無責任賛歌
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| 2003年07月29日(火) |
ちょっとだけギャグの話/『キャラクター小説の作り方』(大塚英志) |
喜劇俳優ボブ・ホープが、27日、肺炎により死去。享年100。 つまり今年はボブ・ホープ生誕100年&没後0年になったわけだ。こんなキリのいい死に方をするなんて、あまりに出来すぎ。さすがボブ・ホープというべきか。思い出を語り出したら、全て「あのギャグは」「このギャグは」と言うことになってしまうのだが、「観客に向かっていきなり話しかける」ギャグを一番効果的に活用していたのがこの人だったんじゃないか。 日本映画はこの手のギャグが一番苦手で、どうしても「照れくさがって」やれないのだが、おかげで観客の方も、こういう文法破壊のギャグを面白がる素養が鍛えられないままである。 「映画の」ボブ・ホープ最後のギャグは『スパイ・ライク・アス』でダン・エイクロイドとチェヴィ・チェイスのいる砂漠のテントに「何の脈絡もなく」ゴルフボールを追いかけて現れると、“Mind if I through? Doctor,Doctor,Glad I'm not sick.”(失礼するよ。君らが医者? 病気でなくてよかった)と言って去るという、まああんまり面白くはないものだった。 けれども、公開当時、劇場の座席に座ってたとき「何の脈絡もなく」ボブ・ホープが現れたのには本気で仰天し、思わず呻き声を上げちゃったのだが、他の客には何のことかわからなかったらしく、睨まれまでした。違うんだよ、あそこは「驚く」ほうが「正しい」んだよ(T∇T)。 考えてみたら、ボブ・ホープを「リアルタイムで」劇場で見たというのはこの一本だけだ。『珍道中』シリーズも『腰抜け』シリーズも、私の生まれる前なのである。なのに私がボブ・ホープを既に何本も見ていて、すぐにそれと気づいたのに、他の客が(私より年上の客が圧倒的に多かったのに)喜びも驚きもしない(多分ボブ・ホープと気付きもしない)、というのはいったいどういう彼我の差があるというのだろうか。
ようやく梅雨明け宣言が出されて、カラッと晴れたかと思ったら、今度はそこいらじゅう、蝉の声がうるさい。そのへんの岩に染み入ってくれんものか。
大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書・798円)。 内容をヒトコトで纏めちゃうと、「ライトノベル書くんだったら、この程度のレベルのモノは書けよ」ってことである。 近代文学、特に田山花袋の『蒲団』に代表されるような「私小説」はキャラクター小説であった、という指摘、つまり小説の中の「私」は仮構の「私」であるということ、言い換えるなら、キャラクター小説は文学になっても構わない、との主張は、読みの浅い人間には浅薄な文学コンプレックスと映るかもしれないが全然違う。大塚さんは物語の本質を語っているだけだ。 面白い小説とつまらない小説の差がどこから生じるかということは、要はキャラクターや世界を「仮構」できるかという一点にかかってるので、それをTRPGを例に語る大塚さんの筆致には説得力がある。やっぱ実際にTRPGやった経験のある人間から見れば、既成のゲーム機のRPGは全然つまんないんですよ。 本気で小説書きたいって人は、この本必読だよ。私も『木更津キャッツアイ』、見たくなっちゃった。
『月刊ガンダムエース』9月号(角川書店・580円)。 表紙はセイラさんだけど、あんまり色っぽくないのであった。 カラーページで吉祥寺近辺を走ってる小田急の「シャアバス」を紹介。もちろん真っ赤だ。誰かが「赤く塗れ!」と号礼をかけてたような気がするぞ(^o^)。実際には「塗る」んじゃなくてシートを「貼る」んだね。けど、日常の風景の中にこんなのがポンと飛び出したらビックリするんじゃないかと思うが、乗るのもすげえ乗りにくいんとちゃうかな。「モビルスーツの性能の差が、戦力の決定的な差ではないことを教えてくれる!」とか叫ぶバカが出やしないか。出ないな。 『ガンダム THE ORIGIN』ランバ・ラル編、セイラさん大活躍。まあフトモモの美しいこと♪ けどコズンの「ぐちょぐちょにしてやるっ!!」はないよな。こいつら喋ってんだ(^_^;)。まあこういう「安彦良和セリフ」が時々混じっちゃうのも「オリジン」の醍醐味か。ちょっと違う気もする。 今号より、長谷川裕一さんの『クロスボーンガンダム外伝』が連載。時代的には正伝の後日談ですね。けど未読でも独立した短編として読めるようにしているのはさすがは長谷川さん。憶測だけど、今回は脚本にトミノさんは絡んでないのではないか(^o^)。未だに『F91』の「アニメの」続編を待ち続けている身にしてみれば、マンガの外伝ばかりが描かれるのはちょっと悲しいんだけど。
2002年07月29日(月) 肉は血となり肉となる/『砲神エグザクソン』5巻(園田健一)/DVD『マジンカイザー』6巻ほか 2001年07月29日(日) いっじわっるはっ、たっのしっいなっ/『竜が滅ぶ日』(長谷川裕一)ほか
| 2003年07月28日(月) |
ついに出ますよ、アレが/『タク坊の毎日』(中川いさみ)/『最良の日、最悪の日 人生は五十一から�◆戞幣�林信彦) |
ようやくと言うか、なんでこんなに待たせたんだと言うか、『風の谷のナウシカ』がついにDVD化されることになったねえ。 しかし公開からもう20年かい。つーことは今の10代の若い子は、『ナウシカ』だけじゃなくて、『うる星やつら』も『超時空要塞マクロス』もリアルタイムでは知らないのか。CSをもっと家庭に普及させて、全国民がアニマックスやAT−Xを見てくれるようになってもらわないと、話がどんどん通じなくなっちゃうね。
『ナウシカ』公開当時、我々宮崎駿ファンがどれだけ「併映の『名探偵ホームズ』を楽しみにしていたか」、そういう空気も若い人には全然わかんないんだろうな。何だか昔から宮崎駿は神格化されてるように錯覚してる人もいるけれども、実のところ『ナウシカ』は当時のアニメマニアにはあまり誉められてはいないのだ。原作マンガを矮小化している、と言ったところがファンの主な感想だった。 けれども、「宮崎駿の才能を発揮したにしてはやや低調」という印象を持ちながらも、我々は「でもともかく見ろよ」と口コミの宣伝はしまくっていたのである。アニメーション映画がマトモな映画としては一般にも映画業界の人々にも認知されていなかったころ、「これなら充分実写映画に伍する」と主張できる出来だとは思っていたからだ。 実際、あの王蟲のジャバラが動いた瞬間(「王蟲マルチ」とか「ゴムマルチ」と称していた)、劇場の観客が一斉に「おおおおお!」と歓声を挙げた瞬間が忘れられない。CG全盛の現在からは考えられないかもしれないが、あれだけでも当時はすばらしく「リアルに動いている」ように感じられていたのである。発案者はスタッフの一人だった庵野秀明である。 そういう「流れ」を覚えている人間にとっては、その後の宮崎駿の「凋落ぶり」は見るに忍びない。『もののけ姫』と言い、『千と千尋』と言い、ここんとこの映画はアニメーションのダイナミズムを感じさせてくれそうになる直前で身をかわして「ちょっとアンタここに座って私の説教を聞きなさい」映画になってしまっているのが、無念でたまらないのである。 綿密に計算された伏線を散りばめながら、そのくせ自分でそれを破綻させ、暴走する。途中までは辻褄が合っているのに、あえてそれを破壊する。若いころの作品にはそれがかえって効果を挙げていたが(『未来少年コナン』のラストなど、レプカがギガントを飛ばす意味など本当はもうないのである。しかしアレのない「辻褄だけが合った」映画版がどれだけフヌケたものになっていたかは御覧になった方ならご理解頂けよう)、後年になるほどその「ほころび」は増大していった。 『ナウシカ』のほころびもギリギリの線で成り立っていて、ドラマはあっても実はストーリーは破綻しまくっている。 何と言っても物語が全く終わっていない。戦争はこれからも続くのだが、ナウシカは結局あの時点で何をしたというのか。王蟲の進行を止めただけではないか。クシャナが風の谷を引き上げて行くのだって、彼女の命を狙う兄弟たちが暗躍しているのに、なぜ自ら拠点を放棄するような行為に出るのかがわからない(ナウシカの言葉に簡単に左右されるようなヤワな人間ではなかったはずだ)。クロトワに至っては、出てきただけで物語にまだ全然関与していない。 それでも我々が『ナウシカ』に感動できたのは、あの物語がそのほころびゆえに「これから」を示唆していたからだ。原作マンガの連載はまだ続いていたし、あのころのファンの殆どが、『ナウシカ2』が作られるものと信じていた。宮崎駿自身が「作らない」と断言するまでは。あのころから我々は宮崎駿に「裏切られ」始めたのである。 宮崎駿はもう一度『ナウシカ2』を作らねばならないのではないか。かつては自らの作品の欠陥を「勢い」で誤魔化してはいたものの、その勢いが年齢とともに失速するにつれて、欠陥が誤魔化しきれずに浮き上がってきている。その「勢い」を取り戻すためにも「原点」に帰る必要があるのではないか。 そしてそれはまだ「オタク」と呼ばれる前の、「アニメファン」であった我々の原点に帰る行為でもあるだろう。今回のDVD化を機に、当時の我々がどれだけ『2』を期待していたか、我々が宮崎駿に、アニメに求めていたものがなんであったかを思いだしてみてもいいのではないかと思うのである。
