無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記




ホームページ |プロフィール |掲示板「トーキング・ヘッド」 |メール
|藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2005年05月05日(木) 人を呪っても穴がない/『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』4巻(星野桂)

 6時40分起床。けれど本当は6時に起きる予定だった。
 父はいつも6時20分のバスに乗って店まで出勤している。博多駅から降りて店まで歩くのに10分くらいはかかるから、夕べ父に、「朝は車で送るよ」と約束していたのだが、当然、父はもう出かけている。恐らく、我々が高鼾で寝ていたので、起こしちゃ悪いと、一人でそっと出ていったのだろう。
 実は私は、いったん4時に目が覚めていたのだが(寝床が変わって広々とした場所で寝られても、不眠症が治るものでもない)、出かけるにはいささか時間が早いし、まだちょっと体もうまく動かない。とりあえず、テレビを点けておくことにした。そうしておけば、うっかり寝込んでも音の変化ですぐまた目覚めるだろうという判断だったのだが、寝惚けたしげが、私がウトウトした隙に勝手にテレビを消していた。
 ハッと目覚めて、時計を見たときにはもう遅い。
 暢気に鼾をかいていたしげを起こして、「おまえ、テレビ消したな?」と聞いたら、寝惚けた声で「消し忘れかと思ったから」と答える。
 「うちでも朝はいつもテレビ点けてるだろ!? 寝過ごさないためにそうしてるのに、何で勝手に消してるんだよ。それに、そういうことするんならどうしてお前は自力で起きないんだよ!」と怒ったが、しげは「ああ、ごめん」と口にするものの、またすぐ布団の中にもぐりこんでいる。もちろん、罪悪感から恥ずかしくなって顔を隠したわけではさらさらない。ただ単にまだ眠いだけである。しばらく待って、7時を回ったころにもう一度声をかけた。
 「もう大概で起きろよ。店に行って、ここの鍵を返さないと」
 「じゃあ、『釣りバカ』見てから店に行こうか?」
 「ばかやろう!」
 寝過ごして約束を守れなかったことを申し訳ないと感じる心がないのだ。日ごろ、他人に対しては時間の感覚がルーズだのなんだのと文句を垂れるくせに、自分には甘いのである。こういうところが「ずるい」のだが、結局しげは起きてても半分寝ているような生活を送っているので、自分が卑怯者だって自覚もないんだろう。こいつと一緒にいると、本当に疲れる。
 父のマンションに泊まったときでもこんな風にぐーたらだと、今後もしも父と同居するようなことになった場合、ちゃんとした生活ができるものかどうか不安だ。なんでもソツなくやれと言いたいわけではないが、日常のリズムを作れないのが生活習慣の乱れに繋がっているのは間違いないことなんで、少しは改善しなきゃって思いを持ってもらいたいものである。でなきゃ、病院に通ってる意味だってないよ。
 店に顔を出すと、仕事中の父、案の定、「気持ちよさそうに寝とったけん、起こさんやった」と答えた。ともかくムカシの人間というのは人に気遣ってばかりで、それはたとえ親子の関係であっても同じである。一言声かけて、「起きろ」と言ってくれればいいのに、その程度のことでも遠慮される。一緒に食事をしても、油断すると飯代も全額自分で払おうとするような親なので、息が抜けないのである。世間の親というものは、年を取ったら、もうちょっとわがままになるものじゃないのかね。


 ここんとこ、兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故のニュースは、JR西日本のアラをいかに見つけるかに腐心しているように見える。
 そりゃ、実際に事故を起こした責任はJR西日本にあるのだし、その体制に問題があって、今後も同様の事故を起こしかねない点があるのは確かだ。たかが一分半の遅れが原因で、過剰な懲罰を受けるというのは、諸外国から「日本独自の現象」とか非難されてたけれども、日本人全般の感覚からしても非常識だと思うぞ。あれを日本の常識だと思われては迷惑だろう。二、三分程度の遅れはザラなJR九州なんてどうなるんだ(いや、遅れていいと言いたいわけじゃないけれども)。
 だから、その責任を追及することは確かにマスコミの仕事であろうとは思うのだ。けれど、だとしたらやはり、新聞もテレビも、今のような揚げ足取り的報道の仕方はちょっとおかしい、と自分たちで気づかなきゃいけないのではなかろうか。なんか、責任追及の目的から外れてしまっているように思えてならないのである。
 例えば、JR西日本の過剰な管理体質が問題だ、とするのならば、事故後もオーバーランがやたらあった、と報道するのはその視点がズレちゃってるんじゃないか? と感じるってことなのである。結局、それらのオーバーランを起こした運転手たちが「どういう処分を受けたか」は全く報道されていない。それじゃあ、JR西日本の体質が変わったのかどうかまでは分からずじまいじゃないの。たとえオーバーして定刻に遅れるようなことがあったって、もう事故前のような運転手苛めのような懲罰は下さなくなった、と報道するのなら分かるんだけど。

 「報道に対する違和感」は更に広がっている。
 事故が起きた先月の25日、JR西日本大阪支社天王寺車掌区の区長ら職員43人が、発生から約3時間後に、懇親目的のボウリング大会を開催していた、という二ユースも、聞いたときには「何でこの非常時に?」と確かに呆れはした。事故を起こした管区の人間がそんなことをしていれば、それは確かに非難の対象になるだろう。
 しかし、この区長さんがテレビに出て頭を下げながら言った言葉を聞いて、あれ? と思った。「自分の管区外だということで、自分も行かなければならないという認識に欠けておりました」というような趣旨の言葉を口にしていたのである。
 えーっと、大阪の地理には詳しくないのだが、事故現場と天王寺って、近いの? 遠いの? 管区が違っていても、近場で事故が起こっているのなら駆けつけなかったのは人としてどうかとは思うけれども、普通、管区外の人間が公的に認められた休暇取ってたからと言って、責められる筋合いのもんじゃないんじゃないのかねえ。 マスコミの報道の仕方の「いやらしさ」は、このことをこんなふうに「歪めて」伝えている。
 「天王寺車掌区は阪和、関西線などが管轄で福知山線と直接関係ないが、同じ大阪支社管内」。なるほど、こういう表現の仕方だと、たとえ管区外だろうが駆けつけるのが当然で、事故を無視するのはおかしい、という印象になる。けれどこれって簡単に「天王寺車掌区は、大阪支社管内ではあるが、阪和、関西線などが管轄で、福知山線と直接の関係はない」って言い換えられる。それぞれ自分の地域に当てはめて考えていただければ分かるんじゃないかと思うが、「同じ大阪」って、やたら広いと思うのである。福岡で考えたって、博多区で起きた事故に東区の連中が出張ってきたら、かえって現場が混乱することだってあるんじゃないか。人手が足りないなら足りないで、改めて休暇返上で召集をかけるのは、それこそ、上層部の仕事なんだから、責任が重いのはやっぱりそっちのほうだろう。マスコミ、何を「下っ端イジメ」やってるんだか。
 それに、区長は放送で事故のことは知ってたと言うけれども、その放送内容自体が当初は死者が出ていることも告げず、「踏切事故」程度のことしか言ってなかったっていうじゃないの。だったらレクリエーションに行こうって判断したとしても仕方がないと思うけどな。繰り返すけれども、責められるべきなのは、現状把握が事故後何時間経ってもできなかった上層部にあるとしか思えないのである。
 当該の電車に乗っていながら現場から出勤した阿呆とは、状況が違う(あの阿呆たちは、たとえ上司が出勤せよと命令しても、「あほかお前は!」と罵倒すべきであった。上司に逆らえないと言うのなら、人間辞めちまえ)。それをなあ、もうどこまでこのニュースで「引っ張りたい」のか知らないけれど、マスコミのアラ探しも今に始まったことではないが、今回は特にひどすぎやしないか。ボウリング大会の後、どこぞの宴会場で開かれた二次会の現場まで出かけて行って取材なんてしてやがるが、誰がそこまでしてくれと頼んだ。「みんな楽しく酒を飲んでいた」とか、そんなニュースまで知りたがるやつなんて、どれだけいるって言うんだよ。
 とか何とか言っても、今や全ての報道機関が「フライデー化」してしまったと言っていいマスコミの体質が、たとえ訴えられたり処分されたりしたところで、変わるわけもない。そこんとこが胸糞悪いのだが、やはり「報道の自由」は保障されなきゃならない。だから、行政による報道規制がされるような事態にはならないでほしいとは思う。ただ、こっちが頼んでもいないのに余計な調味料を振りかけてまずくなった料理に対して、「くそまず」という権利だって、こっちにはあるのである。
 だから、怪我した人のインタビューまで、病院にずけずけと入りこんで取ったりするな。この腐れ脳どもが。


 昼間、テレビでドラマ『金田一耕助の傑作推理 悪魔の手毬唄』の再放送。これも本放映当時は見逃していたもの。金田一耕助の古谷一行、等々力警部のハナ肇はレギュラーで、それに磯川警部役で藤岡琢也が絡む。原作ではこの東京、岡山の両警部が相協力する描写はないので、これは横溝正史ファンにとってはなかなか嬉しいサービス描写である。磯川警部役は市川崑監督映画版の若山富三郎という極め付けがあるのだが、藤岡琢也の名演も捨てがたい。
 ストーリー自体は、恐らくは長大な原作を二時間に収めなければならないためだろう、原作のトリックを台無しにしている部分もあって、評価はしがたいのだが、『八つ墓村』などと違って、原作を妙にいじったりしない限りは(高倉健版『悪魔の手毬唄』のことね)そんなに駄作にはなりようがないのである。古谷一行の金田一物の中では、比較的出来のいいものとして仕上がっているように思う。つか、まだ古谷一行が若いしね。


