WHOの疫学調査で、20カ国でアルコール依存・乱用で治療が必要な人と実際に治療を受けている人の比率(treatment gap)を見たところ、78%が未治療だったそうです。これは調査対象となった8種類の疾患の中で一番悪い数字です。

The treatment gap in mental health care
http://www.who.int/bulletin/volumes/82/11/en/858.pdf

つまりアルコール依存(乱用)の人のうち8割近くが治療を受けていないということです。日本でも厚生労働省の研究班の調査で、アルコール依存症者(IDC-10の診断基準を満たす人)は80万人と見積もられていますが、一方の患者調査によれば実際に治療を受けている人は5万人に過ぎません。

80万人のうち75万人は治療を受けていない、つまり日本にも大量の未治療者が存在しているということです。彼らはなぜ治療を受けないのか。それには様々な理由がありますが、主な理由は「アルコール依存症者は断酒を嫌がる」ということです。治療側が断酒という目標だけを提示すると、彼らは治療を中断してしまい、未治療の状態に戻ってしまいます。

ひとつには中間的な目標として節酒を掲げるということがあります。これによって治療を受け入れやすくなることが期待されます。シンポジストの一人は飲酒量の低減が肝機能を向上させることを示していました。現在治療を受けている5万人は、重篤な(つまり重症の)アルコール依存症者が多いがゆえに、断酒という治療を目標を選ばざるを得ません。しかし、もうすこし軽症の人であれば、節酒を中間目標にした上で、最終的に断酒へと導いたほうが良い結果が得られるかもしれません。

さらには、あまり診断基準を多く満たさない人であれば、節酒を最終目標に掲げることもあり得るということです。実際飲酒量を低減させることにより、安定した緩解にいたる人もいる、というエビデンスも揃いつつあるそうです。軽症なら節酒も可ということか。

「渇望現象によって飲酒量のコントロールが不能になるのがアルコホーリクだ」というAAの考え方からすれば、長期に渡って節酒が可能だなんて信じられないかもしれません。僕の考えでは、操作的な診断基準の下では違う病気の人が混じってきている可能性も十分あるはずです。ジェリネク博士はアルコホーリクをいくつかにタイプ分けしましたが、その中でγ型(AAが本物のアルコホーリクと呼ぶもの)が多くを占めているのでしょうが、それ以外のタイプもあり得るし、中には飲酒のコントロールを回復する人がいる可能性は否定できません。(つまりアルコホリズムとアルコール依存症は違うということ)。

今後、断酒という治療目標だけでなく、中間目標としてあるいは最終目標として節酒を掲げることが日本でも広がる可能性は十分にあります。実際にすでにそれは始まっています(いくつかの医療機関で飲酒量低減という目標の治療が始まっているという報告がありました)。

日本のAAでは「アルコール依存症には重症も軽症もない」と言われます(他の国のAAでも同じことを言うのか知りませんが)。これは軽症だから節酒が可能というわけではなく、断酒するしかないことを説明するための言葉ですが、医療が節酒を指導するようになれば前提が崩れてしまいます。

新しい仲間が、私たちの生き方に何の喜びも楽しみも見つけられなければ、彼らは私たちのように生きることを望むはずがない。(p.192)

AAメンバーが、単に「酒を飲まない」以上の魅力を発信できなければ、新しい人たちがAAに魅力を感じてくれることはないでしょう。AAは特に重症の人たちが酒をやめるためにやむなく参加するところ、として扱われるようになるかもしれません。

「飲んでいた頃のひどい自分を正直に語ることで酒が止まり続けるんだ」とか言っていても、そんなやり方には魅力を感じてもらえないでしょう。また、「仲間の中で荷物(嫌な感情)を吐き出すことでスッキリするためのミーティング」にも魅力を感じてもらえないでしょう。なぜなら、節酒を目標にすることができるのであれば、飲める選択肢を選ぶのがアルコホーリクだからです。

12ステップを通じて得た新しい生き方の魅力を発信することで、「古い生き方のまま酒を飲み続けるよりも、新しい生き方を選んだ方が良いかも」と新しい人に思わせることができないと、AAは徐々に衰退し、忘れ去られていくでしょう。これからのAAは量だけでなく、質も追求していかなければならないのだと思います。

