無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2007年08月08日(水) 『新・UFO入門』(唐沢俊一)の盗作疑惑について

 日記再開の内容が、また不穏な感じのものになってしまい、いささか恐縮ではあるのだが、どうしても気になって仕方がないことを綴っておこうと思う。

 「事件」をよくご存知ない方には、まずこちらのまとめサイトを見ていただきたい。
 
 「ネット上の文章の盗用問題:『新・UFO入門 日本人は、なぜUFOを見なくなったのか』(唐沢俊一著)を巡って」
 http://www.jarchive.org/temp/copyright2.html

 このサイトも「グーグル八分」とやらにあっているらしく、「唐沢俊一 盗作」で検索をかけてもヒットしない。どういう仕組みかはよく分からないが、既にあちこちの有名サイトでリンクされてもいるし、このサイトだけを検索できなくしたところで、いくらでも周辺事情は検索することができるので、誰がどうしてそんな措置を取っているのかも疑問ではあるのだが、それはさておき。

 「漫棚通信ブログ版」の日記に「これは盗作とちゃうんかい」と題して、唐沢氏の盗作疑惑が書かれたのが6月7日のことである。
 これが、事件発覚当初の唐沢氏の主張するように「大いに参考にさせていただいた」性質のものでないことは、後に唐沢氏自身が交渉の経緯を記した文章の中で、「ほぼそのままの形のものをペーストしてしまい」と書いていることでも明白である。
 これを「参考」と言い張るのは詭弁でしかない。もしも他の作家がそのような執筆方法を取っていたとしたら、唐沢氏はやはり「それ、盗作だよ」と明言するに違いないからだ。

 唐沢氏が、誰もが指摘するように、どうして事件発覚当初に素直に謝れなかったのか、という疑問については、唐沢氏に本作の続編執筆の予定があったため、それが頓挫することを恐れ、「盗作作家」のレッテルを張られることを嫌ったのではないか、という推測がネットでは流れている。
 『新・UFO入門』が絶版になることだけは避けたかった、ということなのだろう。

 しかし、唐沢氏が本気で漫棚通信氏に謝罪する意志があるのなら、本自体を完全に絶版、封印するくらいの潔さは見せてもよかったのではないかと思う。
 『新・UFO入門』を子細に読んで行けば分かることだが、「ペースト」は「漫棚通信ブログ」からだけではないのだ。
 『新・UFO入門』の第5章「UFO群、ピラミッドに舞う!」ではCBA事件が取り上げられているが、これが、新戸雅章氏が『歴史を変えた偽書』(ジャパン・ミックス社)に掲載した文章をコピーペーストしたと思しき部分がいくつか「残って」いるのである。

 新戸氏の元の文章はネットにも掲載してあるので、そちらを参照していただきたい。

「六〇年代のハルマゲドン −UFO教団CBAの興亡―」
 http://www.asahi-net.or.jp/~ve3m-snd/shindo/essay/cba.html

 全文の引用はこの日記にはとても入りきれないので、いくつかの要所だけを「引用」させていただく。
 例えばこの新戸氏の文章の「地軸は傾く」の項に、このような文章がある。

 「八月になって、Cは選ばれたメンバーにだけ伝えられることになった。会合に集まった数十人のメンバーに対して、幹部がレイ・スタンフォードの訳書を示しながら、Cが間近に迫っていること、われわれはその準備をしなければならないことなどを説いて、団結と協力を促した。この頃、期日は一九六〇年から六二年の 間に設定されていた。」

 比較して、『新・UFO入門』の108ページには以下のような文章が見られる。

 「会合に集まった数十人のメンバーに対し、幹部がレイ・スタンフォードの訳書を示しながら、カタストロフ(CBAはこれを、頭文字の“C”で表現した)が間近に迫っていること、その準備が急務であることなどを説き、団結と協力を促した。そのCの期日は、1960年から62年の 間であると説明された。」

 漢字を数字に変更したりの改変はあるが、ほぼ同じ文章であることはお分かりいただけるだろう。
 また、次のような箇所の変更もある。
 元の新戸氏の文章(「りんご送れ」の項目)はこうだ。

 「それによると、Cは地軸の急激な傾斜により起こる全地球的規模の大洪水である。これによって多くの生物が死滅し、陸と海は入れ代わり、新しい陸地では三年間は作物が育たない。しかし会員とその家族は、その前にUFOで飛来した宇宙の兄弟たちによって救出される。
 Cの期日は十日前に『「リンゴ送れ」シー』という電文等によって知らされる。その時は登山の用意をし、一週間分の食糧を持って、家族とともに指定の集合場所に行け。一週間前にはラジオ、テレビを初め、あらゆる報道機関を通じて、Cの到来が告げられる。その後、否定の報道がなされるが、最初の報道を信じて行動すれば一般人であっても救済される可能性が高い。救出された者は他の遊星で再教育を受け、地球に輝かしい黄金時代を築く……。」