 木曜ドラマ『アタックNo.1』第4話。
 猪野熊監督に選抜の合宿から帰され、富士見学園に戻ったこずえの再起編。
 今回のこずえに対する仕打ちも無茶苦茶で、実際、本郷コーチが言うように、こずえが自殺でもしたら選抜自体がオジャンになりかねないわけで、猪野熊監督のやり方はただの熱血バカのそれでしかなく、「世界に通用するためには」なんて台詞にまるで説得力がない。原作ではこずえに厳しいようでも実は監督としてこずえをしっかり見ているはずなんだけど、やっぱ船越栄一郎が演じると胡散臭いやつにしか見えないな。つか、ありゃ柏葉英二郎だわ。こずえの代わりにみどりをっていうのも、どちらかをかませ犬にしようって手段にしか取れないから(まあ最終的に選ぶのはこずえなんだろうけれど)、こんな人事をやってれば、選手全員離反して、監督解任されるって。ドラマとは言え、作りが強引に過ぎる。
 緑の人物描写もなんだかなあで、酔漢に教われたチームメイトを助けたこずえを「売る」必然性がない。自分はもう選抜に選ばれたんだから、これ以上こずえを貶める必要なんてないじゃんかよ。まあ、脚本は一話目から破綻してたから、今更なんだけれども、これくらいデタラメやるってのは、やはり往年の題詠ドラマを意識してるのかねえ。いやまあ、加藤夏季が出ている限りはとりあえずドラマは追いかけますって。ドラマの中で一番素直でいいい子の役だし。 


 マンガ、星野桂『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』4巻(集英社)。
 いかにもどこかで見たようなマンガであっても、3巻、4巻と続けばもうオリジナルである。人気も出てきたようで、今巻からいかにも「場つなぎ」な印象の強い、「孤城の吸血鬼」編が開始。
 前巻で左眼をつぶされたアレン・ウォーカー、冒頭でいきなりその目が再生し始めているというやや気色の悪い描写が。一時期、マンガでもアニメでも、身障者を描写しちゃいけないとする過剰な自主規制がはびこってたものだが、この『ディー・グレイマン』はそんなのどこ吹く風で、言い方は悪くなるが、悪趣味なゲテモノ描写をどんどんかましてくれている。ノアの一族のフランケンシュタイン継ぎ目なんかは最たるものだ。
 こういう描写がジャンプ誌上で許されるようになったのは、やはり『幽遊白書』あたりからの冨樫義博の「暴走」がかなり寄与していると思う。冨樫さんは「自分があるエポックを作り出してしまったこと」について、どの程度自覚しているのか分からないが、ごく自然に異能力者が“いびつな姿”で存在している世界を描くことは、フリークスが当たり前に存在するのが自然な世界である、と主張しているのと同じなのである。こういうマンガには、その絵柄のグロテスクさとは相反して、世界設定の根底に差別とか平等とかいった概念についての深い思索が巡らされているので、読んでいて気持ちがよいのである。
 今巻初登場のアレイスター・クロウリー男爵も、一応「吸血鬼」らしいのだが、前巻のミランダさん同様、やがてはエクソシストの一員として活躍していきそうで、しばらくはこういう「仲間探し」という形での展開が続きそうな感じである。
 ということはエクソシストたちと、千年伯爵&ノアの一族との戦いが、一時、ワキに追いやられてしまうわけで、てっきり今回も新しいノアの一族が登場すると思っていたのに、ちょっと肩透かしを食らった感じである。
 でも、ということはこの作品、かなり受けているということで、5巻以上は確実に続くだろうと思われる。となると、あまり大風呂敷を広げすぎると、そもそも世界観自体、『ドラゴンボール』や『ONE PIECE』よりもずっと大きいので、両作以上に収拾がつかなくなる心配もある。アクマはあくまでアクマであって悪魔ではないのだから、今後は神だの仏だの、ハルマゲドンだの出してこないことを祈るばかりだ。

2004年05月05日(水) 躁なんだか何なんだか。
2003年05月05日(月) 東京の空の下�ぁ娠撚茵悒椒ぅ后戮曚�
2002年05月05日(日) トンデモさんの系譜/『こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』』(山本弘)ほか
2001年05月05日(土) 東京ドドンパ娘/葛飾柴又寅さん記念館


2005年05月04日(水) 12万ヒット!/『コミックマスターJ(ジェイ)』12巻(田畑由秋・余湖裕輝)

(昨日の続き)
 磨子はとんでもない跳躍力で、塀を乗り越え、疾風のように走る。目指すは垂水家の人々を殺した村の若者たちだ。殺戮! 炎上し、川に突っ込む若者たちのバイク。けたたましく笑う磨子! 美少女をこんな風にしちゃうなんて、伊藤俊也、あんたはサドか!
 そして、最後には竜次も狙う磨子。「村から出て行け!」と叫ぶ磨子に、「かわいい磨子を元に戻すまでは出て行くものか!」と応酬する竜次。いきなり「かわいい磨子」なんて、このときの竜次は完璧にロリコンだ。グラマー(泉じゅん)にスレンダー(山内恵美子)にロリータ(長谷川真砂美)って、好みの幅が広すぎるぞ大和田伸也。
 「出ていかないなら殺してやる!」と叫ぶ磨子。確かに最初に祠を壊した責任はあるけれど、そのあとは垂水家の人たちを守ろうとしたんだし、犬神が竜次を殺す理由はないように思うんだが。
 と思っていたら、麗子の顔が磨子の背後からにゅっと現れ(二人羽織だったのか!)、「やっぱりあなたは私を裏切って、かおりと!」と呪いの言葉を吐く。もう登場しないと思っていた泉じゅんのびっくりの再登場。
 そうかそうか、最終的な呪いの正体はやっぱり麗子だったのか、と思っていたら、竜次に飛びついて背後から首を絞める磨子の足には、びっしりとスネ毛が! おおおおお、『おとこ足の少女』! 好美のぼるへのオマージュか!(どっちが先なのか、よく知らないのだが)。ということはやはり犬神も磨子にとり憑いているのか? しげは「室田日出男の足!」と言うが、もしそうならこいつは泉じゅん+長谷川真砂美+室田日出男のキメラである。別の意味で怖いぞ。
 ああ、結局諸悪の根源は誰なんだよう! と悩んでいたら、竜次が「一番悪いのは俺だ!」……はあ、さいざんすか。
死闘の末、竜次は「かわいい磨子に戻ってくれ!」(この間竜次はずっと「かわいい磨子」を連発するのである。このロリコンめ)と磨子の首を締める。ぐったりとなった磨子の顔はもとの磨子の顔にもどっていたが、ハッとして磨子の心臓の鼓動を確かめた竜次は血相を変える。磨子が死んでしまった! 失意のあまり井戸の中へ飛びこむ竜次。その時、飛沫がほとばしって、磨子の顔へかかる。磨子は息を吹き返した!(さっき、心臓を確かめたのはどうなったんだ?)
 葬式の行列が進む中、一族の中、ただ一人生き残った磨子は、葬列を離れ、竜次が荼毘に付されている棺桶のそばに駆け寄る。ところが竜次は生きていた! 棺桶を破り飛び出す竜次。しかし、火の勢いは強く、竜次はやっぱり焼け死んでしまうのだった。
 ……どういう終わり方だ、これ。

 伊藤俊也監督、他の作品を見ていくと『誘拐報道』『白蛇抄』『風の又三郎 ガラスのマント』『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』など、まあ傑作とは言わないまでも決して駄作ばかり撮ってたわけではない監督だと思うのだが、この『犬神の悪霊(たたり)』のときはどうしちゃったものか。いったい何がやりたいのかがまるでわからない。因習に対して批判したいのなら、犬神憑き自体を否定しなきゃならんと思うのだが、やっぱり最後はオカルトで終わるしなあ。ともかく次にどんな展開が来るのかが全く読めない。読めるかこんなの。世にカルト映画は数あれど、やはり「伝説」となるためにはちょっとばかりおかしいところがある、程度ではダメで、これくらいぶっ飛んでなきゃ面白くない。橋本忍監督の『幻の湖』もかなりキテる映画ではあったが、あれはまあ、放送できる分だけ「無難」ではある。『犬神の悪霊(たたり)』は、こうした上映会の機会がなきゃ、まず目にすることは不可能だ。
 “こういう映画”がお好きな方、映画情報誌とかで、上映の告知を知った際には、未見であればぜひ目にされることをお勧めする。だからまあ、ネタバレを覚悟でかなり詳しく筋を書いた。いや、ちょっと筋を書いたくらいでは、この映画のものすごさはとても表現しきれないのだ。……でも、ごく普通の映画ファンには絶対勧めませんよ。『タイタニック』とか好きな人には縁のない映画です。


 父のマンションに帰って、DVD『釣りバカ日誌2』を見る。父はもう眠っていた。
 シリーズ化されたが、前作のラストでハマちゃんを土佐に帰してしまったのをどうするかと思ったら、どうもせずにハマちゃん、堂々と東京本社に返り咲いていた。スーさんのメイクも一策目と変えて若々しくなっている。
 こんな風に「一作目をなかったこと」にして始まる第二作というのも珍しい。まるで小説版『機動戦士ガンダム』のようだ。初マドンナとして原田美枝子がスーさんと妖しい雰囲気になるが、これは一作目の石田えりとの関係の焼き直し。ホテルに泊まったり(何も関係は深まらないのだが)、一作目よりも描写が露骨になった分、爽やかさは減っている。急遽決まった二作目で、いささか脚本も演出も迷走したような印象だ。
 原田美枝子を「妹」と騙したスーさんを、ハマちゃんが土産物に釣られて許すラストも今一つ潔くない。残念ながら、一作目よりもかなり出来が落ちる。でも、最初は継続当番を拒絶した三国連太郎が、開き直って「ズッコケ」を見せてくれるのは貴重かな。

 就寝は何時くらいになったのかな。多分二時か三時ごろか。「夜中に帰っても勝手に寝ていいぞ」とは言われていたが、父親への遠慮というものが全くない息子夫婦である。



(本日の日記)
 更新が滞っているにも関わらず、日記のアクセスが毎日百人以上。ひたすらありがたいことであります。
 ついにカウンターも12万ヒット。何だか自分でも信じられない数字ですが、常連さんも恐らくは二、三十人、たとえ一ヶ月更新がなくても、ともかく覗いてくださる奇特な方がいらっしゃらないと、ここまでの数字にはなりません。もう、一人一人の手を取って万歳しながら、「ブラボー!」と叫びたいくらいです。
 ROMに徹しておられる方にまで無理にとは申しませんが、日記の感想とかメールで頂けたらありがたいです。頂いたメールには必ずご返事を返しておりますが、私が使ってるOutlook、セキュリティが厳しいらしくて、メールによっては私のところまで届いていないものもあるようです(だいたいしげのメールが私のとこに届かない)。メールを送ったのに返事がない、ということがありましたら、掲示板のほうでお問い合わせください。

