心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2011年10月18日(火) どこから手を付けるべきか(その4)

発達障害のことに首をつっこむようになって1年半が過ぎました。まだまだこの分野では駆け出しです。というかそもそも素人だし。(でも、素人だという言い訳はいつまでも通用するものじゃありません)。

発達障害の種類・重複概念

発達障害の種類・重複概念
http://www.ieji.org/dilemma/2011/10/post-359.html

AAのミーティングは、話をしてくれる他者の体験と、話を聞いている自分の体験を重ね合わせることが、ひとつの技法になっています。
単純な例を挙げれば、誰かが酒で家族に迷惑をかけた話をするのを聞けば、自分も以前家族に酒で迷惑をかけた経験が思い出され、その話をすると、次の人も似たような話をする・・、そうやって「どんなに家族に迷惑をかけても、酒を断てなかった自分」という共感がミーティング会場を覆っていきます。自分とまったく同じ体験をした人はいませんが、似たような体験を持った人は必ずいるものです。

AAに限らず、ピア・サポート・グループと呼ばれるピア(同じ立場の人)が集まるところでは同じ事でしょう。だから、禁酒セラピーの本の話などしちゃいかんわけです。

ところがこの共感を持って体験を重ね合わせることが苦手な人がいます。みんながどんな話をしていようが、お構いなしに自分のしたい話をしてしまいます。もしミーティングがこういう人ばかりになってしまったら、順番にてんでんばらばらの話をするだけで終わってしまい、経験と力と希望の「分かち合い」になりません。

こういう人はAAでどんな評価を受けるでしょう。「正直になれない」「自分が振り返られない」「自省ができない」。専門の医療機関にかかってもらえば、おそらく広汎性発達障害(PDD)のどれかの診断が出てくるでしょう。PDDの人は、人の気持ちを察するのが苦手なので、人の話を聞くことで過去を再体験することもやっぱり苦手です。

彼らは「圧倒的に現在に生きて」いるために、過去における感情を思い起こすことも苦手です。その割には被害体験はばっちり記憶していて、恨みの感情もきちんと存在します。ところが受けた恩義は忘れてしまっているために、恩知らずと見なされてしまったりします。

これはひとつの例に過ぎず、広汎性というだけあって、現れ方はおそらく様々です。

定型発達者であれば様々なAAミーティングに多数出席することが有効ですが、広汎性の人はそうとは限りません。むしろ、地元のミーティングに定期的に出席を続けるルーティンを守ったほうが確実です。12ステップは長年積み重ねた被害的認知を取り除くには有効でしょうが、器質の問題を解決できるわけではありません。感じられないものを「感じるようになれ」と言っても無理なことなので、グランディンの言う、テレビの外国語講座の場面を丸憶えするように、対人関係のこの場面ではこう受け答えする、という社会的スキルを学習する手助けをすることが有効でしょう。(その上で、受け答えに心がこもっていないとか非難するのは定型者のわがままだと思う)。

発達障害とアディクションの関係については、まだよく分からないこともたくさんあります。もとより、成人の発達障害が社会的に取り上げられるようになったのは、ここ数年のことに過ぎません。もちろん見えてきたこともあります。

広汎性発達障害(自閉圏)の人は「こだわり」を持ちます。ある一つの物事に興味や関心が集中してしまうことです。その「こだわり」が飲酒に向いて酒ばかり飲んでいたら、それは依存症と見なされてしまうかも知れません。AAの中でも、どうもこの人の飲酒体験はアディクションの渇望じゃなくて、自閉のこだわりなのじゃないか、と思わせる話を聞くこともがあります。その場合は、ミーティングやステップという枠組み自体がその人の問題と合致していないことになります。

実は自閉圏の人の「こだわり」は、長期に一つのことを対象にするとは限らず、関心の対象が別のことに移ろっていきます。すると、ある時期には飲酒にこだわって飲んだくれていた人が、関心が酒以外に移ろうと、もう酒には見向きもせず、飲みたい欲求すら持たなくなります(そして、また関心が酒に戻る)。こういう人は、時期が来れば簡単に酒をやめますが、再飲酒を防ぐ力は弱いものです。

どうやらアルコール依存症と診断された人の中に、広汎性発達障害の人が混じっているのは間違いなさそうです。その比率がどれくらいなのかは分かりません。また、依存症は(発達障害とはまた別の)器質的問題ですから、飲み始めたのが「こだわり」ゆえだったにせよ、二次障害の自己治療だったにせよ、大量に飲酒を続ければ、やがては依存症を併発する人も少なくないでしょう。その場合、アディクションと発達障害の重複ということになります。

ギャンブル問題の支援をしている人によれば、ギャンブル依存とみなされている人たちに発達障害を持った人が多いのだそうです。広汎性の人は視覚的な刺激を好みます。子供の頃はゲーム機を、大人になってからは液晶画面のついたパチンコやパチスロに「こだわり」を発揮します。アル中はアルコールが入ってさえいれば飲む酒の種類は選びません。同様にギャンブル依存もギャンブルの種類を問いません。しかし、広汎性の人は自分の選んだジャンルにこだわります。こういう人がギャンブル依存症とされてしまうのは、いわば誤診であり、GAや12ステップに導かれてしまうのは悲劇でもあります。むしろ、社会的スキルの習得や、就労支援を必要としているのですから。

広汎性(自閉圏)の事ばかり述べてきましたが、ADHDやLDはどうか。

実のところ、僕は純粋にアダルトADHDという人にお会いしたことがありません。ADHDを自認する人もいますが、広汎性との重複であり、その場合広汎性の問題が優越します。(アディクションそのものがややADHD的であり、ADHDオンリーの人はその中に埋没してしまうのかも知れません)。

LDについても気がつくことがあります。特にAAではミーティングで本を読むことが多いのでディスレクシア(識字障害)は目立ちます。輪読で、単語や行を読み飛ばしてしまったり、同じ行を二度・三度読んだりする人がいます。おそらくご本人は、自分は勉強が苦手だったので頭が悪いと感じてらっしゃるんでしょうが、知的レベルとは関係ないはずです。もちろんすでに社会に適応している人に「あなたLDでは?」とお節介をやくことはしません。

