無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年02月16日(金) なりたくて病気になってるわけじゃないやい/舞台『トランス'98』ほか

 喉をすっかりやられてしまって、咳が止まらない。なんでこんなにからだが弱いのだ、酒もタバコもやらんのに。体の丈夫なヤツはすぐ「根性が足りんのだ」と冷ややかな目で見るが、だったらテメエも根性で不老不死になって見せろと言いたい。
 ……いかんいかん、また心がすさんでいる。こういうとき女房の愛があればなあ。
 ああ、人間って、本気で辛いときには一番手に入らないものを求めるものなのだなあ(T_T)。

 栄養がつくものがほしいと思って、女房に買い物を頼むが、買って来たのはインスタントラーメンの山。だからわしゃ風邪引いてるんだってば。
 しかし女房はいつだって私が病気であることを信じないのである。熱を出そうがふらついていようがあふあふ言っていようが、演技だと思っているのである。
 「喉アメどこ?」と聞いても「知らん』の一言。
 ……まあねえ、そりゃ確かに具合が悪いと言いつつこうやってパソコンに向かってんだから仮病じゃねえかと疑われても仕方ないことではあるんだけどねえ、もう病気の時にはココロの方もちょびっとトチ狂ってるんだと思っていただきたい。
 実際、大人しくしてればいいのに、なぜ動いてしまうのか、私自身にも分らないのだ。ともかく心が全く落ち着かず、何かをしていないと気がすまない。アタマの中が言葉で溢れかえり、それをどこかに書きつけたくなる。……栗本薫のことを嗤えんなあ。
 じっとしているためには仕方ないからビデオを見たり本を読んだりするしかないのだ。

 そう言うわけで今日は黙々と一日中未見のビデオや本の整理をする。そんなホコリまみれの仕事してどうするんだ。それこそ体に悪いぞ。でも今日はハナから狂っているのでどうしようもない。咳き込みながら本の山を積み上げていく。
 その間女房はと言えば、家事もしようとせず、一人でわき目もふらずにテレビゲームをしている。夫が夫なら妻も妻だ。まともな神経なんか持っちゃいない。

 片付けの真っ最中に火災報知気の点検が回ってくる。とっ散らかってる部屋を見られるのは恥ずかしいが、私が偶然居合わせてよかった。女房一人だと、居留守を使っていたに違いないからだ。
 女房は人に見せられない格好をしていたので(どんなだ)、布団にくるまって隠れる。日頃から格好は家の中でも気にしろと言うのに聞かないのだ。そんな格好をしているおかげて、すぐに体を壊してしまうのだが(だからどんな格好なのだ)、自業自得というものであろう。

 『雨柳堂夢咄』6、7巻(波津彬子)、前巻はちょっと誉めすぎたかなあ、今巻でまた少し「作りもの」めいた作品が続いて、レベルダウン。ようやく青二郎と釉月が出会うが名乗りあうことはない。まあはっきり出会わせちゃうとこのシリーズ終わってしまうから当然の演出ではあるのだが、そこに多少のあざとさが見えるのである。
 人物を増やしすぎたのもマイナスになりつつある。何しろ人物の書き分けが非常に下手な人なので、アイデアが一つすべるととても読みにくいのである。もう先は見えちゃったし、この辺でケリをつけた方がいいかも。

 以前買ってまだ見ていなかったビデオ、鴻上尚史作『トランス'98』を見る。やはりビデオでオリジナルの『トランス』、生で最新の『トランス』と一応全ての『トランス』を見たことになるが、本作が一番つまらない。
 一見、精神病院を舞台にしているように見えるが、この脚本は実のところどこにもない世界を舞台にしている。主人公三人がそれぞれに心を病んでいるとすれば、そこに医者はいない。医者のいない精神病院はあり得ない。これはやはり『朝日のような夕日をつれて』以来、鴻上尚史が描き続けている現代人の心のユートピアを追い求めた作品と見るのが一番わかりやすい解釈だろう。
 だからこそ、逆に医者に扮した時の三者の演技は細心の注意を払って医者になりきらなければ説得力がない。内野聖陽、奥山佳恵、三宅弘城の三人は誰一人として医者に見えない。特に初めのうちは奥山佳恵こそが本物の医者、と客に思わせねばならないのに、全く医者に見えないのは致命的である。新作にともさかりえが起用されたのはもしかしたら精神科医の香山リカに顔立ちが似てたからかな、とふと思ったりもした(^o^)。実際、ともさかが医者らしく見えたのにはビックリしたものである。
 何がよくないと言って、叫んでばかりいるのがダメなのである。みなさんが患者なら「それはお前の妄想だ!」と叫ぶ医者の言うことが聞けるだろうか?
 もちろん三人は実は医者でもなんでもないから叫んでもいい、と解釈することも可能だが、もしそうなら彼らに救いの道はない。彼らの狂気はいずれ破綻する。「狂ってたっていいじゃないか」という「狂人のユートピア」(『ドグラ・マグラ』だな)を描くのが脚本の基本にあるのは明らかだから、崩壊を予感させる演出を行うのは演出家や俳優には悪いが誤読に過ぎる。

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 某氏より『夏の秘密』に関するメールが届く。
 基本的に個人メールの中身についてこの日記にアップすることはしないでいるのだが、映画の話題についてのことだしプライバシーを暴露するものではないので書かせて頂こう。「日記にアップしますよ」なんて相手の許可取ったわけではないので、念のためお名前は書かずに置きますが(某事件からこっち、えらく神経質になってるなあ)。
 前回、「北原佐和子主演」みたいなことを書いたが、厳密に言えば彼女も所属していたアイドルユニット三人組、「パンジー」主演で企画された1982年の映画である。残りの二人は真鍋ちえみと三井比佐子。もともとこの三人、それぞれソロのグラビアアイドルとして活躍していたのだが、イマイチぱっとしてなかった。いや、北原佐和子だけは絶大な人気を誇っていたのだが、歌を出した途端、人気が急降下した(^_^;)。
 「歌の下手な歌手」というのは70年代アイドルの乱立以来、ごく当たり前のことになってしまったが、これは実に群を抜いていた。個人的には、能勢慶子・安田成美と合わせて音痴アイドル三人娘と呼んでやりたいくらいである。この三人に比べりゃ、今時のアイドルは華原朋美もモーニング娘。も、天才的にうまい。当時カラオケが普及してて点数表示機能があったなら、自分の持ち歌ですら5点とか8点しか出せねえんじゃなかろうかというほどのヒドさだったのだ。
 覚えてる人いるかな? 北原佐和子の『マイ・ボーイフレンド』。もともと声域が広くないのに甲高い声で「まい、まい、まい、ぼ〜いふれ〜んど」と尻上がりに音を上げさせられて声が届かず上ずってた、あの聞くに堪えない珍曲であります。あの曲出した途端、各週刊誌のグラビアから水を引くように北原佐和子の記事が消えていったのを昨日のように覚えていますよ(実はファンだったのか……?)。
 多分、本人も歌手になる気はなかったのではないかと思う。自分の音痴も熟知していたのではないか。テレビに出た時の彼女はグラビアと違って、まるで自信なさそうで暗かった。暗いアイドルが受けていたのは藤圭子までである(^o^)。
 「パンジー」の結成は起死回生の意味合いが強い。明るいアイドル路線が無理なら、謎めいた美少女路線で行こう、とプロダクションが考えたかどうかは知らんが、原作執筆を依頼したのが『皇帝のいない八月』の小林久三(どっしぇー!)。更に脚本が『わんぱく王子の大蛇退治』の池田一朗(と言うか、作家の隆慶一郎ね)。こんな陰陰滅滅コンビで何が出来るかというと、横溝張りの因縁話だったりする。学園内で起こる連続殺人、失踪した美少女転校生、東京オリンピックの年に起こった過去の犯罪にまつわる秘密……。完全に方向性間違えたな(^_^;)。
 もちろん映画は大コケ。だいたいユニット組んでいながら、所属プロダクションがそれぞれ違うために主題歌を真鍋ちえみのソロでしか出せなかったのだ。戦略を初めから勘違いしていたとしか言い様がない。
 以来、この三人娘の名はほぼ完全に芸能界から消えた。
 と思っていたら、北原佐和子、生き残っていたのですねえ。80年代、その噂を殆ど聞かなかったのに、90年代に入って、サスペンスドラマや舞台に脇役ながら重要な役で数々出演。実は私も去年『必殺仕事人』の舞台でナマの北原佐和子を見ている。四十も近いってのにまだ町娘の役だぜ。でもそれが違和感ない(・・;)。好きな男との仲を引き裂かれ、殺されて死の間際に主水に殺しを依頼するという薄幸の美少女の役……って、『夏の秘密』とつながってるなあ。路線変更がやっと実を結んだか。
 私は特別アイドルオタクではなかったので、昔のマイナーアイドル映画をそんなにたくさんは見てはいないのだが、今になって、見ておけば話のタネになったのにな、とちょびっと後悔している(見てたらもっと後悔してたろうが)。
 いつの日か、大槻ケンヂも感涙したというセイント・フォーの『ザ・オーディション』だけは見て死にたいと思ってはいるのだが。「不思議、東京、しんで〜れら〜」。