 カウンターは調子よく回っていますが、投票ボタンの方は押してくださる方があまりいらっしゃいません。「エンピツ」日記には投票ランキングのコーナーがあって、一位とか二位の人は一日で千票とか入っていますが、私は一、二票くらいのものです。いや、そもそもだいたい私自身が殆ど押してない(笑)。
 一応、投票機能があるのなら設置するだけしてみよか、と、何の気なしにボタンを付けただけなので、いちいち今日何票入ったかな? と確認するのも面倒くさがっていたんですね。「エンピツ」の登録ジャンルを私は「アニメ・漫画」にしてますが、実際にはアニメや漫画の話題がなかなか書けないでいますし、歯に衣着せず辛辣に貶しているマンガも多いので、私がファンなら当然票は入れません。得票が少なくても当然だろうと、私は気にしてはいませんでした。
 ですが。
 しげが、突然、「何、あんた一票しか入っとらんやん」と言い出しました。
 「ああ、そんなもんだろうね? それがどうした?」
 「あんたが入れたと?」
 「自分じゃ入れないよ。お前だって入れてないやろ?」
 「だって、こんなのがあるって気づいたの、今日が初めてやもん」
 「……気づいてなかったんか?!」
 「順位が下のほうやったら探しにくいやん!」
 「探さないでいいよ!」
 「いいから一票入れり!」
 無理やり一票を入れさせられたんですが、なぜ急にしげが得票を気にし始めたのか、理由がよく分かりません。好意的に考えたら、私があまりに下の順位なので、妻として悲しく思った、ということかもしれませんが、そういう形で妻の自覚を持たれてもねえ。
 というか、夫を気遣う自分を演じたい気分になっているというのが正解でしょうね。このまま得票が低いままなら、そのうち飽きるでしょう。
 それでもやいのやいのとうるさいし、確かに自分で自分に票を入れないのも卑下のし過ぎかとも思うので、一応、一日一票は自分で入れることにします。

 けれど、仮にそれで票が上がったとしたら、やっぱり私は嬉しいのでしょうか? 低いままだと落ち込むのでしようか? いや、自分のことでありながら、そこんとこが今一つピンと来ないんですけどね。それは、やっぱり「投票」の中身が見えていないからでしょう。
 得票数の高い日記を読むと、「なるほどこれは面白い」と感心するものもあれば、「これに人気があるのはなぜ?」と首を傾げたくなるものもまま見受けられます。邪推かもしれないけれど、日記の中には身内ボメで仲間が無条件で押してるものもあるんじゃないでしょうか? 私自身、お気に入りに入れている日記に票を入れることはよくありますが、「今日は今一つかな」と感じたら入れないようにしています。無条件に票を入れないのがその人たちへの礼儀だと思うからです。
 この日記を読んでくださっている数少ない常連のみなさまも、気が向いたらボタンを押していただけるとありがたいのですが、「つまんない」と思われた日は、無視して頂きたいと思います。そうでないと、私自身が客観的な判断ができないからです。


 昼、WOWOWで、『生中継 シティボーイズ・ミックス メンタル三兄弟の恋』。
 いつもは公演を見て、その後でテレビ放送を見るのが常であったが、今回はそれが逆になった。何しろ生だからどんな失言があるか分からない。再放送があってもPが入るかもしれないから、これは絶対録画しとかないといけないのである。
 具体的な感想は、舞台見た後にしときます。


 どんたくを見に行った父を拾ってマンションへ。
 「どんたくはどうやった?」と聞いたら、「つまらん」と即答。博多駅前の舞台で歌手がなんかイベントやってたらしいのだが、どこの誰とも知れん歌手で、全然面白くなかったそうだ。「誰が来てたの?」と聞いたら「覚えとらん」とのこと。配布されてるパンフレットにも名前が書かれてないから、急遽ヒマな歌手を呼び寄せたものか。
 出店は好きだが、混雑が嫌いなしげは行く気はなし。混雑だけなら私は平気なのだが、お祭りのためのお祭りになっちゃってるから、やっぱり行く気がしない。
 結局今日は、夕方から父が買ってきた肉で、焼肉パーティーをする。父がもう、牛だの豚だのハマグリだの、食いきれないくらいにてんこ盛りで買ってきたが、私もしげも見事に平らげた。腹はもうパンパンである。
 「そんなに食べてないのになあ。豚なんて一枚しか食ってない」と私が言ったら、「何を言いようか。豚を三枚食ったの、ちゃんと見とうぞ」と父に言われた。野菜食ってる間にしげにどんどん肉を食われていたので、自分では食った意識がホントになかったのである。


 三夜連続で、今日はDVD『釣りバカ日誌3』。
 今度のマドンナは五月みどり。昭和20年、スーさんが出会った女性の娘で(つまりこの映画の制作時点で50歳、必然的にスーさんは70過ぎってことで、実際の役者の年齢に合わせているのである)、もしかしたら本当にスーさんの娘か? というのが今回の「すれ違い」のキモ。スーさんの方は五月みどりに恋心を抱くのだが、五月みどりはもしかしたらこの人が父親かも? とあくまで娘としての慕情しか抱かない。このあたりは『男はつらいよ』第一作で、寅さんをあくまで幼馴染のお兄ちゃん、としか見なかった光本幸子と同じシチュエーションである。
 さらには、星が浦の開発に反対して、クビになりかけたハマちゃんが左遷されそうになるのに、「釣りが出来る!」と喜ぶギャグは一作目の焼き直し。早くもマンネリになりつつあるのがちょっと心配な第三作だった。


マンガ、田畑由秋脚本、余湖裕輝作画『コミックマスターJ(ジェイ)』12巻(少年画法社)。
 なんですかねー、登場人物のマンガ家に、映画『最後のサムライ』(『ラストサムライ』ですな)を「鎧を着ているのは間違ってるんじゃなくて演出だっのっ。映画は歴史の教科書じゃねーんだよっ。この映画が何を描こうとしているのかという読解力もないのかっ!?」って叫ばせてるけど、「時代考証」ってのは「形」だけじゃなくて、その時代の「精神」だって考証するものだ。『ラスト・サムライ』にどの時代の日本人の精神が表現されていたかな? 映画が歴史の教科書じゃないのはその通りだけれど、「明治に鎧」を演出と言うには無理がある。西部劇でインディアンがジープに乗って攻撃してきたら、この監督は馬鹿だとしか思わないでしょ。「この映画が描こうとしているもの」は、監督の脳内にしかない「日本人像」である。「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのは『葉隠』などにあるかなり特殊な「武士道」の捉え方なんで、普遍的なものじゃない。どうして日本人がありがたがらなきゃならないかね? それに、このマンガ家が「日本を武士の国」と捉えているのもそれこそ歴史認識の大間違い。日本人の大多数は、昔からそのメンタリティにおいては農民と職人と商人の国だよ。前にも書いたと思うが、『七人の侍』を引くまでもなく、時代劇は「勝ったのは侍ではなく百姓」であるのが一番相応しいのだ。日本の時代小説は、侍ものよりも捕物帳を初めとして、市井物のほうが圧倒的に多いことを知らないんだな、この作者は。日本人の癖に。
さらにこのマンガ家は、USA『ゴジラ』を見て、「このGODJIRAよりすごい映像が、いままで日本のゴヂラ映画にあったか? はっきりいおう、ない。断じてない」とか嘆いている。これも『ゴジラ』の精神を何一つ表していないUSA版のほうがよく見えるらしい。核の脅威を描いてるんではなくて、それすら制御できると安易に語るバカ映画のどこが傑作だ? 読解力がないのは誰だろうねえ。
 こういう精神主義の塊のようなバカが大挙しているもんだから、外国映画のほうが日本映画よりよく見えるのである。外国映画に対する故なき劣等感から、自国の映画が貧弱に見えているだけだ。まさしく「自虐史観」である。こんな卑屈な根性で、どれだけの作品が描けるものかね? 真っ向から侍魂を見せてやる! と嘯くんなら、井筒和幸監督を「井痛痛数奇」なんてモジッて誤魔化さないで、堂々と批判しなさいよ。批評の対象なら、実名でも構わんはずだぞ?
 今巻から、ついに最終回に向けて、コミックマスターJがゴーストライターになったいきさつを語る「神との戦い編」が始まったのだが、こんなに底の浅い作者だったのかとガックリ来ちゃったので、これまで面白く読んでたのが一気に冷めた。日本のマンガは今や「聖書」を越えた高みにまで上っている、と誇っているような暗示もあるが、作者がただの妄想家なら、説得力がなくなっちゃうのである。あーあ。

2004年05月04日(火) 巨匠たちの幻の映画……12時間連続映画三昧。
2003年05月04日(日) 東京の空の下��
2002年05月04日(土) 日記書きの一日/アニメ『アタックNO.1』/『低俗霊DAYDREAM』3巻(奥瀬サキ・目黒三吉)ほか
2001年05月04日(金) ウナセラディ東京/江戸東京たてもの園/『ヒカルの碁』12巻(小畑健)


