無責任賛歌
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| 2002年06月06日(木) |
つまりシロクマって保護色?/『愛はめんどくさい』(まついなつき)/映画『原子怪獣現わる』ほか |
今日は職場で敷地内の除草をする。 ウチの職場では定期的な作業なんだが、私が「今日はオレ、ジョソウするよ」と口にするたびにしげは笑うのだ(説明の必要はないですね)。けれど笑われるこちらのほうがいい加減シラケてるんだが。 作業が遅れて、しげ、また駐車場で待たされる。 けれど、今日は予め「遅くなるかもしれない」と言っておいたにもかかわらず、しげ、またブチブチと文句を垂れる。気を遣っても遣わなくても結局は文句言われるんだったら、最初から何も言わないほうがマシじゃん。 こういうときは会話するのも億劫になるので、車の中ではずっとそっぽ向いてた。おかげでしげ、ますます機嫌が悪くなるが、こちらも付き合えるエネルギーがないときはどうにも仕方がない。
一応、嫌ってるわけじゃないことを示すために、今日もしげのバイト中にリンガーで食事。 西日本限定(これが多いな)の「麺'sサラダの中華タレ味」のBセット。要するに皿うどんをクレソンやらプチトマトやら生野菜であっさり仕上げたということなのだが、これが結構な美味。「ひとくち餃子(9個)〜特製からかじゃん味〜」をつけて930円だけど、社員割り引き券をもらってるので20%引きの744円。 しかも今日はどういうわけだかコールドドリンクもサービスしてもらえた。素直にラッキー♪ と思ったけれど、しげの身内だってことは知られてても、こういうサービスを受けたことは今までに一度もない。どうして今日に限って? と首を捻ったが、もしかしたら、こないだここで『クレヨンしんちゃん大全』を読んでるのを店員さんに見られてたのが原因だろうか。しげの話によれば、相当ウケてたみたいなんである。そのお礼(?)だとしたらトシを顧みず(顧みたことなんてないが)『クレしん』ファンでい続けたことによる唯一の幸運であろうか。ホントに唯一だったらサビシイが。 けれど、こういうタナボタ的幸運があると、それがどんなに些細なことであっても、なんだか随分得した気分になる。この程度で機嫌がよくなるんだから私の脳も単純な構造してるけどな。
唐沢俊一さんの「一行知識掲示板」に、ご本人が「白熊は自分の体で唯一黒い鼻の頭を見つけられないよう、アザラシなどを狩るときは片前足で鼻を隠しながら近づく」と書きこまれていた。 あっ、これはシティボーイズライブでいとうせいこうさんが言ってたギャグではないか。私ゃてっきりこれ、いとうさんご謹製のギャグだとばっかり思ってたのだが、もしかしたら有名な都市伝説(都市じゃないけど)なのだろうか。 この書きこみにも早速レスが付いたのだが、「第7回アメリカ横断ウルトラクイズの後楽園第一次予選(○×クイズ)で出題された問題です。ちなみに正解は×でした(笑)」とのこと。するってえと、ウルトラクイズの作者の創作なのかな。フォークロアはそのルーツを探るのが容易じゃないんだが、これはなんとかもとネタが手繰れないものかな。 いや、「そんなん調べてどうする」って言われりゃそれまでだけど、こういう無意味なことを調べるのが楽しいのよ。早速、ネットで調べてみると、第7回の放映は1983年8月14日。当然の如くいとうさんがライブで披露する10年以上も前だ。問題はそのクイズを作ってたのが誰かってことだけど、これが誰かが解らない(いとうさん本人だったりして)。仮にスタッフの資料が見つかっても、多分何十人もの放送作家が関わっているから、その中の誰がこのネタの作者であるかを特定するのは難しかろう。 というわけで早々と調査は挫折(^_^;)。誰かヒマ人、調べてくれ。
しかし考えてみたらシロクマ、これじゃ鼻隠すだけじゃなくて目もつぶらないといけないよな。ハナからムリじゃん(おお、シャレが決まった♪)。
泡坂妻夫・折原一・霞流一・柴田よしき『ミステリ・アンソロジー�掘〔�室レシピ』(角川スニーカー文庫・560円)。 泡坂さんの名前に釣られて買ったようなもんだけど、見事なくらいに他の作品がカス。しかもみんな『名探偵コナン』や『金田一少年』以下の超低レベル。よくこれで作家やってられるなあって腹立つくらいだ。 そんなクソ作品でも、ネタバラシだけは礼儀としてしないが、全作について言えるのは、もちっと「密室」がなぜ作られねばならなかったかってこと、マジメに考えろってことだ。 折原一『トロイの密室』。現場にいりゃ、そんなトリック、ガキでも見抜くわ。 霞流一『タワーに死す』。だから誰でも思いつくけどバカバカしいから誰も書かないトリックを堂々と書くなって。 柴田よしき『正太郎と冷たい方程式』。宇宙モノにする意味ないよ。それどころか、この作者、小学生程度の算数能力もない。寝惚けてこれ書いたかトチ狂ってたかのどっちかだ。これまで読んできたミステリの中でも最下層に位置するクソ作品。SFファンのみなさん、間違っても『方程式』シリーズを期待しないようにね。 泡坂妻夫『雪の絵画教室』。唯一のオアシス(^_^;)。 けれどこれも泡坂さんのチェスタートン式ミステリに慣れてないと、まず現実離れしたキャラクター自体に感情移入できない読者も多かろうなあ。これもトリック的にはたいしたことないし。 名作アンソロジーならともかく、こういう新作競演って、クソになる場合が多いが、「傑作を書いてはいけない」なんて不文律でもあるのか。
まついなつき『愛はめんどくさい』(メディアワークス・1050円)。 実はまついなつきの本を読んだのはこれが初めて。 興味はあったんだけど、あまり本屋で見かけないもんでさあ(^_^;)。イラストとかでは見たことあるんだけどね。でもこれもエッセイ本なんで、マンガ本は未だに読んでないんだよな。 エッセイ本というとオシャレに聞こえるけど(そうか?)、中身は嫁姑戦争を楽しく描くってコンセプトがなぜか最後は離婚になっちゃったという、笑っていいのかいけないのか、これはこれでまあ楽しいのかもって感じのバクロ本。バクロ本なんて人聞きの悪い呼び方は作者には失礼かもしれないけれど、なんかそんな雰囲気漂ってるんで(^_^;)。 率直なこと言っちゃうと、ヨメとシュウトメどっちが正しいか、なんて真剣に考えてもしょうがない。正しかろうが間違ってようが、付き合わなきゃならない相手とは付き合わなきゃなんないんだからね。だから実はまついさんがヒス起こしてコワレていく過程なんてのは「ふーん」てなもんで読んでた。 面白いと思ったのは、そういうメインの部分ではなくて、夫のマチダさんのグータラぶりだったりする。ともかく結婚して以来、まついさんの稼いだおカネで暮らせるものだから、どんどん仕事をしなくなっていくってのが男のホンネを覗かせていて微笑ましいね(←皮肉だ、皮肉)。カメラマンって職業、仕事があるときはあるけれどもないときは徹底的にないってことを妻のまついさんは一所懸命理解しようとするんだけれど、それが幻想と言うもの。自分を騙して誤魔化しているのだね。 私は写真の良し悪しなんぞ全くワカランどころか、シロウトとプロの差なんて実はたいしてないんじゃないかとか、不遜なこと考えてるやつなんで、仕事がないのは腕がどうこう言う前に、単にサボってるだけだろう、としか思えない。よく八年もガマンしてたよな、まついさん。旧弊な家族のしがらみなどとは全く無縁そうに見えるまついさんにして、やっぱりどこか「幸せな家庭」なんてのを夢見てた部分があったんだろうなあ。結婚にそんな幻想は邪魔なだけだと思うけど。 出版されたのは一年前なので、今は三人の男の子を女手一つで育ててるってことなのかな。まついさんのホームページでの近況報告では、元ご主人は別れたらちゃんと仕事をするようになったそうである。そりゃ養ってくれる人がいなくなればそうするしかないわな。だから亭主がグータラだったり女房がグータラだったりしたら、何も気にせずさっさと別れちまえばいいのである。 え? オマエのウチはどうだって? 今んとこどっちもグータラだからなあ。別れて背中向けて歩いてったらまた地球の裏側で出会ったような感じですかね。まあリコンするようなことがあったらその過程も正直に日記に書きますわな。