 スーパーチャンネルで『アウターリミッツ完全版・二階にいる生物』見る。この『アウター』、『ミステリーゾーン』の後発なんでどうにも二番煎じの感が強かったのだが、こうして年月が経ってみると、どれも古典的で味わいが出てくるものである。今回の話、要は隠れ里の仙人は宇宙人でありましたって設定で、それ自体は陳腐なんだが、途中、屋敷の中を迷ううちに主人公がドアだけが立ってるようなシュールな世界に入りこんでいくシークエンスが面白い。
 この「ドアだけの世界」って、よく使われるけど(『ルパン三世Part�掘戮芭詭收興腓發笋辰討燭福法∈能蕕忙廚い弔い燭里話�なんだろうなあ。サルバドール・ダリの絵あたりか?

 カートゥーンネットワークで先々週から始まった『逮捕しちゃうぞ』、前回まではOVA版を放送してたが、今日からテレビオリジナル。福岡の民放では未放映なので初見である。
 でもテレビシリーズになった途端、作画レベルがガタ落ちなのには幻滅。脚本自体は短い原作を横手美智子さんがメリハリある展開に構成し直して、うまく出来ていたのになあ。OVAと映画版を見て、これならテレビシリーズもDVDで買ってもいいかなと傾きかけていたのだが、これは買わなくて正解。
 女房は藤島康介の「中途半端に面白い」(つまり設定とかよく練られてはいるけれど、予定調和の展開しかしないし、オタク向けの受け狙いがミエミエであざとい、と言いたいらしい)点が嫌い、と言っているので、もし買っていたら大変な家庭争議になっていたであろう。以前『ああっ女神さまっ』のLD買った時も「そうよね、あんたは自分の稼いできた金なんだからどんな下らないことに使っても自由なんだもんね」とネチネチ言われたし。
 でも『逮捕』のOVAや『女神』の初期シリーズはなかなかの秀作だったんだがなあ。どっちも映画版でコケたのがよく似ている(^_^;)。もともとこの作者、あまり大風呂敷を広げられる人ではないのよ。だから『小っちゃいってことは便利だねっ』くらいの短編シリーズが一番面白かったりするのだ。

 漫然とテレビをつけていたら、『地球防衛放送パンドラ』の再放送とやらを偶然目にする。アイドル予備軍みたいなコスプレねーちゃんたちがオタク情報を紹介する、という番組なんだが、ガイナックスとコンプティークのサバゲー大会なんて放送して見てたヤツいるのか。
 私が「おっ」と思ったのは、字幕に「とり・みき、大平透」と出たからだ。洋画の吹替は字幕ファンから叩かれることが多いが、名声優による吹替えは決して字幕に劣るものではない、と主張し、本まで作っちゃったのがとりさんである。これは結構、大平さんのコアな話が聞けるのではないか、と思ってみてみると、さすがに声優創世記から活躍しているだけの人ではある。汲めども尽きぬ井戸のように面白いエピソードが、次から次へ出てくること出てくること。
 スーパーマンの番宣のために大平さん自身、あの格好をされた話とか(当時はスリムで、実に似合っている)『刑事コジャック』のテリー・サヴァラスはもともと大平さんが演じる予定だったのが、「番宣のため頭を剃れ」と言われて断った話とか。
 『もののけ姫』について真っ向から批判していたのにも驚いた。「声優には声優としての演技があり、そのキャラクターの声になりきる技術を身につけている。なぜ有名俳優にばかり声をアテさせるか」という意見である。……言葉を選んじゃいるが、何であんなヘタクソどもにやらせるかってことだろうな。
 確かに大平さんがこう言うとそれなりの説得力はあるんだけどなあ。基本的に私もこの意見には賛成である。ただし、問題点がいくつかあることも事実だ。
 例えば、黒澤明や大島渚が、映画で素人や芸人を使いたがったのはなぜか、考えてみるがいい。既成の俳優の手垢のついたクサイ演技を嫌ったせいではないのか。黒澤明にしてみれば、名優松村康雄であっても「内田百�量鬚肪�がいいかって考えた時、松村しかいなかったんだよな」程度の俳優なのである。
 大平さんは「ハクション大魔王をやった時も喪黒福造をやった時も大平透が演じているとは気づかせない演技をした」と言っているが、そりゃ大して洋画もアニメも見ない人ならだませもしようが、ちょっとコアな人なら、大平さんの声に気づかない人はいないぞ。宮崎駿が俳優を使ったのは、あくまで演技プランのうちだと思う。少なくとも、箔づけや人気取りのためではない。実際、森繁久彌や美輪明宏は声優としての実績もあるのだ。それを十把ひとからげに「俳優を使うな」と言うのは天に唾する行為であろう。
 『もののけ姫』についての私の意見は、「田中裕子は使うべきでなかった」、これだけである。彼女の「撃て!」と言うセリフと、同じような役柄である『ナウシカ』の榊原良子演じる「なぎ払え!」のセリフを比較してみると一目(一聞?)瞭然だろう。気品、気迫、声量、どれを取っても榊原良子のほうが上であった。これは宮崎さんの目がね違いであろう。
 しかし他のキャストで言えば、モロの声など、私にはもう美輪さん以外の人がアテて、あれに勝てるとは思えない。勝てるという声優がいたら、それは相当の自信家か、でなければただのバカだと思う。声優界だって、そうそう名優ぞろいというわけではないのだ。だから今はちょっと「芸」の必要な役柄になると全て山寺宏一に回ってきちゃうのである。
 今度の『千と千尋の神隠し』の声優はどうなるのかなあ。夏公開ならそろそろ決まってないとスケジュール的にキツイと思うんだが。

 女房が夜中になってようやくお籠もり部屋から出てくる。「なんかメシつくってくれ」と頼んでも無視して風呂に入る。気分はもう辻仁成。……そこまで落ちたかないのになあ。


2001年02月15日(木) 携帯綺譚/『雨柳堂夢咄』5巻(波津彬子)ほか

 朝の「めざましテレビ」で、宇多田ヒカルの新曲披露。
 わはは、また同じ曲だ。
 こういうハスキーヴォイスの持ち主は、従来シャウト型の歌い方をさせることが多かったが、切なげに抑え目に歌わせたことがヒットの理由の一つだろう。これだけ売れてるとハッキリ言うやつがあまりいないが、彼女の歌い方、あの短く切った間の取り方も含めて、実はヨガリ声の発声と同じなのである。
 私同様、なんだ毎回同じ曲じゃねえか、と悪口言ってるやつは多いが、同じ声を出してくれるからいいのですね、ああいやらしい。
 プロモーターは親父のほうかお袋の方か、まだくっついてんだか別れてるんだか知らんが、自分の娘の「魅力」と「売り方」が何か、よく知っていることではある。親としての人格を多少疑いますけど。
 だから実を言うと、宇多田の曲もちょっと集めてみたいのだが、家庭争議のタネになりそうなので諦めます(^_^;)。
 世の女性諸君、あなたがたの彼氏が宇多田を熱心に聞いていたら、それは浮気願望の表れなので注意しましょうね(^o^)。