2005年05月03日(火) 彼女がウェディング・ドレスに着替えたら/映画『犬神の悪霊(たたり)』

 女優の原田知世と、イラストレーターのエドツワキとが結婚。
 記事の一つには、「“時をかける少女”が公開から22年の時を経て、ついにお嫁さんになった」とあって、つまりデビュー後どんなにたくさんの映画に出ても、やっぱり『時をかける少女』のイメージでしか見られていないのだなあと、ちょっと悲しくなった。“時をかける奥さま”なんて惹句まであったが、何なんだいったい。下手なパロディマンガのタイトルにでもありそうな。
 映画『時をかける少女』には、公開当時、思いきりハマッちゃって「原田知世はいい!」と力コブ作って叫んだ人たちがたくさんいるのだが、私もその一人である。しかし、同時に大林宣彦のクサい演出に失笑した人だっていて、単純にあの映画を「傑作」と断言するのははばかられる。
 しかし、何にせよ「印象の強さ」では、他の原田知世出演映画は遠く及ばない。「芳山和子=原田知世」というイメージがラベンダーの香りとともに(笑)刷り込まれてしまっている人も私の世代には多かろうと思う。イマドキの「萌え」少年たちを笑えないのである(もっとも我々は本気で原田知世に「燃え」ていたのであって、「萌え」なんて軟弱な表現は絶対にしたくないのだ)。
 しかし、入れこんだファンがやたらいるってことは、原田知世に『時かけ』の「色」をべったりと付けてしまったことになる。それは、原田知世が役者として大成するに際して、半端ではない障碍として働いたのではないか。角川三人娘のほかの二人、薬師丸ひろ子、渡辺典子に比べると、原田知世の出演作は、映画、ドラマともにやや少ない。
 ところがそれが、今年から来年にかけて彼女は、『村の写真集』(三原光尋監督・4月公開)、『姑獲鳥の夏』(実相寺昭雄監督・7月公開)『サヨナラCOLOR』(竹中直人監督・8月公開)『大停電の夜に』(源孝志監督・2005年冬公開予定)と、立て続けに四本の映画に出演する。「いったいどうしちゃったんだ原田知世」感が強かったのだが、つまりは恋が彼女の身も心も充実させていたってことか。
 まあ、私もオトナですから(笑)。「エドツワキ許さん!」とかトサカに来ることはないけれど、なんかアレですね、女優さんにハマッて、レコード、写真集まで買いまくったっていう経験は、私にとっては薬師丸ひろ子と原田知世が最後なんで、なんかついに青春は終わったなあ、という感じですね(実はその後もあるのだが、まあ、この二人ほどの入れ込みではない)。
 歌手としての原田知世についてもヒトコト。
 誰もが原田知世の代表曲を『時をかける少女』だと言うだろうが、私ゃやっぱりデビュー曲である『悲しいくらいほんとの話』(テレビ版『セーラー服と機関銃』主題歌)を推したい。デビュー作にこそ、その新人のオリジナルな輝きが横溢していると思うからである。
 ついでに言えば、原田知世のデビュー映画も『時をかける少女』じゃなくて、『幻魔大戦』だからな。


 夜、シネ・リーブル博多駅で、『カルト渦巻地獄劇場』、第二弾は1977年製作、伊藤俊也監督の『犬神の悪霊(たたり)』。
 公開当時は市川崑監督の『犬神家の一族』がヒットした直後で、タイトルはそれに便乗しているが、中身はオカルト・ブームの延長線上にある。怨霊ものなら日本にも「犬神」があるぞ、という意気込みなんだろうが、当時の私にはいかにもな際物に興味がわかず、映画館まで足を運ぶことはしなかった。全く、こうも幻のカルト映画になると知っていれば、あの当時に見に行っとゃよかった。ただ、当時中学生だった私がこの映画の驚くべき展開を楽しめるだけの「度量」があったかどうかは疑問だが。
 現在、テレビ放送は自主規制され、ソフト化されないままであるのは、作中の精神異常者の描き方に原因があるのだろうと察しは付く。
 確かにムチャクチャな描き方ではあるのだが、これはあまりにムチャクチャ過ぎて、殆ど意味不明の域にまで達しているので、これは逆に精神異常者への偏見など生じ得ないのではなかろうか(笑)。「こんな既知外はいねえ」って誰だって思うよ。いやもう、ある意味これ、『恐怖奇形人間』よりもトンデモな映画なんスから。