今度出る『ナウシカ』は全部で3バージョン。 (1)風の谷のナウシカ DVD コレクターズBOX(予約生産) ・DVDソフトケース(巨神兵バージョン)仕様 ・ナウシカ・フィギュア(陶器製) ・「トルメキア戦没」額装オリジナル・アート ・王蟲(オーム)リアル・モデル ・価格: 24,800 円 (2)風の谷のナウシカ DVD ナウシカ・フィギュアセット(50000セット限定生産) ・DVDソフトケース(青い天使バージョン)仕様 ・ナウシカ・フィギュア(陶器製) ・価格: 7,800 円 (3)風の谷のナウシカ <通常版> ・DVDソフトケース(青い天使バージョン)仕様 ・価格: 4,700 円 また「陶器製」だなんて扱いに困るものを(-_-;)。しかも陶器でどれだけディテールに拘れるか、ということを考えると、それはやっぱり違うんじゃないか。いったいファンの、誰がそういうものを求めていると言うのだろう。でも出たら出たで「そういうもの」もほしくなってしまうのがファンの悲しい性ではある。 でも私は(3)の通常版を買いますけどね。
も一つ、その『風の谷のナウシカ』のDVD化発表会見で、SMAPの香取慎吾が「日本一のジブリファン」に認定されたとか。 要するに宣伝のためのキャンペーンキャラクターに選ばれたということなのだけど、その選定基準が解らない。香取慎吾がアスベルに似ているとでも言うのだろうか? 本人がファンだと言うなら仕方がないが、この妙にモヤモヤッと感じる「違和感」は何なんだろう? もっとも今更、安田成美を引っ張り出されたりしたらもっと困るけれど。
朝方、少し暑くなりそうな気配だったのが、昼から大雨。 これで一気に涼しくなって過ごしやすくなった。それにしても今年の夏は全然暑くならない。いや、それなりに暑くはあるのだが、例年ならつい使いたくなる「茹だるような」という形容詞を使うほどではないなあ、という感じなのだ。 ただ、これも一種の「異常気象」であるのなら、あまり喜んでもいられない。
午後から仕事を引けて、内科と眼科の2軒通院。 バスが遅れたおかげで、午前中の診療時間に間に合わなかった。仕方なく、知り合いの本屋などを回って、時間をつぶし、いくつか本を物色。 検査があるかもしれないと思い、朝から食事抜きでいたのが響いて、歩き回っているうちにフラフラしてくる。こりゃマズいと早めに病院へ。午後の診療開始の30分くらい前に到着するが、もう患者さんが一人来ていた。街中にあるわけでもない個人経営の病院だが、結構繁盛しているのである。診療の時刻になったころには、狭いロビーに7、8人が集まっていた。 てっきり検査があると思っていたのに、前回の検査結果を見せられただけ。いつもは土曜日に通っていたのだが、曜日が違って主治医に会えなかったので、避けられたらしい。そうとわかっていれば先に食事しておくのだった。 血糖値も尿糖も少しだけ下がっているが、それでもやっぱり通常の値より高いことに違いはない。まだまだ自重が必要である。
その足で眼科に回る。今日は点眼はなく、光を当てて覗かれただけ。 裂孔はなんとか広がらずに止まっているようである。特に頭を振らないように気をつけていたわけではなかったのだが(そんなことできるはずもない)、初期治療が効を奏したというところか。 次は3週間後、盆明けに来るように言われる。
マンガ、中川いさみ(撮影・加藤潔)『タク坊の毎日』(小学館/ビッグスピリッツコミックススペシャル・1680円)。 マンガ、とうっかり書いちゃったけど、実は絵はない。連載されてたの知ってる人は知ってると思うけど、これ、マネキン人形にストーリーに合わせたポーズを取らせたのを写真に撮ってフキダシを付けた、「マネキン写真ギャグ漫画」なんである。 ストーリーそのものも面白いんだが、これをマネキンに「演じさせる」だけでこんなに笑えるものになるとはなあ。顔が動かないのに表情があるようにさっかくしちゃうのは、能面と同じ効果かな(^o^)。 これまでにも単発的にこういうことやった人はいたと思うが(写真マンガ自体は結構ある)、単行本一冊まるまるやっちゃったというのは珍しい。思い付いてもセンスがないと面白いものにはならないからねえ。時々人形が変わるのはご愛嬌か。 ドラマで『オー!マイキー』ってやつがマネキン使ってまんま中川さんのマネしてるけど、これ、マンガの方が絶対効果があるのだ(中川さんはマネされたこと怒ってるらしい)。撮影は大変だったらしいけど、できれば2巻、3巻と作ってくれたら嬉しいんだけどなあ。 けど、このマンガ読んで一番悔しがってるの、唐沢なをきさんじゃないかな。こういう実験マンガ、どうして思いつかなかったのかって。
小林信彦『最良の日、最悪の日 人生は五十一から�◆戞癖現嬖幻法�500円)。 『週刊文春』連載エッセイ、1999年分の文庫化。4年前の文章なのに読ませる筆力はさすがだ。この点、ナンシー関さんの文章は数年経つと、当時の雰囲気が分らなくなって読みにくくなる。同じ「時代観察者」でも、小林さんはその時代を切り取りつつも、5年先、10年先も読めることを想定して「必要最小限の」情報を組み入れつつ書いているのだ。ナンシーさんも生きていればきっとこの域に達したはずで、返す返すもその死が残念でならない。 ちょうどこの年は小林さんが『ケイゾク』にハマッていたころである。私は当時、「小林さんが誉めていたので」『ケイゾク』を見るようになった(本放送の1話から見てたので、正確には小林さんの文章を読んだあとではないのだが、見続ける「後押し」になったのは事実である)。 誰かが誉めているから本を読むとか映画を見るということを私はあまりしないのだが(逆はやたらある。「コイツが誉めてるならきっとつまんないだろうな」&「コイツが貶してるならきっと面白いだろう」である)、小林さんは私が信頼する数少ない批評者の一人である。もっともそれは「ミステリ」と「コメディ」の一部に限定されるのだが。 ただ、これには弊害もあって、小林さんが貶してたおかげで、私は未だにトマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』を読んでいないのである(『羊』は原書で読みました)。 『ケイゾク』は回を重ねるたびにつまらなくなっていったけれど、「中谷美紀を『汚した』やり方はうまい」という小林さんの批評は正鵠を射ていたと思う。 前にも書いたことがあると思うが、私が小林さんを「信用」するのは、亡き母と小林さんが同い年だということが大きい。母が語っていた「あのころ」の空気と、小林さんの文章で語られている時代の感覚が、見事に一致するのだ。 小林さんが、山中恒の『間違いだらけの「少年H」』中にある「平日に国民学校児童だけで映画館に入場できるわけがない」という記述に対して、「戦争の後半に、多くの映画をぼくは一人で観ている」と反論している。私の母も、戦時中もずっと映画を見ていた。山中さんも同世代だが、時代の感覚は小林さんや母とは微妙にズレがある。山中さんの場合は戦後、共産主義に一時ではあるが染まったことによって(当時の児童文学者は、ほぼ全員、共産党員か共産主義者だった)、時代の捉え方に少し「歪み」が生じていたのではないかと推測する。 エッセイの内容全てに言及はできないが、『東京行進曲』を歌った佐藤千夜子が、小林さんの祖父に同郷のよしみで(山形県天童)借金に来たことがある、というエピソードが面白かった。ただそれだけのことだが、意外な人が意外なところですれ違ったことがある、というのは私のような運命論者には頗る興味深いのである。