 舞台公演の連絡用に携帯電話を買いはしたが、もともとそんなにほしかったわけでもないので、充電器に差し込みっぱなしで仕事に出かけることも多かった。
 すると女房が怒るのである。いざというときに連絡が出来ないじゃないかと。
 いざってどんなときだよ、と突っ込んでやりたくもなるが何か縁起でもないことを言い返されそうなので言わない。あまりうるさいので、二、三日前から仕方なく胸ポケットに入れて持ち歩くようにしていたのであるが。
 今日突然、仕事中に携帯が鳴り出した。
 うわあ、冗談じゃないぞ。具体的には書けないが無茶苦茶ヤバイときに鳴り出したのだ。慌ててスイッチを切るが、いったいどこのどいつがかけてきたのだとディスプレイを見てみるが、買ったばかりで操作の仕方がよくわからず、どうやら留守電を入れているようなのだが、メッセージを聞き取ることも出来ない。
 女房か親父がかけてきたのかと一瞬思ったが、こちらが仕事中なのは当然知っているはずである。緊急の用事なら職場にかけてくるはずだ。
 どうにも腑に落ちないまま帰宅して、女房に、「今日、電話かけたか?」と聞くが返事はNO。
 女房にメッセージを聞いてもらうが、口元が妙ににやついている。
 「……どうした?」
 「……ねえ、コンドーってヒト、誰?(^^)」
 「コンドー? 知らんなあ」
 「あんたを待ってるって」
 ひ、ひええええ、こ、これは私が一番恐れていたたぐいの間違い電話?
 慌ててどんなことが吹きこまれていたか聞き返す。
 うげげ、若い女の声だ。
 「……コンドーです。今、××まで来てます。電話に出られるようになったら、教えてください」
 えらく気さくな口調だ。名字で名乗ってはいるが、本来の電話の相手とはかなり親しいと見た。相手も恐らく仕事か何かで手が離せないのだろう、事情はちゃんと分ってます、と言いたげな雰囲気だ。もしかしたらアフターファイブでは愛称で呼びあってる間柄なのかも。××ってどこだ? どうも女は車で移動しているらしいが、こんな昼日中から何の目的で会おうというのか。
 いや、今は謎の女の正体を推理したってしようがにない。きっと女房は誤解をしている。ああ、これだから携帯なんて持ちたくなかったんだ。
 と、やや混乱しつつ女房を見ると、意外にも平然としている。
 「間違い電話でしょ?」
 「う、うん、間違い電話だな」
 「……携帯、充電しておくね」
 そう言って、何事も無かったかのように充電器に差しこむ。どうやら私はちと神経質になっていたようだ。考えてみりゃ、平日の昼間に浮気する時間なんか取れるわきゃないし。
 ホッと胸をなでおろすが、ああ、でももし今度、休日の昼間にでも、「まだですか? ずっと、ずっと待っているのに」なんて間違い電話がかかってきたらどうしよう……(・・;)。
 それにしても昨日の桜雅嬢の間違い電話といい、携帯族はやはり相手のことを考えて電話してほしいと切実に思うぞ。今の携帯の普及状況、便利さに甘えてるようにしか私には思えぬのだ。

 波津彬子『雨柳堂夢咄』5巻、おお、ついに波津さん「化けた」な。これまでの四巻、無理矢理作ったような不自然さの目立つ話も多かったが、今巻には一切ない。珠玉の名編ばかりである。
 骨董不思議話、という程度の認識しかなかった初期作品に比べ、シリーズが軌道に乗ってきて、作者が「これはものを通じて人と人の縁(えにし)を描いていくのだ」という明確な意識を持ち始めたのが成功の理由だろう。
 釉月(ゆつき)という少女を登場させたことで、煮詰まりかけていた贋作師・青二郎のキャラクターに一気に広がりが生まれてきた。いいなあ、釉月ちゃん。「もの」の心を読み取る不思議な手の持ち主、という設定もいいのだけれど、陶芸家の修行のために男の子の格好をしている、というのもタカラヅカの変形ではあるがたおやげでよい。
 実はこの少女、青二郎の義理の姪にあたるのだが、さて、この因縁深き二人、今巻では未だに出会っていないが、いつの日か出会う日はあるのか。そのときの雨柳堂の役割は……と興味は尽きないなあ。うまいこと話が転がり始めたら後は勢いに乗るばかりである。
 そして、今巻中の『籠の中の鳥』と『花野』の二作は、波津さんの作品としても最高傑作であるのみならず、少女マンガの歴史においても最も完成度の高い幻想譚である。そこにいない鳥かごの鳥を見ることのできる少女の「思い」は、少女が運命に翻弄されるたびに揺れ動いていく。一度は見えなくなった鳥の姿が再び見えるようになった時、その「思い」はどう変わっていったのか、それとも変わらなかったのか。ああ、駄目だなあ、こういう切ない話読んでると文章まで少女趣味になってきちまうぜ。
 いや、好きなんだけどね。
 ……次巻も期待して読もう。

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 NHK教育の『天才テレビくんワイド』、ちょっと前から『魔界探偵』というのを放送している(再放送らしいが)。下手な大人ものより、子供向けに作られたものの方が良質な番組が多い昨今(私は『名探偵コナン』など結構けなしていたりするが、もちろんある程度以上の水準作であることを認めた上で「今回はちょっと……」と言っているのだ)、意外といい出来かも知れない、と思って本格的に見てみた。
 ただ、今回が第2回、残念ながら第1話を見逃しているので、設定がどうもよく分らない。主役の子供たちの周りにいる修験者風の男女は誰なんだ。妙な格好でうろついていても誰も疑念を持たないから、女房などは「あの人たち、主人公たちにしか姿が見えないの?」と首を傾げていた(どうやら式神らしいな)。世間的にはこの二人が人気で大人のファンもついているようだ。でも役名が玄武(伊達直斗……マスクはかぶらない)と朱雀(谷口絵梨……おお、なかなかの美人)って、モロだな(^o^)。
 「魔界(?)」にいるらしい王朝風の狩衣を着た子供たちはいったい何者なのか。過去の人間にしては喋り方が現代っ子である。単に昔言葉だと視聴者のお子さんに分らんということでそうしたのか、それとも魔界にいながら現代語の勉強でもしていたのか。ううむ、せめてオープニングで設定を語ってくれる『コナン』程度の演出はほしいぞ。
 でも話自体は決して手抜きをしていない。今回の事件は機械的なトリックであったが、私は別に機械的トリックよりも心理トリックの方が上という立場はとらないので文句はない。ただ、犯罪は人間の心に取りついた悪霊が起こさせるもので、そのモンスターを封じて終わり、というのにはいささか苦笑。……そんな力持ってるんだったら、ミステリ仕立てにせんでも犯人が誰か透視できる力くらい持ってないのかと言いたくなるが。
 なにしろ、この物語の真の探偵役はCGで作られた安倍晴明なのであるから(^o^)。そりゃ、万能だわな。この辺の設定をアザトイと見るか、盛り沢山と見るかで、評価のし方は変わるだろう。
 でも充分、制作に力を入れている番組だと言っていいのではないかと思う。今回もゲストに北原佐和子・片桐はいり・渡辺哲・中島陽典など、結構豪華な人を呼んでいる。北原佐和子など、アイドルの頃は「グラビアはともかく、喋らせると個性も魅力もない」と酷評されていたのに(『夏の秘密』なんて、ミステリって言うより主役の女の子の水着を見せるだけの目的で作られた映画にも出てたな。いやもう、このときの演技が超ダイコン。誰か知ってるやついるか?)、中年になって、確かに多少くたびれてきちゃいるが、その中に女の芯の強さと言うか、細やかな情を表現できるようになってきた。……人間、変われば変わるものだねえ。