これまで4回に渡って「アディクションとして扱うよりは別のアプローチを」という話をしてきました。統合失調・知的障害・発達障害と続けると、次に人格障害を挙げる人もいます。アメリカの文献を見ると、境界性人格障害(いわゆるボーダー)は大量飲酒を引き起こしやすいとあり、実際そういう事例を相手に大変な思いをしている人の話も聞きます。でも残念なことに(いや残念ではないが)僕の周りにはいないみたいのなので省略させていただきます。(統合失調・知的障害・発達障害とふるいにかけていくと、最後の人格障害にはいくらも残らないのじゃないかという気がします)。

以前に比べてアディクションに対する社会の認知は広がってきました。それはうれしいことですが、その分、大酒を飲んでいれば何でもアルコール依存症、ギャンブルに没頭していればなんでもギャンブル依存症、という安易な診断や決めつけが増えてしまったのも事実です。そうして、自助グループや12ステップの押しつけが行われています。

その人がどんな問題を抱えていて、どんな苦手があって、どんな手助けを必要としているか。その手助けは12ステップやミーティングとは限りません。「見分ける賢さ」を身につけることが求められています。

最近、生活保護を受給しながら酒やギャンブルに耽る人たちを取り上げたニュースが流れていました。これまでの4回を読んでいただいた方ならば、その人たちの問題がアディクションとは限らないことに思い至っていただけることと思います。


2011年10月13日(木) どこから手を付けるべきか(その3)

例外の話を続けます。

たいていどこの自治体でも、生活保護費の支給は月初めの5日あたりです。もらった保護費の全額をわずか2〜3日で酒に費やしてしまうアル中も珍しくないと聞きます。

僕は最初にこの話を聞いたときに、「それだけ酒が飲みたくてたまらんのだろう。同じ病気の人とはいえ、そこまで病気が進行すると大変だね」と、のほほんと考えていたのです。つまり、それはアルコール依存症という病気の現れ、と捉えたのです。

金が尽きたアル中さんは、福祉事務所に現れて金を無心します。そう言われたって福祉事務所の人も困るよね。そこで、現金を一括支給するのは止め、現物支給をします。お風呂券・お米券やタバコなどなど、これを一度にではなく小分けにして支給し、現金は必要最低限しか持たせないようにするわけです。仕事とはいえ、役所の人も大変です。

しかし多少なりともアディクションのことを学んでくると、この話は奇妙だと思うようになりました。

アクティブなアル中にとって、最も恐ろしいこと、最も嫌なことは何か。それは「酒が飲めなくなること」です。だから「飲む酒がなくならないように、次の酒をどうやって確保するか」を常に意識しています。次の酒が手に入らなくなるポピュラーな理由は、金がなくなることです。だから、手持ちの金でなるべく長い期間飲み続けようと、アル中は様々なことを考えます。

例えば今までは飲み屋で飲んでいたのを、酒屋で買って帰って家で飲むようになります(その方が安上がりだから)。やがて今まで飲んだことがなかったような、安酒に手を出し始めます。ホワイトリカーを水で薄めて飲むとか。

依存症も重度になってくると、渇望が強まり、我慢でそれにあらがうことが難しくなります。だから酒を手に入れるために、いい大人がコンビニで酒を万引きしたり、隣の家に侵入してその家の酒を飲んでつぶれたり、墓場の供え物のワンカップを飲んだ、という話がでてきます。

そんな事態は避けたいと思うからこそ、知恵を使い、少ない金で長く飲もうと工夫するわけです。

ところが、少なくとも数万円はある保護費を一気に使い切ってしまうからには、その人は安い酒を飲んでいるとは考えられません。飲む酒すら無くなるという決定的な戦略ミスを犯す原因は、おそらくは知的な障害です。アル中でないとは言いませんが、そういう生活に陥ってしまう原因はアルコール依存症だけではありません。なにかしら別の原因が潜んでいるものです。

知的障害というと、子供の頃に養護学校に通い、療育手帳を持っている人たちを想像するでしょう。実を言うとそういう人たちは「それなりに」恵まれています。なぜなら、国や自治体の様々な福祉施策の恩恵を受けることができるからです。

取り上げねばならないのは、障害を持っているのに知的障害と判定されなかった人たちや、それよりやや知的に高いために福祉施策の対象とされない人たちです。こういう人たちが、生活上の困難を抱えて、それを自力で解決できないなかで、アルコールを飲み続けた挙げ句に依存症になってしまうケースは少なくないと考えられます。

こういう人たちに生活保護費を与え、アルコール依存症の診断をし、二次障害としてのうつなどの服薬をさせ、AAに通わせている「だけ」では、なかなか断酒継続や社会復帰に結びついていきません。飲んではダメだと分かっていても、精神的に追いつめられると飲んでしまうのは、どのアル中にも共通のことですが、知的な問題を抱えた人たちは、生活上の障害からすぐに「精神的に追いつめられ」てしまいがちで、再飲酒を防ぐ力が弱いのです。だから、単なるアルコール依存症の援助だけでなく、生活の障害に焦点を当てた援助が必要になってきます。

彼らは知的に問題ない、と捉える人たちもいます。確かに養護学校ではなく普通学校に通った人であれば、新聞程度は(ところどころ漢字でつっかえても)読んでしまうし、まして毎日使っているAAのミーティングハンドブックはすらすら読めたりします。運転免許を持っているのも普通だし、過去にはきちんと就労していた実績を持ちます。

しかし、別種の障害があります。例えばお金の管理ができない。食料品や服の買い物ができない。ゴミの片づけができない。人に騙されやすい。困ったときに誰かに相談することができない・・などなど、「生活障害」に焦点をあてた支援がなければ、こういう人たちが社会的に自立して生活していくのは困難です。

障害者手帳や療育手帳を取って障害者枠での就労を目指すのが必ずしも正解とは限らないのでしょうが、そうでもしなければ受けられる福祉がないのが実情です。国は福祉予算を削減することばかり考えず、こうした人たちに適切な援助を提供して、就労自立に結びつけ、タックスペイヤーとしていくことも考えて欲しいものです。

