ひぽこんコラム

2014年06月18日(水)

REMのアンプラグド2枚組が発売。

 ライナー書きましたぁ。ちょこちょこ仕事するオレという奴。ちょこちょこ。。。しかし、今日は9月の西荻における「てきや」デビューの打ち合わせへ。。。

 ライター、アルバイターに、今度は「てきや」というのがプラスされるわけです。ああ、その前に「出稼ぎ」もね。

 ふっ。

 多彩だな。自分。




 REM↑も、よもや自分たちの大切な大切なアンプラグド・ライヴ盤の解説を「てきや」のオバさんが書いたとは思わなんだなぁ。

 しかし世の中は混乱を極めておるわけで。ええ。ライター=てきや、で正しいわけである。

 「てきや」は戸隠の蕎麦粉なで、ガレット作ろうぜ〜〜〜な「てきや」です。

 また詳しいことが決まり次第、お知らせします!

 あ。レポを読んだ師匠から手紙が着た。特に「おもしろかった」とは書いてなかった。爆っ!

2014年06月17日(火) ケイシー・ケイサムが亡くなった

 ケイシー・ケイサムが死んでしまった。
   ↓ 

アメリカを代表するディスクジョッキーで、日本でも放送された人気ラジオ番組、「アメリカン・トップ40」の司会を務めたことなどで知られるケイシー・ケイサムさんが15日、亡くなりました。82歳でした。
代理人などによりますと、ケイサムさんは15日未明、アメリカ西部・ワシントン州の病院で亡くなったということです。
1970年から通算20年余りに渡ってアメリカのヒットチャートを紹介するラジオの音楽番組、「アメリカン・トップ40」の司会を務め、柔らかい声と軽妙な語り口で、その人気を不動のものとしました。
番組は日本をはじめ世界各地で放送され、アメリカの音楽シーンを紹介する番組として多くのミュージシャンやDJに影響を与えました。
またケイサムさんはアニメの声優やテレビコマーシャルのナレーションなども務め、アメリカを代表する「声」の持ち主として知られていました。
ケイサムさんは2009年に引退後、ことしに入ってから体調を崩し入院して治療を受けていました。


 そう。ケイシーは全米トップ40の声だった人。私の青春そのもの!!

 友達のモリサン←前にいっしょにスケートやってた友達w。。。。がラジオ事情に詳しく、ラジオ日本の「全米トップ40」や、FENの「All American Top 40」を教えてくれたんだよなぁ。

 どうしてかって。私たちの地元だったSBS放送(静岡)のラジオ番組で、「この曲が全米チャートの何位になるか?」というクイズをやってて、それに当ると、レコード券か、何かがもらえるというのがあって。。。で。その何位になるか?が当時はネットなんてないから、SBS放送では2週遅れぐらいでさぁ。

 モリサンが「ラジオ日本がいちばん早くて、あとFENもあって、聞けば先に分かるから、それでハガキ出せばいいんだよ」とか言って、ヨシッ!!と、それを聞き始めて、で。もちろん、レコード券もバンバン当てた。

 そっからはもう夢中になって、土曜日は午後はFENで(これは確か1週遅れだった)、夜はラジオ日本で、全米トップ40を聞いたんだ。

 あの頃は英語の勉強にも夢中で、英会話を習わして欲しかったけど、うちは貧乏だからダメで、テレビやケイシーの英語から英語を一生懸命に勉強した。あまりにも一生懸命だったから、おやじが根負けして、高校2年ぐらいから近所の英会話スクールに通わせてもらった。ケイシーの英語はすごくキレイで、、、何せボイス・オブ・アメリカってんだからね。だから、すごい聞き取りやすくて、そこからたくさんの単語を覚えた。

 トップ40のチャートも毎週ノートにつけて、好きな曲に赤い線を引いて、それを眺めてニヤニヤしてた。ただ、それだけ。ニヤニヤするだけ。でも、それが楽しかった。あの頃はすべてが牧歌的で、のんびりしていて、空想を愉しむ時間があったんだ。

 それで、トップ40にハガキを書くようになり。今に続くわけで。ええ。

 だから、ケイシーは私の原点でもあり。あの声は一生忘れないと思う。

 たぶん、あの頃、洋楽を聞いていた人たちは同じだと思う。ケイシーの声が英語も音楽も、アメリカも、その先にひろがるものも、自由も(アメリカは自由だと勘違いしてたから)、未来も、ぜんぶ運んできた。希望だったんだよねぇ。