 森総理の退陣、どうやら避けられないような雰囲気になりつつあるようである。日本の政治家は政策の失敗の責任を取る形でなく、たいていは人気取りの失敗で引き摺り下ろされるのが常だから、これまでは失言こそ多々あるものの、味方も多かったために何とか持っていた感じであったが、そろそろ「愛想が尽きた」という仲間も増えてきたのだな。まさに沈む船から我先に逃げ出すネズミである。
 それにしても日本人を誘導するのは簡単なものなのだなあと思う。若者の政治離れを嘆き、「選挙に行こう」なんて言ってるオトナたちだって、結局は情実で動いているのだ。要は大衆の情を動かすことができれば、事実の解釈も自由自在に操作できるのである。「神の国」では辞任に追い込めなかったのに、「事故時にゴルフしてた」ということで辞任させられるとしたら、それはそれで大衆の危機管理意識の方がもともと低いと言えるんだが、今回の件ではそれを大衆に感じさせずにうまいこと森総理の問題としてスライドさせている。
 だから「トカゲの尻尾切り」は、日本の場合、下っ端だけが被るものではないのである。私ゃマスコミのインタビューに「森さんにはすぐ駆けつけてほしかった」と答える被害者のほうが怖いよ。マスコミがそう誘導して答えさせたのは分るが、事故にあってる最中に当の被害者が総理のことなんて考えてる余裕あるわけないじゃん。被害者もよく自分が誘導されて言ってるってことに気づいてないんだろう。怖い怖い。
 第一、森総理が辞任して別の総理に代わったって、日本人の平和ボケが治るわけでもないのに、なぜそのことに言及する識者がいないのか?(でもだからって森でいいと言いたいわけでもないが) はてさて、自らの責任を一人に押しつけてノウノウとしている本当の卑劣漢は奈辺にいるのやら。

 ホームページを立ち上げると決めてから、日がな一日パソコンの前に座りっぱなしじゃないかと女房が文句を言う。日記を書くだけで何時間もかけてどうするかと。そりゃまあ、一気に書くんだったら、小1時間で書けちゃう分量ではあるが、テレビやビデオを見、考え事をしながら書いているので、別に無駄な時間を過ごしているつもりはないんだけどな。
 それに今は小説やマンガを読んだ感想も映画の感想も全てこの日記にアップしているが、ホームページを立ち上げたらそれぞれコーナーを作って分戴するつもりである。そうすりゃ今日の日記などは半分に……ならんな(^_^;)。
 何とか時間を有効に使うしかないかな。

 晩飯はコンビニで買ってきた麻婆豆腐にねぎま。給料前なのでささやかである(^_^;)。また風邪引いちゃったし、誰か差し入れ持って見舞いにきてくれ(^o^)。


2001年02月14日(水) だから初心者なんだってば/『わが師はサタン』(天藤真)

 夕べ風呂に入り損ねて、ヒゲが伸び放題だったので、朝から風呂に入って顔を当たる。
 「ヒゲを剃る」「顔を当たる」とは言っても「顔を剃る」とは言わないと思っている人が多いと思う。でも実は床屋用語ではあれは「顔剃り」と言うのである。子供のころ「顔剃ったら血が出るやろ」と友達にからかわれたが、顔の表面を剃ってるのだから別に間違いでもなんでもない。突っ込んだつもりが突っ込み返されて、その友達は腹を立てていたが、そういう切り返しも覚悟しなければ一人前の芸人とは言えない。……って小学生に何要求してたんだろうな。

 宇和島水産高校の実習船が、浮上したアメリカの潜水艦に沈没させられた事件、体よく利用されて首相退陣のための口実にまで使われようとしているが、今日になって、同乗していた民間人が操縦に関与していたと報道。
 マスコミはいかにもその民間人の操縦ミスで事故が起こったかのごとく意識誘導をしようとしているが、そりゃ乗組員が操縦してたら事故が起こらなかったと言いたいわけかね。結局は「民間人に操縦させたことが悪い」で話を収めて、潜水艦の構造的欠陥から目を背けさせようってハラじゃないのか。
 潜望鏡は、ソナーはどうだったのかと言われてもいるようだが、私ゃ潜水艦に詳しいわけでもなんでもないが、映画なんかじゃたいてい水面の船や浮遊物を全く無視して浮上してるものな。
 単純な疑問なのだが、魚の群れと船の区別って、ソナーできちんと区別できるものなのか? 乗組員が仮に船影を確認出来ていたとしても、「どうせ魚だ」と見過ごしちまったんじゃないかという気がしてならん。
 しかし実を言うと、ニュースを聞いたとき私が真っ先に思ったのは「なんでそんなハワイくんだりまで行って実習せにゃならんのだ」ってことだったのだ。水産高校ったって全員が遠洋漁業に携わるわけじゃあるまいに、いったいそこでなければならない積極的な理由ってのはあったのだろうか。いや、別にそんなとこに行った学校の方が悪いと言いたいわけではないが、潜水艦が民間の水域に間違って浮上した、という報道は未だになされていないのだ。とすればそこはもともと危険区域だったのではなかったか。
 その辺の学校側の情報もアメリカ軍側の情報も全然伝わってこないのはなぜだ。情報が隠されてる状態で正確な判断なんぞ出来るわけがない。にもかかわらず「軍のせいで」とか「若い命が」とか、訳知り顔にコメントしてる連中が多いのがどうにもきな臭いのである。

 水産高校のホームページの掲示板、誹謗中傷の書き込みが増えて、閉鎖せざるを得なかったとか。そりゃ書きこんだヤツの方が人間的にどうのってのは確かにあるけれど、こういう公共機関ってのは掲示板を開くもんじゃないと思うんだがな。こういう事件がなくても、日頃からどんな「荒らし」をされるか分らんわけだし。メールだけを受けつけて、取捨選択して掲載すればいいのである。掲示板を開くのなら、何を書かれるかわからんということを覚悟をしておくのが前提だよな。

 天藤真『わが師はサタン』を読む。
 いやあ、書店でこのタイトルと作者名を見た瞬間、マジで飛びあがっちまったぜ。
 ミステリファンなら周知であろう、謎の女流作家、「鷹見緋紗子」の正体がついに判明したのである。『わが師はサタン』『闇からの狙撃者』ほか、昭和50年代に長編を矢継ぎ早に執筆し、一旦休筆したものの徳間書店のわずか4冊で廃刊になったミステリ専門雑誌『瑠珀(ルパン)』(未だに捨てられん)で復活するがその後すぐにまた沈黙した、あの鷹見緋紗子である。
 既成作家の覆面ペンネームであろうとは噂されていた。私は高木彬光氏かなあ、とちょっと疑い、それにしては文章がうまいと、首を捻っていたのである。高木氏が死んだ時、ああ、鷹見緋紗子の秘密は永遠に謎なのかと思っていたのだが、それ以前に鷹見嬢は亡くなっていたのか。
 正確に言えば「鷹見緋紗子」は天藤真・大谷羊太郎・草野唯雄三人の合同ペンネーム。天藤氏が担当したのは『わが師はサタン』『覆面レクイエム』の二編のみ。正体が分らなかったのも当然だろう、本作は天藤氏が得意としたユーモアミステリの要素が極力抑えられているのである。
 で、出来映えはどうだったかと言うと……。