大会のプログラムとは関係なく、会場内の雑談でアカンプロサートの次の薬「ナルメフェン」について耳に挟みました。製薬会社のルンドベックだそうです。ネットで検索してみると、確かにルンドベックが nalmefene(商品名Selincro、セリンクロ)という薬をヨーロッパで4月から launch したとあります。

Lundbeck introduces Selincro as the first and only medicine for the reduction of alcohol consumption in alcohol dependent patients
http://investor.lundbeck.com/releasedetail.cfm?ReleaseID=757998

アカンプロサートが断酒を前提とした薬であったのに対し、ナルメフェンは飲酒量低減(節酒)のための薬です。大量飲酒者が酒を飲む1〜2時間前に1錠飲むと飲酒量が抑制される、という使い方をするらしい(つまり頓服薬だね)。そう遠くない将来に日本でも治験が始まるでしょう。そして、有効性が確認されれば市場に投入されるはずです。それを待ち望んでいる人は少なくないはずです。

僕は占い師ではないので未来を予測はできませんが、2010年代は日本のアルコール医療が断酒から節酒へと舵を切る時代になるのかもしれません。そうなったらAAも影響を受けざるを得ないでしょう。時代の潮流は変えようがありませんが、その潮の流れの中でAAという船はどちらを目指すべきか。ミーティング偏重を脱し、12ステップを通じた新しい生き方の魅力を備えていくしかないと思います。恐竜と同じで、環境の変化に対応できないものは死滅するしかないのですから。

印象(その2)はまたいずれ。

(ナムルフェン→ナルメフェンと訂正しました)


2013年07月16日(火) 口からの回復、耳からの回復

Box 4-5-9 というアメリカのAAのGSOが出しているニューズレターの夏号が発行され、AAメンバー数の推計が掲載されています。

Box 4-5-9 - News and Notes from G.S.O.
http://www.alcoholics-anonymous.org/subpage.cfm?page=27

それによると、今年(2013年)1月1日時点でのアメリカのAAメンバー数は129万5千人あまりと推定されています。日本のAAはアメリカほど綿密な推計手段を持ちませんが、国内のAAメンバー数をざっくり5千人と見積もっています。

アメリカのAAメンバー数は日本の約260倍です。(ただし、人口も日本の約2.5倍なので、AAメンバーの密度としては日本の100倍ぐらいと考えてください)。

そんなアメリカに行かせてもらう機会がありました。AAミーティングにも3回出席できたので、その印象をこの雑記でお伝えしたいと思います。

最初の二つのミーティングは、いわゆるAAの「クラブハウス」で開かれていました。これはAAメンバーの有志がAAとは別に財団などを作って建物を借り(あるいは買い)、それをAA向けに会場として貸し出すものです。財団はAAとは別なので、AAグループは会場費を払って部屋を借ります。アメリカにはこうしたクラブハウスがたくさんあるようで、ネットで alano club という単語を検索するとたくさんヒットします。

僕が訪れたクラブは大きなもので、2階に300人ぐらい入る大きな部屋と、その他小さな部屋が幾つか。ジュースを飲みながら雑談するコーナーや、AAやアラノンのグッズを売るショップもありました。毎日、朝・昼・晩、それぞれ2回ずつAAもしくはアラノンのミーティングがあり、この他にAAの委員会もそこで行われています。

最初の晩のミーティングはスケジュール表には Open Speaker と表示されていましたが、中身はビッグブックのスタディミーティング(勉強会)で、講師役の二人のメンバーがホワイトボードに図を描きながらステップ1を説明していました。ミーティング終了後にそのホワイトボードを撮影した写真がこちらです。

http://www.ieji.org/dilemma/2013/07/aa-613.html

Physical Allergy(身体のアレルギー)とMental Obsession(精神の強迫観念)というステップ1を理解する上で重要な二つの概念が解説されています。これは Joe and Charlie に出てくる図と同じですが、ドーン・ファームの研修資料の中にも同じものがあったので、おそらくポピュラーなものになっているのでしょう。