2002年07月28日(日) 台本書いてると仕事してる気になるなあ/『アベノ橋魔法☆商店街』2巻(完結/出口竜正)ほか 2001年07月28日(土) アイ・ラブ・アッシー。……違うって(-_-;)/『スーパーロボットマガジン』第一号ほか
| 2003年07月27日(日) |
揺れて揺れて揺れて/『のだめカンタービレ』1・2巻/『平成よっぱらい研究所 完全版』(二ノ宮知子)ほか |
昨26日、宮城県で、17時間の間に震度6の地震が三度連続した「トリプル大地震」が発生。 テレビ見ててもやたらピンポンピンポンと音が鳴るんで、なんで同じニュースを緊急速報でしょっちゅう鳴らすんだと訝んでたんだけど、全部別の地震だったんだね。 同じ日に震度6以上の地震が3回起きたのは史上初だそうで、90棟以上が全半壊、負傷者は400人を超える大惨事だというのに、案外報道は大人しい。政府の動きも緩慢だけど、阪神大震災の時には対策の遅れを指摘して、厳しく糾弾したマスコミも、今回は別に突っ込み入れる様子が見られない。ボランティアの動きも全然わからんが、あまり活動してないのではないか。 なんだかねー、阪神とか東京、東海村が地震にあったんならともかく、宮城ならいいやってことなのかねー。だとしたら地方差別も甚だしいな。 報道ってのはそれを見た我々が、事件との距離、自分の立場をいかに取るかって判断するための材料になるんだから、逆に言えば「マスコミが視聴者にどういう態度を取ってほしがってるか」ってことも提供することになるんである。「宮城なんてどうでもいい」なんて姿勢取ってると、あとで東京に何かあったとき、どんなに慌てても「東京なんてどうでもいい」って態度取られちゃうよ。そんときゃ大阪が「次の首都は大阪だ!」と喜ぶことになるんだろうね。
『真夜中のカーボーイ』のジョン・シュレシンジャー監督が25日に死去。死因は公表されてない。享年77。 死因がわかんない場合、たいていは隠したい場合が多いけど、まあ『カーボーイ』見てるとどうしてもアレかなと思ってしまいますね(^_^;)。私は監督の作品は『カーボーイ』一本しか見てないし、同時代に見ないとアレは面白くないんじゃないかと思ってるんで、そんなに思い入れはない。 でも、こういう「問題意識」が全面に出ている映画の監督ってのは不遇を託つもので、シュレジンジャー監督のフィルモグラフィー見てても、近年はタイトル見ただけでいかにもサムそうな映画ばっかり撮っていってるのが侘しい。まあ邦題の付け方がマズいだけかもしれないけど。 つまんないことだけど、いい加減で『カーボーイ』ってタイトル、『カウボーイ』に訂正して再公開してあげないかな。これも『カウボーイ』じゃ売れねえとかわけのわからんヘリクツこねて、映画に何の愛情もない広告代理店が勝手に作ったもののような気がしてならん。
水に漬かっても何とか稼動していたしげの車、前には進めるがバックはできなくなってしまった。本格的に修理に出さねばどうにもならならいもののようである。 「保険で賄えないみたいだったら新車買おうかなあ」と軽いことを言ってくれるが、そのカネ、どこから出るんだ(T∇T)。
CSで時代劇専門チャンネルを見ていたら、『江戸を斬る 梓右近隠密帳』を流していた。し、し、しまった、気がつくのが遅すぎた。これやってると気づいてたら1話から全部録画しときたかったのに。主役の竹脇無我はどうでもいいが(^_^;)、由井正雪を演じた成田三樹夫と、丸橋忠弥の加東大介がもう絶品なのである。 今日放送していたのは、14話「忠長卿謀叛」と15話「笹野権三誉れの仇討ち」。キャストもこの2話に限って見ただけでも超豪華。とてもこれがテレビだとは信じられない。当時は民放でもこれだけの力があったんだなあ。
【14話】 梓右近(竹脇無我) 奈美・お妙の方(松坂慶子) 小夜(榊原るみ) 金井半兵衛(川辺久造) 林戸右衛門(伊吹聡太朗) がってん竹(高橋元太郎) のっそり松(浅若芳太郎) 柳生十兵衛(若林 豪) 由井正雪(成田三樹夫) 天海僧正(石山健二郎) 柳生但馬守(志村 喬) 仏の長兵衛(大坂志郎) 駿河大納言忠長(中村敦夫) 【15話】(重複キャストは省略) 葵小僧新助(松山英太郎) 一心太助(松山省二) お艶(鮎川いづみ) 笹尾喜内(牟田悌三) 笹野権三郎(加藤 剛) 八重(金井由美) お仲(津山登志子) 種田五郎左衛門(今井健二) 隈部将監(永井秀明) 佐分利左内(原健策) 堀尾山城守(原聖四郎) 丸橋忠弥(加東大介) 大久保彦左衛門(片岡千惠藏)
再放送も久しく見ていなかったので、ああ、この人も出ていたのかと懐かしくなったのが、林戸右衛門役の伊吹聡太朗さん。この人も古い役者で、ほぼ悪役専門であったが、『隠密剣士』のころから忍者役などで活躍されている。今どうされているかとネット検索して見たら、1998年に亡くなられていた。そんなにお年を召されているようには見えなかったけれど、おいくつだったのだろうか。『江戸を斬る』では、由井正雪の片腕の一人で最も危険な剣士を、その狼のような風貌で演じられていた。 14話のゲスト、中村敦夫の演じた駿河大納言忠長は、菊池寛の『忠直卿行状記』で有名。テレビでは由井正雪と組んで謀反を企み、松坂慶子の奈美に諌められて思い留まるように描かれているが、もちろんこれは史実ではない。実際の忠直卿は行いを改めるどころか、その残忍な乱行が幕府に咎められ、改易されている。何だかいかにもテレビ的な改変の仕方で、ちょっと残念であるが、一回きりのゲスト出演だから、これもやむを得ない。 15話の加藤剛演じる笹野権三郎はいわゆる「鑓の権三」だが、近松の浄瑠璃では女敵討ちに合う権三が、こちらでは敵討ちの助っ人になっている。こちらは講談に取材しているので、郷ひろみが演じた映画『鑓の権三』と見比べると、イメージが正反対なのでそのギャップに苦しむことになる(^o^)。 どちらのエピソードもムリヤリ慶安事件にリンクさせてるので、脚本としては ちょっと苦しいのだが、書いたのが「葉村彰子」なので、いったい誰だかわからない。知ってる人も多いと思うが、この名前の人物は実在しない。松下電器のプロデューサーであった逸見稔(へんみみのる)氏が、番組制作のために結成した企画集団SHPに参加した、松木ひろし・向田邦子・窪田篤人・津田幸於・大西信行・櫻井康裕・田口耕三・柴英三郎の連名ペンネームである。後には加藤泰・山内鉄也・岡田裕介も名を連ねたというから、こうなると誰がどの脚本を書いたのか全くわからない。 ついでだけれど、あの大林宣彦監督の映画版『ねらわれた“私は宇宙だ!!”学園』も脚本は葉村彰子名義。だからいったい誰なんだよう。
マンガ、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』1・2巻(講談社/KCキス・各410円)。 「のだめ」ってのは本作のヒロイン「野田恵(のだめぐみ)」のこと。 昔、『あずきちゃん』ってマンガに出てくる「ジダマ」って女の子の本名が分らず、ムチャクチャ気になってたんだけど、あの子にはどうやら本名はなかったらしい。「のだめ」の場合はそんな心配をする必要はなかったが、普通。こういう仇名をつけられる子に知的な美少女とか可憐なたおやめとかはいない(^o^)。実際、のだめも「一風」変わっている。 桃ヶ丘音楽学園大学のピアノ科一年生、どうやら天才的な音感を持ってはいるらしいのだけれど、生活能力はゼロ以下。住んでるマンションの部屋はゴミタメと化し(「野溜め」だな)、コバエが飛び交う不潔さ。フロには一日置き、シャンプーは五日置きで、腹が減ると人の弁当でも勝手に取って食う。でもってしょっちゅうハナだのヨダレなど垂らして泣く。……端から見てりゃ面白いかもしれないが、実際にこんなヤツがいたらすげえ迷惑な感じだ。でも、まんまソックリなヤツがすぐ側にいるような気がするよ(T∇T)。