想
目次|過去|未来
| 2004年04月25日(日) |
期待過剰/八百屋のレシート |
モヤモヤしてるのがイヤなとき、
稲葉さんなら布団を噛んで考えろとおっしゃるのかもしれませんが、
僕はそのかわりに布団にくるまって寝ていたのかもしれません。
もやもや。
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八百屋でアボガド(アボカド?)を買ったところ、
レシートに、こう印字してあった。
「アボカボ」
微妙な間違い具合が僕のツボです。
| 2004年04月24日(土) |
夢への逃避行/出すとか出さないとかどこで出すかとか |
昨日、帰宅後すぐ寝た。22時過ぎ。
シャワーを浴びようと思いつつベッドでそのまま寝直し、今朝の8時まで寝る。
朝食をとり、正午まで惰眠を貪る。
13時間睡眠。睡眠過剰なのはもうわかった。これは現実逃避だ。
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あまりにも逃げてばかり(=寝てばかり)いるので、さすがにまずいと思い、内職に精を出した。
昔からなんとなくしかもこっそり感じていたことだが(とかいいながら以前の日記に書いている可能性大)、
精を出すって漢字で書くとちょっと卑猥だと思う自分が情けない。
思いの外、ムッツリスケベっぽい内容になってしまった。
ムッツリって言葉もスケベって言葉も、久しぶりに使った気がする。
ちょっと今更だけど「ムッツリ」の語源って何。
出すべきところで出してれば単なるスケベなんでしょ?
何の慰めにもならないけど。
「情けない」をキーワードに思い出した。
ハーバルエッセンスというシャンプーのCMは、
ひとりで見ているときにYES YES言われてもただの微妙なCMにすぎないのだが、
家族とテレビを見ている時に流れるとかなりの恥ずかしさを伴う。
CMそのものが恥ずかしいというよりは、
洋モノのアノ声がそれであると知っていることに恥ずかしさを感じるというか、
なんとも言いがたい非常に複雑な恥ずかしさなのである。
おそらく僕が小心者なのがいけないのだろう。情けない。
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BS-2の、尾崎豊の番組を見ようと思っていたが、まんまと見逃した。
尾崎豊が特別好きというのではなく、
むしろあまり詳しくないので見ようと思っていたのだった。
有名な曲は結構好きだが、彼自身については若くして亡くなったことくらいしか知らない。
わざわざCDを借りようとか調べようとかいうほどの興味はなく、名前を耳にするとなんとなく気になっていた。
あぁ・・・「見逃した感」でいっぱい。悔しい。
| 2004年04月23日(金) |
村山由佳/葛西臨海公園 |
『青のフェルマータ』を読み終えた。これで村山由佳の本を立て続けに十数冊読んだことになる。
僕は、彼女の作品の何に、そこまで魅かれるのだろう。
少なくとも登場人物たちは十分に魅力的だ。内面だけでなく‘外見’も。
そんなことを思っても、依然として虜になったままの頭で考えているので、客観的に理解できよう筈がない。
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誕生日を迎えた友人と、葛西臨海公園に行った。
水族園のマグロやカツオの回遊の規模が小さくなっていた。
カメやくらげや水辺の鳥類は、見ているだけで和む。
観覧者に背広姿のおっさんたちが続々乗り込んだ。なんだったのだろう。
なにはともあれ、おめでとうございました。
| 2004年04月22日(木) |
寝過ぎ/引き続き寝過ぎ/記憶と痴呆と芝居への考察 |
20日の21時過ぎに寝た。21日の0時過ぎに起きた。入浴。
1時過ぎに本格的に寝た。8時に起きた。朝食。
9時過ぎに寝た。13時に起きた。昼食。
トータルで14時間くらいは寝た模様。
これ以上育たれても困る。
これを書いたのは22日の午前2時頃だったが、
実は今日も3時過ぎに寝て11時半まで寝ていた。
育つとか育たないとか以前の問題だ。
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新宿で芝居を見てきた。
時間ぎりぎりに家を出て時間ぎりぎりにサザンシアター(タイムズスクエアの方)に着いたら、
実はそっちの紀伊国屋ではなくて、紀伊国屋ホールだった。
この間違いは、2度目だ。自分の記憶力の悪さに辟易する。
途中までは汗だくになって走ったのだが、新宿の街のあまりの暑さに負け、
タクシーをつかまえたら冷房が心地よかったところまでは良かったものの、
間違っても新宿駅周辺をタクシーで移動しようとしてはいけないと思い知らされた。