(先日リカバリーパレードにも登場した)森川すいめい医師が調査したところ、ホームレスの3割に知的障害が認められたというレポートがありました。障害を抱えた人が社会の底辺に沈むのも「自己責任」なら、そこからはい上がるのも「自己責任」と社会が捉えていることがうかがえます。

先日、関東の某ドヤ街で訪問看護をやっている人たちのお話しをうかがいました。その人たちのやっていることは、前述の福祉事務所の話と同じです。お金を持たせておくと全部酒を飲んでしまう人たちからお金を預かり、毎日少しずつ渡したり、タバコを買って一箱ずつ渡したり。その話には「私たちのやっていることは、これでいいのか」という悩みも含まれていました。相手の人権を侵害している気持ちになってしまうのでしょう。

だから僕は、現実的にはそれしかないし、支持するというお話しをしました。もちろん、やっていることは問題の発生を防いでいるだけで、解決には至っていないし、それが訪問看護という枠組みの中でやるべきことだとは思えません。そこを問題として取り上げるよりも、仕事の枠組みの中で、できることをやっている姿勢に共感を表したかったのです。

気になったのは、アディクションを専門としているという人たちが、一緒に話を聞きながらも、知的障害という観点を持っていなさそうだったことです。

障害、とくに知能の問題はデリケートなものです。誰だって(これを読んでいるあなただって)知能検査を受けさせられて、挙げ句に「あなたは知能が低いですね」などと言われたくないでしょう。しかしながら、社会と個人の関係が変化するに連れて、どこまでを障害とするかの線引きも一緒に変動します。障害者というのは一種のレッテルであり、それを相手に張るのは「可哀想」と感じてしまうのは無理もありません。しかし、障害者という立場を手に入れることで、安定した就労に結びつき、その人らしく生きていけるようになった事例も紹介されています。

ことはアルコールに限りません。薬物依存でも、ギャンブル依存でも、はたまたアダルト・チルドレンの問題でも同じ事です。

アディクションに関わる人は、なかなかうまくいかない人が何らかの障害を抱えているのかも知れない、という観点を忘れずに持つようにしてほしいものです。その人の生活上の障害になっているのは何か。それがアディクションそのものなのか、別の問題が引き金となっているのか。そこを見極めることも大切です。


2011年10月11日(火) どこから手を付けるべきか(その2)

アディクション(依存症)をケアするにあたって、「何が依存症を引き起こしたか」という原因は重要ではありません。「親が」とか、「社会が」という主語で語っても、依存症は良くなりません。酒を飲みながらACうんぬんの話をしても意味はないし、社会システム論はアル中本人を救ってはくれません。アディクションは原疾患であって、そのものを治療対象にしなくてはならず、「依存症を引き起こす原因」を探して取り除こうとするアプローチではうまくいきません。それが、addiction is primary disease という言葉の意味でしょう。

(もちろん、依存症の予防という観点からは意味のあるアプローチですが、予防と治療は別の話です)

しかし、何にでも例外はあるものです。

その筆頭に挙がるのは、統合失調症でしょう。

統合失調症の罹患率は約1%と、決して珍しい病気ではありません。しかし、統合失調症がときにアルコールの乱用や、ギャンブルの乱用を招くことは、あまり知られていません。

精神科医の中には、こんなことを考える人がいるようです。
十分退院可能な統合失調の患者がいるとします。しかし、今までの経過から見て、この人を退院させると大酒を飲んでしまい、そのせいで服薬や通院が不十分になって、統合失調の症状が悪化し、再び入院となってしまう可能性が高い。禁酒さえ続けば退院可能なのに、アルコールによるトラブルがあるせいで入院生活が続いている。そこで、断酒会やAAに通ってもらえば、十分退院可能であろうと。

この医者は、統合失調の症状としての大量飲酒と、アルコール依存症との違いを理解していないか、あるいは分かっていてもあえて違いを無視しているか、どちらかでしょう。

AAではニュカマーが本当に依存症かどうか確かめようがありません(きっと断酒会もそうでしょう)。飲酒の問題があれば受け入れています。しかし、飲酒を呼び起こす機序が違うために、AAは統合失調の人の再飲酒防止にはあまり役に立っていないようです。症状が悪化すれば、大量飲酒が始まってしまうことを防ぐすべはAAにありません。

大量飲酒する統合失調の人は、病気の具合が良いときは飲酒のことを思いつきもしないそうです。つまり、「禁酒維持されるなら退院可能」というのは、まだまだ入院治療が必要な状態だというわけです。

僕がAAにつながった十数年前は、幻覚幻聴(幻視と幻聴)の経験を話すアル中もたくさんいました。(アルコール依存症の5割が幻覚を経験するとされた時代は遠い昔になりました)。どちらも被害的な体験であるという共通点もありますが、やっぱり統合失調の人の妄想体験はアル中の幻覚体験とは違っています。特に作為体験(誰かに操作され、何かをさせられる)は統合失調ならではのものです。

病気のコントロールがうまくできれば、統合失調の人の飲酒問題は消失することが期待できます。グループホームへの入居や、家族による服薬管理など、環境調整を優先した方がベターです。

アルコールや薬物のグループには「向精神薬は一切飲まない方がよい」とする風潮があります。これは依存症という病気の性質を考えてみれば当然のことで、その風潮を非難してみても始まりません。しかし、依存症以外の精神疾患を抱えた人には、不幸を招くこともあります。この風潮に乗って、必要な抗精神病薬の服薬を中止してしまうと、いくらも経たないうちに病状が悪化します。

アルコールの例ばかり取り上げてきましたが、ギャンブルにも同じ事が言えます。

だから、アルコール乱用やギャンブルへの没頭があるからと、外形的な症状ばかり見て依存症と決めつけ、アディクションのグループに通わせても解決に至らない場合も多いのです。その人にとって一番必要な援助はどんなものか、を見極める必要があります。

もちろん、依存症になりやすい体質を持っていれば、統合失調の人が大酒を飲んでアルコール依存症を併発することもあり得ます。しかし、断酒例会やAAミーティングで耳を傾け、自分の話をするという治療構造にマッチするためには、統合失調の症状がうまくコントロールされている必要があり、併発の場合でも治療は統合失調優先にならざるを得ないでしょう。そうやって、病気をうまくコントロールしながらAAに通っている人も結構沢山います。