以前録画していたビデオ『原子怪獣現わる』を見る。 説明するまでもなく、日本の『ゴジラ』に先立つこと1年、放射能怪獣の元祖映画である。架空の恐竜、リドサウルスをアニメートするはこれも説明いらずのレイ・ハリーハウゼン。このころはまだ「ダイナメーション」って言い方はしてなかったんじゃないかな。 部分的には見ていたけど、じっくりと最初から最後まで見るのは初めて。 けれど映画としてみると『ゴジラ』の足元にも及ばないのは一目瞭然。ブラッドベリの『霧笛』そのままに映像化しとけばよかったのになあ。 そのあたりが、明らかにこの『原子怪獣』にインスパイアされたと思しい後発の『ゴジラ』の方が、世界的にも圧倒的に評価されている原因の一つになっているのだろう(ただし、『原子怪獣』の日本公開自体は『ゴジラ』の一年後なので、明確なパクリとは言えない。田中友幸プロデューサーは、「原子怪獣の映画がアメリカで作られている」という情報のみで製作を支持しただけだから。ましてや円谷英二は全く見ていないだろう)。 やっぱり、あのテレビ塔を襲うゴジラのシーンに代表されるような、怪獣と人間との絡みが、ほとんどこの映画にはケツラクしているのだね。つまりこの映画には映画を成立させるためのドラマがないのだ。 誰ぞが「放射能の恐怖はこの『原子怪獣』の方がより表現されていた」とか言ってたが、全然そんなシーンないぞ。出てくるアメ公、核に対しても全然警鐘を鳴らそうとしてないし。恐竜の血で人がバタバタ倒れて行くのだって放射能のせいじゃなくて、「病原菌のせい」とハッキリ言ってた。 ともかく恐竜が簡単にやられすぎ。特撮費ケチったんじゃないかと言いたいくらいラストのシーンもあっという間に終わる。当時のモデルアニメーションの技術では、画面を動かすこと自体ができないから、その点でも迫力に欠ける。アメリカが『ゴジラ』をリメイクしながら、実はその設定やストーリーライン、デザインなどを多く『原子怪獣』の方に寄ったのは、やっぱり自分とこの映画が『ゴジラ』に負けたウラミを晴らそうとした結果なんじゃなかろうか。まあ、結局また負けちゃったわけだけれど(^o^)。
夜中、寝ていると、突然しげが泣いてすがりついてくる。 ビックリして目が覚めたが、どうやらまたいつもの情緒不安定らしい。いつものとは言っても、ここしばらくはそういうことがあまりなかったので、油断していた。やっぱり今日、無視したりしてたんで、淋しくなったんだろうか。 おかげでまた眠れなったが、だからこういうのは私の体力がある時にしてくれって(-_-;)。
2001年06月06日(水) フォークって民謡って意味なんだが/『メトロポリス』(手塚治虫)ほか
| 2002年06月05日(水) |
人間失格かな、やっぱ/『『鉄人28号』大研究』(飯城勇三)/『ちょびっツ』3・4・5巻(CLAMP) |
わはは。ウチのガスが止まっちまったい(^_^;)。 いや、事故でもなんでもなくて、単にガス料金滞納しただけだけど。 通帳にカネ入れ忘れていたと言い訳したって、ガスが改めて出るわけでもない。入れる予定のカネ、しげの治療代でン万円吹っ飛んじまったのが予定外の出費。これが響いた。でも、DVDを買うのを一枚諦めればすんでた話なので、これはやはり無計画の謗りを受けても仕方がない。みなさん、こんなだらしないオトナにはならないようにしましょう(笑いごっちゃないぞ)。
しげが怒り狂って、「なんで入れとかないんだよ!」と怒るが、悪いのは全面的に私なので反論のしようがない。 ムニャムニャ言いかけたが、ゴメンと謝る。謝るけれどしげは許す気配もないので、つい「お前も少しくらいウチにカネ入れてくれてればよう」とボソッと言ったもんだから、またしげの怒髪が天を突いた(墓穴掘り)。 ケガして仕事を随分休んでたんだから、しげだってカネはないのである。 慌ててまた底の浅い言い訳。 「でも、どうせもともと料理はほとんどしないし、水はポットで湧かせるし」 「湧かせてどうすんだよ! フロは!」 「お湯かぶるくらいはできるよ。一人暮らしのときはそうしてたし」 「どうやって!」 「洗面器にお湯入れて風呂場に持ってくんだよ。それを水で適度な温度にしてかぶるの。これで充分カラダは洗える」 「……じゃあ、ガス代払わん気やね!」 「いや、そうじゃないよ。明日払うよ」 「払わんでもアンタは平気っちゃろ!? だったら払わんどけばいいやん! そうすればこれ以上、ガス代引かれなくてすむし!」 「おお、なるほど!」 いや、なるほどじゃないというのは判ってんだが、実際、ウチじゃ風呂以外でガス使うことってほとんどないんだよな。これは意外と節約になるかも……って、だからDVD買うのやめろって(-_-;)。 私のヒトコトが地雷を踏んだ結果になったらしく(当たり前だ)、しげはしきりと「リコン」を口にする。 「もう、リコンやん、アンタと暮らせんやん! オレ、車で暮らす!」 「お前がそういうならしょうがないなあ(←また地雷踏み)」 「別れたいんやね!?」 「そうじゃなくて、お前が俺と暮らせないって言うんならしかたないと」 「だから一緒にいたくないっちゃろ!?」 「別にお前がいたいならいればいいんで……(←またまた地雷踏み。気付けよバカ)」 「いつもそうやん! オレにだけ優しくせんやん!」 既に論点はガス代の話からどこか遠くへ行ってしまっていることにお気づきであろうか(^_^;)。しかし貧乏に悲惨さのカケラも感じられない(同情の余地がないとも言う)家庭であることだ。
しげがリンガーハットの「クッカー試験」とやらに合格。 つまりこれまでウェイトレスしかやってなかったのが、今度から料理人もやると言うことなのだ。 この試験、メニューの料理は一通りできねばならないと言うことなので、つまりチャンポンも皿うどんも炒飯も餃子も全部作れるようになったってことなんだな。 これはぜひ食べてみたいと、晩飯はリンガー。 皿うどんに一口餃子を頼むが、後で聞いたら、このときは料理を担当しなかったそうな。ガスが来てても料理をウチですることがないしげだから、せめて外でしげの手料理を食べたかったんだがなあ。