実際、のだめにもモデルがいるらしいが(福岡人らしい)。 本能のままに生きてるようなこいつになぜか関わることになってしまったのが、やはり天才的な才能の持ち主で、渡欧して指揮者になることを夢見ていながら飛行機恐怖症のために望み叶わず、鬱屈した生活を送っていた千秋真一センパイ。のだめに振り回されながらも、二人の才能は打てば響くがごとく、互いに呼応しあって花開いていく……のかな?(^_^;) 作者のクラシック好きと言うか、ベートーベン好きが高じて書き始められたらしいこのマンガ、もちろんその音はマンガから聞こえては来ないのだけれど、のだめがもうのだめだから(^o^)、彼女の弾く「楽譜見ないからデタラメだけど間違ってなくてすごくうまい」ピアノってのがどんな曲なのか、空想が広がって思わずマンガに引き込まれる。 千秋センパイもこういう珍獣がほっとけなくて、ついつい世話してしまうのだろう。その気持ちなんか分るぞ。 音楽家、ミュージシャンを主人公にしたマンガは数多いが、現代日本を舞台に、ごくフツーの音大生の成長を描いてくってパターンは案外少なかったように思う。軽いコメディのように見せかけてるけど、その成長過程自体はハードなものになってくんじゃないかな。表紙買いだったけど、これはまあ当たりかな。
マンガ、二ノ宮知子『平成よっぱらい研究所 完全版』(祥伝社コミック文庫・600円)。 ニッポンの身分制度というのは今でもシ○ウコウ○ヨウヨッパライとなっているので(←この程度のジョークでもサベツだって言うヤツいるんだよな)、ジンケンなんぞは認められていないのだが、なるほどヨッパライに「ニンゲン」の称号なんて与えちゃいけないとつくづく頷かせてくれるのがこの一冊。 「オレはここまで落ちてない」「私は呑んでも呑まれない」とかホザいてる老若男女のみなさまがた、「自分だけは違う」なんてのは幻想です。醜態晒さないヨッパライなんて日本には存在しません。シラフの私が言うのですから絶対です。 酔ってゲロ吐くくらいは日常茶飯事、どこぞの看板盗んでくるわ、アタマの悪いケンカはするわ、店は破壊するわ、イタ電はかけまくるわ、道端でチンチンだのチチだのほっくりだして踊るわ、ヤクザにゃ絡むわ、ケツにドラゴン花火突っ込んで火をつけるわ、公園のカップルに花火投げつけるわ、都庁にも花火投げつけて警察に追われるわ、宇宙人の話する人連れてくるわ、王様ゲームでマタに顔突っ込ませるわ、フロに入らねえからひたすら臭いわ、ピロリ菌飼って胃カメラ飲むわ、婚期逃すわ、酔っぱらったまま死ぬわ、なんてニンゲンらしい生活でしょうか(^o^)。 全国のヨッパライ研究所のみなさん、これはみんな、アナタの姿なのです。でもここで反省して「もう酒を飲むのやめよう」なんて考えちゃいけません。世の中、一所懸命マジメに生きてる人たちは、あなたがたのように人生なめきって迷惑かけるしか能のないダメニンゲンを見ては「ああ、オレってヨッパライに比べたらまだマシなんだなあ」と元気を出すことができるのです。上見て暮らすな下見て暮らせ、大いに蔑まれサベツされるのがあなたがたが天から与えられた使命なのです。さあ、もっともっとヨッパラッて面白い姿を我々シラフに見せてくださいな(^o^)。(←ホントは羨ましがっているのだな) 二ノ宮さんはもちろん「更生」などせず、けれど結婚だけはなぜかしちゃって現在に至っておられる模様。お相手はもちろん飲み仲間。幸せは、酒臭い息の向こうに漂ってたんだね。めでたしめでたし♪
2002年07月27日(土) イナジュンはいいねえ〜♪/DVD『カタクリ家の幸福』/『雨柳堂夢咄』其ノ九(波津彬子)/『ガンダムエース』9月号ほか 2001年07月27日(金) 『クレしん・オトナ帝国同人誌』完成!掲示板も見てね/『怪』11号ほか
| 2003年07月26日(土) |
オタクな本屋にクラシックは似合わない/『TNくんの伝記』(なだいなだ)/映画『デブラ・ウィンガーを探して』ほか |
ノンフィクション作家の鈴木明さんが、22日に、虚血性心不全のため死去していたことが判明。享年77。 記事にはその代表作として、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作の『「南京大虐殺」のまぼろし』や『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』などが紹介されているが、私が読んでたのは『リリー・マルレーン』の続編とも言うべき『わがマレーネ・ディートリッヒ伝』と『維新前夜』、ともに小学館ライブラリーの一冊である。 ノンフィクションと言いつつ、情感溢れる筆致は小説のそれに近く、「実録」作家としてはこの書き方は評価されにくいんじゃないかなあと、やや心配した覚えがある。 『わがマレーネ』はベルリンの壁崩壊時の本人へのインタビューの失敗と、万博の思い出から書き起こされているが、歴史に翻弄されたドイツ女性の歌声が、歴史を愚弄する万博に招聘されたというのもまた歴史の皮肉であるとと鈴木氏は捉えていたようだ。敗戦を16歳で迎えた筆者にとっても、1070年のあの狂乱はいったいどんな意味を持っているのか、簡単には掴めない出来事だったのだろう。 明らかに「浮いていた」ディートリッヒを私も見てみたかったと今にして思うが、当時小学二年生の私には、鈴木氏が困惑した「狂乱」のほうがむしろ心地よかったのである。
夕方4時、練習帰りのしげ&よしひと嬢と映画に行こうと、天神の福家書店で待ち合わせ。 時間ちょうどに店に着いたが、二人の姿はまだない。携帯に連絡を入れたが、少し遅れるとのこと。仕方がないのでしばらく買う本を物色する。 店内にはなぜかジャズが流れているが、これ、二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』に使われてる曲なのだった。なんか聞いたことあるな、と思ったが題名がどうにも思い出せない。どうやらちょっと前にサイン会が開かれていたらしく、「二ノ宮知子」コーナーが店の一角に設置されていて、サインが飾られている。「のだめは福岡出身です。応援してね」とか書いてるけど、リップサービスじゃないのかな(^.^)。一緒に今流れている曲がズラリと書かれたパネルも置いてあったので、それで確認してみた。
・ベートーベン/ピアノソナタ 第8番 ハ短調Op.13「悲愴」 ・モーツァルト/2台のピアノのためのソナタ ニ長調K.448 ・ベートーベン/交響曲 第1番 ハ長調 op.21 ・ベートーベン/交響曲 第1番・第3番「英雄」 ・ベートーベン/ヴァイオリンソナタ 第5番 ヘ長調 作品24 「春」 ・ベートーベン/交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 「合唱」 ・マーラー/マーラー交響曲 第8番 変ホ長調「千人の交響曲」 ・ベートーベン/交響曲 第7番 イ長調 ・ベートーベン/交響曲 第3番 Op.55「英雄」 ・ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 Op.18 ・ドヴォルザーク/第5番 ・ガーシュイン/ラプソディ・イン・ブルー ・メフィスト/ワルツ第1番S.514「村の居酒屋での踊り」 ・エルガー/ヴァイオリン・ソナタ ホ短調op.82
ツラツラと眺めていって、ちょうど今流れてるのがジョージ・ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』であることに気がついた。こんな有名な曲までど忘れしてるんだから、ボケは確実に進行してるんである。 「クラシック音楽コメディ」とオビに書いてあるが、そのわりには随分ベートーベンが多くないか。イカンというわけじゃないが、バッハとかハイドンとかヴィヴァルディが全然出てこない。けど、好きな曲も結構あるので、とりあえず1、2巻だけ買ってみることにする。 そうこうしているうちに、二人が到着。待ちあわせ時間より30分も遅れてきたが、アクロス福岡に次回公演のチラシを置いてきたとのこと。それならそうと連絡を入れておけと言うのだ。全く気が利かないったらありゃしない。 映画までにはまだ時間があるので、よしひと嬢も何か出物はないか、探している。押井守&大野安之の『西武新宿戦線異状なし』の完全版が出ていたので奨めると、「絵が嫌いなんだけどなあ」と言いつつシッカリ買っている。この分なら、押井守ボックスを買うのも時間の問題だろう(^o^)。 「この本が面白いですよ」、と言ってよしひと嬢が奨めてくれたのが『のだめカンタービレ』。 「いや、もう買ったよ」 なんだかヘンな西手新九郎である。