 これが、唐沢氏の著書の111ページから112ページにかけて、以下のような文章に若干の「書き換え」が施されてペーストされている。

 「ともかくも、CBAメンバーたちには、そのCは全地球的規模の大洪水であり、これによって陸と海が入れ代わるほどの大変動が地球にもたらされるが、会員とその家族は、その前にUFOで飛来した宇宙の兄弟たちによって救出される、と告げられた。
 そして、救出の具体的な手順も説明された。Cの期日10日前に『「リンゴ送れ」シー』という電文が会員の元に届けられる。その時は登山の用意をし、1週間分の食糧を持って、家族とともに指定の集合場所に行くこと。1週間前にはラジオ、テレビをはじめ、あらゆる報道機関を通じて、Cの到来が告げられる。その後、否定の報道がなされるが、最初の報道を信じて行動すれば一般人であっても救済される可能性が高い。救出された者は他の遊星で再教育を受け、地球に輝かしい黄金時代を築く……。」

 ほかにも類似の部分は多々あるが、唐沢氏が『新・UFO入門』を、資料を自分自身の文章と考察でもって捉えなおすことを怠り、安易なコピーペーストとその改竄で作り上げた部分も多い(決して一部ではない)ということは、これだけでも充分証明できると思う。
 新戸氏も唐沢氏も、同じ『CBAの歩み』から原稿を起こしているから類似の文章になったのではないか、ということは考えられない。原資料の要約が、文脈まで(3点リーダーまで!)一致するはずはない。第一、唐沢氏は『歴史を変えた偽書』の新戸氏の文章を読んでいることを『新・UF入門』の前章「日本UFO史の暗黒面」90ページで、ちゃんと明記している。「偶然の一致」ではないのだ。
 「引用元」ならぬ「盗用元」をうっかり書いてしまっていることになるが、つまり唐沢氏は、「ある事実や作品の紹介であるならば、誰かが要約した文章をそのまま使っても盗用には当たらない」と考えて執筆を続けてきたと考えざるを得ないのである。

 そりゃ、シロウトが自分のブログなどで本や映画の紹介をするときに、amazonなどの「あらすじ」をコピペするようなことはいくらでもあるだろうが(それも厳密にはよくない)、それはあくまでシロウトのレベルの話である。プロの作家がやっていいことではない。
 いつごろからなのか、最初からなのかは分からないが、唐沢氏の中にある「プロ意識」が麻痺していたことは残念ながら疑いようのないことのようである。

 新戸氏自身は、唐沢氏の『新・UFO入門』を読まれていて、自身のブログでは「本書は、UFOという古いテーマに新しい切り口をつけ、そこを通して日本の戦後文化や戦後社会のありようにまで照明を当てた好著である。一読をおすすめしたい。」とまで絶賛している。
 http://blog.goo.ne.jp/tesla1856/m/200706
 どうやら、自身の文章が殆どそのまま使われていたことにはお気づきでなかったようであるが、この一連の盗作騒ぎにはどのようなご意見をお持ちであろうか。


 8月3日、漫棚通信氏と交渉決裂はしたものの、唐沢氏の一応の謝罪文がホームページに掲載された。
 事件が起きて以来、私は、閲覧度の低いと思われる個人ブログのコメント欄で意見を書き込みしたことはあるが、特に表立っての発言は控えていた。唐沢氏と今でもお会いする仲ならばともかく、あまり思い出したくもないトラブルで縁が切れている以上、ちょっとでも批判めいたことを書けば、ここを先途と意趣返しでもしているように取られかねない、という危惧の念が働いたからである。

 実際、かつて唐沢氏と親しかったが今は疎遠になっている人たちは、概ね唐沢氏に対して批判的な意見が多く、なにやら「いじめ」的な様相すら呈していて、あまり気持ちのいいものではなかった。
 逆に、唐沢氏に近いはずの人々が、ほとんど沈黙を守っていたのもどうして立場を明確にしないのか疑問に思った。批判するにしろ擁護するにしろ、こういう時に何も言わないでいるというのは、人としてどうなのだろう、という疑問である。なんだかキリストの逮捕の時に「私は彼を知らない」と三度言ったペテロのようではないか。自分にもとばっちりがふりかかってくるのを恐れているだけなのではないか、という疑問をどうしても拭い去れないのである。
 唯一、ブログで「友情から」唐沢氏を批判したのが、「鬼畜」であるはずの村崎百郎氏だけだったというのは皮肉だとしか言いようがない。

