想
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今日は本格的に長い1日だった。
いざ故人を前にすると、涙は出なかった。
独りの時なら泣くのに。
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従姉妹(子どもがいるのは2人)の娘たちに久しぶりに会った。
小学生以下の子が4人で、
下の2人、1年生と保育園児は泣かなかったが、
上の2人、5年生と4年生の子は泣いていた。
じいちゃんに可愛がられたことを覚えていたのかもしれないし、
人が死ぬということの意味がわかる年齢になったのかもしれない。
なんとなく怖かっただけかもしれない。
と、書いたところで気付いたが、
彼女らにとって僕のじいちゃんは「ひいじいちゃん」だった。
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故人にぴったりの‘法号’をいただいた。
法号というのは真言宗で戒名を含む6文字のことで、
‘戒名’は実は真ん中の2文字だけを指すのだと、今日知った。
WEB日記に法号なんてものを書くのは妙な気もするが、
「健松由穏(けんしょうゆうおん)信士」というもの。
(ほんとに書いちゃったけどいいのかな・・・。)
故人の性格から「穏健」の2字を組み込み、
88歳まで生きたことから長寿を連想させる「松」を、
さらに俗名から「由」の1字を取ったもの。
すごい!すごいぞお坊さん!ナイスセンス!! と心の中で絶賛。
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だめだ。冠婚葬祭に伴うアルコールに負けて、
ひどい疲れと眠気がやってきた・・・
| 2003年11月01日(土) |
ここに書くべきか迷ったけれど/生きている人間は誰だって明日へ踏み出す |
未明、母方の祖父が亡くなった。
昼過ぎからは父方の叔父の結婚式。
よりによってなぜ今日なのか、という考えが、どうしても拭いきれない。
午前4時、
布団の中で考えていたこと。
自分に感情があるということを、かなしみで知りたくはない。
書きたいことはいろいろありすぎて困るくらいだが、
母が出席できない結婚式に、ちゃんと出席するよう言われている。
そろそろ支度に取り掛からなければならない。
服を着替えて、心も切り替える。
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もう少しで、11月初日も終わりを迎える。
今日は、なんだかんだで長い1日だった。
「あっという間の長い1日」という印象。
こんな感じでも自分の中では矛盾しない。
幸せな人を見るのは、本当にいいものだ。
幸せな人たちの、幸せな時間。
もちろん、集まった多くの人が見えないところでは何かを抱えていて、
それを片隅に追いやることのできた時間、なのだろう。
特に、自分にとっては偶然が重なりすぎた。
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実は明日、父から言いつかった任務を果たすために、
僕は朝5時半頃に起きなければならない。らしい。
ので、日付が変わる前には布団に入りたい。
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そういえば、
結婚式に行くのに不倫の話(『欲望』)は縁起が良くないと思い、
村上春樹の『TVピープル』を読みながら式場へ向かった。
やっぱり、村上春樹には「何か」ある。
もしかしたら、長編をいくつも読んだことがあるせいで、
懐かしいような気持ちにとらわれただけかもしれないが。
| 2003年10月31日(金) |
Happy Halloween! |
とりあえず、Google に乾杯。
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あるアンケートに答えてみた。
Q.あなた自身が日本語に関して興味があることや、日頃から感じることなどを自由にお書きください。
一般的に「乱れた日本語」といわれるものは、場面によって(目上の方と話すときや公共の場などでは)使いたくないと思っているし、使わないよう積極的に心がけている。しかし、同世代の人間と話をしているときには相当にくだけた日本語を使っていると感じる。E-mailでは、友人とわざわざおかしな日本語を使って面白おかしくやりとりすることもあるが、人によってはそれがおかしいと気付かないのだと思うと、虚しいような気持ちにもなる。
何年か前に話題になった「ら抜き言葉」には非常に抵抗があるが、方言などではそれらしい言葉が使われていると言われると、東京出身の人間としては辛いところである。身近で「ら抜き言葉」が使われていると、どうも気になってしまう。
最近よく感じるのは、話し言葉が書き言葉のなかに頻繁に目に付くようになったということ。自分としては未だに少し抵抗があるが、これも日本語の流れなのだと半分諦めたような気でいる。言葉が変化していくことは自然なことなのだろうが、なんとなく落ち着かないような気持ちになることも多い私は、少し古い人間なのかもしれない。
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今読み直すと、なんだか変な日本語がある気がして、
ちょっと恥ずかしいけど載せてしまえ、という気分。
| 2003年10月30日(木) |
同一性の衝突/現実としての完全無欠 |
現実的に生きていると、
現実的なものしか目に入らなくなるのだろうか。
現実の同一性は自分自身のそれより遥かに脆くて、
いったい僕にとっての現実とは何だろう、
という疑問が幽かに頭をよぎった。
そんな非現実的な考えこそ、
まさに僕そのものであるように思えて、
僕自身の同一性を獲得した僕は、
さらに現実の同一性が信じ難くなる。
疑うべきは目の前の現実か、ここに在る確かな僕か。
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こんな風に書くと、
「現実」という言葉がまるで具体的な人の名前のように見えてくる。
それは曲解。
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小池真理子の『欲望』を読み、頁の上で彼女たちの身体を弄びながら、何一つ欠けてもいなければ失ってもいない癖にいつもどこかしら満たされていない僕は、まだうだうだと完全と無欠との違いについて考えている。
せめて今の3分の1くらいだったら少しは適応的だったかもしれないのに