飯城勇三『『鉄人28号』大研究 操縦機(リモコン)の夢』(講談社ソフィアブックス・1785円)。 いわゆる「謎本」とは一線を画している立派な研究資料本。 原作の詳細な解説、単行本化による改訂(手塚治虫のそれが有名だが、横山さんもストーリーそのものを変えることが結構あったのだな)、実写テレビ版、三度のアニメ化の紹介もしっかり押さえてある。 ゲストの評論分析の類も充実していて、唐沢俊一・なをきご兄弟、菊地秀行、永井豪、米沢義博ほか各氏が健筆を振るう。 ちょっとかわいそうなのは、カラー版のテレビアニメ(『太陽の使者 鉄人28号』『超電動ロボ・鉄人28号FX』)の監督を務めた今沢哲夫のインタビューで、苦しい制作態勢やスポンサーの意向に振り回されていいものを作れなかった事情は分かるのだが、本文の解説でも横山光輝御大のインタビューでも「あれは最低だ」と言い切られている。 「正太郎が成長して結婚して子供がいて」という設定は、かつてモノクロ版の『鉄人』に親しんだ世代であれば、「ふざけんなバカ」とスタッフを殴り殺したくなるような噴飯物であったが、その最低な設定を案出したのが脚本の園田秀樹である。この一事をもって、たとえほかにどんなすばらしい脚本を書いていようとも(多分ないが)、「バカ」のヒトコトで括られることになるのだ。 たとえ時代が下ろうと、今に合わせるんじゃなくてあくまで当時の風俗で作るんでなきゃ意味がない。それができないなら『鉄人』をリメイクする意味自体がないのだ。 ……けれど、モノクロアニメ見てたころの私って、1歳だったんだなあ。 その頃の記憶、はっきり残ってるのも多いんだけど、それくらいテレビのインパクトって我々の世代にとっちゃすごく強かったんだなあ。
マンガ、CLAMP『ちょびっツ』3・4・5巻(講談社/KCキャラクターブックス・各1375円)。 初回限定版で、それぞれ、クリアファイルブック、システム手帳、六角パズル付き。フロク付きとは言え、ちとボッてないか。 うーむ、ただのロリコンエロマンガかと思ってたら、俄然面白くなってきたぞ。意外や意外。 『エンジェリックレイヤー』はテレビとの連動企画であったせいか、ダイジェストっていうよりテンからドラマになりきれてないウラミがあったが、今回は実にじっくりゆっくりと話を進めている。何しろ未だに「ちょびっツ」シリーズってのがどんなパソコンなんだか解らない(^_^;)。判ったのは「ちぃ」の本名(?)が「エルダ」ってことくらいだ。 「ちょびっツ」開発に関わったらしい管理人の日比谷さんが語る「あなた」とは誰なのか。 ちぃの記憶はなぜ封印されなければならなかったのか。 ちぃを探しているらしいディタとジーマもパソコンなのか。 謎の答えが出かかるたびに後から後から新たな謎も増えてるから、こんなん、あと何巻かければ全部説明し終われるんだろうかって心配になるが(『エヴァ』モドキになるなよ〜。ちぃも何となくアヤナミチルドレンだからなあ)。 こういう謎って、全部ただのマクガフィンで、もしかしたら作者もあまり細かい設定を考えてないのかもしれないけれど、「なぜパソコンが人型をしているのか」って謎の答えと関連はしているのだろうな。
機会と人間の関わりを考える、という命題は、もちろん『鉄腕アトム』以来の、あるいはアシモフの『われはロボット』ほかの諸作以来の、あるいはドイツ映画『メトロポリス』以来の、SFの正統的なモチーフである。 『X』にも『レイアース』にも、同人誌クサさ(イメージ先行でドラマがおざなりって意味ね)が強すぎて、今いちハマれなかったのだが、今回は何よりまず「語り口」のうまさに感心した。キャラクターが薄っぺらだった『エンジェリック』に比べても、一人一人に深みがある。 秀樹とちぃはもとより、新保と清水先生のカップルも本筋に直接関わらないまでもいい味出してる。 ウマイなあと膝を叩いたのは、「チロル」の店長の植田さんと、裕美ちゃんの関係だ。パソコンと結婚した過去のある店長、人がなぜパソコンに惹かれるのか理解できず極度にパソコンを(パソコンに感情移入する人間をも)敬遠する裕美。この命題、突き詰めて行けば当然「心とは何か?」というSF究極のテーマにも行きつく。 CLAMPマンガがそこまで描いたりするもんかい、とツッコミも入りそうだが、本に夢中になる動機は、なにより「予感」がすることにある。少なくとも、「面白くなりそうな」要素は目いっぱいぶちこんであるのだ。これは期待しちゃいますよ、やっぱし。 ……しかし、これをまたテレビアニメ化って、話が全然進んでないのに、どうやってるんだろうね。
2001年06月05日(火) 一日本しか読んでません/『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』(長谷川町子)ほか
| 2002年06月04日(火) |
日常ってつまんない?/『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』1巻(安彦良和)/『ヒカルの碁』17巻(ほったゆみ・小畑健)ほか |
日中、気温が30℃を越えたそうな。 道理で頭痛がすると思った。 ようやく席も出なくなったと言うのに、今度は気温でやられるか。せめて風が吹いてくれればいいのに。
ワールドカップ、日本がベルギーと引き分けた途端に新聞各紙は「快挙」の報道。……よっぽど娯楽がねーのかな、日本には。いやマジで。 なんだかこの国中の燃え方がだよ、私にゃどうにも「イビツ」に見えて仕方がないんだけどね。私の今の気分をたとえてみれば、高校3年の体育祭でブロックリーダーが「これが最後の体育祭なんだー!」って無理やり盛り上げてるけど、下級生はシラケてるってゆーか、そんな感じ。同じようにシラケてると思ってた同級生の友達が一緒になって「オーッ!」て叫んでるの見ちゃって、つい、「こいつ正気か?」ってビビってる気分かな。あえてこの「騒動」と呼ぶが、これにどこか「作り物」めいた印象を浮けてるのは私だけかねえ。 だって、この国にそんなにサッカーファンがいたか? ついこの間までのJリーグの不人気は何だったの? 世界的なイベントというのはこれまでにもいろいろあったけどさ、それこそアポロの月着陸だの東京オリンピックだの万博だの、そんなのになら私だって燃えましたよ。時代の象徴だったからね。 けれどワールドカップは一体、何の象徴なの? 私にゃ、「これを逃すとオレたちの時代のイベントはもうない」とサッカーに別段興味もない有象無象が群れ集まってるだけにしか見えないんだが。日常のストレスがたまってて、ここを先途とウサを晴らしたかったんじゃないかね、ホントの話。こういうやつらを乗せるのは実に簡単だ。 マスコミはもちろんそういう有象無象を煽動したいんだろうね。そういうアホなやつらがカネを落としてくれるわけだからさ。 私だって楽しけりゃアホになってもかまわねーけど、数あるスポーツの中でサッカーだけに入れこむ気がしないのよ。 未だにチケットが入手できない、席は余ってるのにどういうわけだ、政治家が優先されるのはおかしいじゃないかと喧しいが、そんなトラブルはこの手のイベントにはザラにあることだ。今回だけやたら不手際を云々するのはみんなアタマに血が上ってるよ。 博多って土地柄は、ともかく興奮しやすい人間がゴマンといる。 一人既知外が出ると、その既知外が隣の人間にも伝播し、それがまた隣の……と、気がついたら周りがみんな既知外ってことになりかねないところなんである。……あまりのぼせあがった人の中で暮らしたくないなあ(-_-;)。