 てとこで、続きはまた明日。パソコン奮戦記と桜雅嬢のネタも追加の予定(こう書いとかんと忘れる)。

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 昭和50年代、赤川次郎、栗本薫がデビューして以来、学園ミステリーやユーモアミステリーの書き手は吐いて捨てるほどに登場したが、それ以前は実にお寒い状況であった。松本清張の社会派ミステリが一世を風靡していたがために、ミステリ界はその亜流が目白押し、ミステリに「ユーモア」を絡めること自体、まるで罪悪のように思われていたのじゃないか、と言いたくなるほどであった。
 何しろ乱歩の少年小説からワンランク上のミステリを読もうと思ったら、いきなり高木彬光の『人蟻』に行かねばならぬのである。……小学生にいきなり株の世界が分ってたまるか(^_^;)。
 そんな中、唯一小中学生にも読めるミステリを書いてくれていたのが今は亡き小峰元と天藤真のお二人である。特に天藤氏は、多分にアクロバティックな設定で、近年の十把ひとからげ的なユーモアミステリとは一線を画したハイレベルなミステリを発表し続けていた。岡本喜八監督、北林谷栄・緒形拳主演による映画、『大誘拐』をご覧になった方も多かろう。あの誘拐されたおばあちゃんが誘拐犯のリーダーになってしまうという逆転劇、アレが天藤作品の真骨頂なのである。
 『わが師はサタン』で使われていたメイントリックに驚いたのは、それと全く同じトリックが泡坂妻夫の『11枚のトランプ』にも使用されている点であった。更に口幅ったいことではあるが、私もその昔『函』という戯曲を書いたときにその変形・応用を試みた(^_^;)。……言っちゃあなんだが、誰でも思いつくトリックなのである。
 従って、そのトリックを隠蔽するためには語り口に細心の配慮が必要となる。もし本作が変名で書かれることなく、初めから天藤作品として書かれていたなら、軽妙でユーモラスな筆致でうまく真相をうまく誤魔化すことが出来ていたかもしれない。
 しかし徹頭徹尾シリアスとして書かれた本作はあまりに無防備であった。恐らく、特にミステリファンでない人でも、ある人物が登場した途端、全てのトリックを見抜いてしまうであろう。それが本作を読み通すにあたって興味を半減させることになることは火を見るより明らかである。
 しかしながら、そういう欠点はあるものの、某大学の講師でもあった天藤氏が、ある意味バックステージものとも言える学園内の殺人事件を書いたということは実に面白い。天藤氏自身を彷彿とさせる人物も現れ、これはやはり「鷹見緋紗子」作品としてより、「天藤真」作品として読んだほうが、その真価を堪能出来る作りになっているのである。
 創元文庫の天藤真シリーズ、間を置きながら果たして完結するのかどうか危うい状況で刊行され続けているが、そんな作家知らなかったという方にはぜひオススメである。少なくとも昨今の新本格作家の10倍は面白いよ。

 仕事に間が出来たので早引け。
 ホームページのための原稿をひたすら書きまくる。しかし単純に少なく見積もっても、今考えているコンテンツをアップするためには、最低でも50枚以上の原稿を仕上げねばならぬのである。
 一週間やそこらで出来るのか?
 とりあえずいくつか書き上げた原稿をホームページにリンクさせるように、女房に教わりながら作業に取り掛かったはいいのだが……。
 「タグはつけたの?」
 「タグってなんだ?」
 「こないだ教えたばっかりだろ!」
 「もの覚え悪いんだよ!」
 「ホラ、そこ、<あ・ふれふ>。」
 「……なんだそりゃ」
 「<あ・ふれふ>だよ! ほら、入門書に載ってる!」
 「<a href>(えい・えっち・あーる・いー・えふ)って言ってくれよ! わかんねーよう!」
 ……教える方の日本語が不自由だと苦労するよな。

 夜、福岡シンフォニック合唱団のUさんから電話。実は職探しをされていたのだが、どうやらめどがついたとのこと。よかったよかった。
 突然、メンバーの桜雅嬢のことについて「最近どんな様子ですか?」と聞かれる。
 何のことやら分らぬので詳しく聞いてみると、Uさんの携帯電話に何度も留守電が入っていたそうだが、誰からだか分らない。頻繁な時には一分置きくらいに入っていたりする。たまたま電源を入れている時にかかって来たときに出てみると、無言のままプツッと切れる。
 アタマに来たUさんが、かかってきた相手の番号に書け直してみると、出たのがなんと桜雅さん。
 「桜雅さんだったの? いったい何の用?」
 「あ、間違い電話です」
 Uさん、呆れたそうだ。そら、「間違い電話」とちゃうで、「イタズラ電話」やがな……と突っ込んでみたところで相手がラブちゃんだものなあ。
 Uさんが私のところに電話をかけてきたのは、桜雅さんがまさかオカシクなってしまったのでは、と心配して、もし私が事情を知っているならば聞いてみたい、と考えられた次第であったのである。
 「……桜雅さん、何かおかしくないですか?」
 もちろん、私は即答した。
 「おかしいです。あの娘は絶対におかしいです」
 「は、ハア……そうなんですか」
 いや、私だってそれ以外にどうにも言いようがない(^_^;)。
 ……そりゃな、人間、誰だって無知なとこ、世間知らずなところはあるぞ。けど、間違い電話をかけたら、一言謝るってこと、20年近く生きてて誰にも教わらなかったのか。……多分教わっていないな。仮に今から教えても覚えぬであろうことも想像に固くない。無知は決して罪悪ではないが迷惑ではあるのだなあ。……なんとかならんのか(-_-;)。
 もう、私は彼女が実はアンドロイドだと言われても信じるぞ。と言うか、既にメンバーの間で彼女は三年前に製造されたロボットだと言うことになっているらしい。……メーカーに返品しちまえ。

 女房が夜食に食い残しの肉丼をくれる。嬉しくて涙が出るわ(~_~メ)。


2001年02月13日(火) 明日寂しい思いをする人は読まないで下さい/『コロンブスの航海』(J.P.チェゼラーニ)ほか

 気温は低いが日差しはまあまあ、このくらいの気候が私には一番しのぎやすい。睡眠も充分取っているので、朝も何とか起きられる。このまま雨が降らずにいてくれりゃあ万々歳なんだが。

 明日はバレンタインデイであるが、若者は起源たる殉教者バレンタインのことも知らず、「なんで女の方から男の方にコクらないかんと?」みたいな他愛無い文句を垂れていたりする。
 私なんぞはワケシリ顔で「あんなもん日本のチョコレート会社の策略だよ」なんてヒネたことを言うもんだから、若者から「夢がない」などと叩かれてしまうのである。もちろん、その仕立てられた「夢」とやらに乗っかってくれる連中がいないことには製菓会社の屋台骨は崩れてしまうし、ひいては景気の不振にもつながりかねないわけだから、世の女性が「うふ〜ん、あの人、私のこと振り向いてくれるかしら? ドキドキ」なんて腐れた頭を悩ませていることについて、いささかの文句をつけるつもりもない。押井守じゃないが「人間は虚構にのみ生きる価値を見出す」ものであるから。
 何にせよ、この程度の虚構にうかうか乗せられるってこたあ、誰ぞの言い草じゃないが平和な証拠である。もちろん、頭の中が平和なだけであって、こういう連中ほど、悪辣な為政者の手にかかれば自由自在に洗脳されて醜(しこ)の御楯と化し、「大君の辺にこそ死なめ」と死んでいくのである。……生まれた時代によっては私もその一員だったかな。
 でもハタチになろうってのに未だにサンタをマジで信じてるやつがいるのが日本人の現状だと言ったら(ウソではないぞ)、日本の為政者は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。多分その「事実」から目を背けるんだろうな。

 女房から一日早くバレンタインチョコをもらう。ビニールカップにチョコを流しこんで、その中にフルタのチョコエッグのペット動物コレクションを仕込んでいる。芸が細かいんだか雑なんだか分らんな(^_^;)。
 先日よしひと嬢からもチョコをもらったので今年の収穫は多分この二個で打ち止めである。まあ妻帯者なんだからこれで満足せねばな……ってこのトシになってまだ何か期待しているのか。