相互援助(自助)グループは薬ではありませんが、やはり薬と同様に「用法・用量を守って、正しくお使い下さい」なのです。


2011年10月07日(金) どこから手を付けるべきか(その1)

病気を原疾患と合併症に分ける分類があります。

糖尿病の合併症は、腎障害・網膜障害・神経障害です。糖尿病が原因で網膜症や勃起不全になった場合、その対症療法も必要ですが、まずは糖尿病がきちんと治療されなければなりません。
原疾患→合併症という構図の場合、ともあれ原疾患の治療が大事です。

ウィリアム・L・ホワイト先生の来日公演の時も、ラリー・ゲインズ氏の講演でも、「アルコホリズム(あるいはアディクション)は primary disease である」ことが強調されていました。依存症は原疾患です。

アルコールや薬物を大量摂取すると、肝臓病や腎臓病、神経障害やうつ症状など、いろいろな合併症を呼ぶ・・・という経験的に当たり前のことを強調したいのではありません。

「依存症は(別の病気や障害の)合併症ではない」ので、依存症そのものが病気として治療されなければならない、というわけです。

ACAのビッグレッドブックはまだ全部読めてないのですが、その中に回復の段階についての話があります。それによれば、ACの回復は三つの段階に分けられます。アディクションを抱えている人は、まず最初にアディクションのケアが必要で、これには数ヶ月から数年必要です。アディクションの再発はACとしての回復の障害になるので、まずアディクションの安定化がなにより大切です。これはつまり、ACの問題に取り組む前に、AAやNAに行ってそこの12ステップをやり、きちんと酒や薬をやめてこい、ということです。二番目・三番目の段階が、ACとしての12ステップによる回復です。

アディクションとACの問題の両方を抱えている人は、ACとしての苦しさが自分に酒(や薬やギャンブル)を乱用させていると捉えがちです。だから、ACとして回復すればアディクションの問題も収まるはずだ、という誤解に基づいて、ACや共依存の問題を先に扱おうとします。そして酒がやめられない結果となります。

アディクションは原疾患であり、それがまず治療されなければならない。これが大原則です。

アディクションになりやすい体質は遺伝することが知られており、親が依存症で自分も依存症、あるいは自分の子供も依存症というケースもあります。アディクション問題が深刻なアメリカでは、夫婦揃って依存症とうことも珍しくありません。この場合、依存症の「本人」という立場と、「家族」という立場を併せ持つことになります。

両方の立場を持っている人は、(例えば)AAとアラノン家族グループの両方に通うべきなのでしょうか? アメリカのアラノンでは、回復していない本人の参加を歓迎していないと聞いています。まずAAに通って12ステップをやり、自分のアルコホリズムの問題に取り組んだ後に、家族としての回復を得るためにアラノンに来なさい、という仕組みです。「アディクションは原疾患」とすれば、これは当然のことです。また、まだ回復していない本人に来られたのでは、家族グループの意味がありません。お互いのためになりませんから。

(ちなみに、アメリカのアラノンメンバーの20人に一人はAAメンバーでもあるそうです)

日本でも物質系のアディクションのグループでは、未回復の本人が家族のグループに参加するという混乱はあまり聞きません。しかし、どうもギャンブルについては話は別です。

こんな話があります。家族の誰かがギャンブル依存症になったので、それを止めさせようと、市内のパチンコ屋を何軒も探し回っているうちに、いつの間にか自分もパチンコをやるようになって、しまいにはギャンブル資金で借金をこさえてしまった・・・。そんな状況なのに、まだ自分はギャンブル依存症の「家族」であると自認して、ギャマノンに通っていると言うのです。そんな話をいくつも聞きます。

これはもはや「家族」ではなく、ギャンブル依存症の「本人」です。ギャマノンの人たちは、こういう人たちに対して「まずGAで本人として回復してから来なさい」と導いてあげる必要があるのではないでしょうか。(中にはGAに行くとギャンブルを止めされられちゃうのが嫌でギャマノンに通っている、という人もいるのだとか、やれやれです)。

また、家族の立場でありながらも、例えば買い物依存があるのならば、「本人」としてそちらのケア(DAに通うとか)が要るものでしょう。「本人」としての部分を抱えているなら、その部分の回復をきちんとやらないと、本人としても、家族としても、どちらの回復も成し遂げられなくなってしまいます。それが最大の問題です。

アディクションは原疾患であり、まずそれに取り組む、というのが大原則です。これは、その人自身にも、グループにもメリットがあります。

だがしかし、アディクションでないならば、この原則は通用しません。例外について話をする前に、原則についての話を済ませておきたかったので、次からが本題です。これはいわば前フリ。

(ちゃんと続くか心配)


2011年10月03日(月) 内観療法について

掲示板で内観療法について書いて欲しいという投稿があったので、内観法について。

僕は内観法とは関わりを持っていません。だから外形的知識からの話になってしまいます。

僕がAAにつながった十数年前は、このあたり(長野県)の断酒会の人の中に、日常の例会参加とは別に、関西方面の断酒道場に行く人が珍しくありませんでした。またそれとは別に、関西や北陸の内観研修所に行って内観療法を受けてくる人もいました。だから、当時の僕は、内観は断酒会の回復プログラムの一環であろうと勘違いしていたほどです。

精神病院退院後、断酒会に入らずに内観療法だけ受けた人もいましたし、アダルトチルドレンで内観をやった人も知っています。若い女性から内観法に関する本を何冊かいただき、読んだことを憶えています(もう本棚にない)。当時の印象は「宗教っぽい」というものでした。

内観法は浄土真宗の身調べという厳しい修行から、宗教的・苦行的要素を取り除いて完成したものです。その点、オックスフォード・グループという宗教的団体からプログラムを受け継ぎ、宗教色を取り除くことで完成したAAの12ステップが「そこはかとない宗教色」を残しているのと共通点を感じます。
(ただし、12ステップはアルコホリズムという狭い範囲を対象とし、内観法はずっと広い範囲が対象となっている)。

研修所のプログラムは一週間が基本で、毎日朝起きてから夜寝るまでのほとんどの時間を、外部からの刺激を遮断された小部屋で過ごします。与えられるテーマは、自分と関わりの深い他者(まず最初は母親)との間で「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」(これを内観三問という)を自己に問いかけます。小学校入学まで、低学年、高学年、中学時代・・と年代順にたどっていきます。