天神コア7階グルメパークの「喜水亭和楽」で食事。照明が大人しく、落ちついた雰囲気の中、手ごろな値段で定食や海鮮丼などが食べられる。しげもよしひと嬢もこの店は気に入ったよう。 そのときの私のいでたちが『少女革命ウテナ』のTシャツだったので、よしひと嬢から「その格好で歩き回るのはやめた方が……」と言われるが、出かけるとき、手ごろな私服が見つからなかったのである。それに時間に遅れなければ映画を見てすぐ帰るつもりだったんだしねえ。
そろそろ映画の開演時間が近づいて来たので、KBCシネマまで歩き。同じ天神と言っても、コアからは三区画ほど離れているので10分ほどは歩くことになる。ここに来るのはよしひと嬢は初めてだ。メジャーどころは殆ど上映しないミニシアターなので、今後も滅多に来ることはないだろうが、本当のことを言うと、ここに掛かるような毛色の変わった映画もいろいろ見てほしくはあるのである。
映画は『デブラ・ウィンガーを探して』。 ロザンナ・アークウェットが「女優と家庭は両立できるの?」と自分の尊敬する女優たちにインタビューし続けるドキュメンタリー(?)映画。 だもんで、キャストだけはやたら豪華。 パトリシア・アークェット、エマニュエル・ベアール、カトリン・カートリッジ、ローラ・ダーン、ジェーン・フォンダ、テリー・ガー、ウーピー・ゴールドバーグ、メラニー・グリフィス、ダリル・ハンナ、サルマ・ハエック、ホリー・ハンター、ダイアン・レイン、ケリー・リンチ、フランシス・マクドーマンド、ジュリアナ・マルグリーズ、キアラ・マストロヤンニ、サマンサ・マシス、キャサリン・オハラ、ジュリア・オーモンド、グウィネス・パルトロウ、マーサ・プリンプトン、シャーロット・ランプリング、ヴァネッサ・レッドグレーブ、テレサ・ラッセル、メグ・ライアン、アリー・シーディ、エイドリアン・シェリー、ヒラリー・シェパード=ターナー、シャロン・ストーン、トレイシー・ウルマン、ジョベス・ウィリアムズ、デブラ・ウィンガー、アルフレ・ウッダード、ロビン・ライト・ペン、総勢34人。 でも、みんな言ってることは同じで、「四十過ぎたら仕事がなくなる」とか愚痴ばかり。タイトルにあるデブラ・ウィンガーにしてから、引退の理由は「演技力が上がってもそれに見合う映画がハリウッドにはなくなったから」だからなあ。選り好みしてただけなんでねーの? 『愛と青春の旅立ち』などはプロデューサーにセクハラされてて、手抜きの演技しかできなかったそうであるが、それもなんだか言い訳っぽい。 多分、女優を使い捨てしているハリウッドの現実に問題があるという彼女たちの主張には、一理も二理もあるんだろう。けれど、そればっかり延々2時間も愚痴られ続けると、見ている客は、いい加減飽きる。そのうちだんだん、「愚痴ばかり言ってねえで仕事しろよ」という気分にもなってくるのだ。これって、逆効果ではないのか。気がつくとしげは隣で寝ているのである。 話が面白かったと言えるのは、ウーピー・ゴールドバーグくらいのもの。 「トシ取るとチチも垂れるケツも垂れる、垂れるなっつっても垂れる、どんどん垂れる。怒鳴って言うんや、『何垂れとんねん!』、そしたら『おまえのケツや!』て怒鳴り返されたわ」(意訳)とかそんな話(^_^;)。「垂れるチチやケツ整形してどないすんねん」っての、多分デミ・ムーアのこと揶揄してんだろうな。 「聞ける」話をしてくれたのは大御所ジェーン・フォンダ。 「入魂の芝居はたった8本だけ。神が降りて来たと感じたのはそれだけだけと、その瞬間があるからどうしても役者を辞められなかった」と。 よしひと嬢も、唯一感動できたのはその部分だけだったとか。しげは「テレビで見りゃ済むじゃん」とすごく不機嫌。私だってハズレだなんて見るまで気がつかないよう(T∇T)。
帰り道、博多駅前で知り合いの女の子二人に偶然出会う。いきなり若い子から呼びとめられたんで、てっきり逆ナンかと思った(嘘)。 「何してるんですか?」と聞かれたので、「映画の帰りだよ」と二言三言会話。ところが、振り返ってしげとよしひと嬢を紹介しようとしたら、二人とも姿が見えない。さっさとバスセンターに向かっていたのだ。そのままはぐれるわけにもいかないので、女の子たちには早々に挨拶をして、しげたちを追いかける。タイミングよくバスが来ていたので飛び乗ることができた。女の子たちに引っかかっていたら、30分は待たねばならないところだったので、置いてきぼりにされたのがかえってラッキーだったということになるのだろうか。 でもなんかちょっと納得いかないよねえ。
今日もよしひと嬢はお泊まりなので、DVD『オーバーマン キングゲイナー』1巻をお見せする。オープニングのモンキーダンスは予想通りウケて頂いたが、本編は「何がなんだか」である。 設定資料を見なきゃ物語はおろか人物も世界観もつかめない作り方ってのは、若いころはともかくトシヨリにはちとキツイ。とは言えこの人に「もっとわかりやすい作り方を」と要求するのはねえ。ヘンな人にマトモなものを作れと要求するっていうのは、八百屋に向かって肉を売れというようなものである。 トミノさんは基本的に変人なんだから、決して巨匠扱いしちゃいけないのだ。巨匠扱いされたら妙に思想的なもの作りかねないからねえ、この人の場合は。
帰宅が遅くなったので、チャットを覗くのが遅れる。 あぐにさんがお久しぶりの書きこみ。けれど、しばらく実家に帰省されるとのご報告であった(^_^;)。ああ、学生さんには夏休みがあるんだなあ。サラリーマンには遥かに懐かしい過去である。 あぐにさんにもお話できたら何か原稿をお願いしようかと悪企みをしていたのだが、見事にかわされてしまった(^o^)。まあ、ヒトの褌ばかり当てこんでないで、自分でちゃっちゃと更新しなきゃってことだわな。
なだいなだ『TNくんの伝記』(福音館文庫・840円)。 昨年8月から創刊されていた児童文学の新レーベル。私ゃ大学の専門がこっちなんだから、本当はこういうのをもっと読まなきゃなんないんだよなあ。でないと同窓会に出ても話が合わないんである。 「創刊」と言っても、絶版になっていた単行本の新装版(「文庫」と銘打ってはいるが、サイズは17×13センチの新書版よりやや横長)が殆ど、ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』シリーズやヨハンナ・シュピーリの『ハイジ』、マイケル・ボンドの『くまのパディントン』シリーズなどが再刊されている。 なだいなだ(どんなだ <c.筒井康隆>)の本作も、初刊は1976年だが、ようやくこうして廉価版が出た。多分、昔は図書館とかにも結構置かれてたと思うんだけど、私は眼にしたことがなかった。こういう名著にはもっと早く、学生のころにでも触れておきたかったと今更だけど残念。
タイトルに「伝記」とある通り、これは幕末から明治にかけて生きたある人物の実録小説である。 彼、TN君は、1847年に生まれ、1901年に死んだ。土佐の足軽の子に生まれ、長じて渡仏し、ジャン・ジャック・ルソーを学び、帰国して新聞活動を通じて自由民権運動を繰り広げた。「東洋のルソー」と称せられ、著書にルソーの訳書『民約訳解』や、『三酔人経綸問答』『一年有半』『続一年有半』などがある。大逆事件の幸徳秋水は彼の弟子である。 こう書けば、「TN君」が誰なのか見当がつく人もいるだろうが、作者のなださんは、「ぼくの知ってもらいたいのは、彼の名前ではなくて、彼がどんなふうに生きたか、ということだからだ。そのためには、名前なんてじゃまになる」「名前と顔を知れば、なんとなく、その人間をよく知っていると思ってしまう」と書く。確かに、歴史の勉強を通り一遍に流しただけの学校の授業などでは、「坂本竜馬は薩長同盟のお膳立てをした」「勝海舟は江戸城を無血開城させた」「西郷隆盛は征韓論に破れたあと西南戦争を起こした」とか、そんな「出来事の知識」しか得られないだろう。名前はまさしく「知ってるだけ」なのである。こういうのこそ「ムダ知識」だと思うが、どうだろうか。 私も、なださんに倣って、ここでは、あえて「TN君」の名前を明かさないが、まだ全然見当がつかない人は、あえて調べるのはやめて、本書を読んだあとで確認してほしい。TNはイニシャルだが、本名のそれである。