 『國文学』の3月号、四方田犬彦が川端康成と映画の関係について紹介している。文学者と映画の関係、今やその間はいびつに乖離していて、活字と映像は別物、と解釈するのはごく当たり前、という感じの論評も多く目にするようになったが、かつての日本において、この二者は極めて近しい関係にあった。と言うか、文芸活動の一手法として映画が捉えられていた時代が結構長かったのである。
 四方田氏も指摘しているとおり、谷崎潤一郎がハリウッド喜劇の翻案的な『アマチュア倶楽部』を脚本執筆、制作したのを皮切りに(主演女優に手をつける第1号ともなったが)、大正から昭和初期に映画に関わった文学者を挙げていけば相当な数に上ることは間違いない。
 川端康成が五所平之助と組んだ『狂った一頁』、もう二十年来見たいと思いつつ未だに機会を得られないが、『カリガリ博士』などドイツ表現主義の影響下にある相当シュールな代物だと言うことは耳にしていた。実際、川端康成は、映画化された『伊豆の踊子』などのイメージから、純愛ロマンの作家と勘違いされている向きがあるが、立派な変態小説家である。……だから『伊豆の踊子』の原作じっくり読んでみなさいってば。教科書なんかじゃヤバイ表現相当カットしてるけど、明らかにあの学生、十四歳の踊子に肉欲感じてんだから。
 四方田氏、数ある『踊子』映画化の中で西河克己監督、山口百恵主演版が唯一、賎業としての踊子を描いている、と評価している。慧眼だなあ。昭和49年、私があの映画を始めて見たとき(11歳だよ……)、鮮明に記憶に残ったのは、ラストシーン、学生と別れた踊子がお座敷で酔客に抱きつかれ、顔を顰めるストップモーションであった。無論、その後踊子は、体を売る生活に入っていくのである。当時、ウチの親は「『伊豆の踊子』ならいいよ」、とおそらく田中絹代版を連想したのであろう、私が見に行くことをいとも簡単に許可したが、そんなインモラルな映画だったとは夢にも思ってなかったに違いない。つくづく親の無教養に感謝する次第である。
 いや、川端康成がヘンタイであるという話だ。それは作家としては全然悪いこっちゃない。変態と言うよりはっきり既知外と言った方が当たっている。『雪国』だって『古都』だって『山の音』だって、作者が幻聴幻視を起こしながらそのまんまのイメージで書いてんのよ。だからこそこの人の作品は小説も映画も海外の評価が高いのである。だって既知外の表現って、国の文化にとらわれない分、普遍性があるんだもの。

 『コロンブスの航海』(ピエロ・ベントゥーラ絵 ジァン・パオロ・チェゼラーニ文 吉田悟郎訳)読む。みんなアメリカ風に「コロンブス」と発音してるが、当時のスペイン語の発音で本人が実際に喋っていたのは「コロン」、生まれ故郷のジェノバの発音なら「コロンボ」、この本の原題でも「コロンボ」と表記されている。まあこの辺の知識は有名か。
 大型絵本の体裁なので、サンタ・マリア号の断面図なんかが描かれていて、本文よりそちらのほうに目が行く。船室は食料その他の荷物で手一杯で、船長のコロンブスの個室はあっても、船員部屋は全くない。90人からの船員はどうやって暮らしてたんだって、当然荷物の隙間を探して寝るのである。食料は長い航海の間で腐るものも多く、そうなると船の中は常に異臭が漂う状態になる。航海中何度も暴動が起こりそうになったということだが、そりゃそうだよな。
 一行がアメリカに着いて、現地人の「ハンモック」を見て、「これなら船の上でも寝られる!」ということでコロンブス以降の航海には船の上にハンモックが吊られることになったそうである。タバコがインディアンの文化だったってのは知ってたけどハンモックもだったのね。
 コロンブスは現地人に歓待されるが、その30年後にこのときの現地人は全て虐殺されることになる。恩を仇で返す、という感覚すらない。この時代の常識は「弱い者からは奪え」であるからだ。……今でも変わってないか(^_^;)。
 世界各地の侵略と虐殺の歴史を紐解いていけば、侵略を行ったことのない民族など存在しないことに気づく。それらは結局、「別に当時は悪いことでもなかったんだから仕方ないじゃん」という「未必の故意」と判断すべきものであって、それを責めだしたらキリがないのだ。なのに、どこぞのお国は他国の侵略についてはギャーギャー非難するくせに、自分達の過去の侵略行為については目をつぶってやがるんだよな。

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 仕事が長引いて帰宅が遅れる。しまった、『アルジュナ』録り損ねた。一時期沈滞気味だった「オタアミ会議室」が、このアニメのおかげで再び盛りあがってきているだけに見逃すまいと思っていたのになあ。エコロジーにかぶれた河森正治監督のコワレぶりが、往年の『マクロス』ファンにはイタくて仕方がないようだが、何を今更。ラブソングが宇宙人にカルチャーショックを起こさせるなんてアイデアを思いついた時点で既にイタイ人だったと思うがな。当時私は既に大学生だったが、『巨人の星』に突っ込み入れながら見るのと同じように、『マクロス』も笑って見てたぞ。高千穂遙が「ガキの恋愛描いてないでもっと大人になれよ」と言わずもがなの批評してたな。
 しかし意外なことに、河森監督、これがテレビシリーズ初監督なのだそうな。そう言われれば、『マクロス』も『エスカフローネ』も原作・脚本で監督は別の人に任せていた。『KENJIの春』は監督だけれど単発である(あれもどこか頭のネジが一つ飛んじゃってるようなアニメだったなあ。猫じゃなくて人間でやれよ、『銀河鉄道の夜』と違って実録なんだからさ。妹のトシが妙に色っぽいのがかえって不自然だぞ)。
 ……だとしたら河森さんもまだまだ新人、あまり突っ込んだって仕方ない気もするがなあ。
 『地球防衛家族』の方だけでも見ようかと思ったが、女房が『ついでにとんちんかん』の再放送のほうを見ていたので断念。無理して見ねばならぬほどの出来でもないし。『とんちんかん』、久しぶりに見るので声優などほぼ忘れている。そうか、アンディは島津冴子さんだったか。『アニメトピア』好きだったなあ。しかし漫画のギャグをアニメに移行するのはつくづく難しいと思う。間がまるで違うので笑えぬこと夥しい。特にジャンプ系列のギャグものは『Dr.スランプ』以降、『ONE PIECE』に至るまで、ほぼ全滅状態である。下手に原作ファンがついているので、アニメ的にいじれぬのがネックなのだろうな。絵柄もすっかり変えたかつての『ど根性ガエル』のようなことはもはやできないのだろう。……湯浅政明が作画した『ONE PIECE』なんか見てみたい気はするが。

 仕事帰りにコンビニで買ったハンバーグシチューとサイコロステーキで晩飯。女房、昼はインスタントラーメンで済ました模様。先日5個入りパックを買っておいたのだが、「醤油とんこつはうまいね」と言うので見てみるともう2個も減っている。非常食用のつもりだったんだが、そう言われると私も食べたくなる。
 女房が寝た後(別に寝静まるのを待ってたわけでもないが)一つ作って、目玉焼きと一緒にラーメンにぶっ掛け、ラーメンライスにしたところ、食べようとした瞬間、寝床から女房の「何食べよると〜」の声。……日頃一回寝入ったら、押しても引いても絶対起きないクセに、どうしてこいつは食い物の匂いにだけは反応するかな。結局、女房に半分以上平らげられる。まあ、カロリー高いし、半分くらいで丁度いいんだけれど。