このミーティングの参加者数は(正確に数えたわけじゃありませんが)250人ぐらいでした。この会場のある都市は人口20万人ぐらいで、AA地区のホームページを見てみると、この市内で約40のAAグループが活動し、毎晩10個ほどのミーティングが開かれています。僕は日本で人口20万人ぐらいの地方都市に住んでいますが、AAグループがひとつ、ミーティングは週に1回あるだけです(それでも恵まれている方でしょう)。彼我の差を感じざるを得ません。

日本でのAAミーティングは「言いっぱなし、聞きっぱなし」と呼ばれるスタイルが主流です。いや主流というか、これ以外のスタイルのAAミーティングなんてあり得ないと信じられています。アメリカでこれに相当するものは discussion ミーティングでしょう。アメリカのいろいろな地区のミーティング一覧を見ると、やはり discussion ミーティングが一番多いのですが、その他に study ミーティングもそれなりの数が存在しています。中には、discussion ミーティングをやっていないグループすらあります。

日本のAAメンバーも、ミーティングは「言いっぱなし、聞きっぱなし」しかあり得ない、という固定観念を打ち破るべきなのでしょう。各グループが、それぞれにアイデアを出し、新しいやり方を試していって欲しいと思います。

さて、翌晩に参加したミーティングも同じ会場でした。こちらは普通のディスカッションミーティングで、中身は12ステップの話でした。参加者数は70人ほど。司会者が話す人を指名していくやり方で、僕も「日本から来た」ということで指名されたので、とても拙い英語で2分ほど分かち合いました。

次の晩は、別の州の人口40万人ほどの都市に移動しました。こちらのセントラルオフィスのサイトで調べてみると、その町ではその晩に約25ヶ所でAAミーティングが開かれていることが判りました。その中でホテルから一番近い会場に行くことにしました。教会のホールに200人ほどが集まっていましたが、ミーティングが始まると半分ぐらいが外に出て行きました。どうやら喫煙者は屋外のテラスでミーティングをするようです。

こちらも普通のディスカッションミーティングでしたが、司会者が指名するのではなく、前の人が話を終えて沈黙が訪れると、誰かが名乗って話し始めるというスタイルでした。(日本だとNAでこういうスタイルが多く、AAの僕のホームグループもこのやり方です)。

日本に戻ってアメリカでAAミーティングに参加した経験を話すと、いろんな質問を受けます。みんなアメリカでのAAのやり方に関心があるのでしょう。その中に、

「ミーティングにそんなにたくさんの参加者がいたら、話す機会が与えられないでしょう」

という心配をされている人がいました。確かに、60分あるいは90分のミーティングで話ができる人はせいぜい10人か15人ほどです。僕が出たのは、アメリカにごまんとあるAAミーティングのうち3つにすぎません。日本みたいに人数の少ない会場もたくさんあるでしょう。けれど、アメリカのAAメンバー密度が日本の100倍である事を考えると、どれほどたくさんのミーティングがあっても、多くの会場に「話す機会を与えられない人」が存在するに違いありません。

話す機会が与えられないことへの心配は、裏返せば、「ミーティングで話すことが回復をもたらす」という考えに基づいています。確かに、ミーティングで話すことは回復の役に立ちます。だからこそ、日本のAAミーティングの司会者は、ミーティング参加者全員に話す機会が与えられるように腐心し、長い話をして時間を独占するメンバーに内心イライラを募らせています。

話すことは回復に大きな力を与えます。その力が大きいために、多くの人たちが、ミーティングで話すことがAAプログラムの中心だと思ってしまいます。ミーティングはAA活動の柱のひとつではあるものの、それだけでは個人に回復をもたらせるものではありません。AAにおける回復は、スポンサーとの一対一の関係の中で12ステップに取り組むことが中心です。

ビッグブックの「第三版に寄せて」には、

(AAの)核心はいたって簡単であり、個人を主体にしたものである。
its core it remains simple and personal.