TN君の印象は、一言で言ってしまえば「活動家たらんとして動けなかった学者」である。ヒドイ言い方だが、本文中にも「行動力のない、口だけの民権家」と非難されていたことが書かれている。実際に政治家として議員になって最初の国会に参加したこともあるのだが、仲間の裏切りに合い、わずか三ヶ月で辞職している。 西南戦争のさなか、TN君は西郷軍に合流し共に死なんとする若者を目の当たりにしながら止めることをしなかった。若者は、西郷に共感しながらも共に立って政府を妥当しようとしないTN君をなじったが、一切、口を開かなかった。ただ、熊本に向かった若者に付いて行っただけだった。いったい、TN君は何を考えていたのか。熊本まで同行しながら、結局は反政府のために戦わなかったのはなぜか。 けれどなださんは、そんなTN君のことをこう擁護する。 「西郷は死ぬために立ち上がった。自分の死を利用させるために。だからこそ、自分たちは生き残らねばならぬのだ。そして、西郷の死を利用しなければならない。死を利用する。それはいやなことだが、それをやらねばならないのだと。しかし、TN君には、とうとういえなかった」 「TN君は、学者として、ただ正しいと思う意見を口にし、自分の思うことをいい、信じるままに行動しただけなのだ」 知行合一の陽明学的思考で考えるなら、TN君の哲学は机上の空論でしかあるまい。しかし「実行」は本当に「思想」や「理論」よりも上回るものなのだろうか。純粋理性は実践理性に劣るものだろうか。 もしそうなら、戦時中の軍部の暴走は、全て正当化されねばならないだろう。戦争は常に肯定されなければならないだろう。 TN君は常に座して動かなかったわけではない。自らが語る場所、語るための立場を確立するための手段は常に模索し続けていた。藩閥政府が民権運動を敵視し、自由のための言論をありとあらゆる権謀術数を用いて封殺しようとしていたことを熟知していたからだ。 新聞が続々と政府によって発禁処分に合う様子を見て、社主に西園寺公望を担ぎ出して圧力を避けた。それでも西園寺が節を屈して社主を退いたあとは拠点を関西に移して新聞発行を続けた。「言論を守るための戦い」はTN君の一生を通して続いていたのである。 「力」を持たない普通の人間であっても、自分の信じる道に従って、語り続けることができる。なださんはTN君の一生を通じて、「言論人のあり方」を若い人たちに伝えようとしている、そのように思える。
TN君は聖人君子ではない。 活動資金調達のためとはいえ、汚れた事業に手を出した。売春宿を経営しようとしたこともある。なださんはそれを「TN君は呼びかける相手がどこにいるか、見失うべきではなかった」と痛烈に批判する。仲間に裏切られ続けたTN君は、少しずつ政治の、歴史の表舞台から消えていきつつあった。 TN君をもう一度「思想家」として復活させたのは、皮肉にも彼の死ゆえである。ガンに罹り、余命一年半と宣告されたとき、TN君は自らの全てを『一年有半』『続一年有半』の二冊の著作に纏めた。 TN君は、日本人が未だ合理的な理論を持たず、転変する様々な思想に振り回され続ける様子を見ていた。明治末期に至って、TN君の目に最後の敵として映ったのは、今やその姿を徐々に表しかけていた「愛国心」「軍国主義」「帝国主義」という名の幽霊であった。TN君はその敵に向かって、「無神論の哲学がないところでは、理は感情に常にうちのめされてしまう」と、最後の闘いを挑んだのだ。TN君は力尽き、一年有半どころかガン宣告の後9ヶ月で死んだ。 TN君の「無神無霊魂」の思想は多くの人々の心を打った。しかし、歴史はそんな人々の思いをも飲み込んで、幽霊の支配する時代へと突入していった。 現代、未だ様々な亡霊の呪縛に捕われている人々の姿を見るにつけても、TN君の無神論が語っていたことの意味を、再検証してみる必要はあるのではなかろうか。
まあちょっと固っ苦しい書き方をしてしまったけれども、奇人としても知られたTN君のこぼれ話も本書には満載である。 「TN君は若いころ坂本竜馬のパシリだった」とか、「フランスに留学するために一面識もない大久保利通に道端で頼みこんだ」とか「外見で人を判断する連中を嫌って元老院に浮浪者のような汚い格好で通っていた」とか「芸者に向かってキ○○マ袋を広げて酒を飲ませたら、熱燗を注がれてヤケドした」とか、そんなんである。衒いのない生き方を標榜する人間は多いが、実践できる人間は少ない。果たしてTN君はただの奇人にすぎなかったのであろうか。それとも。
2002年07月26日(金) 親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか 2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか
| 2003年07月25日(金) |
ムダじゃムダじゃ/『フラッシュ! 奇面組』2巻(新沢基栄)/『ぼくんち 全』(西原理恵子)/『ねらわれた学園』(眉村卓) |
一昨日の『トリビアの泉』、帰宅が遅くて見逃してたので、ネットでネタだけ紹介してるサイトで確認をする。 そこまでして見たいのはやっぱり好きなんじゃないかと突っ込まれそうだけど、そこがまた微妙なところで、「ここんとこをもちっとこうすれば面白くなるのになあ」という物足りなさ、隔靴掻痒感が強いからどうしても文句が口をついて出るのだ。とりあえず司会とゲストのツマラン喋りカットして、せめてあと二つくらいはネタを増やそうよ。 「少年の声変わりの瞬間が録音されたレコードがある」ってのは見逃したのが惜しかった。随分昔に何かの科学番組でこれ流してたの(恐らく『四つの目』あたりではなかろうか)聞いたことはあったんだが、もうしばらくその存在自体忘れてたのだ。 このネタがまた『へぇの本』にまとめられたとしても、CDをフロクに付けるわけにはいかないだろう(それともDVDで出るか?)。映像は写真で紹介できても、こういう「音モノ」は現物に当たるしかない。とは言え、1968年に発売されたという『変声期』というレコード、実際にそれを聞いてみたいと思っても多分もう売ってない。こういうネタこそ、テレビ向きなんである。 「午前十時十分の『十分』の読み方は『じゅっぷん』ではなく『じっぷん』である」ってのは記録を見るとたった「12へぇ」であるが、高得点の「へぇ」(『変声期』は90へぇ)とのバランスを取るためにわざわざこんな誰でも知ってるようなネタ(マトモに学校に通ってた子なら小学校の時に先生から注意されてるはずである)を取り上げてるんだろうか。それとも制作スタッフは小学生並の学力もないのであろうか。もしも視聴者に対して「どうせテレビを見てる視聴者なんてこの程度で『へぇ』というに決まってる」なんて侮りがあるとしたらふざけた話である。 ちなみに「十返舎一九」も読みは「じっぺんしゃいっく」である。高校のときに「じゅっぺんしゃ」とフリガナ打ってペケをもらった記憶のある方は多かろう。もっともこの間違いは圧倒的に多いんで、国語審議会もいい加減「じゅっ」の読みも現代語に関する限りは(古語や人名に関しては別)認めたらどうかと思うんだが。少なくともパソコンはもう「じゅっぷん」でも「じっぷん」でも変換してくれるぞ。
