想
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| 2001年04月08日(日) |
のんべんだらり〜んバカ |
何かを思いついてしまうと、パソコンが立ち上がるまでの時間がもどかしい。
最近、ヒマだ。
というよりも、毎日が休日だ。
引っ越してまだ間がないから、そんなにほいほいヒマがやってくるはずもなく、部屋を片付けたりしようと思えばやることはいくらだってある。しかし、なんとなくだらだらしていたい気分なので、やるべきことは後回しにして、同居人のゲームボーイカラーを借りてスーパーマリオランドに没頭してみたりする。GBカラーを使うことにほとんど意味のないゲームだが、そこがまた、なんともいえない味がある。いや、単なるバカかもしれない。しかも、その同居人はバイト中だったりして、こんな時間の使い方をしているのは自分だけかもしれないということに気付く。
自分のアホさ加減に頭が回る頃には、時計の長針はもう2周目が目の前で、そろそろ左手首が痛みを訴え出すので、仕方なく手を休める。断じて、自分の行いに反省などしたわけではない。まだまだのんびりしたい気分はやまず、思い立ってコーヒーを入れる。コーヒーは美味い。香りを嗅ぐだけでも、なんともいえない幸福感がやってくる。
カップ3杯分のコーヒーを飲み終える頃には、幸福クンと満足クンに連れられて、私のところに睡魔クンが御機嫌伺いに来る。この部屋には、カフェインが眠気をどうにかするなんてことを信じている人間はいないのだ。そこで私は睡魔に連れられ、隣の部屋の自分のベッドに潜り込む。だいぶ前からわかっていたことだが、うちの睡魔は強姦魔なので、私はひとたまりもなく眠りに落ちてゆく。
・・・そして1日が終わってしまった。
なんてことだ。これじゃ、本当に毎日が休日じゃないか。
とはいえ、反省できない性格だから、一晩経つと「あぁ、昨日はのんびりできてよかったなぁ」なんて、前日の自分を羨んでみたりする。
それでも、こんなにおめでたい日常は、そう長くは続かないだろう。
さすがに本当に毎日が休日では、生活が成り立たなくなってしまうから。
さあ、これからが戦いの毎日だ、なんて、うまくいくのかどうか。お楽しみに、ってところだ。
こんなに嫉妬深いのは自分じゃないと思いたい
こんなに醜いのは自分じゃないと思いたい
独りでも大丈夫だったはずだ
誰かに側にいて欲しいなんて、
自分だけを見ていて欲しいなんて、
そんなだいそれた欲求はとうに捨てたはずだった
今のこの自分はどうだろう
この愚かしさ
この存在の虚しさ
何もかも放棄してしまいたくなる
この世の中に、
ただあのコさえいなければ
| 2001年04月03日(火) |
家庭の必要性について語ってみる。 |
何十年か前は、日本でも家族の役割分担がはっきりしていたと聞く。
父親が外に働きに出、母親が家事全般をし、家の中にいる者(老いた者や母親、あるいは年上の兄弟)が小さな子どもの世話をし、大きくなった子どもは将来のために学校に通った。また、子どもはある程度成長すれば、他の家に嫁ぐか、職に就いた。大体において、この図式が崩れることは少なかったと思う。時にはそれほど大きくない子どもが親や家族のために稼ぎに出ることがあったとしても。
それはすなわち、家族のメンバーそれぞれが、互いを頼って生きていたということだ。家族とは、生きていくためにまさにかけがえのないものだった。
しかし、少し前からだいぶ事情が違ってきている。食事は母親が作ってくれなくてもコンビニやその辺の店で買うことができるし、第一、母親やその代わりの人間が常に家にいるとは限らない。老人がいる家は少ないから、多くの場合子ども達は彼らとの接し方を(そして老いた者をいたわるということを)知らずに育つ。学校に行くことが子どもの将来に結びつかないケースが増えているし、だからかもしれないが、卒業してすぐに就職したり結婚したりするわけでもない(場合が多い)。さらに最近では、学校に通いながら簡単にアルバイトができるようになっている。食費くらいは稼げる、という点で、これは大きな変化だと思う。
こんな状況では、多くの子供たちは家庭のありがたさを感じる機会が少なくなってしまっているのではないだろうか。とりあえず住める所である形ばかりの家と、自分で稼いだ金さえあれば、毎日の生活は成り立ってしまうのだ。自分は独りでも生きていけると錯覚してしまうことも、大いにありうる。
もちろん、家庭という場は、最低限生きていくということ以上の意味を持っている。家庭は本来、人が身体的・社会的に成長するのと同じくらい、心理的にも成長するべき場であるはずだ。
だから、家庭の温かさを知ることなく成長した人間に、他の人間を大切にしろと言うのは難しい。また、自分を大切にすることの意味を伝えるのも難しいかもしれない。今のように社会が荒れ放題のときこそ、健全な、あるいは望ましい家庭のあり方というものを見直さなければならないだろう。
・・・こんなこと書いちゃって、「くだらねーこと言ってやがるコノヤロウ」とか「アホちゃうか」とか思われないだろうか。どきどき。
| 2001年03月31日(土) |
桜と雪/昨日の引っ越し |
日記というだけあって、今日の天気の話をネタにする人は多いかもしれない。
もうほとんど桜は満開だというのに、結構な雪になった。東京で桜の満開と降雪が同時に起こったのは25年ぶりだ、と、さっきNHKのニュースが言っていた。
一見、敵対しているようなイメージだった春と冬だが、いざ目の前にその代表とも言うべき雪と桜を揃えてどーんと出されてみると、それはそれでとても綺麗なものだった。