少し考えればわかりそうなものだが、人が多すぎて車が動けない。
そんなこんなで紀伊国屋ホールにたどり着いた。約10分の遅刻。
せっかく良い席を取っておいてもらったのに、入りやすい席になってしまった。
劇団一跡二跳に今年、友人が入った。その緊急初舞台。
彼女だけが目的ではなかったが、できれば今後も彼女を追っかけたい。
*
『声しか見えない』は、痴呆を主題にした芝居だった。
舞台の左半分の部屋に不恰好に積まれた、大小様々な白い立方体。部屋の中は言わば「彼」の脳内、箱は「彼」の記憶だ。芝居の進行に沿って、積み上げられた箱が少しずつぼろぼろと崩れていく様が、頭の中で徐々にぼろぼろと抜け落ちていく記憶の感じをとてもうまく表現していた。・・・と言っていいのかどうか。当然見たことがないから何も保証はできない。つまりは僕のイメージする「痴呆」に、とても近い表現だったということだ。
痴呆と言っても症状は様々だ(という知識を少なくとも僕は持っている)。だから、僕の出合った症例は多くの内のひとつでしかない。けれども、その一例は、僕に衝撃を与えるには十分だった。現実場面で痴呆の症状を目の当たりにして、僕は戸惑いを隠せなかった。「彼女」がどんな様子かはあらかじめ聞かされていたものの、それがそんなにも厳然とそこに存在することが不思議で仕方なかった。たった30秒の会話の中で、何度も繰り返される質問と答え。同じ質問が繰り返された瞬間、それまでの時間は完全にリセットされている。少なくとも、いま話をしている相手の中では。もしも世界に僕と「彼女」との2人しかいなかったら、どちらの記憶が正しいのか次第にわからなくなってゆくに違いない。けれど、そのことで悩むのは僕だけなのだとすると、やはり僕がいくらか‘正常’なのかもしれない。
ほろほろ、ぼろぼろと、積み上げたものが崩れてゆく。はからずも長い年月をかけて積み上げられた記憶の山だ。こういう言い方はおかしいのかもしれないが、「自分の脳内を振り返ってみると」、記憶はたやすく薄れ、書き換えられ、閉じ込められ、時には完全に失われたようにさえ思われることがある。けれども、このような一部の混乱こそあれ、全体としてはこれらがそう簡単に秩序を失ってしまうとは思えない。
実際には、そういう日がいつか来ても何ら不思議はないのだ。痴呆は誰のところにも訪れる可能性がある。そういう点では他の病気と大差ない。
記憶が大きく損なわれたとき、僕というひとりの人間はどうなってしまうのだろう。「彼女」といると、確かに人間なのにどこか人間ではないようで、(彼女の場合は主にはワーキングメモリだったりするのだろうが、)記憶が人間にとってどんなに大きな意味を持つのか思い知らされた。
*
ついつい余計なことまで書いてしまった。
一跡二跳の芝居は、観客に考えることを促す類のものだ。
長い目で見れば僕にも必要で、今の僕には不必要な類の、考えるという行為。
人生の表面の大部分において、
上辺、少なくとも平均より上を歩いてきたという自己認識のお陰で、
「まだまだ下がいる」という言葉が慰めにも発奮材料にもならない。
嫌な女だ。
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西新井大師へ牡丹を鑑賞しに出かけた。母親をバイクの後ろに乗せて。
敢えて訊くことはしなかったが、父が昔は大型に乗っていたから、母も後ろに乗ったことくらいあったはずだ。
「どこにつかまればいいかしら」とか言っていた。初・親子乗り。
当初の目的だった牡丹は、全体としては既に満開を少し過ぎていて、
それでも株によってはつぼみが残っているものもあった。
牡丹と一口に言っても、花の色も大きさも花全体の持つ雰囲気も、品種によって全然違う。
大人の両手でも覆いきれないような大きさの花がいくつもあって、大迫力だった。
花の中心部の濃い色から外側に向かって色が薄くなっていく種類のものは
多くが上品さを湛えており、言うまでもない美しさ。
その上、たとえば「白」にしてもいろいろな白があり、
さらに花弁の薄さや光の当たり方で全く違う色が現れて、素晴らしかった。
花弁の重なり方や葉の形にも様々な特徴がある。
たくさんの牡丹の間を歩いていると、牡丹はそれほど香りが強くないはずなのに、風の香りがずいぶん違う。
それぞれの品種につけられた名前も、見る楽しみのひとつになっていた。
と言うように、牡丹はとても見ごたえがあったのだが、その横で負けず劣らず美しかったのが見事な藤棚だった。
藤も、その色と同じくらいに香りが華やかで、上を向いたままの体勢でしばし佇んでしまうほどだった。
無料なのが信じられないくらいの規模だ。毎年の恒例行事になりそうな予感。
帰りに参道でちゃっかり団子などを買い、大変満足して帰ってきた。