さてこの『トリビアの泉』についてだが、西日本新聞に連載されている宮原哲氏(西南学院大教授)の『コミュニケーション哲学』77回に、次のような解説が載っている。 本文は長いので要約すると、「現代は情報化社会である。溢れ出る情報に晒されて、我々は心の健康を害することもある。そうならないために仕入れた情報を他人に発信して新陳代謝を図らねばならない。しかしその情報を思いこみで解釈したまま発信してしまうと、他人を傷つけかねない。この番組に投稿された情報は、『へぇ』のボタンで評価されるが、その数が少なければそれだけ無駄な知識なのである。みんなで『へぇ』と言いあってコミュニケーションを図り、その平均値をつかむことが一人よがりの情報発信を少なくすることになるのだ」 なんだかこの論法だと、「へぇ」のポイントが高い情報は「ムダ知識ではない」とでも言いたげだが、ポイント高かろうが低かろうが、ムダはムダではないのかね。どっちかと言うと、ポイントが高いほうがムダ度が高いと感じる人の方が多いんじゃなかろうか。 宮原氏が、「もともとムダ知識なんだけど、コミュニケーションの道具として使える点ではムダではない」という意味で語っているとしても、じゃあ例えば「へぇ」度の低い「『十分』の読み」はコミュニケーションに役立たないムダ知識かというとそうではなくて、これ単に正しい読みを知ってるべきな基礎知識だから「へぇ」度が低いだけなんである。「消耗」は本当は「しょうこう」と読むとか「憧憬」は本当は「しょうけい」と読むとか、こんなのは知らない人が多くても、トリビアのネタにはならない。ムダ知識だけど、「使いようによっては」会話が楽しくなるとか、その方法を見せてこそコミュニケーションの道具となりえるのだ。 「クラーク博士って知ってる?」 「知らなーい」 「……『青年よ、大志を抱け』って言った人だけどね」 「ふーん。で?」 「その人、詐欺で訴えられたことあるんだよ」 「ふーん、で?」 「……」 会話相手の知識を随分低く見積もってると思われるかもしれないが、仮にこれが「知ってる」であっても状況はあまり変わらないのである。 逆に「『十分』の読み」でも、「最近の若い子って、『十分』の読みも知らないんだよ」と口火を切れば、コミュニケーションの道具に使えないわけではない。 もちろんそこまで番組が「演出」してやる必要はないし、そもそもコミュニケーションの仕方を覚えましょう、というのが主眼の番組ではない。こういうトンチンカンな批評が出てくるあたり、やっぱり「ムダでない知識の方がエラい」、と思いこんでる御仁の方が世間には多いのである。ムダはムダだからこそ意味があると思ってる人も多いと思うんだがなあ。
『ひょっこりひょうたん島』のキャラクターで、NHKのテレビ放送50年キャラクターであるドン・ガバチョの声を、先月亡くなった名古屋章に代わって栗田貫一が演じることになったというニュース。 作者の井上ひさしの推薦ということだけれども、ルパン三世の時と言い、いらぬプレッシャーばかり与えられて、ちょいと気の毒な気がしないものでもない。役者の立場から考えれば、こういうオファーがあったら、これはとても断れない。叩かれることを承知で引き受けざるを得ないのである。それは名古屋さんが藤村有弘さんの跡を継いだ時も同様だったと思われる。 実際、栗田さんのルパンの声、批判は多いがそれほどひどくはない。山田さんにしたところでよかったのは初期のルパンのときくらいのもので、『カリオストロの城』だって、クラリスとのやりとりなんか臭い部分が目立つ。何度か書いてるが、栗田さんより山田さんの方が上なんてのはただの先入観だ。 問題なのは「似た声を」と発想する製作者側のほうなんで、藤村さんと名古屋さん自体、声質が全く違うので、この際、新しいイメージの役者さんを探してもよかったんじゃなかろうか。だって、このまま行くとトラヒゲの熊倉さんが亡くなったら、それも栗田さんにさせるのか、若山弦蔵、楠トシエ、中山千夏、堀絢子各氏、全員、栗田さんにやらせるつもりか、ということになってしまう。バカボンのパパだってもう三人もいるのだ。製作者も視聴者も擦りこまれたイメージに拘らず、「役者の演技」を見て評価してほしいものなんだが。
しげがまだ『プリンセスチュチュ/雛の章』を見てなかったので、最後までぶっ通しで見る。しげは滅多に作品を誉めないので、ドキドキものだったのだが(つまんないものを見るとヤツアタリされるので困るのだ)、最後まで気に入ったようで助かった。 そうだよなあ、もしもアレがアレになっちゃってたらアレと同じだもんなあ。アレがアレのままだったからアレはよかったのだ。毎度のことですが、ネタバラシにならないように書くと何が何だか分らんのだけど、そこんとこはどうぞ御容赦。
もともと今日はしげの仕事が休みだと聞いていたので、『チュチュ』を見終わったあともDVDマラソンをするつもりだったのである。ところが見終わるやいなや、急に「仕事に行く」と言い出してしげは支度を始めた。 「休みじゃないのか?」と聞いたけれど、「今日は人出が足りないから」とのこと。何だかいたたまれなくなったらしい。 こういうところを見て「奥さん、優しいじゃないか」とか誤解してはいけない。単に「自分だけが楽をしてるんじゃないか」という思いがプレッシャーになって、不安になってるだけなのである。でもこれが決してワーカホリックなわけではないから(家事はしないんだからとてもそうは言えない)、要するに心のバランスが取れてないだけなのである。 家でやることと、仕事でやれること、どちらにも限界はあるんだから、もちっとアタマを使えば自分自身のプレッシャーからも解放されると思うんだが、どうしていつまで経っても学習しないのかね。
夜、チャットで鍋屋さん、あやめさんと。 あやめさんは久しぶりのお出ましだが、めでたく今回ご退職が決まったとのこと。退職したのに「めでたい」というのもおかしな話だが、ご本人が大文字で「めでたいの!!」と仰るから、めでたいのであろう(^_^;)。まあ才能のある人は何らかの形で頭角を表すものだから、退職されてもあまり心配はないんだろうね。ああ、羨ましい(T∇T)。 私ももう職場の人間関係にホトホト疲れているので(つか、相手って一人だけなんですけど)退職できるものなら退職したいのだが(マジで「あの人に会いたくないから辞めたい」なんて感じたのは初めてである)、四十の坂を越えてこんな病気持ちが再就職できるはずもない。 それでもいつかリタイアしなければならない時が来るかもしれない。あの、知り合いのみなさん、お願いなんですが、もしそんな事態になって、私の再就職先から探偵が来て(^o^)「藤原さんってどんな人ですか?」とか聴かれたら、「そうねー、典型的な生活無能力者のオタクだねー」とだけは言わないでくださいね(^_^;)。でもそれしか言えんか。
マンガ、新沢基栄『フラッシュ! 奇面組』2巻(スクウェアエニックス/ガンガンコミックス・410円)。 続編ではなくリメイクされての第2巻。ここからが高校生編で、新作なのに懐かしいギャグが満載である。でも、昔ファンだった人間なら分ると思うけど、今の若い人がこのギャグの「古さ」を楽しんでるのかどうか、本気で気になるねえ。ケータイにルーズソックス(東京ではまだ流行ってるのか?)の女生徒が描かれるようになっても、一応高校にはちゃんと番長がいるのである(^o^)。 まあクラスメートのみんなが再登場するのは分るが、まさか手目小野若蔵まで 出てくるとは意外だった(^_^;)。 あと、ゴルフねたで6回(半年)も引くのはちょっとやりすぎとちゃいまっか。その間、他の名物グループ出演できないし。
マンガ、西原理恵子『ぼくんち 全』(小学館/ビッグスビリッツコミックス・550円)。 カラー版単行本を全1巻に纏めた廉価版。映画化に合わせての発売だけど、4ページだけ描きおろしが付いてるので、そのためにだけ買いました。ファンはツライよ(T∇T)。 描きおろしは特に続編ということではなくて、神子姉ちゃんと二太が裏山に登って沖の船に手を振る、それだけの話。それだけの話だけど、これ、文章だけでも立派な小説になっている。
> おねえちゃんが、船が帰ってくるから手をふりに行こう、とゆうので、ふたりで裏の山に登った。 > 「おねえちゃん、今日の船、誰か知ってる人のってんの?」 > 「むこうの町で、ひと月働いたら、毎日 朝のみそ汁にたまご入れられるて、それっきり。たまごなんて入ってなくてもええのになあ。みんながいっしょにおれたら、それが一番ええのになあ」 > 「あっそれはな、ボクもサンセイやっ。みそ汁なんてな、フジツボでええねん。ええにおいするし。朝ていぼういってな、フジツボと岩のりぴゃっとはがしてくんねん、ボクあれ大好きや」 > 船がきたので、ねえちゃんとボクは手をふった。 > 船からはみかんの花みたいにちいさい手がぴらぴらするのがみえて、みんな自分の一番好きな人とまちがえてるんだろうと思う。