 私自身は、この問題そのものは、最終的には『新・UFO入門』の回収、絶版で終わると思っていたのである。このような日記も、当初は書く予定はなかった。
 ところが、唐沢氏の以下のような「謝罪文」の内容を読んで、気が変わったのである。

 http://www.tobunken.com/news/news20070803110042.html
 謝罪文
 幻冬舎新書で刊行した唐沢俊一の著作『新・UFO入門』初版の中で、
 一部(同書134ページ〜139ページ)にサイト『漫棚通信ブログ版』
 (http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/)の
 内容とほぼ同一の文章を無断で掲載してしまった箇所
 がありました。この件に関し、漫棚通信様に大きなご迷惑
 をおかけしてしまったことを認め、謝罪いたします。
 なお、初版印刷分に関しては出版社在庫を裁断し、当該部分を
 差し替えた版を至急製作して、当該箇所にはその事情を説明した
 文章を付記させていただきます。今回の件に関し深く反省し、
 今後このようなことのないよう、出版活動に対し身を引き締めて
 あたる所存です。重ねて深くお詫び申上げます。
                  平成19年8月3日
                      唐沢俊一
                  幻冬舎新書編集部

 「当該部分を差し替えた版を至急製作して」って、絶版にする気はない、ということなのだなと。
 「今回の件に関し深く反省し、今後このようなことのないよう」と言うのであれば、当然、ほかの「盗用」部分についても反省していなければおかしいではないか、ということである。
 唐沢氏の「反省」とやらは決して充分なものではない。どこかにこの出来事を「甘く」見ている面が残っているのではないか。

 『新・UFO入門』が、単にUFO事件を取り上げているだけでなく、近代という科学的合理主義によって支配されているかのように見える我々の「意識」が、案外、前近代的なものに強い影響を受けていること、そして恐らく今はUFOを見なくなっている我々が、近い将来には「別の何か」を見ることになるのではないかと予見させる内容になっていること、これは本書を後世に残したいと思わせるに足るだけの充分な価値がある。だからこそ、盗用部分がかなりあることが残念でならない。
 だとしたら、いっそのこと、「一部訂正」などという姑息な手段を取らずに、「完全全面改稿版」を出版することにしたらどうか。朝日新聞の書評委員を自粛するというのなら、時間もおできになるだろう。当座の生活に困るということはないと思う。「盗作」という汚名を返上しようと思うのなら、それくらいの「禊」は必要だろうと切に思う。

2005年08月08日(月) 「思想」がらみで映画を見るな/映画『亡国のイージス』
2004年08月08日(日) 悪魔と狂人の間に…
2003年08月08日(金) 新車の名前はまだない。/DVD『諫山節考』/『低俗霊DAYDREAM』5巻(奥瀬サキ・目黒三吉)ほか
2002年08月08日(木) モラリストは読まないように(^_^;)/『軽井沢シンドロームSPROUT』1巻(たがみよしひさ)ほか
2001年08月08日(水) 代打日記
2000年08月08日(火) ボケ老人の夕べ/『カランコロン漂流記』(水木しげる)ほか


2007年04月19日(木) 森田雄三withイッセー尾形の『イッセー尾形のつくり方2007in博多』ワークショップ5

うわあ、もう明後日本番じゃん! 間に合うのか、間に合うのか!?
と焦っているのはもちろんワークショップ参加者一同なのだが、外見では私はしょっちゅう「堂々としてますね」とか言われてしまうのである。「わたしたち、こんなに大変なのにあの人だけ平気な顔しててさ」とか思われてないか。単に動きが鈍重なだけなのになー。

今日はフツーに夜の部から参加。遅刻もせずに6時5分前にイムズに到着。
ホールのロビーは夕ご飯の休憩タイムで、ワークショッパーズの仲間たちが談笑しながら会食しているのはいつもの風景なのだが、テーブルを見てみると、いつもは山のようにある弁当類が殆どない。どうやら、ほぼ食いつくされている模様だ。本番近くになって、参加者が増えてきたせいであるようだ。
おなかがすいていたので、一つだけ残っていたカレーライスを手に取る。スプーンが見つからないのでモタモタ探していたら、森田先生から「さっさと食べる!」と叱られた。すぐに「時間ないよ、練習始めます」とホールに入って行かれたので、全員が急きたてられる。私もカレーを5分で食べ終わる。演技は下手でも早食いは得意。全く威張れない特技だけれど(苦笑)。