しげが、フトンに寝っ転がったまま、深刻な面持ちで声をかけてくる。 「ねえ、聞いていい?」 しげの「深刻な表情」というのは、「何も考えていない」ことと同義なので、別に構えることもなく「なんだよ」と聞き返す。 「こないだの飲み会(1日のAIQの集まりのことらしい)でさあ、みんな『おたく先生』が好きって言ってたやん?」 どうやらしげには、AIQのみなさんが徳光康之の『濃爆おたく先生』を誉めていることが気に入らないらしい。 「それが? おまえは面白くないんだろ?」 「うん」 「でもそれは単に趣味の問題なんだし」 確かにギャグを外しまくっているところは多々あるが(ドリル番長は……ねえ)、妄想が暴走してかえって顰蹙を買うのもオタクの微笑ましい特徴である(そうか?)。何も目くじら立てることはなかろう、と私は思っていたのだが、しげはあえて何と文句をつけようと言うのか。 「『ガンダム』に入れこむのはいいんよ。『ドム一筋』とか、オタクだなあって思うし」 「じゃあ何が気に入らんの」 「……『サクラ』好きって言ってる時点でオタクじゃないよ」 うひゃあ、そう来るか(^_^;)。 もちろん『サクラ』と言うのは『サクラ大戦』のことである。徳光さん、このゲームとゆーかアニメとゆーかのクールビューティ、マリア・タチバナに「萌え」ているのである。 で、しげが『サクラ大戦』を蛇蝎の如く嫌っている(つーか、アンチあかほりさとる)のは、何度かこの日記にも書いた通り。……やっぱり単に趣味の問題じゃないのか。 けれど確かに『ガンダム』から『サクラ』へ転ぶという行為については、コアなアニメオタクとしては許せないものがあるのも分らないではない。『ガンダム』にドラマはあるが、『サクラ』にはご都合主義しかない。『ガンダム』にキャラクターはいるが、『サクラ』にはデザインしかない。こりゃしげならずとも、転ぶにしてももう少し相手を選べなかったのかって言いたくなるよなあ。 「まあ、確かに……『サクラ』はねえ。けど、AIQのみなさんはあくまで『ガンダム』ネタで笑ってるんで、『サクラ』のことはよく知らないんじゃないか」 そう言ってて実はAIQに『サクラ』のファンの方がいらっしゃったらどうしよう(^_^;)。
マンガ、矢立肇・富野由悠季原案・安彦良和漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN ―始動編―』1巻(角川書店・588円)。 もう『ガンダムエース』の方で一回読んじゃってるので、いちいち単行本買わなくてもいいような気もするが、やっぱりそれはそれ、これはこれである。 表紙のカバーも描き下ろしだし。 安彦さんのコメント、「『ガンダム』というのは、こういう物語です」という短いセリフに万感の思いを感じるのは、やはり何だかんだ言いながら、私がファーストガンダム世代だってことなんだろうなあ。 だいたい、あのころ高校生だった我々は、好むと好まざるとに関わらず否応なしに「『ガンダム』はSFや否や」、「『ガンダム』は戦争アニメか反戦アニメか」みたいな論争に巻き込まれていったのである。 お若い人々にはピンと来ないだろうが、「どーだっていいやん、そんなこと」などと言える雰囲気ではなかったのだ。ある意味、後の『エヴァ』論争よりも熱かったと言っても過言ではない。 そんな中で私は終始、「SFは手法であって、ジャンルではない、したがって『ガンダム』がSFであるか否かはその問い自体が無意味である」、「戦争を描いている作品について、肯定的な意味と否定的な意味の両方の受け取られ方が生まれるのは、それだけその作品が『リアル』である証拠である。従って、『ガンダム』が戦争を肯定しているか否かという視点ではなく、リアルかそうでないか、という視点で見るべきである」と語っていた。 もちろんこれは遠回しに仲間を「オマエらはバカだ」と言っているわけで、当時から私が、マスコミやムーブメントに乗せられやすい連中を軽蔑していたことがよく分る。ところがこんな見え透いた詭弁に簡単に乗せられる友人も結構いて、ウンウン頷いたりしてたんだから、みんな本当に熱に浮かされていたのだ。 もちろん友達もいつまでもバカではないので、私からバカにされていると気付いた時点で口を利かなくなった。おかげで私の友人は今、ホントに少ない(-_-;)。 けれど、私は実のところ本気でハラを立てていたのだ。 それまでアニメや特撮をバカにしていた連中が、いきなり『ヤマト』『ガンダム』と浮かれ出した様子に。 それまでアニメーションという言葉すら知らなかった連中が、「マンガ映画」あるいは「動画」という言葉を簡単に捨てていったことに(当たり前だがアニメブーム以前に「アニメーション」という言葉はアニメファンの間では普通に使われていた)。 ここで、きっちり言っておかねばならないと思うが、半可通なアニメファンが、よく「『ヤマト』『ガンダム』によって、日本のテレビアニメに大人の鑑賞に耐えるSF作品が生まれた」とか言ってるが、そんなことは大ウソである。 創世記のテレビアニメがほとんどSF作品だったことを忘れちゃいないか。正確には「世間に対してSFアニメをオトナが見てもいいと認知させた」という点において『ヤマト』や『ガンダム』には価値があるんであって、だからそれ以前にロクなSFアニメがなかったなんてのは勘違いも甚だしいのである。 だったらどうして今でも『鉄腕アトム』や『サイボーグ009』がリメイクされるのだ。『鉄腕アトム』で描かれた未来、意外と当たってるぞ(21世紀になつても未だに学生はツメエリ着てるし。それは違うか)。 ……『ガンダム』の感想じゃなくなっちゃったけど、一回読んだやつだから話が本編から外れるのもご勘弁ね。
マンガ、ほったゆみ原作・小畑健漫画『ヒカルの碁』17巻(集英社/ジャンプ・コミックス・410円)。 これも雑誌連載の時に読んでて、感想書いてるしなあ。 けれどまとめて読むと、実によく構成されてることが分るね。これまで『ヒカルの碁』を読んでなくて、これから読む、という人には、まとめて一気に読む楽しみが味わえるんだから羨ましいね。もう、毎週毎週ドキドキワクワクするのも嫌いじゃないけど、トシを取ってくるといささか心臓に悪い。『ジャンプ』片手にコンビニで心臓発作なんて起こしたくないぞ。 連載の方もついに第2部再開でなんだかジャンプシステムの「対決もの」に取りこまれそうな気配なんで、「ここで終わっておけばな」ってのは誰もが感じてることなんだけども、そうなると私は天邪鬼なもので、「これからが『ヒカ碁』の真骨頂」と言いたくなる。 『ヒカ碁』はこの17貫で一旦、あまりにきれいに終わりすぎた。 けれど、もともとこの物語は『終わりのない物語』なのである。佐為は千年の時をかけて神の一手を極められなかったが、ではそれがヒカルに可能なのか? そうではあるまい。ヒカルにも神の一手は極められない。それはもう分っている結果だ。だとすれば、ヒカルがその一手を極めて物語が閉じるのではなく、佐為がヒカルにそうしたように、ヒカルもまた誰かにその扇子を渡す時が来る……。 それを描いてこそ、初めて『ヒカルの碁』はその果てしない物語の先を示す形で終わることができるのではないか。 これまでは佐為の庇護のもと、ヒカルに大きな挫折はなかった。けれどこれからは違う。もうヒカルは大人に一歩足を踏み入れている。これまでとは比べものにならない挫折を味わうこともあるだろう。あかりちゃんとの初めての経験もあるだろう(あるのか?)。 もとい。 それまでの紆余曲折を私は見てみたいのである。 ……っていつまで続くんだよ。人気落ちて打ち切られたらどうするんだ。いきなりヒカル死んだりしてな。いや、ジャンプじゃよくある例だし(『侍ジャイアンツ』の打ち切りんときはすごかったよなあ)。ヒカルに早死にはさせないでほしいけど、虎次郎って前例があるから油断できないぞ(^_^;)。