 でも、そんな人が後年、お金のことでモメたり、確か選挙に出たり、奥さんと離婚したり? 色々あって。どんどん悪い方向に行ってしまい。少し前には認知症で徘徊して行方不明になったり。家族は彼の遺産争いばかりで。。。あんまり幸せじゃなかったみたいなのが辛い。あんなに才能があって。あんなにみんなに夢を与えた人が、そんなことになるなんて。。。

 さよなら、ケイシー。天国でDJしててね。

 

2014年06月15日(日) 猫の家

 お昼頃、渋谷に行ったらビックリ。サッカーのユニフォーム着た若者がグジャラ〜〜〜〜〜〜〜〜〜といっぱい居て、デモでよく見る青白の装甲車がズラ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

 なんだなんだ?と思ったら、どうやらスポーツバーでサッカーを見て、その後、渋谷で騒ぐらしい。。。。

 あああ。お馬鹿な若者たち。まぁ。若者とはお馬鹿なのだろうが。集団でないと騒げないのだなぁ。てか。集団集団て。あんたら、もうじき、もしかしたら戦場送られてまうかもしれないんだよ〜〜〜っと、若者たちを見つめた。

 あんたら。。。。今週決まるかもしれんのだよ。今は浮かれておるが、もしかしたら、来年の今ごろ、戦場におるかもしれんよ。

 そう思ったら、お馬鹿な彼らが不憫で。。。

 で。

 なんで。こんな日曜に渋谷に行ったかというと、コレに行ったから。コレ↓




 ピカロ・タロウさんこと、真鍋太郎さんの「猫に、恋」展。

 すごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおい。

 すごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおい、良かった!!

 もおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。すごい良かった!!

 泣いたっ。

 太郎さんは、友達の赤尾さんの友達なんだけど。あの3・11のとき。リクルートのビル23階@東京駅。。。に赤尾さんと私はいっしょに居て、そして泣きながら歩いて、たどりついたのが渋谷の太郎さんの家だったのだ。泊めてもらって。赤尾さんと、赤尾さんの夫さんと、太郎さんと太郎さんの妻ヨーコさんと、5人で、寝ることもできず、テレビを見て、みんなで震えていた。

 あの時間を共に過ごしたって。。。すごい経験だ。あのときも太郎さんは絵を描こうとしていたけど「ダメだ、無理」と言って、みんなのテレビの輪に加わったっけ。。。

 そんな思い出のある太郎さんの猫の絵展。どれもすごかった。。。これ、どうやって描いたの?という感じで。同じモチーフを色々なアイディアで作品にしてある。

 どうやって描いたんですか?と聞いたら、覚えてないのも多いっていう。やってるときは必死だから、忘れちゃうって。。。

 でも、「今ぼくは63歳で、やっとイメージを形に出来るようになったんだよ。こうやりたい、と思っても、若い頃は技術がなくて、それをそのまま自由に現すことができなかったけど、今やっとできるようになった」とか、すごいいいことを言ってくれて。。。泣いた。

 そうだ。そうなんだ。。。技術ってすごい大切だ。技術を学ぶ、練習するって、すごい大切だなぁと思った。。。。

 やり続けるって、大切なんだ。。。

 うん。

 筆は古い方がいいとも言ってた。その方がいいタッチが出るって。うん、そうか。

 芸術家の言葉はいちいちが深いわ。

 その後、赤尾さんから色々聞いてる夫妻に「で、戸隠はいつ行くの?」などと言われて。オレの戸隠話、こげなところでまで知られておるのか。。。と驚き。

 猫の家を戸隠に建てる話などで盛り上がりw

 ドーナツもらって、モグモグってきた。

 残念ながら、この展覧会は今日まで。。。もっと早く行けば良かったわ。

 猫りん。



 


 金屏風みたいな猫もいたりして、おもしろかったなぁ。。。うん。猫。猫。猫。にゃああっ。

2014年06月14日(土)

 3月4月と、ずっとここに書いていた戸隠のあれこれをギュウウウウと濃縮した「一所懸命生きてみたい 私の戸隠物語」がレポに載りました!