昼の部はどんな感じだったのか気になったが、参加者の一人が「山で言えば一合登ったか登らないかくらいかな」と例える。進捗状況、そろそろ深刻になってきたということか。

「そろそろ組を決めて行こう……いや、もうちょっと二人組で練習かな」
森田先生の指示も何となく急いているような抑えているような微妙な感じになる。
初めてならともかく、何度も練習に参加しているのに声を作れない人がいると、「どうして声を作れないの?」「出る気ないの?」「叱られて明日から来なくなるなら大歓迎だからね」と猛毒の言葉が飛ぶ。しかしこれでも一昨年よりは「丸くなった」のを古手の参加者は感じているから、もう泣き出して飛び出して行く人はいない。
我々は少しは「強くなった」のだろうか。
うまくできた人がいると、「みんなこのレベルに行こうね!」と言う。けれどもそのすぐあとで「うまく出来るとか出来ないとか関係ないの。ただ喋ればいいだけなの。なのにみなさんは何が大事なのか、自分を守ろうとばかりするからね」なんてことを仰るから、さて、どうしたらいいものかとみな未だに混乱するのである。

私も自分の演じるキャラクターが全然つかめず、いろいろやってみるのだが、うまく行かない。見かねた森田先生が、「××××をやってよ」。
それはまあ、三日目だったかに、「稽古の間なら」と適当にやった役だったのだが、森田先生の評によれば「突然変異」だったらしい。「それで行くから」と役と出演がいきなり決まってしまった。それでも別に誉められたわけではなく、「稽古では、自分がこのキャラクターをやらないつもりになってるから、うまくできるのね。けれどもいざこの役をやろうというすると、必ず落ちてっちゃうの。それをどうするかってのが演出の仕事で、この方法論が分かったら簡単なんだけど、分からないんだなあ」と頼りになるんだか頼りならないんだか分からない不安なことを仰る。
演出家にそう言われてしまったら「私はどうしたらいいんですか」と言いたくなるが、そう口にすれば「しらねえよ」と返ってくるのはこれまでの流れで自明である。いやでも自分で悩むしかない。悩んでも何も出ないと分かっていながら。

組をいよいよ決めて行く、ということになって、森田先生、「イケてる人とイケてない人を組み合わせよう」ととんでもないことを言い出す。
「この人がイケてるかイケてないか、みんな挙手して」
魔女裁判ですがな、それ(涙)。
で、二組に分けられて、コンビを作っていく。そのときにもなかなか相方をきめられないと、森田先生の怒声が飛ぶ。前に出て演じてみて、うまく行きそうなら決定、そうでないならボツとなる。3、4組ほどが決定したところで「また明日」。けれども今までの通例から言って、こうやっていったん決まった組も、翌日に組み変えられることはよくあることなのである。
「みんな、結構喋れるようになってきたから、すぐに照明を落とすというわけにいかなくなったしね。全員をどうやって舞台に立たせるか考えないと」とちょっと悩んだようなことを仰る森田先生。でもそのすぐあとで「ま、何か考えます」と飄々と言い放って、解散。明日は予定を早めて10時から。いよいよ「追い込み」なのである。

2004年04月19日(月) 謎の柴田と、『漫画アクション』の復刊
2003年04月19日(土) メモ日記/腐れた夜。
2001年04月19日(木) 今日は眠いので短いよん/『クレヨンしんちゃん』29巻(臼井儀人)


2007年04月18日(水) 森田雄三withイッセー尾形の『イッセー尾形のつくり方2007in博多』ワークショップ4

 イムズ休館日のため、一日、間を置いてのワークショップ四日目。
 この間に世間では大層な事件がやたらと起きていたわけだが、自分がいっぱいいっぱいだと、身近で大地震でも起きない限り、大統領が暗殺されようがエイリアンが戸来村に飛来しようが飯島愛が引退しようが全ては対岸の火事である。

 でも、ちょこっとだけ例のアメリカバージニア工科大学で起きた銃乱射事件について触れておくと、日本のマスコミがいくら「アメリカは銃社会であることをやめるべきだ」とわめこうと、改まるはずのないことについてやいのやいの主張すること自体が能天気である。
 武器があるからこんな事件が起きる、銃規制を厳しくすべきだ、これは一見正論である。しかし現実論ではない。アメリカはいったん銃を持ってしまった。一度持ってしまったものはもう捨てることはできない。捨てれば、「自分が被害者になる」からである。
 今回の事件に関しても、校内に武装したガードマンが誰かいたなら、あるいはせめて教師が銃を持ってさえいれば、犯人を早々に射殺して、被害者の数を減らすことだってできたはずだ、とも言えるのである。
 少なくとも、日本人で、「自衛隊を認める人」が、アメリカさんに「自己防衛なんて考えなくていいからともかく武器を捨てろ」なんてことは言っちゃダメだよね。