 冒頭、クレジットシーンは延々と洞窟の中を映し出し、そこに菊池俊輔のテーマソングがかかる。いかにも70年代のチープなホラー映画の雰囲気、というか、太鼓と女性の悲鳴めいた合いの手の組み合わせで、土俗的なムードを強調している。このシーンを見れば、たいていの観客は、当然のごとく、「ああ、これはやはり土俗的なオカルト映画なのかなあ」と思うだろう。私もそう思った。
 音楽とクレジットが終わっても、洞窟のカットがもうちょっとだけ続く。その出口の映像が唐突に切れ、主人公たちがジープに乗って登場。出口の映像はジープが出てくるトンネルの映像にかぶるのだが、この編集の仕方がいやに雑だ。このあともカット尻が余ったり足りなかったり、編集の下手糞さがこの映画はやたら目立つ。かなり急いで作られた映画なのだろうか。
 それはともかく、ジープに乗っていた主人公の加納竜次(大和田伸也)は、東亜開発のウラン技師という設定で、仲間の安井(畑中猛重)と西岡(小野進也)と共に、ウラン鉱発掘のためにこの久賀村へやって来ていたのである。ここで、村の子供たちが「ジープだ! ジープだ!」と言って駆け寄ってくるのが進駐軍に群がるガキんちょどものようで、いったいいつの時代設定やねん、と思ってしまうが、もちろんこれは昭和52年当時という設定なのである。子供たちはめいめいに鬼の面とか付けてるが(これも一応伏線のつもりか)、いくら因習の残る村とは言え、既に違和感はありまくりである。
 ウラン鉱はあっという間に発見され、喜び勇んだ帰り道、西岡が車の運転に失敗して、小さな祠を壊してしまう。それを怒ったのか、ジープの前に吼えまくる犬が飛び出してきて、これが当然のごとくに撥ねられて死ぬ。犬の飼い主の少年・勇(加藤淳也。後にアニメ『龍の子太郎』で太郎の声を当てる子役)が飛び出してきて、竜次たちをギロリとにらむ。この視線が怖くて、観客の誰でもがここから「呪い」は始まるのだなあと予測する。
 ところがここでシーンはいきなり転換、山中の滝つぼで、三人は水浴びをする二人の全裸の女性を覗き見る。これが本編のヒロインたちで、垂水かおり(山内恵美子。加山雄三主演のテレビドラマ『高校教師』で坂本紀子を演じていた超美人女優さんである。そうと知っていれば、当時絶対見に行っていたのに!)と剣持麗子(泉じゅん。若い人にはこれも説明が必要だろうが、山口百恵似の、美人系とかわいい系の中間の顔立ちで、しかも巨乳でポルノに限らず普通映画でも堂々と脱いでくれていたので、70年代の男の子にとってはかなりアイドル的な人気を博していた)。
 唐突なサービスシーンであるが、ドラマ上の必然性はない(笑)。木の上から覗いていた竜次が滝つぼに落っこちるという、この映画唯一の“意図した”ギャグシーンがあって、これがストップモーションになる。次のカットはいきなり半年後、竜次と麗子の結婚式のシーンになる。大和田伸也、手が速っ!。格さん役のときは堅物だったくせに。
 けれど、竜次の顔にいきなり石をぶつけた少年が。これが勇で、実はかおりの弟だった。垂水の家は「犬神統(いぬがみすじ)」として村人たちから忌み嫌われており、かおりと麗子は親友ではあったけれども、かおりは結婚式には呼ばれていなかったのである。竜次と麗子を乗せた車にかおりは追いすがるが、車は無視して去っていく。親友同士の悲しい別れだが、二人の悲劇はこれが始まりに過ぎなかった。このあたりはまあ何とかホロリとできなくもない展開である。
 異変が起きたのは、東京での結婚披露宴で、スピーチに立った西岡が、突然狂って暴れだしたのである。そのあと、ビルの屋上から飛び降りて自殺。更には安井が、都会の真ん中で野犬の群れに襲われ、食い殺される。こんな突拍子もない展開があれば、観客がみな、この映画の中では「犬神の呪い」は実在するのだな、と判断するのは自然の流れだろう。
 「呪い」は、竜次の身にも降りかかってくる。悪夢にうなされる竜次。竜次たちが祠を壊したことを知らされた麗子は、肌身離さず付けていたお守りを竜次に手渡す。かおりから結婚の報告の手紙を受け取った麗子は、「やっぱりかおりは竜次さんのことが好きだったんだわ! あなたに竜次さんは絶対に渡さない! 犬神が憑くなら、私に憑けばいいんだわ!」と叫んで、千枚通しでかおりの手紙を突き刺す奇矯な行動に出る。
 祠を壊したり犬が殺された呪いというより、三角関係が原因かい! と突っ込みたくなるが、このあたりから少しずつ物語の破綻は始まっているのである。これからしばらくは泉じゅんファンのための大サービスシーンの連続。シャワーを浴びている竜次に「怖い!」と叫んで服のまま飛びつく麗子。濡れた服を脱がしながらエッチ。しかし犬神は確実に麗子の心を蝕んでいく。様子のおかしい麗子を竜次はいろんな医者に見せるが、一向によくならない。麗子の実家へ連れて帰って、憑きもの落しの祈祷師(三重街恒二)に頼むと、霊媒(白石加代子)はハッキリと「我は垂水から来た」と語る。「“あかめし”くれたら去んでやる」の言葉を信じて、村人たちは赤飯にぎりを持って、麗子の体をなでる。麗子、あえぎ声を上げて身もだえする。当然、着物がどんどんはだけておっぱいポロリ。なんて露骨なサービス! オッパイ攻撃の前では、撫でてるだけで赤飯食ってないじゃん、という突っ込みは不必要かな(笑)。
 けれど治療もむなしく、憑きものは落ちなかった。竜次にねっとりとしたキスをしながら、「これくらいで出て行ってやるものか。私も竜次さんのことが好きだったのだ。とうとう竜次さんを奪ってやった!」と言ってニタリと笑う麗子。かおりが乗り移っているってことか? 村人たちは「犬神、出て行け!」とばかりに麗子の体を棍棒でぶちまくる。忘れ雪の降る中に飛び出した麗子は、竜次の腕の中で「東京へ帰りたい」と言葉を残して息を引き取る。 ……えーっと、麗子を殺したの、つまり村人たちなんじゃないの。もちろん、村人たちはそうは考えず、「垂水の家のせいじゃ」と思いこむのであった。
 犬神の悪霊とは何なのか? 妻を失って自棄になった竜次は、久賀村の山中で修復されていた祠をまた叩き壊す。そこへ「止めろ!」と叫んで飛び出してくる勇。竜次は勇を容赦なく突き飛ばすが、そこへ麗子の妹、磨子(長谷川真砂美。大林宣彦監督版『ねらわれた学園』の高見沢みちる。超美少女で、もっといい映画に出演してたら、きっとブレイクしてたろう)が飛び出してくる。「勇ちゃんは私の友達なの! 悪いことは何もしないわ!」。勇は自分の家に逃げ込む。追いかけてきた竜次は、かおりが結婚先から出戻って来ていたことを知った。父の隆作(室田日出男)は、「あんたも犬神なんちゅうものを信じなさるんか。わしらも被害者じゃ」と憤りを露わにする。
 あれれ? と思ったのはこのあたりからで、垂水家は別に何の呪いもかけていない、という描写がこのあとしばらく続くのである。それどころか、竜次たちが発見したウラン鉱の開発に対して、「核開発に繋がる」と山を売ることに反対していたのも垂水家の人々だったのだ。それじゃあ垂水家の人たちのほうが「正義の味方」じゃん! と驚きの展開である。 ……でも、それなら、麗子たちが死んだのは、本人たちのただの思い込みなのか? いや、西岡と麗子についてはそう言えなくもないけれど、安井の「犬に食い殺される」というのは自己暗示じゃ説明できないぞ? それともあれはただの偶然ってことなのか? と アタマがこんがらがってくる。
 垂水家の開発反対を後押しするように、ウラン鉱の作業所でも奇怪な事件が起きる。作業のドリルが突然、何者かに操られたように勝手に動き出し、次々に作業員を殺し始めたのだ。……えーっと、これはどう解釈すればいいんですかね。もちろん「ただの事故」とは絶対に思えない。でも、「犬神」というのは「ドリル」にもとり憑けるものなんですか?  いや、疑問を抱いても仕方がない、これは「乗り移っている」んじゃなくて、見えない力でドリルを「操っている」と考えるしかない。だとしたら、ウラン鉱に反対しているのは垂水の家の者だけなので、やはり「呪い」をかけているのは彼ら?
 垂水家への迫害は更に強くなる。家に石は投げられ、村の祭りの日、かおりは、酒をのんだ村の不良たちに犯されそうになる。父親の隆作が山を守るために動けないのは分かるが、妻の君代(岸田今日子。台詞も出番も少なく、もったいない使い方。白石加代子といい、横溝ミステリー出演者が何人も起用されているのも、いかにも便乗映画っぽい)や、かおり、勇をどうして避難させないのか、これが全然分からない。
 滝つぼに飛び込んで、かろうじて不良たちから身を守ったかおりを助けたのは竜次だった。村人たちは竜次が犬神の女にとり憑かれた! と、垂水家の周囲に糞便をぶちまける(魔除けになるそうである)。寄り添ううちに、竜次とかおりはお互いに恋情を抱くようになる。しかし、かおりが「ずっとあなたが好きだった」と告白するのを聞いて、竜次は「麗子は僕たちがこうなることを知っていたんだ!」と叫ぶ。
 ここでまた混乱である。ということは、呪いの主体はかおりじゃなくて麗子だったってことなのか? 「犬神統」は無関係? いや、それじゃやっぱり犬に襲われたり、ドリルが踊ったりの説明がつかない。
 何だかわけが分からないうちに、村人が井戸水を飲んで死亡する事件が発生する。これは、ドリルの暴走に手を焼いた開発会社が、岩盤を硫酸で溶かしたため、それが井戸水に混入したのが原因であったが(「絶対大丈夫だ」とか言ってたくせに、「実は地下で水脈が繋がっていたのだ」と跡付けの説明。いい加減な工事に対する批判だろうが、取ってつけたようである)、村人たちはそうは思わなかった。
磨子が、竜次のところに飛び込んでくる。「村の人たちがバイクに乗って垂水の家に向かってるの見たの。勇ちゃんを助けて!」。慌てて垂水家に向かう竜次。しかし、時すでに遅く、君代、かおり、勇の三人は殺されていた。出かけていた隆作だけが助かったが、家族を失った彼はとことん村人たちを憎むようになる。「やつらがわしらを犬神統と呼ぶなら、本当にそうなってやる!」
 もう、映画館の椅子からコケ落ちそうになったのはこの時だ。「犬神の呪い」は、このとき初めて発動したのである! ……ってことは何か? 西岡の狂い死にも、安井が野良犬に襲われたのも、麗子がかおりにとり憑かれたように見えたのも、ドリルが勝手に動き出したのも、全部「ただの偶然か!?」 いや、麗子のケースは犬神とは関係ない本人の怨念と解釈することもできるが、ドリルまではなあ。
 雷雨の夜、生き残った犬を連れて山中に入った隆作は、犬を土の中に埋めて放置する。この様子を木の陰から磨子がこっそり見ているのだが、これまで「勇ちゃんを助けて!」と優しい心を見せていた彼女が、このときはただじっと見ているだけで、隆作の行動を止めようともしないのが不自然極まりない。ついに「犬神の呪いよ。村人にたたれ!」と叫んで犬の首を日本刀で斬りおとす隆作(銃刀法違反である)。その途端、雷鳴が鳴り響き、斬られた犬の首は宙を舞って隆作の首筋に噛み付く。倒れ伏し、息絶える隆作を見ていた磨子は失神する。その途端、犬神は磨子にとり憑いた。
 呪いの発動は、ウラン鉱業所に落盤を起こし、爆発させる。凄いぞ犬神の呪い。さあ、このチャチな特撮は誰がやったんだ、東映。
 竜次は垂水家惨殺を実行した村の若者の一人を日本刀で脅して捕らえ、剣持の家にやって来る。駐在(三谷昇! 映画見ながらずっと「警察は何してるんだ」と思っていたが、ここでやっと登場した駐在が三谷さんなら、無能なのも納得できるのである。これはナイスキャスティング)に本庁に連絡させようとしたが、義父の剛造(鈴木瑞穂)は、電話線をぶち切ってしまう。「お前を助けるために、村人たちが垂水家に行くのを止めなかったんだ!」と叫ぶ剛造(垂水家と関係を持つ限り、竜次も危険にさらされる、ということだろうが、だったらもっと早くに垂水家を村から追い出すか暗殺しとくか、何で処置をとらなかったのかが疑問である)。
 村人が押しかけてきて、竜次は土蔵に逃げる(剛三が土蔵をチラッと見る伏線はあったが、ドラマにどう関係するのかこれまで全然分からなかった)。義母の佐和(小山明子)は「土蔵に行っちゃダメ!」と止めるが、無理やり入り込んだ土蔵の中には、狂人と化した剣持家の長男の真一(伊藤高)が閉じ込められていた。そんなやつがいたとは驚きの展開! もう何でもありだぞ。
 剛造と佐和はこの狂った真一に殺される。このときの「殺され方」がまた爆笑もので、まず佐和が二階にいる真一に「吊るされる」のだが、それを見ている竜次、茫然として、「目の前に二階への階段があるのに」身動きもしないのだ! 結構長いこと吊るされてたから、絶対佐和は助けられたぞ。小山明子も殆どチョイ役出演で、こんな使い方してたら大島渚が怒るぞ。
 争いの中で真一の胸に刀が突き刺さり、二階から落ちる。「ちょうど偶然」剛造が真下にいて、刀は剛造も貫く。劇場には十人くらいしかお客さんいなかったけど、笑いましたよ、みんな。
 剛造は虫の息で竜次に告白する。真一が狂ったのは犬神憑きのせいで、そのためにずっと垂水家を憎んでいたのだと。でも、犬神の呪いはさっき発動したばかりなのだから、これは剛造の勝手な思い込みなのである。言っちゃなんだが、真一、麗子、磨子と、三兄妹みんな狂ってるんだから、剣持家の血筋のほうが問題だとしか見えないわな。こりゃ、確かにテレビ放送はできまっしぇん。
 剛造は「磨子を頼む」と竜次に言い残して死ぬ。
 しかし、気絶していた磨子に、箪笥にしまわれていた麗子の長襦袢が覆いかぶさり、磨子の顔は般若のように変貌し、目は次第に異様な光を発するようになる。もちろんメイクしてカラーコンタクトを入れているのである。この当時としても「怪談映画かこれは」と突っ込みたくなるチープなメイクが何ともはや。つかなあ、麗子の長襦袢が磨子を操っているのなら、諸悪の根源は麗子じゃん。犬神の呪いじゃないぞ!

 長くなったので、明日の日記に続く。

2004年05月03日(月) また来るよ東京
2003年05月03日(土) 東京の空の下�◆辛饌罅悒轡謄�ボーイズ・ミックスpresents/NOTA 恙無き限界ワルツ』
2002年05月03日(金) ジンクス再び/『ジャングルはいつもハレのちグゥ』9巻(金田一蓮十郎)ほか
2001年05月03日(木) 東京行進曲/舞台『ラ・ハッスルきのこショー』ほか


2005年05月02日(月) すれ違う言葉/『不死身探偵オルロック 完全版』(G=ヒコロウ)