定期的に部屋を訪れる面接者に、思い出したことを要約して話します。内容が曖昧な場合にはもっと具体的に語るように指示があるものの、基本は受容的に聞くだけで、分析的であったり、指示的であったりはしません。数分の短い面接が終わると、面接者は礼を言って去り、研修者は再び一人での内観に戻ります。

内観法は、研修所での集中内観と、その後の日常での日常内観の組み合わせです。これはステップ4の大掃除+ステップ10による維持点検という組み合わせと共通しています。

ビッグブックによる12ステップ再興運動が起こるまで、日本のAAではステップ4の棚卸しには特定のやり方がないことになっていました。「どんなやり方をしても良い」と言われると、かえって「どうやっていいか分からなくなってしまう」わけで、10年ぐらい前には内観三問(「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」)を使って、年代順に棚卸しを書いたという人もいました。

分析的・指示的でないという点では、ストーリー形式のAAの棚卸しに似ています。これは「安全なやりかた」です。分析的・指示的であるということは、危険をはらんでおり、力量不足だとかえって相手を傷つけてしまうということもあり得ます。耳を傾けるだけなら、話す方にそういったリスクはありません。

僕は、日本においては断酒会がAAより先に存在し、しかも人数が多かったことから、断酒会が日本AAに大きな影響を与えたはずだと考えています。断酒会を通じて、内観療法が日本AAの棚卸しのやり方に影響を与えたのではないでしょうか。キリスト教の影響を受けたビッグブックの12ステップに違和感を憶え、日本人的な日本独自の12ステップを確立すべきだと考えている人たちは、この内観療法に真剣に取り組んでみたらどうでしょうか。

恨みを、母親→父親→きょうだい→親戚→子どもの頃の友だち・・という順で、しかも年代を追ってチェックしていく、という現在の僕のスタイルにも内観法の影響があるのでしょう。

残念なことに、最近ではこの近辺の断酒会で内観療法を試みる人が少なくなっているようで、とんと話を聞かなくなってしまいました。また、アダルトチルドレンの人たちからも内観という言葉を聞くことがなくなりました。

「自分のことは自分が一番よく分かっている」と人は考えるものです。しかし人はしばしば認知障害に陥り、自分のことを自分で捉えるのが難しくなります。ビッグブックの表形式の棚卸しは、「恨み」という強い感情を手がかりにして自己洞察を行います。自分自身を直接見つめることは難しいので、他者との関係性から始めるわけです。内観療法も他者との関係性を手がかりにしている点は共通です。

同じ日本生まれの森田療法と違って、内観療法は健康保険の適用がありません。にもかかわらず、日本各地に内観研修所が存在することは、内観法には効果があり、需要があることを示している、と解釈しています。ただ、最初に書いたとおり、今の僕は内観法とは無縁です。12ステップに関わりのない人が書いた文章は、しばしばトンチンカンなので、この文章もたぶんトンチンカンなのだと思います。

ああ、一週間ぐらい休暇が取りたい(内観に行きたいわけではないけど)。


2011年09月30日(金) デメリットは確かにある

先日アラノンとの関係について雑記を書いたところ、いくつかメールをいただきました。
(最近掲示板はすっかり寂れてしまって、レスポンスをいただくのはメールが多い)
個別に返事をしてないメールもあって、ごめんなさい。

今回わざわざメールを送って下さる人たちは、AAとアラノンの関係を憂う人たちです。

共通してうかがえるのは、多くのAAメンバーにとって、アラノンが特別な存在ではなく、他の多くの団体(例えばNAやGA、ナラノンやギャマノン)と同じになってしまっている現実です。極論すれば、アラノンがあってもなくても同じだ、とAAで解釈されてしまっているのが現実です。

AAとアラノンの協力関係が絶え、AAの現場にアラノンメンバーの姿がない状態が10年も続いたのですから、それもやむを得ない事だと思います。

現在、アラノンが存在するメリットを感じているAAメンバーは少ないでしょう。逆に言えば、「アラノン不在のデメリット」を感じるAAメンバーも少ないということです。だから、多くのAAメンバーが、アラノンとの関係改善にまったく無関心になってしまっているのです。

しかし、デメリットは存在しています。すでにAAにしっかり結びついている人たちは、そのデメリットを感じないかもしれません。デメリットを被るのは、これからAAやアラノンにつながるべき人たちです。

この10年間は、いわゆる「まだ苦しんでいる」人たちがそのしわ寄せを受けてきました。放置すればこの先もそれが続くでしょう。

「私たちは、他者との真の協力関係を築き上げる能力が自分にまったくないという重大な事実に気づかなかった」(12&12 p.72, step 4)

そのことに気づかずに、デメリットを感じない等と言っている人の気が知れません。


2011年09月23日(金) 井蛙不可以語於海者(井の中のかわず大海を知らず)

全体像を捉えることは難しい、というお話し。

関東地方のある援助職の人にうかがった話ですが、彼の地では、「AAは福祉の必要な人たちが行くところ」というのが行政の人の認識なのだそうです。この場合の「福祉」という言葉は必ずしも生活保護を指しているわけではなく、何らかの福祉施策の対象となるという意味です。

生活保護の実施要領のなかに、アルコール症の人(もしくはその同一世帯員)が断酒を目的とした団体を継続的に利用する場合に必要最低限の交通費その他(「移送費」という)を支給できる、という決まりがあります。アル中やその家族が断酒会やAAに通うための電車代バス代が支給されるということです。

何らかの精神障害、知的障害、未診断の発達障害などを抱えた人は、断酒継続してもなかなか就労に結びつかない苦労があるため、生活保護の受給歴が長くなりがちです。福祉事務所の窓口の側から見れば、移送費を受給しつつ何年もAAに通い続ける人が目立つでしょう。そういう人たちは手帳や障害者加算を受けている割合が高いため、「AAは障害を抱えた人の行くところ」という印象を持ったとしても無理からぬことです。