 DVD『バスター・キートンボックス』五枚組、一部だけ見る。
 『キートンの文化生活一週間(マイホーム)』、あの台風で家が大回転する有名なギャグ・シークエンスのある本作、ロスコー“デブくん”アーパックルとのコンビを解消した直後の主演作なのである。しかも既に監督。初手から過激なギャグ作ってた人なんだなあ。当時の短編、設定があるだけで後はギャグでつなぎ、ストーリーの整合性は無視、というのが定番だったことがよく分る。何しろせっかく建てたマイホーム、壊れた途端にキートン夫妻は「まいっか」とそのままほったらかして去っていきジ・エンドなんだものな。
 『強盗騒動(悪太郎)』も脱獄犯に間違えられたキートン、警官から逃げ回るのはいいけれど、最後は濡れ衣を晴らすのかと思えば、結婚して終わりってどういう終わり方だ。もちろん、面白いからいいんだけど。
 チャップリンよりスラップスティックに徹しているのに日本での人気にえらく差があるのはチャップリンに作曲の才能があったことも大いに関連していると思う。NHKで放送される時もそうだが、伴奏が全く映像に寄与していないのである。アメリカも自国の文化に自信持ってるなら、もう少しまともな音楽つけたらどうだ。
 一編に見てしまうのはもったいないので、今日はこれだけ。続きは明日である。


2001年02月12日(月) 来年の『ゴジラ』はあるのか/『アニメージュ』『ニュータイプ』3月号

 一昨日買った『アニメージュ』『ニュータイプ』をやっと読む。
 テレビの新番組でこれは、と思えるものは殆どない。相変わらずやおいかロリコン向け要素満載の、まあ、私が燃えるにゃちょっと二の足を踏む類のものばかりだ。かと思うと、『サラリーマン金太郎』アニメ化って、誰が見るんだそんなもん、という企画もあり。でもこんなのがマニアックなやつよりかえって視聴率稼いだりするんだよな。制作会社も手抜きして作ったってそれなりの日銭が稼げるとなりゃ、こんなクソみたいな企画でも立ち上げたくなるんだろう。……しかもスタッフ表に監督名が書いてない。多分制作はしてるけど未だに責任者が決まってないということだな。『真ゲッターロボ』より酷い状況だな。
 『コメットさん』アニメ化。おいおいマジか? 今時の若い連中は九重佑三子版はおろか、大場久美子版すら知るまい。ましてや原作があの横山光輝御大であることすら。実は私も原作をまともに読んだことがない。出来れば横山さんの絵柄できちんとアニメ化して欲しいもんだが、『魔法使いサリー』みたいに妙に淡いピンクの色ばかりが強調された、無表情なものになりゃせんかと心配である。旧作もオープニングだけはアニメだったけど、それより落ちる出来にはして欲しくないなあ。
 『逮捕しちゃうぞ』新シリーズもどうせ福岡じゃやるまい。以前テレビ局に勤めてたウチのメンバーの話によると、たとえ系列局であっても、東京で放映しているものを地方で放映しないこともあり(たいていは地方の番組がブッキングされるため)、特にアニメ関係は編成会議で落とされることが多いそうである。その点を考えてみてもまだまだ世間のアニメに対する偏見は強く、逆に「テレビQ」(テレビ東京系列)の偉大さは際立つのである。何しろ福岡のテレビQの社屋の壁面、どでかくポケモンだものな。少しは見習え「F○S」(T○S系列)。
 『ARMS』は原作読んだことないのでどんなのか分らん。でも原作者は『スプリガン』の人だよなあ。あれは漫画も大したことなかったし、アニメも今時インチキがバレバレの「ノアの箱舟」出すなよ、なにトチ狂ってんだ大友克洋、という感じのバカ映画だったし、期待は出来んな。

 結局、期待したくなるのはもっぱら劇場あるいはオリジナルものばかり。というか、今年の豊作ぶりはどうしたことだろう。2001年に合わせて、各社が総力を結集して来たかのようだ。
 サンライズの『カウポーイビバッブ 天国の扉』、ジブリの『千と千尋の神隠し』、マッドハウスの『メトロポリス』、もうこれだけで『ナウシカ』と『マクロス』と『うる星2』が出揃った1982年に匹敵するのではないか。
 しかも今年は既に押井守の『アヴァロン』(実写だけど)公開、シリーズ継続中の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』や『名探偵コナン 天国へのカウントダウン』はおそらく水準以上、となれば「アニメ新世紀」を本気で謳ってもあながち的外れではあるまい。
 更に『ポケモン』『デジモン』『ドラえもん』の「3モン」(^o^)もあるんだよな。これは時間の余裕があれば見に行くかも。
 『少女革命ウテナ』『エクセル・サーガ』のJ.C.STAFFは、OVAで富沢ひとしの『エイリアン9』をアニメ化。これも作画レベル次第で「買い」だ。
 こうなると庵野秀明の新作アニメがまだ企画進行中のままなのがじれったい。早いとこ『蒼きウル』完成させろよう。

 『アニメージュ』、新作情報以外の記事では、脚本家の浦沢義雄のインタビューが圧巻。デビューが『カリキュラマシーン』と『なんでそうなるの?』だとはなあ。もういいおトシなのに、未だにその頃の先鋭的な感覚を持ちつづけているのがすばらしい。
 浦沢さんのテレビシリーズはヒットすることが解りきっているので(1クールなんてことはまずなく、最低一年、2、3年の作品もザラ)、とてもビデオ録画してられないのだが、それでも気がつく限り見るようにはしている。去年の『ごぞんじ月光仮面くん』が局側のテコ入れで失速しちゃったのは惜しまれるが、自由に書かせれば、傑作しか書かないという稀有の人なのだ。
 『バビロンの黄金伝説』だって、公開当初は旧作なんかとやたら比較されてまともに評価されなかったが、今、虚心坦懐に見れば実に面白い。宇宙人の千年の思いも屁とも思わぬルパンの自由人ぶりがよく出ているのである。……言っちゃなんだが『カリオストロの城』はルパンとして考えるとやはり駄作だよな。ルパンが小娘に拘る理由が分らない(描写が不充分である)ので、「ただのロリコンはルパン、テメエの方だろう」とどうしても突っ込みたくなるのである。
 宮崎駿と浦沢義雄の一番大きな違いは、ハッタリのあるなしであろう。もちろん浦沢さんのほうが「ない」のである。
 インタビューでも浦沢さんは「人間を描くことに興味はない、芝居がかった芝居は嫌い」とはっきり言っている。実際、舞台で「芝居がかった芝居」をやると覿面に客は確実に「引く」。それが役者の自己満足に過ぎないことを客は一発で見ぬくからだ。
 平田オリザの提唱する「現代口語演劇」は「芝居」を極力殺ぎ落とすことで舞台を成立させているが、ドラマらしいドラマが一切起こらず、二時間見続けることが退屈であるにもかかわらず、目が離せないという、極めて不思議な空間を作り上げている。恐らく浦沢さんはこの平田氏の「静かな演劇」も見ているに違いない。演劇に実は「ドラマ」は必要なく、「アイデア」の連続さえあれば、映画も舞台も成立する。そのことは、既に初期のチャップリン、キートンが証明してくれていたことではなかったのか。「泣き」の要素、即ち「人情」はこのアイデアの連続をともすれば中断させてしまうのである。
 本格探偵小説などは、実はドラマを一番作りにくい欠点を持っている。何しろ「謎とき」というのは基本的に「盛りあがらない」ものだからだ。だからミステリ作家は無理矢理「名探偵みんな集めてさてと言い」という状況を作り出し、長々と衒学的な長広舌で場を持たすことをよくするのである。
 浦沢さんがミステリーのパロディものをやってくれると面白くなるだろうなあ。『ルパン』でそれをちょっとやって見せてはくれてたけど。