 今朝も震度1の地震。慌てて飛び起きる。早起きできるのはいいけどねえ。


 職場で、オタクなAさんと話していて、こないだのG2プロデュース公演の『Candies』に、Aさんも来られていたことを知った。オタクな趣味といい、映画や芝居が好きなところといい、ホモオタさんに関わった過去があるということも含めて(そんなことでは共通体験を持ちたくはなかったが)、妙に気が合っている。それはそれとして、話が弾むと仕事が進まなくなることもあって困りはするのだが、縁というものは確かに奇なものであるなあとしみじみ思う。なんだかいろんなところで偶然繋がる人はいるものである。
 もっとも、手当たり次第に舞台や映画を見ていれば、こういう偶然は結構起きる。そして、「偶然」とはいっても、「地震」や「戦争」などといった、本人の意図に関わらず、その時代、その地域にいた人たちがみな巻き込まれてしまう「偶然」と、「同じ舞台を見ていた」という「偶然」とは、同じ偶然でも意味合いが違うものである。地震はそこにいさえすればしたくなくても勝手に体験するが、芝居を見に行く、というのは言うまでもなく自らの意志で取った行動である。より「同志」としての感覚は強くなる。オタク同士のつながりなんて、結局はそういうものだ。
 若い人と会話をしていて楽しくならないのは、別に映画や舞台に限らず、音楽だろうがマンガであろうが、趣味の範囲がえらく狭くて、話題に事欠くことが多いからである。しかも、同じものを見ても、意見が違えば拗ねたり腹を立てたりと、コミュニケーションの基本がなってない場合も多い。最近も職場の若手連中とお喋りしていて、その頑なさに驚いたことが多かった。
 「新しい『ドラえもん』は見る気がしない。つまらないから」
「『ガンダム』(このときは『THE ORIGIN』の話題であった)なんて見る気がしない。つまらないから」
 「『PLUTO』なんて見る気がしない。つまらないから」
 ニベもないとはこのことであるが、こういう人たちと会話を成立させることがいかに難しいか。しかも彼らは友人同士でも殆どマトモな会話をしているとはいい難いすれ違いを見せているのだが、信じがたいことに自分たちでは会話が成立していると思い込んでいるのである。
 「○○って面白いぞ」
「ふーん、面白いと言えば××は面白いよな」
 「ふーん。この映画に出てる△△ってキモくね?」
 「さあ? オレは□□が好きだけど」
 彼らは、こういう会話が楽しいのだろうか?
 Aさんと話していてつらくならないのは、意見が違っていも、互いが考えることの根拠、思考の立地点と着地点がどこにあるかを認めあえるからである。
 しげとも最近話したことであるが、「痛いオタクとそうでないオタクのどこがどう違うか?」というのは、その「相手の立地点」を認めようとする人間かそうでないかで分かれると思う。なんかもう、自分のことだけ喋りまくる「痛すぎる」オタクがいかに多いかってことなんだけれどもね。


 父に誘われて、女房ともども「万葉の湯」へ。
 先日、父から電話がかかってきて、
 「連休中の予定はどうや?」
 「別にないよ」
 「地震で部屋がずっと散らかったままやろう。予定がないならゆったりうちで過ごさんや?」
 と誘われて、あっさり父のマンションに泊まることになったのだが、その前にひとっ風呂浴びようということになったのである。「万葉の湯」はウチの近所にあるのだが、今までに利用したことはない。理由は簡単で、料金が高いからである。大人1890円ってなあ、そのへんのスーパー銭湯に比べると、1.5倍くらい高いぞ。まあ、父の奢りだから、遠慮なしにゆったり浸かることにする。わざわざ大分・由布院と佐賀・武雄の湯を毎日タンクローリーで運んできているというのがウリなので、この値段なのだろう。本場の温泉ったって毎日浸かるんじゃなきゃ、たいして効能はないと思うがね。
 その後は食堂でしげはステーキ定食、父は玄海定食(刺身)、私は天ぷら定食。これに華味鶏のから揚げをつけて三人でつまむ。父は焼酎を注文するが(糖尿病のことなんて考えていないのである)、私は「こどもびいる」というのがメニューにあったので頼んでみる。その正体は美野島の「下町屋」という店が開発した、「ビールのような泡が出るソーダ(アップルタイザー)」であるが、子供が大人っぽい雰囲気に浸って飲むのにちょうどいい、ということらしい。
 「これ、東京土産にいいかな?」と私が言うと、「どうせ東京にも出店があるよ」としげが言う。後でネットで調べてみたらその通りで、新宿あたりで飲める店があるそうだ。全く、これだから地方土産の選定には苦慮させられる(いや、それほど悩んじゃいないけど)。

 父から「どうして今年は東京に行かんとや?」と聞かれたので、いつも行ってるシティボーイズの公演が、今年は北九州であるから、と説明する。
 「その代わりじゃないけど、6月には別の芝居見に東京に行くよ」
 「いつや?」
 「6月の24日から26日まで」
 「芝居はいつ見るとや?」
 「25日の昼」
 「なら、26日は空いとるとやな?」
 「そうだけど、何か?」
 「ディズニーランドのチケットがあるばってん、お前たち、行かんや?」
 「何でそんなもん持っとるん?」
 どうして父がそんなものを持っているのかはよく分からなかったが、ともかく東京の予定はこれでだいたい決定である。オフ会をいつやるかは未定だったが、こうなると6月25日(土)の夕方以降しか時間がない。
 徹夜カラオケはまず無理なので、三、四時間くらいの会食だけになるかとは思いますが、ご都合のよろしい方はご連絡くださいませ。


 父のマンションに着いたら、DVDが増えていた。
 『釣りバカ日誌』のボックスを買ってたのには驚いたが、まだ一本も見ていないという。いや、私もテレビで流れていてもチャンネルを合わせたことはない。興味がなかったわけではないが、まあ、デート向きの映画じゃないし、後回しにされるのは仕方がないとこである。せっかくだから、ということで、第一作をまず三人で見始める。
 今からもう17年も前の作品だから、出演者たちもやはり若い。そのころから既におじいちゃんであったスーさん役の三国連太郎ですら若い。しかもシリーズ化を考えていない単発映画のつもりで作られているから、物語もきっちりまとまっている。原作マンガの初期、ハマちゃんがスーさんを自社の社長と知らずに釣りに誘い、スーさんもハマちゃんを自社の平社員と知らず釣りに興じる、という「勘違いの喜劇」を、テンポよく見せている。三国連太郎も、これが初めてのコメディ演技とは思えないくらいに、頑固だがちょっと寂しい老人を“軽快に”演じている。この「軽さ」が重要なのだ。
 スーさんを孤独な老人と信じているハマちゃんみち子さんの夫妻は、スーさんに仕事を斡旋さえする。感動して涙ぐむスーさん。けれど、ハマちゃんを騙している罪の意識にも責められる。スーさん、基本的に小心者なのだ。会社で偶然スーさんを見かけたみち子さんは、真相を知る。悲しむみち子さんを前にオタオタするスーさん。気がついてない人もいるようだが、スーさんはみち子さんに恋もしているのだ。もちろんこれは三角関係というほどに明確なものではないが、三人の間にある種の緊張感は確かにある。これを重く演じてしまっては、ドラマはドロドロになる。屈託のないみち子さんを演じる石田えりの可愛らしさと、青年のころに戻ったような三国連太郎の純情さが、ドラマを明るく収束させる。
 ラストでハマちゃんとみち子さんは故郷の土佐に帰っていくが、これはまさしくこの映画を単発として美しく完結させるため必要な手段であった。これまで見ずにいたことが悔やまれる佳作。
 でもなんで親父は買っといて全然見ないでいたのか、不思議に思って聞いたのだが、「DVDノ操作の仕方が分からない」ト答えた。……DVD入れて再生ボタン押すだけだよっ!
 

 『キネマ旬報』5月上旬号、岡本喜八監督追悼特集がなんと30ページ。
 全39本のスチールに加えて、仲代達矢、佐藤允、小林桂樹、寺田農、大谷直子、本田博太郎、真田広之のインタビュー記事がそれぞれ見開き2ページ、森卓也×石上三登志の対談が6ページという超ボリュームである。岡本喜八が“どういう人であったのか”ということを映画ファンを自称する人も、ちょっとくらいは感じてもらいたいものだが、本当に面白いものを探すアンテナがイカレてる若い人が増えてる現状ではそれも望み薄である。
 いや、黒澤明にも言えることだが、岡本喜八がその全盛期からいかに「理解されてこなかったか」、ということも、森×石上対談は明かしている。『独立愚連隊』が「好戦的過ぎる」という批判や、『江分利満氏の優雅な生活』『ああ爆弾』『殺人狂時代』の記録的な不入りなどについても触れる。現代では傑作と評されるこれらの作品がなぜそこまでヒットしなかったか、今では東宝の宣伝の仕方、公開の仕方に問題があったことが指摘されているが、責任は全て岡本監督に帰せられた。岡本監督が酒びたりになるのもこのころからで、これがなければ後年脳梗塞を起こすこともなく、39本と言わず40数本は傑作を世に出してくれたのではないかと思うだに、「バカ東宝が」と愚痴の一つも言いたくなる。
 森×石上対談が「勉強になる」のは、例えば日米合作映画である『EAST MEETS WEST』で、岡本監督が、カットごとに独立して撮影する自分のスタイルを捨てさせられ、アメリカ式のマスターショット(登場人物の配置・アクションを把握するためのショット。アメリカでは最終編集権がプロデューサーにあるため、監督が、画面上必要がないと判断しても無理やりこれを撮らされる)を使用させられたことなど、「なぜあの映画が失敗に終わったか」を、感想文的な印象批評ではなくて、技術的な問題として客観的に説明している点である。批評というのは「こうでなくてはならない」。
 なぜ、岡本喜八映画を「映画館の大画面で見るべきか」についても、『暗黒街の弾痕』を例に森氏は説明する。三橋達也の「早撃ち」を演出するために、岡本監督は銃を構える動作と、銃を持つ動作とをカット割りして繋いでいるのだが、これが映画館で見れば人間の目は画面上の「動体」しか見ていないから、繋がって見える。しかしテレビのブラウン管の画面ではただのつなぎにしか見えないというのである。監督が観客の動体認識を利用するつもりで演出しているものを、テレビは少しも考慮しない、ということだ。映画はレンタルビデオやDVDで見るのが主流という方は、よく「映画を見に行くのには金がかかるんだから仕方がないじゃないか」と言い訳をされるが、せめてそれが「本来の映画の鑑賞の仕方ではない」ことくらいは自覚していただきたいものである。昔からの「映画館派」の人たちは、劇場に無意味なステイタスを感じて「映画グルメ」を気取っているわけではないのである(という「常識」も最近の自称「映画ファン」は知らないのだから困る)。
 あまり岡本監督を誉めすぎると、かえって「そんなに傑作ばかり撮れるものなの?」などと逆に疑問を抱かれてしまうかもしれない。石上氏は、岡本作品は決して映画史に残る名作、といった括りで見るのでなく、あくまで日本映画がプログラム・ピクチャーとして量産されていたころの、「ものすごく面白い、上質なエンターテインメント郡」としてみるべきだと主張する。それはその通りだろうが、我々が本当に自分たちの根本的な感性や思想を無意識のうちに培っていくのは、構えて見る「名作」ではなく、そういった、「上質のエンターテインメント」からであることのほうが多いのだ。黒澤明も、岡本喜八も、決してお高く止まったゲージツ家ではなく、「面白いもの」を作りたいと思っていたのだ、ということを「映画ファン」を名乗るのなら知るべきであろうと思う。
 岡本喜八映画は、「レンタル」でも置いてあるところは少ない。というよりビデオソフト化されている作品のほうが少ない。日本映画専門チャンネルでの岡本喜八特集はぜひご覧になっていただきたいものである。
 最後に、インタビューされた方々が「一番印象的」「好きだ」と言及している岡本作品を、ご紹介しておこうと思う。もちろんご自身が出演している作品が圧倒的に多いのだが。
 仲代達矢→『殺人狂時代』(1967)
 佐藤 允→『独立愚連隊』(1959)
 小林桂樹→『江分利満氏の優雅な生活』(1963)
 寺田 農→『赤毛』(1969)
 大谷直子→『肉弾』(1968)
 本田博太郎→『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979)
 真田広之→『EAST MEATS WEST』(1995)