最新2010年のAAメンバーシップサーヴェイによれば、生活保護受給のAAメンバーの割合は1/4に過ぎません。生活保護の被保護者数が200万人ほどで、これは国民の2%弱ですから、それに比べれば多いのですが、AAの中ではあくまで少数派です。しかし、それは市役所の窓口からAAを眺めているだけでは、分かりようのないことです。

別の話ですが、アルコホーリクと向精神薬の話をしていると、「この人は、断酒した人の多くが向精神薬の服用が不要になることを知らないのではないか」と思うことがあります。

酒をやめた結果、不眠や抑うつ症状が出る人は珍しくありません。精神科の医者から睡眠薬や抗うつ剤やトランキライザーを処方される人もいます。しかし、ほとんどの人は断酒が続いていけば、向精神薬は不要になります。もちろん中には何年もの時間が必要な人もいます。

数は少ないものの、ずっと薬が必要な人もいます。依存症以外の問題を抱え、そちらが難治性なら服薬治療も長引くでしょう。

薬の不要な人が薬を飲み続け、やがてそれが過量服薬につながるリスク。薬が必要な人が無理に薬をやめて病気が悪くなるリスク。二つのリスクがあるわけです。(だから、AAのパンフレットにも両論併記になる)。どちらのリスクが大きいかと言えば、前者のほうが量的に深刻です。

AAで「薬は飲まない方がよい」という雰囲気が支配的なのは、そうした背景によるものです。何らかの自助グループに属して、何年も酒をやめ続けている人と付き合っていれば、「ほとんどの人はやがて薬が不要になる」ということが分かるようになるはずです。

ところが、病院やクリニックで知り合ったアルコホーリクで、しかも時々スリップを繰り返す人とばかり付き合っていると、まるでアルコホーリクは皆がずっと向精神薬を飲み続けなければならないかのように、勘違いしてしまうことになります。

世の中は多数派にあわせて動いており、注釈付きで扱われてしまうのが少数派の悲哀です。それをひがんでみても仕方ありません。「向精神薬を飲んでいるのはソーバーとは言えない」という言葉は、多数派のアルコホーリクに向けてあえて刺激的に発せられた言葉であって、少数派たる自分には当てはめることができない・・という理解のしかたも必要です。きっと。

いずれにせよ、視野が広がれば、自分のとらえ方、理解の仕方も変わってくる、というお話です。

日本のAAではあまり使われないスローガン more will be revealed というのがあります。無理矢理日本語に訳せば、神はより多くを明らかにされる、でしょうか。

いま自分が知っていることがすべてではない。分からないことも、やがて分かるようになるときも来る。経験を積んだ仲間は、多くの見聞、多くの気づきを得ています。だからこそ経験の長さが尊重されるのでしょう。僕なんか雑記で分かったようなことを書いていても、例えば30年の人から見ればヒヨッコにすぎません。

続けていけば、「今まで知らなかったけれど、そういうことだったのか」という経験がたくさんあるはずです。


2011年09月22日(木) アラノンの連絡先掲載問題

J&Cで有名なジョー・マキューとチャーリー・Pが出会ったのは1973年のこと。(AAのではなく)アラノンのコンベンションでした。チャーリーはAAメンバーとしてステップの話をしました。ジョーは最初に彼の名前だけを知り、有名なカントリー歌手のチャーリー・プライド(黒人)が出てくるのではないかと期待したのですが、それは勘違いでチャーリーは白人でした。

ジョーはたいそうがっかりして、「あいつは肌の色からして間違っている」と嘆いたそうです。

しかし二人はビッグブックに関する共通の関心を持っていることにお互いが気がつき、その後の交流がジョー・アンド・チャーリーのビッグブック・スタディに発展します。

この例で分かるとおり、アラノンの大会にAAメンバーがスピーカー(話し手)として招かれたり、AAメンバーがアラノンのイベントに参加するのは、アメリカでは普通のことだそうです(当然逆も)。そんなふうに、アルコール本人の団体であるAAと、その家族・友人の団体であるアラノンは、協力関係にあります。

しかし、日本ではそうなっていません。会話のない夫婦のように、冷え切った関係になっています。それについては、以前に雑記に書きました。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100525

ビッグブックへのアラノンの連絡先掲載については、その後動きがあったようです。

毎年2月にAAの全国評議会が開かれます。その報告書が5月頃に全グループに届きます。もちろん(?)全然目を通していなかったのですが、7月に地元で内容の報告会があって中身を知りました。

アラノンジャパンは昨年設立30周年を迎え、その記念の大会が横浜のホテルで開かれました。AAの常任理事会あてに招待状が届き、理事会議長が出席したところ、来賓の序列では一番の扱いだったそうです。20周年の時には招かれすらしなかった(それだけ関係が悪化していた)わけで、これは20年ぶりの処遇です。

それを受けて、二週間後にAAとアラノンのあいだで話し合いが行われ、その内容も報告書に載っています。

まず、ビッグブックへの連絡先掲載については、アラノンが薬物依存の家族も公式に受け入れていることがAA側の最大の障害になっていたのですが、これはアラノンがアルコールの問題に限定するように方針が変更され、すでにホームページからも薬物の文言が削除されている説明がありました。AAの常任理事会では、ビッグブックへの掲載を決め、次の増刷から反映されることが決まっています。

こうして一つの問題が克服されたことは、大変よろこばしいことです。しかし、まだまだ両者の間には問題が山積しています。

AAのイベントでは、会場の隅でAAの本を並べて売っています。僕がAAにつながった頃は、アラノンの人たちがやってきてアラノンの本を並べて売っていました。しかし最近とんとそういう風景に出会いません。それについては、AAとアラノンで12ステップの文章が違ってしまった結果、並べて売っていると「どうしてステップの文章が違っているのか」という話が出て無用の混乱を招くので、それを避けるため、というのがアラノン側の説明だそうです。

AAとアラノンでのイベントの共催については、そもそもアラノンはグループ毎の外部向けサービスはしていないので、イベント共催など考えられないし、アラノンメンバーがAAの手伝いをすることは(おそらく共依存的な理由で)アラノンメンバーの回復に役に立たないと考えられていること。