という文があります。1976年にビッグブックの第3版を入稿する際に、わざわざこの文章を追加した理由は何なのか。それはAAプログラムが集団によるミーティングによるものだという考えに対して、むしろ個人的に12ステップに取り組むのがAAプログラムである、という主張をAA流に控えめに表現したものだ、という意見があります。僕も同じ考えです。

「ミーティングで話すことによって回復する」という考え方は日本のAAに深く根付いています。しかし、それにこだわると、100人以上のミーティング会場で話す機会が与えられない人は回復できないことになってしまいます。しかし、アメリカのAA会場で人数の多さを心配している人は見かけませんでした。以前に聞いた話では、あちらではAAに加わった後、1年、2年経ってもまだミーティングで話したことがない人がたくさんいるそうです。

ミーティングで話すことは回復に寄与するでしょう。しかし、AAにおける回復は、スポンサーとの一対一の関係の中で個人的に12ステップに取り組むことでもたらされます。話すことにこだわりすぎると、AAプログラムを歪めることになるのではないかと心配します。

先のBox 4-5-9を見ると、アメリカではAAメンバー数130万人に対して、グループ数が6万弱です。メンバーシップサーヴェイによればホームグループを持つ人の割合は86%だそうですので、それも勘案して概算すれば、1グループ当たりのメンバー数は約19人です。

日本ではホームグループを持っている人の割合は8割台と変わりません。しかし約5千人のメンバーに対してグループが580もあります。1グループ当たりのメンバー数は約7人になります。

日米で倍以上違うのはなぜか。その理由がはっきり確かめられたわけではありませんが、最近懸念事項として挙げられているのは「AAグループの分裂」です。ある程度グループが成長して人数が増えてくると、グループを出て別のグループを立ち上げる人が多いのです。それは必ずしも悪いことではありません。新しいグループの誕生によってミーティング会場が増えますから。

しかし常に数人のメンバーでグループを維持すると、一人ひとりにグループ運営の負担が重くのしかかります。負担を背負ってくれる人の少なさを嘆く声はよく耳にしますが、じゃあグループを大きくして一人当たりの負担を減らそうという考えはなかなか無いようです。自己犠牲による献身には限界があるのに。

僕がAAにつながった頃に比べてAAグループの数は倍近くになりました。じゃあメンバー数も倍になったかというと、(正確なデータはないものの)倍にはなっていないでしょう。つまり1グループ当たりの平均メンバー数は減少したということです。実はオフィスや委員会のサービスはグループに対してのものが多いので、コストはメンバー数の増加に応じて増えるのではなく、グループ数に増加に応じて増えます。ところが、オフィスや委員会への献金額は概ねメンバー数に比例すると考えられます。次第に台所事情が苦しくなるということです。グループのメンバー数が少ないままに、グループ数ばかりが増えていくのはAA全体にとって決して好ましいことではありません。

なぜグループを分割して少ない人数を維持しようとするのか。その動機は、「ミーティングで話すことによって回復する」という考え方に基づいているのではないかと思います。グループのメンバー数が多くなってくると、ミーティングで話すチャンスを失う人が増えてきます。そこで、グループを分割する考えが生まれるのでしょう。

しかし、そのやり方は日本のAAを非効率なままにしておくやり方ではないでしょうか。そろそろ僕らはさなぎが脱皮するように「ミーティングで話すことによって回復する」という考えから脱皮して、スポンサーシップによる個人の12ステップを重視する時期に来ているのではないでしょうか。それは、決してミーティングを捨てるという意味ではなく、ミーティングというひとつのエンジンによる片肺飛行の不安定な時期を終え、ミーティングとスポンサーシップという双発エンジンで上昇して大空へ羽ばたくべきでないか、ということです。

よくビギナーの人が「私はAAの皆さんのように上手にしゃべれないから、AAは私には合いません」と言います。AAミーティングは弁論大会でもないし、アナウンサーの養成講座でもありません。話すことはAAプログラムの核心とは違います。話すことよりむしろ「聞くこと」を重視すべきです。話さなくても良いから聞くだけでミーティングに通い続ければ、きっと回復へのチャンスがつかめるでしょう。

あるメンバーが言っていました。神様は私たちに口をひとつ、耳を二つ与えた。それは私たちがしゃべるよりも耳を傾けることを大切にしろということだと。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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