 マンガ、G=ヒコロウ『不死身探偵オルロック 完全版』(エンターブレイン)。
 以前、ブロスコミックスとして刊行されたものの完全版。てゆーか、2巻が出るほど連載が続かなかったので、もう一回まとめて出しなおしました、という事情なので、何かのトラブルで全編収録できなかったのを完全版として出したということではない。たまにこういうことあるよね。前の単行本買ってる人間にとっては二度買いしなきゃならないから困るけど。
 だからまあ、マイナーな作家さんだというか、売れてないといえば売れてない人なのだが、単行本を出してもらえたという点ではカルトな人気を誇っているのである。しかしカルトであるということはカルトになるだけの理由もあるので、まず驚くのはその個性的な“濃い”絵柄だろう。
 マンガ家としての画力はすごくある。基本的にアニメチックで売れセンの絵柄も描ける人なのに、どうやらそれでは飽き足らないようで、やたらそれを“崩し”まくる。ブラックなギャグを矢継ぎ早に繰り出すとき、キャラクターの目は血走り口は裂け牙は生える。ひとコマにぶちこまれた情報は、濃過ぎてしばしば話の流れを停滞させるが、そんなことは気にもしていない。ともかく「描きたいことを描く!」というエネルギーに満ち満ちている。
 例えば13話でリカがオルロックをぶち殺す(ゾンビだから死なないが)カットでは、撃った瞬間の「ズガゥーン!」という擬音、そして「ポピーン」と飛び出す薬莢、弾は正確にオルロックの心臓を貫いて、その弾の刺さった心臓が飛び出す様子までを全て描き(よく見るとリカは銃声が聞こえないように左耳に指を突っ込んでいる)、更に背景にはアシスタントのアンデッタと人斬り108号が驚いている遠景まで描きこんでおり、そこにリカの「ハートブレイクショット!!!」という絶叫とオルロックの「オモイデポロポロ!!?」という悲鳴がかぶるのである。立ったひとコマにこれだけ時間と空間を圧縮しているのは半端ではない。もちろん全てのコマがここまで濃いわけではなくて、ところどころに気の抜けたようなコマも点在しているのだが、これがギャグに緩急を作り出している。多少読みにくさはあってもギャグが滑っていないのは、この緩急の間のおかげだ。
 この詰め込みギャグやコマの構成の仕方は誰かに似ているなあと思っていたが、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』そっくりなのだということにようやく気がついた(前読んだときには気がつかなかったような気がする)。ひとコマの中にギャグのボケとツッコミを同時にぶち込み、そのギャグを更にエスカレートさせて状況を破壊しまくり、怒涛のようなテンポアップを図っていくが、それが突然風船の中の空気が抜けたようにしぼんでいき収束する「間」の取り方、これが「マカロニ」絶頂時にそっくりなのである。作品を見る限り、作者は相当なマンガ好きだろうが、鴨川つばめがそのベースの一つになっているだろうことはまず間違いないと思う。
 連載当初はあった「探偵」の設定も、話数を重ねるうちになし崩しにどうでもよくなっていくのもギャグマンガの宿命のようにもので、主人公のオルロックはどんどん影が薄くなり、中華探偵姉弟、ギャルキング、野沢ウォーケン(このネーミングには笑った、確かに野沢那智、しょっちゅうクリストファー・ウォーケンに声当ててるわ)、思い出刑事といったゲストキャラに存在感を奪われていく。それが少しもマンガの質を落とすことになっていないのが素晴らしいのだが、反面、今時の“薄い読者”に、このマンガの面白さがどれだけ伝わるのだろうか、と不安になってしまうのも事実だ。マニアックだから伝わらないのである。ギャグセンスというものは「シュールorナンセンス=わけが分からない=既成の概念が破壊される=面白い」という図式が予め素養として脳内にインプットされていなければ育たないものだが、今時の若い人にはこのセンスに欠けている人が多い。「わけが分からない=つまらない」と単純に判断されてしまうのである。だから、彼らが笑うギャグはたいてい「分けの分かった」オヤジギャグに限定されてしまうことになる。
 なんですかねー、皆さんの身の回りに一人や二人はいると思うけれどもねー、オヤジギャグをかましまくって自分はギャグの天才だなどと嘯いて悦に入っているやつって、最近多くないスかあ? あいつらが鬱陶しいのはねー、ギャグのレベルが低いというよりか、「わけが分かっている」ギャグを平然と口に出来る厚顔無恥のせいなんだよねー。
 それはさておき、『オルロック』のわけの分からなさというのはどんなものか。例えば19話では、いきなり意味もなく「伊東四朗の顔」がはめ込まれたマクラが現れ、「伊藤ピローです。ニン!」と歯をむいて消える。「伊東四朗」と「伊藤ピロー」だけならただの駄洒落だが、こいつがなぜ何のために出てきたのかが分からない。更に“グルメな枕”「山岡ピロー」が現れ、目が寿司になる。何がどうして寿司。もう全然わけが分からないが、とどめに「岸部ピロー」が現れて「かなんなー」とか言いながらフーリガンにぶっ殺されるのだ。文章で説明してもわけが分からないだろうが、マンガで見てもやっぱりわけが分からないのである。もはやこのマンガがどこに行こうとしているのか、予測のしようがない。つか連載終わっちゃってるけど、終わるよなあ(笑)。
 もともとお気に入りに入れてる日記さんの紹介で知ったマンガなんだけれど、こんなマイナーなマンガを楽しんでる人間なんて、探さなきゃ見つかるものでもないだろうと思っていたが、しげも結構気に入ってるらしくて、なんかやたら読み返しているのである。更には鴉丸嬢も大好きで、しげと「いいよねー」とか言い合ってるらしい。マンガファンが百人いたら、G−ヒコロウを読んでる人って、中に一人二人いればいいほうだと思うが、何ですぐ身近にいたりするかなー。
 あと、併録の『プロフェッサー・シャーボ』と『オダキュー』も楽しいが、一番ウケたのは、カバー裏表紙の横山光輝『マーズ』ポーズで立つオルロック。なぜかワキから「イデ」が発動しているのが笑えるのである。まあどこからでも発動しそうだけどな、イデ。

2004年05月02日(日) 東京の夜は更けて(3)/『スター・ウォーズ』展とシティボーイズ
2003年05月02日(金) 東京の空の下��
2002年05月02日(木) 私は病院に行くかしら/『COMAGOMA コマゴマ』2巻(森下裕美)ほか
2001年05月02日(水) 行って来ます。/『20世紀少年』5巻(浦沢直樹)ほか


2005年05月01日(日) 深まる溝(ずっとヒビキ風タイトルで行こうか)/映画『コックリさん』

 一応、日曜の朝は『かいけつゾロリ』から一通りアニメは見てるんですが、まあハマッてるのは『仮面ライダー響鬼』だけですんで、感想もこれだけ(別に『マジレンジャー』や『プリキュア マックスハート』が嫌いってわけではないです。誰に言い訳してるんだ、オレ)。
気がついたら、オフィシャルサイトを覗いて、「今週の魔化魍は何かな?」とかチェック入れ始めたから、かなり病気は進行しつつあるのである。『ニュータイプ ザ・ライブ』も買うのやめてたけど、また買うかなあ。
 十四之巻「喰らう童子」。サブタイトルは毎回「動詞連体形+名詞」の形を取っているのだが、一話一話だと大して気にもならないが、ズラッと並べていくと、付け方に何だか無理があるような印象。そう感じる理由の一つに、自動詞と他動詞が入り混じってるせいもあると思う。「叩く魂」「呑み込む壁」「喰らう童子」なんて、特に気にならん人もいるかもしれんが、私は気になる(笑)。目的語がねーぞ、目的語が。「叩く魂」とか、「魂が(何かを)叩く」のか、「魂を叩く」のか、迷った。いや、そもそも各話を象徴する「動詞」を探さなきゃならないこと自体、毎回しっくり行くとは限らないわけで、スタッフの苦悩がしのばれることである。
 前回、仲間のヤマビコを喰らってパワーアップした「乱れ童子」。威吹鬼(渋江譲二)の攻撃も物ともせず、あきら(秋山奈々)に襲いかかろうとするが、なぜか鼻先で匂いをかいだだけで立ち去ってしまう。あきらはこないだから“どういうわけだか”この「襲いかかられ」シーンが増えてきてるんですけど、メインのヒロインの座がひとみ(森絵梨佳)からあきらに移りつつありませんか? ヒビキ(細川茂樹)から魔化魍退治にかけずりまわされている学校のことを心配されて、こりゃ大きなお友達の反響、さぞや大きいことでしょうねえ(笑)。なんつーか、こういうおいしいシチュエーションの前には、そろそろ顕在化し始めたストーリー上の様々な疑問が置いてきぼりされている。「こないだまで、平気で人間喰らってた童子が、急に人間に見向きもしなくなったのはなぜなんだよ」とか、どうしても感じちゃうものなあ。いや、裏設定はいろいろあるんだろうが、同じ魔化魍を喰らってくれて人間は食わないんなら、「人間の味方じゃん、倒す必要ねーよ」と、画面を見ている限りでは納得できないものを感じてしまうのだ。
 今回は、入院した明日夢(栩原楽人)と以前、名前だけ登場していたザンキ(斬鬼/松田賢二)が邂逅する新たな展開も(鬼たちは変身前はカタカナで、変身後は漢字で表記して区別しているみたいだ)。彼もまた明日夢のよきアドバイザーとなっていくのだろうか? 「外堀」が少しずつ埋められている感じで、日菜佳(神戸みゆき)もヒビキに「明日夢君なんか弟子にどうっスか?」なんて言ってるし、3クール目に入るころには「修行」を始める明日夢の健気な姿が見られるかも、という期待も高まる。
 逆に、今ひとつ煮え切らないヒビキの情けなさが一話ごとに際立ってきている気も。明日夢が入院していると聞いたときのヒビキの「少年があ?」という声の元気のなさというか、間抜けっぽさというか、まあそれがいかにもヒビキらしくてヨイのである。
 次回は斬鬼も含めて、ひとみのいとこの戸田山(川口真五)も変身するらしい。弦楽器を使うことだけは決定しているようだが、名前から察するに、「音で斬る」パターンになるような気配。最終回は巨大大首領相手にオーケストラかな(笑)。