アラノンメンバーがAAのイベントで話をすることは、アラノンは12の伝統で「AAメンバーのアノニミティを尊重する」としているので、実現は難しいこと。

そんな具合に、AA側の希望するような協力関係は難しいのですが、「AAの行事でアラノンの部屋をひとつ確保し、困っている家族がAAイベントに参加したときにアラノンメンバーと接触する機会を提供する」というアラノン側からの提案も報告されています。

AAメンバーの立場からすれば、現在のアラノンジャパンの運営方針には違和感を持つことが多いのも事実です。

AAの全体サービスでは輪番制の原則が徹底していて、同じ人が長く役割を背負うことは「大変いけないこと」と認識されています。ニューヨークのGSOでは所長の立場さえ輪番制です。日本のオフィスは小さいのでそんな仕組みにはまだできませんが、長年オフィスの所長をやることには批判も出ます。それに慣れた身からすれば「生涯理事」として立場がずっと保証されるアラノンの仕組みに疑問を感じます。

また、do not govern(統治はしない:伝統2)というのがAAのサービスの大原則で、各グループが勝手に広報活動でもなんでもやるAAのやり方に慣れていると、グループごとの活動をせず、GSOが広報や方針決定を一手に引き受けている日本のアラノンの仕組みは共依存的な統治と支配に感じられます。

AAの考え方に馴染んだ人間としては、そう考えざるを得ません。

であるものの・・・、そう「ではあるものの」、それらはアラノンの内部の事情であって、AAが口を出すことではありません。

それよりも、AAとアラノンの接点に関心を向けるべきでしょう。報告書でも、「現状でき得る協力については積極的に探っていく」としています。できることから始めていくことが大切でしょう。

アラノン側がステップの共通化をAAに求めても、AAがアラノンにサービス体制の変更を求めても、どちらもすぐには変えようのない話でしょう。

アルコホーリク(に限らず精神的に具合の悪い人)は、こういう場合に「全面的に協力するか」か「一切協力しない」かの、どちらかになってしまいがちです。まさに白黒思考です。部分的にできる協力はする、できない部分は仕方ないと諦める、そういうグレイな対応がいるんじゃないでしょうか。

全国レベルのAAイベントで「アラノンの部屋」を用意する事から始めて、将来それを地域・地区レベルに広げて行ければ良いと思うんですけどね。40周年の大会に招待するとか。


2011年09月21日(水) 自分に正直になる

ビッグブックの第5章に「自分に正直になる能力さえあれば〜回復する」とあります。この部分はミーティングハンドブックにも掲載されているので、AAミーティングに出たことのある人なら一度は接したことがあるでしょう。

「自分に正直になるって、どういうことですか?」という質問を受けてしまいました。ここまでストレートな質問はなかなかあるものではありません。ど真ん中高めのストレートを唖然として見送る気分になりました。

この人は熱心にAAのミーティングに通っているのですが、AA仲間から「正直に話をしていない」と指摘されたというのです(さもありなん)。自分が飲んでいないだけで回復できない原因は、正直になれていないからではないのか。だとすれば、

「どうやったら、私は正直になれるでしょう?」

というのが質問の主旨ということになります。どうやったら正直になれるか、それを言葉で説明しなければならない日がやってくるとは。「話したくないと思っていることを話せば良いんです」ぐらいでお茶を濁したい気持ちを抑え、なんとか説明を試みました。

なぜそんなことが必要かと言えば、その人がアスペルガーだからです。正直という言葉は辞書に載っています。しかしこの場合、言葉の定義を持ち出しても意味がありません。前後の文脈から「正直」という言葉がどんな意味で使われているか、AAの中でどのような正直さが美徳として認められているか、それは辞書の言葉の定義とはあまり関係がないからです。アスペルガー症候群を含むASD(自閉症スペクトラム障害)の人たちは、決まり事(例えば言葉の定義)に引きずられてしまい、脈絡からの推理にしばしば失敗します(想像力の障害ゆえ)。

僕が誰かと待ち合わせをしていたとします。しかし、道路が渋滞したせいで、その待ち合わせに遅れてしまいました。待たされた相手はご立腹で、僕は謝罪しなければならない・・というシチュエーションを考えます。僕が「謝罪」するためには、何を言えば良いでしょうか? 単純に、

「遅刻してごめんなさい」

と言えば必要十分です。渋滞という事情を説明しないのか? という疑問がでるかもしれませんが、謝罪にはそれは必要ありません。相手が「なぜ?」と理由を問うたときに説明すれば良いだけです。

相手は僕が遅刻した事実に対して怒っているわけであって、怒りの対象は僕です。そこへ「渋滞のせいで遅刻しました」と説明するのは、悪いのは僕じゃなくて渋滞なので、怒りを僕じゃなく渋滞に向けて下さい、と相手に言っているのと同じです。それは申し開き(もっと悪い言葉を使えば開き直り)であって、謝罪になっていないのです。

謝罪には三つの要素が必要だとされます。一つは自分の落ち度を認めること、二つめは賠償(原状回復)、三つ目は再発防止の約束だそうです。待ち合わせに遅刻したぐらいで賠償を要求される人間関係は考え物ですが、「今度から10分早く出るね」という約束は必要かも知れません。しかし、何よりも必要なのは、一つめの落ち度を認めることであり、自己弁護ばかりでは人間関係うまくいかないのです。自己弁護が上手になったことで人間関係のスキルが身に付いたと勘違いしている人がいますが、逆です。

(もちろん謝罪のスキルがどこでも通用するわけじゃありません。例えば職場に遅刻する時に必要なのは謝罪ではなく「ほうれんそう」のスキルです)。

人は自分の落ち度がわかっていても、それを認めたくないものです。だから事情説明という自己弁護を展開します。僕も例外ではなく、遅刻しておいて「いやぁ、参った。道路が混んでいてさぁ」という言葉とともに現れるわけです。しかし言い訳ばかりでは信用を失います。

これだけ説明して、自分に正直になることの意味と、ではミーティングでどんな話をすればよいか分かってもらえれば良いのですが、ASDの困難は「遅刻における謝罪」と「ミーティングにおける正直さ」を結びつけて考えることができない困難です(一般化の困難)。