マンガ、藤子・F・不二雄『パーマン/パーマン大暴れ!!』(小学館/My First Big・300円)。 前巻で「超人」だった「スーパーマン」が今巻では「バードマン」に。 改訂がいい加減になってるあたり、出版社の混乱ぶりが見えるなあ。多分「どうしてバードマンはバードマンじゃないんだ!?」とか苦情が行ったんだろうな。 昭和46年発行の虫コミ版と比べてみても、スーパーマンがバードマンになって、「くるった」が「へんになった」に変わっているくらいで大きな変化はナシ。完全カットの回がある「オバケのQ太郎」に比べればムキズですんでいる面はあるのである(それにしても藤子不二雄ランド版で全12巻分はある『パーマン』をたった3巻で出すというのは少なすぎるが)。 ほかにも改訂のせいで起きた矛盾。「ゆうれい船」の巻で新聞記事の「昭和四十二年」という記述を訂正し損なっているけれど、「パーマンはつらいよ」ではしっかり「昭和58年」の記述が。パーマンは15年も子供のままか。 もっとも、このへんは「ドラハッパー」が存在してるのに、『ドラえもん』に大人になった星野スミレが登場したりと、設定はいい加減なんで、気にしてもしようがないんだけどね。
マンガ、赤塚不二夫『天才バカボンとおそ松くんとアッコちゃん』(小学館/My First Big・300円)。 『週刊アカツカ』以来久しぶりの赤塚不二夫短編集。 できたら、こういう有名どころを3種類合わせるんなら、中に1本くらい、単行本未収録の作品とかマイナーな作品を入れてほしいもんだ。 赤塚不二夫漫画大全集DVD‐ROM発売記念第1弾だそうだけれど、全作品をDVDでってアイデアはイイよな。場所を取らないし。けれどもう私は買わない(買えないだろ)。誰か買って見せて(^_^;)。 マンガ、高橋留美子『うる星やつら/決闘!女VS女』(小学館/My First Big・300円)。 あー、このシリーズも20冊目か。買い損ないはないかな。読んでも日記に感想書いてないこと多いから、見返しても何冊買ったか確認取れないし。 ゲストは藤田和日郎氏。『うる星やつら』を読んでた当時が中学生ってことは、私とだいたい同世代か年下なんだな。一本調子過ぎて、藤田さんのマンガは最近それほど熱心には読んでいないんだけれども、マンガに対する真摯な姿勢は嫌いではない。でも、もういいトシなんだから熱血だけじゃなくってもう少し知恵のある展開を考えたほうがいいと思うぞ(^_^;)。 高橋留美子のインタビュー、『うる星』も『めぞん』も語り終わって、『闇をかけるまなざし』。当時、子供のファンからの手紙で「ギャグが少ない」とお叱りを受けたというのが微笑ましいというかなんというか。『うる星』を読めばわかることだが、ギャグとはいってもこの人の作品はあくまでシチュエーションコメディなので、当然、ギャグ以外も描けることは、私たちのような高校生くらいのトシの入ったファンには見当がついていたのである。 るーみっくわーるどシリーズも今や隠れた名作になってしまった(『人魚』シリーズの再開はまだか)。高橋作品は短編も結構な数がアニメになってるけれど、シリアス第一作のこれがアニメ化されてないのはもったいないよなあ。『犬夜叉』の併映で一本つけるくらいのことしてくれると嬉しいんだけどな。
2001年06月04日(月) Nobles oblige/『韃靼タイフーン』1・2巻(安彦良和)
| 2002年06月03日(月) |
「八手三郎」は「やつでさぶろう」/『ふたつのスピカ』1・2巻(柳沼行)/『僕らのスーパーヒーロー伝説』(堤哲哉)ほか |
なんだか最近「王将」で晩飯食うことが増えている。 安価で手ごろってこともあるんだろうけれど、それなら定食屋のほうが私は好みなんだがなあ。 てなわけで今日も仕事帰りに「王将」。ひこねのりおキャラデザインの四神が出迎えてくれるが、どうして玄武の尻尾はヘビじゃないのだ。あれじゃただの亀じゃん。それに色も黒でないと。マンガキャラにツッコミ入れたってしょうがないけど。 先日から揚げ食った時、すごく美味かったそうで、しげは「から揚げ食いたいから揚げ食いたいから揚げ食いたい」とうるさい。しかし私に言わせれば、この店のから揚げは、身がややパスパスで、マズイとまでは言わないが特に足繁く通わねばならないほどの味とも思えない。まだケンタッキーフライドチキンやほっかほっか亭のチキンバスケットのほうがマシのような気がするが。 考えてみたら、福岡は中華料理の店は多いけれど、チェーン店が増えすぎてどこも似たような味になっちゃってるのである。 八仙閣も鹿鳴春も一品香も、どれも冷凍ものが主流だってのは一目瞭然。餃子も「ここのは美味い」って言えるものにとんと当たってないしなあ。そのうち中華料理屋巡りをしてみたいものだが。
マンガ、柳沼行『ふたつのスピカ』1・2巻(メディアファクトリー/MFコミックスフラッパーシリーズ・各540円)。 『ダ・ヴィンチ』ほかで評判になってたんで、興味はあった。 どうして今まで買わないでいたかってのは、表紙絵の「古臭さ」に一抹の不安を感じていて、ヘタすりゃ大ハズレかもって予感がしてたからなんだね。 幸いなことに、読んでみた感じはそこまでひどくはなかった。けれど評判になるほどのものかって印象も同時にしたもんだ。全体的にはストーリーも含めて、可もなく不可もなくってとこかねえ。 いや、「絵が稚拙」ってことが理由じゃない。 稚拙は稚拙なんだけども、それが巧まざる稚拙さであるなら、特に嫌悪感は感じないのよ。 絵本なんかで子供に合わせてるつもりなのか、ワザと絵を子供っぽくヘタに描く画家がいるけど、そんな意図で描かれてるんじゃないかって印象なんだね。 古臭くて野暮ったい絵柄は多分、「懐かしさ」の演出なんだろう。トーンを極力減らして斜線や網掛けで陰をつけたりするカットが多いのも、60年代、70年代を彷彿とさせる。けれど、月に空気があっても、火星に宇宙人がいても別におかしくなかった時代はとうの昔に過ぎ去っているのだ。パロディならばともかく、絵柄ばかりかキャラクターもストーリーもまるで60年代、70年代なんじゃ、今更この作家は何をしようとしているのか、という疑問がどうしても沸いてしまう。 これは未来の物語なのである。 設定自体は宇宙飛行士を夢見る少年少女たちの、「リアル」な物語なのだ。 なのに、登場人物がまるで『青春とはなんだ』とか『飛び出せ!青春』レベルの感情先行型の人間ばかりで、展開もそれに追従した不自然なものになってしまっている。 忍耐力と協調性を試されるドミノ立てのテスト、監視カメラで見てたのなら、たとえ最終的にドミノを完成させたとしても、途中でパニックを起こしたアスミが合格になるはずがない。ハンデを乗り越えさせるという熱血ドラマを優先させるあまり、非リアルな展開を無理強いしているのだ。 結局、そういう古臭いドラマしか作れないってのは、大人子供というか、いいトシして未だに夢見がちな純情ぶりっこの読者に媚びてみせてるだけなんだね。それってなんかイヤラシくないか? これが西原理恵子だったら稚拙な絵でも展開がリアルだから感動できるんだけどねえ。