 今日は女房は朝から仕事の打ち合わせ。
 私は父に呼び出されて、背広を仕立てに店屋町までお出掛けである。今年は母の七回忌であるが、父はわざわざ礼服を仕立てるというのが嫌いなので、普段も使える背広を新着したらどうか、と持ちかけてきたのである。普段着でいいなら殊更作る必要はない、と断ろうと思ったのだが、さすがに親父はその辺の私の気持ちは見抜いている。
 「もう予約したから来い」
 有無をも言わせぬというのはこのことか(^_^;)。誕生日のプレゼント代わりということなので(とうに過ぎとるがな)、仕方なく承諾。
 約束では「呉服町の寿屋の前」で待ち合わせ、ということにしていたのに、念のため直前に電話すると父は「博多駅の前」と勘違いしている。
 「二回も確認したろうが? 寿屋の前って」
 「違おうが。博多駅の前て言うたやないか」
 「お父さんは何も言うとらんやないね」
 「お前とギロンしようとは思わん」
 私が博多弁を使うのはもう父との間だけなので遠慮がない。人によっては私と父はとても仲が悪く見えるかもしれんが、この会話には実は翻訳が必要なのである。
 「お父さん、寿屋の前で待ち合わせにしてよかったの?」
 「いや、博多駅の前にしてくれてた方が覚えやすかったなあ」
 「そうすればよかったね、駅から歩けば話もできたし」
 「まあ、積もる話はそのうちゆっくりしよう」
 ……全然そんな会話になってないじゃないか、と思う向きには博多の文化は永遠に分らないであろう。博多弁はストレートなもの言いが特徴的でありながら、言葉と心の乖離がとてつもなく大きい言語なのである。
 で、もちろん待ち合わせは「寿屋の前」。
 自転車をすっ飛ばして10時に父と会うと、父は手提げ袋に以前プレゼントした藤田まことのサイン入り『必殺!』巾着を使っている。父は、会うたびに必ず私が贈った時計だの帽子だの、そういうアイテムを使っているところをさりげなく見せる。なかなか奥ゆかしいことではあるが、しばらく経つとどこへやったか忘れて別のものを買ってたりするので、苦笑することもしばしばである。
 色弱で私には色がわからぬので、生地の見立てはすべて父に任せる。ごくごく地味なものを選んでくれたようでありがたいことである。
 女房からバレンタインのチョコを預かってきたので、父に渡すと苦笑される。これももちろん喜んでいるのである。
 私も父も嬉しさというのはあまり表面に出さない方なので、女房などはかえって嫌われてるのではないかと誤解するようだが、本気で嫌ってるのなら私も女房と別れているだろうし、父も無理矢理にでも別れさせているだろう。
 「いい嫁さんもらったなあ」というのを「お前が選んだんなら仕方がない」としか言わないのが博多人なのである。……こんなん確かに女房にゃ分らんのも分るんだがなあ。かと言って、今更親父に「素直に言え」なんて言うのも無理な話だし。

 帰りに切手と封筒を買おうと思っていたのに、財布を忘れていたことに気づいて慌てる。で、父におごってもらう。不思議だなあ、ン万円の服を親父に仕立ててもらったのは恥ずかしくないのに、三百円おごってもらったのは恥ずかしいぞ。金額の多寡ではないとするとこれはいったいどういう心理なのかな。

 切手と封筒は『シティボーイズ・ライブ』と『地球防衛企業ダイ・ガード』のDVDの全巻購入予約特典のプレゼント応募用のものである。『シティボーイズ』の方の特典は、未公開のライブビデオだとか。2月末までの応募なので、シティボーイズファンなら『ウルトラシオトシオハイミナール』『夏への無意識』『真空報告官大運動会』の3枚のDVDを慌てて揃えるがよろしい。今年のゴールデンウィークのライブはぜひ東京まで見に行きたいものだなあ。メンバーの中で、お金貯めてぜひ東京に行くって人、いますか? チケットは毎年即日完売なんで、ご連絡は今月末までにお願いします。

 帰宅した直後に女房も帰宅。なにやらいろいろとパンフレットをもらってきているが、いわゆる接客マニュアルというものであろう。客の中には店に絡むのが趣味のようなやつもいるので、小心者の女房に仕事が勤まるかどうか心配ではあるが、店長さんがしっかりしていれば、そう大層なことにはなるまい。
 不景気ではあっても、人手が足りないのはどこでも同じで、下働きをうまく使いこなせない店長もやはりダメの烙印を押されるのが今の風潮である。記憶力がなくドジではあっても基本的に真面目な女房を使いこなせないとすれば、その店も大したことはない。
 無理ならやめればいいとは簡単には言えぬが、ガマンのしすぎはよくない。女房には、自分がどこまでやれるかを考えてくれればそれで十分である。

 ホームページに載せるためのイラストなどを描いているうちに眠くなり、昼寝。女房は「せっかくの休みなのに一緒におしゃべりもできない」と不満げだが、急激に眠気が来たのだ。
 昼寝の時に見た夢というのは結構覚えているものである。
 何と今日は私に『ゴジラ』の新作の脚本が依頼される夢。マニアからは「大層な夢見てんじゃない」と叱られそうだが、見たものは仕方がないのである。
 ゴジラが出現したということで、政府はその対応に追われるのだが、その無策ぶりに責任を追及された首相が、事態の真っ只中であるにもかかわらず悲痛のあまり自殺してしまうのである。……夢から覚めて思ったが、これまでのゴジラ映画、そういったゴジラの脅威に対抗する人間側の悲壮感を描いた作品というのが第一作を除けば皆無だったのではないか。
 第一作に散見する「死」のイメージ、実況中継をしながら死んでいくアナウンサー、戦争未亡人が幼子を抱えて「もうすぐおとうちゃんのとこへ行くのよ」と呟くシーン、何より、芹沢博士の「さよなら」のセリフ、彼らは本来「死ななくていい」人々であった。
 実はゴジラに対抗する人々が、善玉であろうが悪玉であろうが、死んでいくのは、ドラマとしては予定調和の域を出ないのである。ゴジラに向かって「ゴージラー」と叫びながらツブされるバカを描いてなにが面白い。作り手の自己満足しかそこにはない。
 ゴジラに神だか自然の脅威だか核の恐怖だか帝国主義だか、何の象徴を見出すも自由だが、そこに映像としてのインパクトを持たせようと思うなら、「無作為に」、「無辜の人」が死ぬ様子をきちんと描かなければ効果はない。それができないのは所詮ゴジラ映画が子供だましに堕していることを証明することにしかならないのである。
 『ゴジラ×メガギラス』中の秀逸な描写は、メガギラスが町の人々を襲うシーンに、恐怖のイメージが復活しているところである。それだけに惜しく思うのは、ゴジラ自体でそれがやれていない点だ。だから結局「ゴジラ」は、メガギラスという「悪」を倒す、「正義の味方」的な位置から遠く離れられない。『ゴジメガ』が構造的に平成ガメラシリーズのマネになっていることを否定することができないのである。
 それにしてもゴジラの脚本、私家版でいいから書いてみたくなったな。で、「東京ゴジラ団」もしっかり出すと(^o^)。

 夜、知り合いのUくんから電話。
 何でも今朝方、竹下(ウチの近所だ)で事故があって友達が死んだとか。その友達の方はもう顔を覚えてはいないのだが、ハタチは過ぎていたはずである。車を盗んで、パトカーに追いかけられて、踏み切りに突っ込んだ末、同乗者の若い子二人も巻き添えにしての死だったという話であるが、いい大人が何を考えていたのか。
 今晩が通夜だと知らされたが、いくら昔の知り合いだからといって、そんなアホウのところに香典持って行きたくはない(特に私に連絡があったわけじゃなし)。遺族はおそらくこれから補償で大変になるだろうが、そういうバカを育てた責任をとるのは当然のことであろう。
 Uくんには、昔、言葉の行き違いで随分迷惑をかけたことがある。そのうちヒマな時にでも遊びにおいで、ただし赤ん坊を連れてきたら命の保証はない(本が上から落ちてくるので)と話をする(^_^;)。

 女房、私が相手をしてやらなかったので、ふてくされて寝ている。腹を減らしているだろうと肉を焼いてやるがあまり食べない。父と会って、知り合いと電話して、楽しそうなのに自分と一緒にいても楽しそうじゃない、とふてくされているのである。
 最近その手のストレスがたまっているようだが、私は女房のそばで無表情で何のリアクションもしないのが心をゆだねている証拠なのだが。おかげで女房の顔を見るたびに眠たくなってホントに寝てしまうのである。会話がしたけりゃ、そっちから話しかけてくれ。



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藤原敬之(ふじわら・けいし)