 


 昨日、発行です。

 ぜひぜひ、お読みくださいませ。ぺこりんっ。

 ここから、1冊から、購入できまする

 うわあああああああああああああん、おねがいしまする〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!

 で。和田、あれから、バイトは?

 と、みなさんお思いでしょうが。。。

 実は、辞退しました。ええ。。。小声。。。

 いや、ただ、イヤイヤとダダこねたのではなくぅ。実は初めての媒体さんから仕事を一個いただき。それの取材が今度の月曜日の早朝〜昼で。今度の月曜日は「勤務初日なので、必須出勤日」だったんです。それで、重なってしまって。えっと、ギャラはぶっちゃけ2万円で。バイトすりゃ1ヶ月で15万円ぐらいにはなったんですが。。。2万vs15万で一瞬悩みましたが。。。でも。私はライターだ、と思って、2万を取りました。それが何かどうなるとか何もないかもしれないけど。

 だって、私、ライターなんだもん。。。

 デパートさんには謝って、預かってたものを返送することにして。

 自分。また焦ってヘマしたという気です。戸隠から戻ってからまた焦って。。。金金金って。。。そりゃ金なきゃダメだけど。

 でも。今やらなきゃいけないこともあるんだから、それに支障きたすようなバイトなんてやっちゃダメなんだよね。短期はタイヘンすぎる。長期で、じっくり、少しずつできるバイトにしなきゃ。。。

 つか。そもそもバイトしないでもいいようにしなきゃいけないんだがね。ええ。

 そんなわけで。今日は朝からまたAERAさんに原稿を一本送り。。。。それは短い原稿です。

 もうじき高円寺での杉並区長候補公開討論会に行ってきましゅ。。。

 焦らない、焦らない、を肝に命じます。
 

2014年06月12日(木)

ここ数日ずっとこの歌が頭から離れない。

 この歌です

 95年の歌。あの頃もずっと聴いてたなぁ。あの頃、自分は哀しいと思いこんでいたけど、実はぜんぜん哀しくなんてなかった。この2年後にボワ〜ンとカナダを1ヶ月も放浪して、その間中もずっとレディオヘッドを聴いていたんだった。

 何にも考えてなかった。考えてなかったが、ふと、あるとき、泊まっていたB&Bのトイレで「そうだ。好きなことをやっていいんだ」と思って、帰ってきて、なんか書こうと思って、あの病院の本を書き始めたんだ。書き終えて、あちこち、いろんな出版社をグルグルして、どこも出してくれなくて、結局自分で出した。それが2001年夏。ああ、そうか、直後に9・11があったんだなぁ。

 それを持って、トロさんが当時「ダ・ヴィンチ」がらみで西荻のサパナ(シモマンの事務所!)でやっていたブック・カフェに売り込みに、編集してくれた藤井くんと持って行って、お願いして、置いてもらったら、いきなり10冊売れて、その後もたくさん売れて、そうそう。ネット書店としてスタートしたばかりだったbk1もたくさん仕入れてくれて。

 それで、EMIレコードの人が「知ってる人がいる」とブックセンター青山の新宿店の店長さんを紹介してくれて本を持って行くと「地方小出版流通センター」の社長を紹介してくれて、そこにお願いして、全国に流通してもらったり。

 色んな本屋さんをぐるぐる行商して周り。売れる店、売れない店とか、あった。千駄木の「往来堂」さんは「うちは大きな病院のそばだから」と、小さな本屋さんなのに20冊も30冊も売ってくれた。今はもうない銀座のマガジンハウス近くの本屋のオジさんは「がんばりなさい」と、売れてないのにぜんぶ買い取りしてくれた。

 その後もトロさんがネット書店で売ってくれていたのを、文春の池延さんが見て、池延さんを紹介してもらい、西荻で会って、いきなり4時間ぐらいしゃべった。

 そうして文庫にしてもらったのが2007年だった。

 それからもう7年経つのかぁ。

 今もこの歌は大好き。1995年からもう20年近く経ったなんて、信じられない。昨日、この曲を聴いていた気がする。

 哀しみも見てる風景も自分もぜんぜん変わらないで、ああ、こぴっとシャンとしなければ。。。こぴっと。。。
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