 笑っちゃうのは、犯人が韓国人だったせいで、在米韓国人の間に「自分たちに対する差別が始まるのではないか」と動揺が走っているということ。
 あるに決まってるじゃん。そういうクニなんだから。「外国人は基本的に侵略者」、それがそもそも侵略によってアメリカ大陸をわがものにしたアメリカ人の常識なんだから、こんな事件が起きなくても、きっかけさえ与えられれば、東洋人は簡単に差別されるんである。
 旅行相談所は韓国人の観光のための渡米を控えるように忠告してるってことだけど、観光だろうと留学だろうと、最初からあなたは「危険と隣り合わせです」ってことは言っておくべきだと思うけどね。


 仕事をちょっと早引けして、昼の部の後半から参加。
 ホールに入って、おおっと驚く。もうステージが張り出し舞台の上に出来ているのだ。その分、いつもの練習部分は半分ほどに狭くなっている。
 森田先生から「こんなに早く来ていいの?」と聞かれたので、「サボってきました」と答えたが、もちろんちゃんと休みをもらってきたのである。ちょうど会議もなかったしさ。

 平日の昼の部は、なるほど、人数が少ない。夜の部の半分ほどで、15、6人ほど、女性が殆どで、男性は若い学生さん風の人がちらほらというところである。サラリーマン姿のやつなんて私だけだ(笑)。
 イッセーさんの「歩き方講座」から参加するが、新人さんが多いせいか、なかなかスムーズに流れない。イメージを作って歩いているか、ただ「ヘンな歩き方」をしているか、その差が歴然としている。「お父さんかお母さんのイメージを持ってみて」とイッセーさんも「一から」説明することになる。
 「歩いた後で『ご焼香』してみて」と一段階上の指示を出すが、みんな、お辞儀をしようとした瞬間にイメージが消えて、小手先の芝居に戻ってしまう。見るに見かねて、森田先生が「もう一度と円陣に戻して」とやや言葉を荒げ始める。
 昨日までまだ優しげだったのが、ようやく「森田節」の復活、という印象で、例の「頼むよ、あと三日だからね」も飛び出す。森田先生は私たちには「お父さんやお母さんの口癖を真似してみて」と指示されるが、このご自分の「頼むよ」が癖になっていることにはお気づきだろうか。

 円陣を組み、一通り、もう一度身近な人のイメージを繰り返させる。前に二人ずつ出されて、ともかく演じてみる。新人さんに「違う」「ダメです」「もう少し他の人の見てようね」と声が飛ぶのは当然だが、経験者に対してもダメ出し率が高い。「声作ってないよ」「余計な動きしない!」「そんなセリフがあるか! 高校演劇かテレビドラマだよ!」と怒声が飛ぶ。
 一番、キツイなーと感じたのは、「お父さんはそんなこと言う? 親はあなたたちにとても大事なことを残してくれたんだよ。それはね、口調を変えることで『これは話を聞かなくていい』と教えてくれたってことなの。いったい誰から教えられたのかしらないけど、『人の話を聞かなきゃならない』と思い込んでるでしょ? そうじゃないの。人の話を聞かないことが『身内』だってこと、『家族』だってことなの。そんなふうに大人を舐めたことを言ったり、親を貶めるようなまねはやめなさい」

 テレビドラマ風のセリフを森田先生がなぜ嫌うか。このあたりが一番の理由なのだろうか。

 書く時間がなくなったので、後半戦は省略。明日また書く時間があれば付けたすかもです(苦笑)。

2004年04月18日(日) 『カスカベボーイズ』余燼とPTSDな人々
2003年04月18日(金) メモ日記/危険な女の夜。
2001年04月18日(水) 中華思想の尻の穴/『名探偵コナン』32巻(青山剛昌)


2007年04月16日(月) 森田雄三withイッセー尾形の『イッセー尾形のつくり方2007in博多』ワークショップ3

深夜アニメはとても起きて見てらんないので、どうしても翌朝の鑑賞になる。

『大江戸ロケット』 第2話 「男は待っていた」
サブタイトルが『待っていた男』(名作時代劇ですよ)のパロになっている。こんなことに気付くオタクもイマドキはあまりいないだろうが、かと言って0でもないのが確実なのもオタク界の恐ろしいところではある。ほんなこつ、オタクはピンからキリまでやけんね(私は時代劇ファンなので知ってただけよ)。

 1話目のノリがムチャクチャよかったので、2話目で失速しやしないかと心配してたのだが、全くの杞憂。今週も面白い!
ついに月ロケット製作に乗り出す清吉とユカイな仲間たち! 謎の美少女ソラの正体はバレバレだけど、そんなことは気にしない! 権威も束縛も禁制も常識もみんなふっとばして、庶民の心意気を見せてやれ! ってノリがとってもよくって、これから物語がどう転がって行くかワクワクさせられる。