今日の雪の舞い散る感じは、もう少し暖かくなってから桜が散る感じとちょっと似ていた。天高いところに枝を張った巨大な(・・・きっと樹齢1億年くらいの)桜が一斉に花を撒いて、山手線から眺める池袋の空は真っ白だった。(実際そんなことになったら、東京は1時間で麻痺し壊滅するだろうが。)地上には、もとから薄いピンクだったところをさらに淡い色にした満開の桜。
歌詠みの気持ちは察しかねるが、こういう日に詠まれる歌は趣深いものになりそうだ、なんて、素人のあさはかな考えだろうか。
今日は、たまたま外に出る用事があってよかった。面倒臭がりな性分だから、出かけるつもりのない日に雪が降ったんだったら、寒い、とかなんとか言って部屋から出る気にもならなかったに決まっている。・・・とうに失われた童心。
せっかく「都会」に出てきたついでに、と思って、コーヒーを買った。最近は随分と積極的に飲むようになって、豆を買ってきて自分で淹れたりする。江古田の珈琲館でマンデリンを挽いてもらい、池袋のSTARBUCKS CAFEでエスプレッソ・ローストを挽いてもらい、西部の食品街でブラジルを豆のまま買った。(さすがに全部を自分で飲むわけではない。)さっきマンデリンで一息ついたら、かなり美味かった。引っ越しの疲れもコーヒーで癒せる気がする。
そう、引っ越しだ。
昨日1日かかって、もとの部屋から新居へ全ての荷物を移した。
今はまだ特に痛いところもないが、これはきっと嵐の前の静けさに違いない。明日辺り、腕が上がらないかもしれない。腰だって丈夫とは言えないのに、昨日はかなり無理をした。1階から1階への引っ越しだったのがせめてもの救いといったところだ。しかし、とにかく早晩痛みはやってくるだろう・・・想像するのも恐ろしいようなやつが。
新しい部屋は2DKだ。意気投合した友人との同居生活が始まる。一体どんな生活になるのか、今から楽しみで仕方がない。ちなみに、私は珈琲漬けの関東人で、むこうは珈琲を飲まない関西人だったりする。気の合う人間なんてどこにいるのかわからないものだなぁ、と、つくづく思う今日この頃である。
| 2001年03月26日(月) |
おそれを知らず、江国評。…ただの感想です。 |
本を読むことがこの上なく好きだ。特に、推理モノではない小説。最近はSFもよく読む。エッセイなんかも良い。
だからなのか、人生の中の今・この瞬間は、自分だけの小説の中の一節みたいなものかー、なんて、考えたりしてしまう。他の人からはそんなにタイソウな人生を歩んでいるようには見えないのだろうが、自分にとっては他のどんなに素晴らしいものとも代え難い、超個人的な大事件の連続の、毎日なのである。誰もが持っている、各々の秘蔵の一冊。恋愛なんかしちゃったりしていれば、それこそ恋愛小説みたいな日常が繰り広げられる。書き換えの利かない過去の場面の味わい深さもまた、堪らない。
しばらく前に人から借りていた、江国(←旧字体が出ない)香織のエッセイ『いくつもの週末』を読んだ。
江国香織の本を初めて読んだ時に、彼女の使う言葉がとても心地よかったのを覚えている。独特の感性を基盤に次々と紡ぎ出された、どこかさっぱりとした印象の言葉たち。このエッセイも、読み終えてみるとやはりすっきりとした感じを受けた。内容は必ずしもそう言えないものであるにもかかわらず。
彼女の世界には、自分と似ているために嬉しくなって思わず肯いてしまうようなところと、それとは反対に、あっと驚かされるような思いもかけない発見とがあちこちに散りばめられていて、なんというか、キラキラしている。彼女に共感したりその世界に納得したりするのは、主に自分の中の「女」であり、自分の中の江国香織とも言えるような部分である。その逆は「男」の部分で感じることが多く、それはどんな女にも到底理解できないであろう感性というか感情というか、兎も角そんなものである。心理学ではアニマとアニムスとか言うのだが、人間の心の内には本来の性以外のもう1つの性が存在する、というような考え方がある。人は様々な物事において両面性を持っていて、確かに性別もその1つだと思う。女なのに男のアタシ。男なのに女のオレ。男にも女にもなり得る自分、或いは、常に男であり女である自分・・・。実に面白い。こんなことを考えに考えて、これだから人間ヤメラレナイよなぁ、と結論付けてみたりする。
さて、江国香織は独特の感性を持っていると思う、とはさっきも書いた。彼女の感覚には類を見ない鋭敏さがあって、それが彼女の感性を磨いてきたのだと思う。ボンヤリと生きていたのでは、決して手に入れることのできない世界。その世界に引き込まれて、自分とは違った新鮮なものの見方に気付く。エッセイを読んで、彼女の言葉が生まれる背景を垣間見たような気になった。ちょっとした嬉しさ。
そういえば、読んでいて気付いたことがある。非常に小さなことではあるが、自分は、クエスチョンマークを乱発しない日本語の文章が好きなのだということだ。日本語の専門家でもなんでもないただの日本人がわざわざ指摘するようなことではないかもしれないが、日本語には、「?」を用いなくても疑問文を作る方法がたくさんある。それが適切に充てられている文章の方が、私には好ましく感じられる。「?」を用いない方がニュアンスをより明確に表せる場合もある気がするし、どこかひかえめで、和風になる感じもする。もちろん、クエスチョンマークがベストチョイスだと思う場合はいくらもあるが。
江国香織の書く本は、大切に思う人に読んでもらいたくなるような、一種の優しさを持った本ではないだろうか。