「自分に正直になる能力があれば回復する」という文章は、ステップ3・4・5の前フリの場所にあります。そこから先にはこんな文章があります。

「自分自身の誤りだけを断固として厳しく見つめる(p.98)」
「道路の自分の側の掃除をする(p.112)」

自分の落ち度を積極的に認める姿勢が要求されています。酒が悪い、親が悪い、会社が悪い、世間が悪いと、他者の落ち度ばかり追求して、自分の免責を求めていては回復はやってきません。他者がどうであろうと、自分が変われば回復は可能になるわけですから。

ミーティングで、自分が人に迷惑をかけたとか、悪いことをしてしまったと話せるのは良いことです。しかし、自分の落ち度を認めたくないという気持ちは誰にでもあるので、つい事情説明という自己弁護を展開してしまいがちです。しかし、それでは正直な話をしているとは受け取ってもらえません。自分の間違いをきちんと認める姿勢が求められています。

前述の人の場合、細かく事情を説明することが正直になることだという勘違いが判明しました。僕はその人のミーティングでの話を聞きながら、自己弁護の気持ちが強いと感じていたのですが、そうではなく、努力の方向が間違っていただけでした。正直になりたくないわけではなく、どうやったら正直になれるかスキルが不足していたのです(もちろん抵抗する気持ちもあるだろうけどさ)。

気持ちが不足しているのではなく、スキルが不足している。気持ち(例えば反省の気持ち)を求めるのではなく、スキルを求めたほうが有効なんでしょうね。


2011年09月16日(金) 社会資源としての当事者グループ

10年ほど前に「社会資源としてのAA」という言葉がしばしば使われたことがありました。
保健関係者向けのAAパンフレットが翻訳出版され、その中にそんな言葉があったのが発端でした。この言葉には、なんとなく立派そうな、人の役に立ちそうな響きがあり、「社会資源として」という言葉はAAを行政機関に広報する際のキャッチコピーとして使われました。

そもそも社会資源とは何を示すのでしょう。ググってみると、こんな定義が見つかりました。「社会資源とは、利用者の要求の充足や問題解決のために、効果的に利用する様々な有形、無形の人的、物的、制度的資源のすべてを指している」

どうやら社会福祉の分野の言葉のようです。社会資源を利用するのは問題を抱えた当事者だけではありません。福祉の分野の援助者も、問題を抱えた人に社会資源の存在を紹介することによって、社会資源を「利用」しているのです。

AAのような相互援助・自助グループが社会資源であるためには、利用のためのハードルはなるべく低くなくてはなりません。社会資源というキャッチコピーを使った結果、「AAは社会資源たりえていない」という批判も寄せられました。社会資源だと言うならば、AAがどこに存在し、それをどう使えばいいのか、援助者に十分な情報が提供されていなければなりません。

当時はアノニミティ(無名性)に関する誤解がメンバーの中にずいぶんありました。例えば公民館の部屋をミーティング会場用に借りるためには、利用者登録が必要になります。それには住所や氏名や電話番号が必要になりますが、匿名性を盾にとってその開示を嫌い、AAのニックネームを登録用紙に書いた上に、電話番号は公民館の担当者にしか教えない・・というまるで秘密結社のようなことが横行していたのです。(そのくせ行政の提供するサービスには依存しているのです)。地元の保健所や精神病院がAAの存在を知らないという事例も結構ありました。

秘密結社は社会資源ではありません。批判を受けたことは良いことでした。

僕はAAメンバーである以外にも、アディクション関係の他の団体にも所属して活動していますし、アディクションの施設とも関係を持っています。相互援助・自助グループの情報を集めて社会に伝える活動もしているのですが、様々ある自助グループの中には以前のAAのように連絡先がわからないところもあります。住所氏名はともかくとして、せめて電話番号やメールアドレスぐらいは広く社会に開示して欲しいものです。

話は変わって、先日地元のAAの地区委員会に参加していたときのことです。病院メッセージのやり方の改善が話題になっていました。AAの委員会は「AAメッセージを運ぶためのもの」ですから、ふさわしい議題でした。AAでメッセージを運ぶ対象と言えば病院などの医療機関、刑務所などの矯正施設が挙げられます。この時も、まだ未開拓の病院があるという話がありました。

しかし、見落としていることがあります。アルコール依存症の人で医療機関にかかっているのは、ほんの一部に過ぎません。矯正施設ともなればもっとわずかです。

平成20年(2008年)の厚生労働省の患者調査によれば、「アルコール使用<飲酒>による精神及び行動の障害」で医療機関を受診している患者は5万人です。社会にどれだけのアルコール依存症者がいるか、という調査はさまざまありますが、厚生労働省が2004年に行った調査では約82万人とされています。他には200万人以上とか、500万人以上という調査結果もありました。数が違うのはどこまでを依存症と見なすか基準の違いによるものです。

仮に最も少ない82万人という数値を採用するにしても、ここから総患者数5万人を引くと、77万人が残ります。この77万人は医療機関にかかっていないので、AAがどんなに熱心にメッセージを病院に運んでも、この人たちには届きません。AAはボリュームゾーンをあえて避け、ニッチにメッセージを運ぼうとしているわけです。AAのメッセージを運ぼうとするならば、この77万人にどうやってメッセージを運ぶかを考えねばなりません。

アディクションセミナーもリカバリー・パレードも、この77万人にリーチアウトするための手段です。アメリカでは様々な回復擁護運動に対し、AAが団体として協力参加しているそうです。「協力すれども従属せず」の方針を貫く限り、こうした参加は12の伝統の範囲内です。しかし日本AAではそうした動きは極めて鈍いと言わざるを得ません。

前述の地区委員会でこの77万人のことが話題になることはありませんでした。メッセージのことを熱心に話し合うAAメンバーでさえ、世の中に多くのアルコホーリクが苦しんでいることにまるで思いが及んでいません。慣れ親しんできた考え方ややり方を変えるのは簡単なことではないかもしれませんが、そこを変えていかなければAAは秘密結社にとどまるでしょう。

おそらくAAは変わることができます。この10年間を見れば、アノニミティに関する考え方も、ステップへの取り組みにも、何らかの変化がありました。その変化は急激ではなくゆっくりしたものですが、着実に変化していきました。まだ十分ではありませんが、この先も変化を続けていくでしょう。だから、メッセージの運び方についても、良い方に変われると信じています。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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