 しかも、ストーリーがしっかりしてるだけじゃなくて、ちょっとしたギャグとか作画のアソビとか、そういうのがまた小気味よいのだ。
 銀さんのキャラデザは多分、内藤泰宏さんだと思うが、崩した顔も内藤さんなんだろうかとか。
 今回の私的ヒットは、銀さんの指ほじりの先にいた虫(笑)。

 今回は遠山の金さんもちらっと出てきたんで、どうやら金さん対鳥居耀蔵って関係もサブストーリーとして展開される予感がする。
 これも時代劇ファンとしては大いにタノシミなんである。いちいち説明はしないが、これ時代劇においてはルーク・スカイウォーカー対ダース・ベイダーかハリー・ポッター対ヴォルデモートかってくらい有名な対決なんだからね。
今回の声優で言えば、山寺宏一対若本規夫! 渋すぎる!(笑)


と、気分よく、朝はるんたるんたと出勤、列車に乗ったのだが。


> 線路に飛び降り?特急にはねられ女性死亡…JR枝光駅
> http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_07041655.htm
> 16日午前7時20分ごろ、北九州市八幡東区枝光2、JR鹿児島線枝光駅構内で、門司港発新八代行き特急「リレーつばめ3号」(11両編成)に中年の女性がはねられて死亡した。乗客約110人にけがはなく、同特急は午前8時過ぎに運転を再開。事故の影響で別の特急2本を含む14本が運休(部分運休を含む)、51本が78〜9分遅れ、約2万7000人に影響が出た。
> 福岡県警八幡東署は、ホームにいた女性が線路上に飛び降りたとみている。


 この事故のせいで、職場に遅刻ですがな(笑)。
 まあ、遅刻と言っても、いつも早めの列車に乗ってるんで、15分ほど定時に間に合わなかっただけで、支障は来さなかったんだけど。

 こういうときは、車内の様子を観察すると面白い。明らかにイラついて顔を顰めている人、しゃあないなあと諦めムードの人、落ち着かなくてホームに出たり車内に入ったりを繰り返している人。電車が停まっている間の30分、私の目は私の体を離れて、アンバランスゾーンへと入って行ったのです(笑)。

それにしてもこのおばさん、理由は分からないけれども、多分、自殺だったんだろうね。こんな些細な事故では続報もなかろうから、確認する手段はないけれども、職場ではみんな「自殺」と決めつけていた。ごく客観的に判断するなら、この記事だけでは果たして事故なのかはたまた殺人なのか、何とも断定のしようがない、と見るのがだとうであるにもかかわらず、である。
ところが誰一人の例外もなく、「自殺だろう」と自信満々で言ってのけるのである。“あたかもこれが自殺であってほしい”かのようにである。
そのへんの人間心理を分析すると面白いのだが、日記が長くなるので省略(笑)。
ま、実際、人間、そういうものなのよ。


仕事帰りの列車もやや遅れて、イムズに到着したのが6時1分。
ワークショップ夜の部は既に始まっていた。

森田先生がいつもどおりにこやかに話されている。現代人の何が不幸か。
「目的を持たなきゃならないとか思いこまされてることね。何かこれをやらなきゃならないとみんな思わせられていて、したいことがないことが悪いことだと自分を責めるようになるのね。これは専門学校がそう思わせてるわけよ。なんとかコースとかいろいろ作ってさ。でもしたいことがない方が普通なの。若いころを思い出してご覧よ。何も考えてなかったでしょ?」

 何となく、小林よしのりが「今の若者は『夢を持て』『個性を持て』と思わされているが、平凡の素晴らしさを知らない」とか言ってたのと似ていると感じる。
フタコト目には「夢を持て」を口にする人間は腐るほど見てきて、私も実際そういう人間たちを鬱陶しいと常々感じていたので、大いに共感する。

練習は今日も特に支持はなし。今日からの新人さんもまた何人かいらっしゃるが、「身近な人を演じているのだな」とすぐに察しが付いて、結構、うまくマネをする。
しげ。が昨日、「新人さんは得だよね。前の人を参考にできるから」と呟いていたのを思い出す。私らが最初に参加した時には、殆どみんなが初めてだから、参考にしようがなかったもんな。
それどころか今は、身近な人間をやりつくして、あとが残っていない出がらしみたいなものである。ついに私は昔の彼女(未満の一人)を思い出してやってみたが、そんなのを演じてみたおかげで、自分がこいつのことを今でもかなり嫌ってるってことに気付かされて、かえって落ち込んだ。
全く、どんな効果が現れるか、このワークショップ。少しも油断がならない。