私のことを、日頃悪態ばっかりついてるけど、根は純情で涙もろいイイ人、だなんて考えてる人は(たまにいるのだ、そんなやつが)、私がこれ読んですごく気に入るんじゃないかと思うんだろうな。 でも、ただの一人もステロタイプでない人間がいないんじゃ、感情移入のしようがない。こんな安っぽいドラマで感動できるほど私ゃ夢見る夢子さんじゃないのよ。
堤哲哉・編『僕らのスーパーヒーロー伝説 昭和40年代アニメ・ヒーロー大研究』(扶桑社・1400円)。 この手の本はもう腐るほど出ているので、書かれてあるエピソードも殆ど既知のもの。けれど、昭和40年代のことを、特撮・アニメ黎明期の古きよき時代と勘違いしている若い人たちにとっては、読み物としては適度にオタクかつノスタルジックな雰囲気が味わえていいのではないか。 私が買ったワケは、関係者のインタビューの分量が結構充実していたからである。 取り上げられている作品は『仮面ライダー』『ウルトラマン』『悪魔くん』『サスケ』『リボンの騎士』『仮面の忍者赤影』『超人バロム・1』『巨人の星』。ラインナップは「ほとんどテキトー」だが、この本が特徴的なのは、当時タイアップとして雑誌等に連載されていたマンガ版にいちいち言及しているところだろう。 『仮面ライダー』の「ゲル・ショッカー」が、すがやみつるの『テレビマガジン』連載時においてのみ、「ゴースト・ショッカー」であったことなど、当時毎月テレビマガジンを買ってたものしか知らない事実である。もちろんかつてテレビマガジンに応募して「少年仮面ライダー隊」に入っていた私が知らぬはずもない(威張るほどのことか)。 あと楳図かずお版『ウルトラマン』のセリフの変更の過程や、『悪魔くん』マンガ版の変遷についても詳細な考察をしてくれているが、多少、ウラを取っていなくて惜しい面もある。昭和63年版『悪魔くん』は、多分、水木しげる御大が描いてるんじゃないと思われるが(森野達哉さんじゃないかと推察)、そのあたり、水木プロに確かめられなかったのかなあ。 あと、平山亨さんが、「八手三郎」は「やつでさぶろう」と読む、とインタビューで明言されたので、これまで「はってさぶろう」と読んでた人は、改めるように。「(仕事を)やって候」のシャレなんだと。
藤子・F・不二雄原作『芝山努と映画ドラえもん『のび太とロボット王国』の世界』(小学館・2415円)。 どうして今回の作品に限りこんな設定資料集が出たのかよく分らないけれど(単に私が知らんだけかもしれんが)、以前から芝山さんのキャラはアニメートされると魅力が半減すると思ってたので、映画本体見るよりもこっちのほうがよっぽど感動できる。 アニメになるとデフォルメが押さえられちゃうんだよな。 それで原作の絵に近づくならともかく、最大公約数的な絵というか、無個性な絵に落ち着いちゃうから、初期の映画はまだしも、近年の長編『ドラえもん』はもう全く見に行っていないのである。 けれど、ラストの「もしも『ドラえもん』が実写で撮られていたら」は蛇足。 ピクサーのNG集と同じで、ヤラセと解りきった遊びは自己満足でしかないって。
マンガ、にわのまこと『THE MOMOTARO』1〜10巻(集英社/ジャンプコミックス・各370円)。 こないだ『ボンバーガール』読んだので懐かしくなって再読。 桃太郎や金太郎、牛若丸に弁慶、浦島太郎や一寸法師や酒呑童子やかぐや姫やヤマトタケルとか、プロレスラーがみんな御伽噺のキャラクターの子孫って設定だったんだよ、って説明しないと、このマンガ知ってる人も少なくなったろうな。平成元年なんて私にとっちゃついこの間なんだけども(^_^;)。 でも、「三年寝太郎」まで出したのに「鶴の恩返し」も「文福茶釜」も「カチカチ山」もなかったなあ……とか当時は思ってたけど、考えてみりゃ、鶴や狸や兎の子孫は出せんわな。「花咲か爺さん」は爺さんだからダメだったのかなあ。 アシスタント時代の小畑健(当時の名前は土方茂。……どっちが本名だ?)がキャラクターとしてしばしば登場している(中には黒武術の幽霊なんてもあったりする)ほか、本人が1ページだけだけれども4コマを描いたりもしているので、小畑ファンには必読書かもしれない。 でもこれも多分絶版。再刊されても権利の関係でアシスタントのマンガまで復刊されることもなかろうから、まさしく幻のデビューマンガってことになるんじゃないかな(リミックス版が6/24日発売だそうな。……買うか?)。 コピーがほしい人は送ってあげてもいいよ(古本屋で探した方が早いか)。 しかし、「次原隆二→にわのまこと→小畑健→和月和宏→尾田栄一郎&武井宏之」って師弟の流れ、ジャンプのマンガ家が昔ながらの徒弟制度で成り立ってるってのがよくわかるな。良くも悪くもジャンプシステムの枷からは逃れられない人たちだってことなのかも。『ワンピース』や『シャーマンキング』がつまんなくなっていくのも宜なるかな。 ジャンプの師弟関係を詳しく知りたい方は以下のサイトをどーぞ。
http://www.ktr.to/Comic/assistant.html
2001年06月03日(日) 全集員合(←解る人には解るね)/『だめだこりゃ』(いかりや長介)
| 2002年06月02日(日) |
天動説健在/『ブレーメン�供截慨�(川原泉)/『殉教カテリナ車輪』(飛鳥部勝則)ほか |
外出の予定が、しげ、具合が悪いと言って起きてこない。 おかげでまた『少林サッカー』に行き損なうが、どうやらヒットしているようなので、いきなり打ち切りにあったりすることはないだろう。 来週行ったって構わないのだが、問題はこちらの財布の中身が来週まで持ってくれてるかどうかだ(^_^;)。 平日、やたらバカ忙しくなっているので、休日はゆっくり休みたいが、日記の更新が残っている。休日のうちにできるだけ更新しておこうと思うが、不思議なもので、平日よりも書くスピードが遅くなってしまう。やはり気分が休日モードに入っていて、集中できないせいなんだろうか。
アニメ『サイボーグ009』第32話「機々械々」。 制作がスタジオライブに外注されてるので、キャラクターがいきなり前シリーズの芦田豊雄キャラになっちゃってる。格闘シーンはそれなりに動いちゃいるけど、止め絵は崩れてるなー。もともと丸っこすぎて、石森章太郎キャラには不適切だった芦田キャラだけど、寄りによって004の登場エピソードに使うかよ。007にしときゃいいのに。 制作態勢が少しは整って来たのか、作画のヒドイ回は少なくなったけど、同時に目を見張るような回もなくなった。しばらくは番外編シリーズが続くみたいだけど、そうなると『ヨミ編』は最終回近くまで取っておくつもりなんだろう。だったら、『移民編』や『海底ピラミッド編』を早いとこやってほしいもんだけどな。