「映画の日」で、市内の映画館はたいてい千円興行。キャナルシティに出かけたら、AMCの前に長蛇の列が出来ていて驚いた。ゴールデンウィークと重なったとは言え、ざっと見ただけでも200人くらいは並んでいる。しかもエスカレーターを上ってきた人の殆どみんながその後ろに付いていくので、列が途切れる気配がない。館員さんが「『名探偵コナン』は完売でーす」と叫んでいる。親子連れが目立つから、目当てはやはり『コナン』や『プリキュア』なんだろう(『クレしん』はキャナルでは上映していない)。
我々の目当ては『レモニー・スニケットの世にも不幸な物語』だったのだが、今日から公開予定だったはずなのに、3日公開に延期されていた。多分、『コナン』あたりがヒットしているので、同じファミリー映画ということで競合を避けたものだろうか。仕方なく、『コックリさん』を見ることにする。

 映画『コックリさん』。
 『友引忌』『ボイス』に続く、韓国のアン・ビョンギ監督によるホラーシリーズ三部作の完結編、前作の『ボイス』のときも感じたことだけれども、ワンシーンごとの恐怖描写はそう悪くもないが、一本通した幹となるストーリーが今ひとつ説得力に欠けていて、「面白い」と感じるまでには至らない。そのホラー描写も和製ホラーの模倣臭くて、世評と違って私が見る韓国映画はどれもこれもハズレが多い。今や映画は韓国映画のほうがパワーがある、という煽りも、どこまで本当なんだか。
 日本から伝わって流行したとされる「コックリさん」(韓国ではそのバリエーションの一つである「分身様」がなまって「分身娑婆(ブンシンサバ)」と呼ばれる)、日本ではコインを使うのが主流だったと思うが、映画を見る限りでは、韓国では鉛筆をみんなで握る形式が多いみたいである。私も小学生のころ、友達とやったことがあるが、男子が三、四人でこれをやると、必ずイタズラモノがわざと動かしたりしてわやくちゃになるので(「○○はむっつりスケベエである」と言うと、○○以外のやつが一斉に「イエス」にしようとするのだ)つまんなくなるのである。かといって、何も動かさないでいると、当然コインは動かないままなのでやっぱりつまらない。これもただのお遊びでやってただけでマジで信じるやつなんていやしなかったから、あっという間に廃れた。オカルト好きなやつでも、コックリさんに信憑性を感じる人間は、あまりいなかったように記憶している。
 けれども韓国じゃ「ブンシンサバ」は長いブームになっていたようで、パンフレットを見てみても主演陣がこぞって「やってたし当たるのが不思議」とか言っている。だから誰かがわざと動かしてるんだってば(笑)。「遊びの文化」はそれぞれの地域の民俗を探るための原点であるので、感覚的な差異はそのまま基本的なところでの「文化の違い」を象徴することになる。この映画になかなか入り込めないのも、「こんな幼稚な遊びに熱中してること自体、そもそもヘンだし、実際に呪いが発動しちゃうのも映画を成立させるための無理やりな展開で、乗るに乗れない」という感覚が生じるせいなのだが、結局これは「お国が違うから」と納得することしかないことで、文句をつけたって仕方がないことでもある。鉛筆が勝手に○や×を描くシーンが少しも怖くないどころか、笑っちゃいたくなる感覚は、韓国人には薄くて、結構みんな真剣に見入ってしまっているのだろう。
 『ボイス』のあの子を、ああいう形で出すというのも何がやりたいんだかよくわかんないんだけどねえ。ヒロインはみんな美人なんだけど、「女子高生」役者が軒並み二十歳過ぎってのは、いくらなんでもちょっとなあ。コスプレだ、あれじゃ。


 日本映画専門チャンネルで映画『大誘拐』。岡本喜八特集の一本である。
 大ヒットもし、後期の岡本監督の代表作のように言われつつも、往年の脂の乗り切ったころの傑作郡に比べると見劣りするとも批判されている本作。私も、公開当時に見に行って、「虹の童子」の車の出現シーンが全然かっこよく撮れていないところや、ラストでお山を見つめるとし子刀自をどうしてアップにしないのかとか、往年の岡本演出を考えれば、明らかに年齢による衰えを感じて寂しく思ったものであった。しかし、今回見返してみてもう一つ思ったのは、この映画に対する「イマイチ」感は、やはり「役者の違い」によって生まれている、ということである。同じカット割り、同じギャグであっても、これが60年代東宝映画の役者陣で演じられていたら何倍、何十倍面白かったろう、と思わせるものが多いのである。
 井狩警部役の緒形拳、これを『殺人狂時代』のころの仲代達矢が演じていたらどうであったか。緒形拳に風格がないとまでは言わないが、仲代達矢が演じておれば、その茫洋とした演技がかえって見えない犯人との間に緊迫感を醸し出しえたのではなかろうか。健次役の風間トオル、これを『肉弾』のころの寺田農に演じさせられたら、若いというだけでは収まりきれない命のほとばしりのようなものを感じさせて、役にもっとハマっていたのではないだろうか。ヘリの操縦士の高野、本田博太郎の演技はわざとらしすぎやしないか、同じ演技をさせたとしても、『独立愚連隊』のころの佐藤允だったら、「粋」に演じてくれたのではないか。橋本功の刑事も「フガシね!」と繰り返すあたりは力みすぎだ、これが堺左千夫か大木正司だったらもっとサラリと演じてもっと笑いが取れるはずだぞ、などと、いちいちどうしても考えてしまうのだ。嶋田久作の「東京」など、こういう下っ端のコメディ・リリーフならば、『ああ爆弾』の砂塚秀夫が演じるべき役だろう、と言えば、納得してくれる喜八ファンも多いはずである。
 主演の北林谷栄ですら、ハマリ役ではあるのだが、撮影時は年を取りすぎている、と感じていた。企画が立てられていた十年前に“ちゃんと”この映画が撮られていたら、もっと台詞にも演技にも切れあっただろうと思わざるをえないのである。正直、岡本映画のリズムを体現していて安心して見られたのは、くーちゃん役の樹木希林くらいであった。
 「もしもあの人が……」という仮定は、いずれももはや望むべくもない夢の話であり、日本映画の力が一番低かったころにこの映画が作られたことを考えれば、映画が完成したこと自体を慰めとして、その出来如何については諦めるしかない。つくづく岡本監督に映画を“撮らせないでいた”当時の日本映画界を恨みに思うことである。
 こんなことばかり言ってると、『大誘拐』がすごくつまんない作品のように聞こえるかもしれないけれど、岡本監督リスペクトを公言している庵野秀明監督の『キューティーハニー』、樋口真嗣監督の『ローレライ』に比べりゃ、はるかに面白いのである。エンタテインメント映画としての岡本作品は、一等劣るものであっても充分に面白い、そのことを強く指摘しておきたいのである。
 

 夕方に父から電話。急に食事に誘われる。
 本当はシネリーブルで『獣人雪男』を見に行く予定だったのだが、仕事を続けるか店をたたむかで姉とモメてる最中なので、無碍に断るわけにもいかない。東宝特撮映画で見損ねている映画はもうこの『獣人雪男』一本になってしまったが、また見る機会を逸してしまった。もしやと思って念のために父を誘ってみたが、やっぱり断られた。
 もっとも、昨年、私が入院したときには、父に博多座の「北島三郎ショー」のチケットを無駄にさせてしまった経緯があるので、文句も言えないのである。
 「ビッグ・ボーイ」で父、私、しげの三人でミックスグリル。本当は姉も交えて話が出来ればとちょっと期待していたのだが、父は私と姉を合わせようとはしなかった。姉は店の片づけで置いてきぼりである。これは姉に気を悪くしろ、と言っているようなものだ。
 父は「会っても話をしてくれる状態じゃない」と言うのだが、本当なのかどうか。父の話だけを聞いていると、姉がすっかり仕事をする気が失せてしまったように聞こえるのだが、そこまで姉が無責任だとも思いにくい。だいたい父は自分では首尾一貫したものの考え方をしているように思い込んでいるけれども、結構その場限りの適当なことを言い散らすことも多いのである。どうせ、「それを言っちゃおしまいよ」的な暴言を吐いて、そこから姉との溝が深くなっていったってことだろうな、と見当はつくのだが、だからと言って父が会わせようとしていないのを私がこっそり会うようなことをすれば、父がまた拗ねることも分かりきっているのである。おおまんなくせに細かいところにこだわる癖があって、そこが生前の母にも「お父さんは何であんなにしつこいかね」と非難されていたところなのである。
 散々愚痴を聞かされたあと、マンションまで父を送って帰宅。全く、姉が来ないのなら映画に行きゃあよかった。ぶつぶつ。

 夜中に地震。震度3。だから寝られないって(涙)。.

2004年05月01日(土) 東京の夜は更けて(2)/小鹿番さんの死去と、またまたテンパる妻。
2003年05月01日(木) メモ日記/淡白なメールの夜。
2002年05月01日(水) 疲労度の爪/『コミック伝説マガジン』No.6ほか
2001年05月01日(火) 実は某大学推理研OBです/『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン)ほか



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)