サイバラさんのこういう「感動モノ」を、「ウケ狙い」と嫌う人もいるようだが、私は情感を込めているようでいて実は細かいところに働いているストイシズムや冷たさが好きである。 例えばサイバラさんは「人」を「ひと」とも「ヒト」とも書かずに「人」としか書かない。誰とは言わんが、やたら「ひと」に情感込めてひらがなでしか書かないポエマーとかいるでしょう。そういうのを毛嫌いしてれば、自然、「人」は「人」としか書けないのである(すみません、私もしょっちゅう「ひと」とか書いちゃいます)。 「ゆう」という表記の仕方も同様である。「いう」という正式な書き方がサイバラさんには絶対に納得できないのであろう。「ゆう」が無教養さの象徴であるなら、サイバラさんは絶対に「教養」ある側には行けない人なのである。 描かれる人間関係も、ベタベタな「絆」などではない。かの子も二太も船の人々もみな嘘をついている。嘘をつかなければ人間関係など結べないことを熟知している人ばかりなのだ。「優しさ」も「笑い」も「涙」も、全て虚構であることを喝破するサイバラさんの視線が、どうして暖かかろうか。 人の心を揺さぶるのが愛情だと信じている人にはサイバラさんのこの冷徹さも暖かく見えてしまうのかもしれないが、私はこの『ぼくんち』のラストシーンの二太の笑顔を見たとき、「サイバラさん、鬼だ」と思って戦慄が走るのを覚えたものだ。 あんたね、人生には別れしかないってラストで「あえて笑え」って、そんなふうに躾られてるガキ見て、感動できますか? このマンガ、見方によっては第一級の「ホラー」だとも言えるのだ。 てなわけで実は私、この本では泣いてません。泣いたと思ってた人もいるでしょう。いや、泣ける人はそれはそれで幸せなひとだと思いますよ。たぶん。
眉村卓『ねらわれた学園』(講談社/青い鳥文庫fシリーズ・651円)。 ここしばらく児童書のコーナーを回ってなかったので気が付かなかったのだが、講談社が小学生向けにSF・ミステリーのジュブナイルを積極的に提供しようと新シリーズを続々と創刊し始めている。 「fシリーズ」の「f」は、SFの「f」、未来(future)の「f」、ファンタジー(fantasy)の「f」、ふしぎ(fushigi)の「f」なんだそうな。先月から、楠木誠一郎『お局さまは名探偵!』、小松左京『空中都市008』を皮切りに、毎月、2、3冊を上梓して行く予定で、今月はこの『ねらわれた学園』が目玉となる。 本作はもちろん、これまでにも何度も版を重ねてきたし、映像化も何度となくされてきた(我々の世代には何と言ってもNHK少年ドラマシリーズの『未来からの挑戦』や、薬師丸ひろ子主演の映画&原田知世主演のドラマ化が印象に深い)ジュブナイルの傑作である。
阿倍野第六中学校は、勉学一本槍の校風に反発する生徒が年々増えていく傾向にあった。新しく生徒会長となった美少女、高見沢みちるは、その魅力的な微笑と不思議な力で「校内パトロール」を結成、少しずつ、そういった「反動分子」を「粛清」していく。彼女の正体は、その真の狙いは何なのか? 校内が日に日にただならない雰囲気に包まれて行くのを感じた関耕児と楠本和美の二人は、高見沢みちるの通う「栄光塾」にその秘密が隠されていることを知る……。
私が最初にこの小説を読んだのは、主人公の耕児、和美たちと同じ中学2年のことだと思う。 これにどれくらい影響を受けたかというと、中学校の生徒会で「最近、校内の風紀が乱れているように思います。生徒で校内パトロールを実施したらどうでしょうか」と提案し、見事に却下されたことがあるくらいだ(^o^)。 もちろんこれは、却下されることが目的だったのである。いやね、心情的には当然、耕児たちに共感を覚えてたんだけど、私本人は別に熱血漢でも正義漢でもなかったから、あえて逆の立場を取ってみて、当然みんなもこの本を読んでいるんじゃないかと思って「遊んで」みたのよ。まかり間違って、提案が通ることにでもなったらそのときはかえって困ることになってたんじゃない? という疑問を抱く方もおありだろうが、その心配はいらなかったのだ。 会議の席である女の子が「それ、『ねらわれた学園』でしょう?」と言って、本作の村田和美そのままに、パトロールの不当性を訴えた。私もあっさり自分の提案を取り下げた。 もちろんその子にも私が提案したことの意味はよくわかっていた。校内の風紀の乱れは現実にあって、先生たちも何か厳しい方策を、と考えている雰囲気がそのころにはあった。かと言って過激な「取り締まり」に何か意味があるのか、私はそのことに疑問を抱いていたので、その問い掛けを生徒たちに投げかけるのが目的だった。つまり「そこまで厳しくしなくても、自分たちの意志で何とかできる」という雰囲気を校内に作りたかったのである。 その女の子が『ねらわれた学園』を読んでいるだろうと私は目星を付けていた(別に図書カードとかをチェックしていたわけではないぞ。当時の「本好き」の子なら、たいていは文庫になったばかりのこの本を読んでいたのである)。予測は違わず、私の思惑はちゃんとその子に伝わったのである。そのときの彼女の微笑は忘れられない思い出になった。中学生に腹芸なんてできないだろうと考えるのは大間違いなのである。 私たちの「計略」は効を奏して(会議の内容は生徒に全部公開されている)、我々が生徒会をしていたころの母校は、その前後の年に比べると風紀の乱れは随分と抑えられるようになった。その子は知的で、けれど勉強ができるのを鼻にかけたようなところはなく、相当な美人でもあったので、「あの子が頑張ってるならちっとはマジメにするか」という気分になった男子生徒も多かったようだ。 私は私で、この件をきっかけにその女の子ともちょっとだけ親密になることができた(本の話をするようになっただけである。誤解なきように)。全く中学生のナンパというのは可愛いものである(^_^;)。
話が横に逸れたが(^o^)、今回の新版、新たに作者眉村卓の前書きが付け加えられ、挿絵を『ブギーポップ』シリーズの緒形剛志が担当している。 眉村氏は「主人公と反対側の敵対者とか、直接かかわりがなさそうな人物の身になって、そうした目から見ればどうなるか、という読み方もしてほしい」と書いている。「敵対者」は高見沢みちろや京極少年のことを指しているし、「直接かかわりがなさそうな人物」とは耕児の父親などだろう。中学生のころには気が着かなかったが、読み返してみると耕児以上にみちるや京極、耕児の父を描く眉村さんの筆致に熱いものが感じられる。 「お前たちの戦いは、一時に高まった闘志によって盛りあがった、言わば短期的なものにすぎない」 これは全ての戦いが終わったあとに父が耕児に語った言葉だが、こんなに「重い」とは中学生の時には気がつかなかったな。現代の「オトナの」運動家たちもこのセリフの意味をちょっと考えてみたらいいように思うが。 緒形さんのイラストは、もう高見沢みちると楠本和美の魅力を満喫するに尽きる(京極さんもちゃんと楽しめます。女の子たち向けに念のため)。みちるはもうまんまマンティコアなんだが、一見ごく普通の正義漢に見える和美の「予感よ。私の、ただの予感」というセリフのシーンをちゃんとイラスト化してくれているのがスバラシイ。女はどんなにフツーに見えてもやはり魔物である(^o^)。
それから「阿倍野」という地名で今回初めて気がついたんだが、これ、大阪での事件だったんだね(眉村さんは大阪出身)。共通語で書かれてはいるけど、これは「翻訳」されたものなんだろう(^o^)。ということは、みんなホントは大阪弁で言いあってたわけだ。 和美は実は「予感や。ウチの、ただの予感」とか言ってたワケやね。高見沢みちるだけは大阪にいても共通語使ってそうだけど。今度ドラマ化するなら、原作通り大阪を舞台にして作ってみたらどうだろうか。
講談社のジュブナイルは、更に8月から書き下ろしシリーズの「ミステリーランド」を創刊するようだ。第1回配本として、小野不由美『くらのかみ』、殊能将之『子どもの王様』、島田荘司『透明人間の納屋』が広告されている。 ミステリー、SFの最先端はもしかしたらこうしたジュブナイルから生まれてくるかもしれない。
2002年07月25日(木) 本当にあった怖くない話/『くっすん大黒』(町田康)/DVD『ミニパト』ほか 2001年07月25日(水) 福岡腰痛クラブ/『庵野秀明のフタリシバイ』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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