テレビで『行列のできる法律相談所』など漫然と見る。 他人の家の物置の壁にラクガキをしたところ、それに500万円の値打ちが付いた、それは物置の持ち主のものか、執筆者のものか、という問題、なんかムリヤリ作りすぎてないか。現実にあった事件だと差し障りがあるのかもしれないけれど、かと言って架空の事件でっち上げても視聴者は「そんなんどーだっていいじゃん」としか思わないんだが。 『おしゃれ関係』のゲストはオセロ。この番組もちょくちょく見てるんだけど、いちいち日記に感想は書いてなかった。なんで今日だけ書く気になったかと言うと、オセロの松嶋尚美がつい最近まで「太陽と月の区別がつかなかった」と発言したからだ。……いや、この二人、漫才師だったんだね。バラエティのゲストに出てるとこと、『サイバーシックス』の声優としてしか知らなかったから、てっきりタレントだと思ってた。 それはそれとして、なんで太陽と月を同じものと思ってたかと言うと、昼は太陽しか出てなくて、夜は月しか出てないから、夜は太陽がぐるっと一巡りして月に変わって出て来てると思ってたんだと。 古館伊知郎から「太陽と月が一緒に出てるとこ、見たことないの?」と聞かれて、「見たことない」と堂々と返事してるんだからすごいものだ。つまりこの人、地球が太陽の回りを回ってるってことも分ってないってことなんだよな。 恐らくこれはモノホンの天然ボケだろう。山瀬まみや篠原ともえの「天然」に演技が相当入ってることは、それが「笑ってすませられる」範囲に留まっている点からそれと知れる。けれど松嶋尚美のボケは笑うに笑えない。言うに事欠いて、こんなナンタラと紙一重のボケは放送作家だって作るにゃ相当勇気が要ることだ。 非常識と切って捨てるのは簡単だけど、普通は起こり得ない勘違いがどうして起こるかってことを考えると、この件はなかなか興味深い。学校で地動説教えてる時によそ見してたかサボってたか、家族や友達と喋ってるときにそんな話題が出なかったのか、テレビや本でそういう知識に触れたことがなかったのか、彼女の生活範囲の「狭さ」が原因であることは想像がつく。 ……つまりは、太陽が地球の周りを回っていようが、地球が太陽の周りを回っていようが、そんなこと知らなくったって、生きて行ける環境が現代だと言うことだ。それって、中世と変わらないじゃん。 知性って何なんだろうね。
マンガ、今市子『岸辺の歌』(集英社/EYES COMICS・720円)。 オビに「ミステリーコミックの名手」とあるのを見て、しげが「今さんって、ミステリーの人だったの?」と聞いてくる。 確かに『百鬼夜行抄』などは扱っている題材は狐狸妖怪の類であっても、ミステリとしての骨格を供えていることは確かなので、間違いとは言いきれないが、適切な惹句とは言い切れまい。 ましてや、この話は中国かペルシャあたりを舞台にしたファンタジーだから(もっとも作者ご本人は「インチキファンタジーだから時代考証要らないしなんでもあり」とか言ってる)、ミステリと銘打つのはちょっと違和感がないでもない。
水乞いの儀式のために河伯に捧げられる12歳の孤児の少女、スリジャ。けなげにもその役目を受け入れ、馬にも船にも乗らず、自らの足で遠い河伯の住む川へ旅をする彼女と、その護衛として付き従う鬼人エン。 今さんの描くキャラにはどこか「遠い目」をした人が多いのだけれど、それは彼ら彼女らの見つめる未来が、常に一種の「異界」であることに起因しているからなのかも知れない。形骸化して、果たして本当に水乞いが叶うかどうか術を知る方士にもわからぬのに、スリジャは「誰からも必要とされなかった私に、誰かを救えるかもしれない」とただ前を見つめて歩く。そして、その大地を踏みしめた一歩一歩の足跡から草が生え、川が生まれる。 この結末はなかなかに寓意を含んでいる。 まるで高村光太郎の『道程』だが、彼方を見つめるスリジャには、自らが作った川を振り帰ることは決してない。 スリジャにも幸せな未来が訪れたように今さんは物語を締めくくるが、多くの童話のハッピーエンド、「お姫様と王子様は幸せに暮らしました」というのが、実は我々の世界から遠く離れた異界へと物語の登場人物たちが旅立って行ったことを示すように、彼女は決して現世で救済されたわけではなく、視点を変えれば「死」にも等しい境遇に自らを置いたことが分る。 スリジャは一度も振り返らなかった。かつて住んでいた街のことも、そして読者にも背を向けて。そして我々はもう二度とスリジャには会えない。エンの未来は第二話、第三話でも描かれるが、スリジャはもう登場しない。彼女は彼女で「ここではないどこか」で自分自身の物語を紡いでいるのだろうが、我々に「置き土産」として残された物語はこれで終わりなのである。 今さんのマンガはいつも「優しい」。 けれど、それと同時にどうしようもない「淋しさ」をも我々の心に否応なしに残していく。 「優しさ」を感じるのは、人にであれ妖怪にであれ、「ここにいてはならぬもの」とされている者たちに今さんがきちんと「居場所」を与えてくれているところだ。けれど、彼らの住む場所は常に「遠い目」の先、遥か彼方にしかない。我々の住むところにはないのだ。 そこに行けぬ我々にとっては、置いてきぼりを食らったような「淋しさ」を覚えざるを得ない。でも、恐らくはそれが誰もが経験せねばならない「孤独」の本質なのだ。
マンガ、川原泉『ブレーメン�供截慨�(白泉社/ジェッツコミックス・630円)。 おお! 3巻で終わってない! ということは本作が川原泉さんの最長作品になることはこれで決定! 御承知のこととは思うが、川原さんという作家は、極めて繊細な心の持ち主で、もともと寡作な上に連載の中断、未完はザラで、ファンとしては連載を起こすたびに「今度は落とさないか、作者が失踪したりしないか」と半ば本気で心配しているのである。
しかし面白い。 言っちゃなんだが、少女マンガ家さんの作品世界って、ムチャクチャ狭い人が多くて、私の好きな作家さんであっても、「また前と似たようなマンガだな」という印象を持つ人も少なくないんだけど、川原さんは着実に一作ごとに変容してきている。 少女マンガにありがちな恋愛ものばかりとは限らない。 むしろ「恋愛に留まらない人と人との心の関わりあい」に作者の視点が向けられているからではないかと思うが、その作品世界はやたらだだっ広いのである。 スポーツものは『甲子園の空に笑え!』『メイプル戦記』では野球、『銀のロマンティック…わはは』ではフィギュアスケート。もちろんも巷にありふれた熱血ものなどではなく、「のほほんと一生懸命」、と一見矛盾しているようだがまさにそう評すしかない独特の川原ワールドを展開。 『ゲートボール殺人事件』は冗談ではなくちゃんとした本格ミステリもの。 『中国の壷』はファンタジー、『殿様は空のお城に住んでいる』は時代もの、『バビロンまでは何マイル?』はタイムスリップSF。 『笑う大天使』は初めコミュニケーション不全みたいな少女たちの猫かぶり人生を描きながら、SF、ファンタジーの要素を徐々に加味していき、最後は何とも言えない夢のような男女のありようを示して完結した。川原さんの才能の凄まじさを私が感じたのは本作である。 これで作品数が多かったらまさに「少女マンガの手塚治虫」と評してもいいくらいだ。