締めのお話はちょっとお下品。こんなことを書いて、ワークショップがあやしい人間の集うところだと誤解されても困るんだけれど、今日、一番印象深かった話だから仕方がない。
いや、最初のきっかけの話はフツーだった。「案外、現実でもかなり変わった出来事は起きているもので、それを舞台にかけらけないか」とかいう話だったのだ。
それが、いつのまにやら「チ×ケイレンってあるでしょ」という話になってしまって(笑)。

「医者から聞いたんだけどね、チ×ケイレンってあるでしょ、あれって結構起きてるって話でね、それであるワークショップで、『チ×ケイレンしたことある人』って聞いたらさ、本当に手を挙げた女の人がいてね。何でも彼んちに行ったらさ、そこで彼が急にしたくなったらしくて、始めたらそれが起こっちゃってね。最初は冗談かと思ったんだって。だって、女の方は何ともないんだけど、あれ、男の方は痛くてたまんないらしいんだ。何とか離れようといろいろやるんだけれども、全然どうにもならないわけ。で、夕飯時だから、料理ができてくるわけよ。彼んちだから親もいるわけで、でも遠慮して部屋には入ってこないの。もうどうしようもなくなってさ、切羽詰ってお互いをくすぐってみたらようやく離れたって。だからさ、チツケイ×ンはくすぐるといいみたいよ」

これが一番勉強になった気になったのはいいことなのか悪いことなのか(苦笑)。

イッセーさんも倉敷公演を終えて、今日から歩き方の練習。
個人的にはここで初めて「母親」を演じてみたおかげで、自分がどれだけ母を愛していたかに気付かされて、今度はまた別の意味で落ち込んだ。
 全く、今回が四度目だってのに、「初体験」ばかりなことである。

2004年04月16日(金) 横山光輝の死。いったいいつまでこの訃報ラッシュは続くのか。
2003年04月16日(水) メモ日記/冤罪の夜。
2002年04月16日(火) タコを求めて三千里/ドラマ『盤嶽の一生』第3回/アニメ『あずまんが大王』第2話
2001年04月16日(月) オー・ド・トワレ/『夜刀の神つかい』3巻(奥瀬サキ・志水サキ)


2007年04月15日(日) 森田雄三withイッセー尾形の『イッセー尾形のつくり方2007in博多』ワークショップ2

 いつもは日曜の朝は爆睡のしげ。が珍しく8時に起きている。
 それで『仮面ライダー電王』を見たのだが、設定をいろいろと説明すると、ちょっと興味を惹かれたよう。「『響鬼』以来、見たくなるかも」と。史上最弱のライダー、というのが効いたか(笑)。
 今日のゲストは池田成志君。ご存知の方も多かろうが、高校で同じ部活だった友人である。舞台では派手な役が多いが、一応イマジンに乗っ取られる役とは言え、基本的にはフツーのオヤジの役。なんだか老けたな。同い年だから当然と言えば当然なのだが。


 『天元突破グレンラガン』第3話「顔が2つたぁナマイキな!!」

> シモンとの共同作戦(?)で見事ガンメンを奪取し、敵を撃破したカミナ。
> 奪ったガンメンを「グレン」と名づけて得意げなカミナはヨーコに誘われ、狩りに出かける。その狩場でヴィラルと名乗る獣人と交戦。
> ヴィラルのガンメン「エンキ」の強さにラガンとグレンは敗退。
> なんとか命からがら逃げ出したものの、翌日にはリットナー村が襲われるのは明白だった。
> 逃げようと提案するシモン。
> 提案を一蹴し、ヴィラルとの再戦を挑むカミナだったが、やはり歯が立たない。
> ボロボロになっていくグレンの姿に、思わず顔を伏せるシモンに対し、ヨーコはカミナがシモンが必ず来ることを信じて戦っているのだと話す。
> 「で、あんたはどうなの?」