そして川原さんが本格的宇宙SFに挑戦しているのがこの『ブレーメン�供戞� いよいよ悪魔の科学者エルンスト・ヘルツォークとの対決が迫りつつある第3巻、新たな人物、虎のブレーメン(バイオテクノロジーで知性を獲得した動物たち)連邦捜査官シャキールが登場する。 このキャラが最高にいいんだ! ブレーメン�兇貌云茲垢襪海箸砲覆詒爐蓮¬宜�なまでに職務に忠実、飛びぬけて優れた知性で感情を抑制し、愚かな人間たちのブレーメンに対する偏見、差別、迫害にも決して怒ることなく静かに対処し、そして現在の立場を堅持して来た。 彼が唯一友と認めた相棒、こちらは人間のアレン・ハークネスは、ヘルツォークを追ってその組織に潜入したまま行方不明になっていた。アレンを追って、シャキールは自らもヘルツォークの潜む惑星プレリアに降り立つ。 ……いや、これまで登場して来たブレーメンは、みんな簡略化された動物キャラだったんだけどね、このシャキール、実に細密にリアルに、モノホンそっくりに描かれてるのよ。必然的に表情は殆ど動かないんだけれど、なのに感情がちゃんと伝わってくるんだよ! ほんのちょっとした目の動き、顔の角度、構図、これで彼のストイックな態度の中に隠されている悲しみを表現している! これはすごい! 捜査官としての優秀な成績が災いして、かえって相棒の見つからないシャキールの前に、アランが「新しいパートナーだ、よろしく!」と微笑みかけた瞬間のシャキールの驚きと喜びの入り混じった顔はどうだ! 白目をいつもよりほんの少し大きくしただけで、川原さんはそれを表現したのだ! ああ、その絵をそのままここに紹介したいなあ……。
飛鳥部勝則『殉教カテリナ車輪』(創元推理文庫・777円)。 第9回鮎川哲也賞受賞作というオビのにちょっとだけ期待して購入。 「ちょっとだけ」というのは、受賞作=傑作とは限らない例をいくらでも知ってるからでね。 それでも江戸川乱歩賞と鮎川哲也賞は、応募者にある「拘り」があるように感じられるので、つい手を伸ばしてしまうことが多い。これがメフィスト賞や横溝正史賞になると、これまで随分と辛酸を舐めさせられて来たので(んな大袈裟な)今一つ食指が動かないんだけどね(^^)。 つまり私の好みは「本格ミステリをベースにしたエンタテインメント」ということなんである。まあ、ごく普通のミステリファンですな。
表紙をめくって驚いたのは、そこにカラー綴じこみで油彩画の口絵が付いていたからである。これがただの飾りではなく、事件に関係してくることは容易に想像される。事件現場の見取り図とか、登場人物の家系図が付いている例はあるけれども、こういうのは滅多にお目にかからない。これだけでもこの作者が意欲的というか、読者に果敢に挑戦するタイプの作家だということがわかる。期待は必然的に弥増すというものだ。
美術館の事務員、井村は学芸員の矢部に、ある殺人事件の記録を見せられる。 矢部はかつて、ふとしたことから東城寺桂という無名の画家に興味を持ったことがあるのだが、その画家はわずか5年の間に五百点もの絵を描き上げた後、自殺していたのだ。 そして東城寺が絵を描き始めるきっかけになったのが、「同一の凶器」で、「同時に」二つの密室殺人が行われたという奇妙な事件だった。 矢部はその謎を解くべく、散逸した東城寺の絵画の行方を追う……。
謎の設定は実に魅力的である。 不可能犯罪が一つ提示されるだけでもミステリファンはワクワクするものなのに、それがダブルでとはなんとサービス精神の旺盛なことか。 しかも本作には、更に大きな仕掛けが一つ仕掛けられているのだが、これは私自身の少ない読書量では判断がつきかねるところだけれども、恐らくは古今のミステリ中、全く類例を見ない新しいトリックを創案したと言えるのではないか(ある有名作品をベースにしているとは言えるが、単なるバリエーションを超えていると判断する)。 その解明についても、一歩間違えばトリックのためのトリックに堕するところだけれども、ギリギリの線で踏み止まって、本格ミステリとして成り立っていると思う。フェアかアンフェアか、ということを聞かれれば「フェアである」との立場を私は取りたい。
しかしである。 それだけプラスポイントが高いにもかかわらず、本作を傑作か、と問われれば、私はせいぜい「力作」である、としか評価しきれない。 殺人に至った過程に無理があるし、犯人の心理も説明不足。 なにより、私の期待のきっかけになった口絵の油彩画。 あれが謎の解明にひと役買っていることはいるのだが、それをイコノグラフィー(図像学)の立場で心理分析する方法が、どれだけ実証的なものと言えるのか、はなはだ眉唾で、胡散臭いのである。それは解説の有栖川有栖が「象徴を解くという作業は、論理を重要視する本格ミステリの探偵に期待されていることではない」と指摘されていることなのである(創元ミステリに信用がおけるのは、ヨイショ記事になりかねない解説の文章に、ちゃんとこういう批判が載るところだ)。 だからこそ私は初め、推理の材料としては向かない「絵画」をあえてミステリに持ちこんだところに作者の新しい「仕掛け」があるのではないかと、期待したのだ。もちろんそこに「仕掛け」はあったのだが、残念なことにそれは本格ミステリとして考えた場合、今一つ、と言わざるを得ないものであった。 それは小説としての語り口が未熟であるがゆえのことでもあるので、もう少し感情に流されない筆致で書いておけばそういった印象は随分軽減されたのではないか、と思われる。
全ての謎が解明されるわけではない、人の心は常に闇を持っている、という考え方を作者がしているらしいことは見当がつく。しかし現実がそうであるからこそ、本格ミステリの読者は虚構であるはずの「小説」に「真実」を求めるのである。 本作の犯人は語る。 「私は豪徳二を殺した。 理由はない。 私は佐野美香を殺してしまった。 理由はない。」 もちろんこの告白自体にもトリックがある。 当たり前の話だが「理由のない犯罪」などというものは存在しない。現実の犯罪においてもたとえそれが衝動的な犯罪であったとしても何らかの「理由」は必ずある。犯人の心理に謎が残るように感じるのは、あくまで「理由をうまく言語化できない」からにすぎない。 しかし、それをあえて言語化しよう、というのがミステリの醍醐味なのである。 言語化できないものを言語化しようというのだから、ムチャと言えばムチャなのだが、「不可能への挑戦」は、単に作中の探偵の行動のみに限定されることではなく、ミステリ作家自身の小説を書く上での姿勢でもあるのだ。そこにこそミステリファンは感動を覚えるのだと言っていい。 そのことをこの小説の作者は軽視している。あるいは放棄している。 それは、つまるところ本格ミステリに対する作者の姿勢の「甘さ」を示していることになるのだ。 惜しいなあ、あともう一歩、ディテールを考えればすごく面白い小説になっただろうに。
……しかし相変わらずトリックの具体的内容に触れずにミステリを批評するのは難しいよ(´。`;)。
2001年06月02日(土) レトロポリス/アニメ映画『メトロポリス』(2001)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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