> 脚本:中島かずき/絵コンテ:大塚雅彦/演出:孫 承希/作画監督:近岡 直・石原 満

 今、気が付いたけれども「グレンラガン」って漢字で書いたら「紅蓮裸顔」になるんとちゃうかな(笑)。

 今石監督がメインになるようになって、ガイナックス作品のエンタテインメント性は上がりはしたが、その分、他社の作品との差別化は今ひとつ、という印象である。
 やっと登場した悪役ヴィラル、オープニングではキレた渚カヲル、という感じで期待していたのだが、セリフを喋るとこれが平凡というよりもただのバカで魅力がない。ただのチンピラか噛ませ犬である。
 頼むからさー、もう、「終わりだ!」「ばかな!」「なぜだ!」なんてこれまで何十何百のアニメや特撮で使われきたのか見当がつかないくらいどうしようもないセリフをさー、臆面もなく喋らせないでちょうだいよ(涙)。
 こんな萎えるセリフの間に「男の魂完全燃焼」とか「ムダムダムダ!」とか、島本和彦や荒木比呂彦のセリフを混ぜたって、かえって白けるだけなのである。
 脚本の中島かずきを信頼できないのはこういうところだ。王道と陳腐の区別が付いていない。
 作画はもう、テレビアニメとしては最高と言ってよく、アクションシーンと言うか殺陣のシーン、なぎ払われた草むらがパラパラと落ちていくようなカットなど、シビレろくらいの演出なのに、それがドラマにまるで絡まない。あと何話か見つづけたら、少しは面白くなるのか? 結局はエヴァ人気に頼らなければガイナックスは生き残れないのか?


 ワークショップ二日目。
 博多はほかの土地に比べてスケジュールがゆっくりの場合が多いが、古株が揃っているせいか、今回はテンポが速い。いつもなら二日目はまだ円座で練習、というところだが、今日は午前中にもう椅子を四つ並べた擬似舞台、そこで二人芝居を組まされる。
 もっとも森田先生、「今日はNHKの取材があるから適当にやろう」と仰っておられたが(笑)。

 昨日と違って、具体的に何をしろと言う指示が殆ど飛ばない。「ともかくやって」。
 これでもうこちらは混乱する。伸び伸びと演技される参加者もいるが、私はそこでどうしても悩む。「考えちゃダメ。準備しちゃダメ、舞台に立ったそこで考える、あなたがやってるのはシチュエーションで、そっちに行っちゃダメなの」と言われても、ある一定のシチュエーションがないと、セリフがまるで出てこないのである。
 ましてや、「思い出すことはいいけど、思い出そうとしちゃいけない」とまで言われてしまうと、これはもう観念論にしか聞こえない。いや、言葉の意味は決して抽象的ではなく具体的に理解はできるのだが、理解できたからできるというものではないのだ。

 「あなたみたいに『考える人生』を送ってきちゃうとね、これはすごく不幸なの」という言葉がズンと心に重くのしかかる。私はどれだけつまんない人生を送ってきたんだろう、と落ち込みかけていると、「俺の言う通りにしちゃダメだよ。言ってることコロコロ変わるんだから」と言って森田先生は笑われるのである。どうせえっちゅうねん。
 これはまあ、マジメな人ならたいていは怒るセリフだ。実際、これまでにも「これはどうすればいいのか」と質問した参加者に対して「知らねえよ」とぶっきらぼうに答える森田先生にムッとした参加者も少なくはない。乳母日傘の普通のワークショップとは性質が全く違うのだ。
 だから参加者が減るかと言うと、何度も繰り返し参加して行く人がちゃんと何十人といるのだから、人間というものは「懲りない」存在であると実感することである。

 「どうして演劇をやるかなんてことを言葉にしたらさ、もうこれはくだらないことにしかならないんだから」
 とこれは前回も森田先生がおっしゃっていたこと。けれども前回は「ともかくここに来たということはなんか意味があると」と仰っていたのが、今度は「何の意味もないんだろうね」と韜晦されるようになった。
 それでも先生の次の言葉は私の心にしっかりと突き刺さった。

 「人から見て欠点だと思われてること、ダメな人間ほど魅力的なのね。いや、俺は本当にそう思っているの。そういう人を舞台に上げたいのね」

 後半は殆ど「声」を作る練習。鼻声であったりおすもうさんであったり。
 「変わった声でも、その声がその人にとっての自然だってことだからね」
 歩き方の練習もまた同じ理論。全員が歩かされるが、一人として同じ歩き方の人間はいない。
 つまり、全員の歩き方が「変」だということだ。何人かの歩き方を真似させられる。私の歩き方も。みんなが私の真似をしているのを見て驚いた。そこには何十人もの「父」がいた。男性も女性も、みんな「父」だった。

 父のDNAは確実に私に受け継がれていたのである。


 ほとんど座っているだけでも、昼の部夜の部とぶっ続けだと(研ぐ今日は時間を間違えて昼の部が6時近くまで長引いたので)思い切りくたびれた。
 帰宅すると殆どそのままぶっ倒れて爆睡。
 そのおかげで、この程度のものしか書けないが、ご容赦願いたい。

2004年04月15日(木) 鷺沢萠の自殺と、人質解放
2003年04月15日(火) メモ日記/探偵映画の夜。
2002年04月15日(月) 興奮する電話。でもアッチ方面ではナイ/DVD『エイリアン9』4巻(完結)/『楽園まであともうちょっと』1巻(今市子)ほか
2001年04月15日(日) My guest is my Lord/『まかせてイルか!』1巻(大地丙太郎・たかしたたかし)



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)