無責任賛歌
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| 2005年05月02日(月) |
すれ違う言葉/『不死身探偵オルロック 完全版』(G=ヒコロウ) |
今朝も震度1の地震。慌てて飛び起きる。早起きできるのはいいけどねえ。
職場で、オタクなAさんと話していて、こないだのG2プロデュース公演の『Candies』に、Aさんも来られていたことを知った。オタクな趣味といい、映画や芝居が好きなところといい、ホモオタさんに関わった過去があるということも含めて(そんなことでは共通体験を持ちたくはなかったが)、妙に気が合っている。それはそれとして、話が弾むと仕事が進まなくなることもあって困りはするのだが、縁というものは確かに奇なものであるなあとしみじみ思う。なんだかいろんなところで偶然繋がる人はいるものである。 もっとも、手当たり次第に舞台や映画を見ていれば、こういう偶然は結構起きる。そして、「偶然」とはいっても、「地震」や「戦争」などといった、本人の意図に関わらず、その時代、その地域にいた人たちがみな巻き込まれてしまう「偶然」と、「同じ舞台を見ていた」という「偶然」とは、同じ偶然でも意味合いが違うものである。地震はそこにいさえすればしたくなくても勝手に体験するが、芝居を見に行く、というのは言うまでもなく自らの意志で取った行動である。より「同志」としての感覚は強くなる。オタク同士のつながりなんて、結局はそういうものだ。 若い人と会話をしていて楽しくならないのは、別に映画や舞台に限らず、音楽だろうがマンガであろうが、趣味の範囲がえらく狭くて、話題に事欠くことが多いからである。しかも、同じものを見ても、意見が違えば拗ねたり腹を立てたりと、コミュニケーションの基本がなってない場合も多い。最近も職場の若手連中とお喋りしていて、その頑なさに驚いたことが多かった。 「新しい『ドラえもん』は見る気がしない。つまらないから」 「『ガンダム』(このときは『THE ORIGIN』の話題であった)なんて見る気がしない。つまらないから」 「『PLUTO』なんて見る気がしない。つまらないから」 ニベもないとはこのことであるが、こういう人たちと会話を成立させることがいかに難しいか。しかも彼らは友人同士でも殆どマトモな会話をしているとはいい難いすれ違いを見せているのだが、信じがたいことに自分たちでは会話が成立していると思い込んでいるのである。 「○○って面白いぞ」 「ふーん、面白いと言えば××は面白いよな」 「ふーん。この映画に出てる△△ってキモくね?」 「さあ? オレは□□が好きだけど」 彼らは、こういう会話が楽しいのだろうか? Aさんと話していてつらくならないのは、意見が違っていも、互いが考えることの根拠、思考の立地点と着地点がどこにあるかを認めあえるからである。 しげとも最近話したことであるが、「痛いオタクとそうでないオタクのどこがどう違うか?」というのは、その「相手の立地点」を認めようとする人間かそうでないかで分かれると思う。なんかもう、自分のことだけ喋りまくる「痛すぎる」オタクがいかに多いかってことなんだけれどもね。
父に誘われて、女房ともども「万葉の湯」へ。 先日、父から電話がかかってきて、 「連休中の予定はどうや?」 「別にないよ」 「地震で部屋がずっと散らかったままやろう。予定がないならゆったりうちで過ごさんや?」 と誘われて、あっさり父のマンションに泊まることになったのだが、その前にひとっ風呂浴びようということになったのである。「万葉の湯」はウチの近所にあるのだが、今までに利用したことはない。理由は簡単で、料金が高いからである。大人1890円ってなあ、そのへんのスーパー銭湯に比べると、1.5倍くらい高いぞ。まあ、父の奢りだから、遠慮なしにゆったり浸かることにする。わざわざ大分・由布院と佐賀・武雄の湯を毎日タンクローリーで運んできているというのがウリなので、この値段なのだろう。本場の温泉ったって毎日浸かるんじゃなきゃ、たいして効能はないと思うがね。 その後は食堂でしげはステーキ定食、父は玄海定食(刺身)、私は天ぷら定食。これに華味鶏のから揚げをつけて三人でつまむ。父は焼酎を注文するが(糖尿病のことなんて考えていないのである)、私は「こどもびいる」というのがメニューにあったので頼んでみる。その正体は美野島の「下町屋」という店が開発した、「ビールのような泡が出るソーダ(アップルタイザー)」であるが、子供が大人っぽい雰囲気に浸って飲むのにちょうどいい、ということらしい。 「これ、東京土産にいいかな?」と私が言うと、「どうせ東京にも出店があるよ」としげが言う。後でネットで調べてみたらその通りで、新宿あたりで飲める店があるそうだ。全く、これだから地方土産の選定には苦慮させられる(いや、それほど悩んじゃいないけど)。
父から「どうして今年は東京に行かんとや?」と聞かれたので、いつも行ってるシティボーイズの公演が、今年は北九州であるから、と説明する。 「その代わりじゃないけど、6月には別の芝居見に東京に行くよ」 「いつや?」 「6月の24日から26日まで」 「芝居はいつ見るとや?」 「25日の昼」 「なら、26日は空いとるとやな?」 「そうだけど、何か?」 「ディズニーランドのチケットがあるばってん、お前たち、行かんや?」 「何でそんなもん持っとるん?」 どうして父がそんなものを持っているのかはよく分からなかったが、ともかく東京の予定はこれでだいたい決定である。オフ会をいつやるかは未定だったが、こうなると6月25日(土)の夕方以降しか時間がない。 徹夜カラオケはまず無理なので、三、四時間くらいの会食だけになるかとは思いますが、ご都合のよろしい方はご連絡くださいませ。
父のマンションに着いたら、DVDが増えていた。 『釣りバカ日誌』のボックスを買ってたのには驚いたが、まだ一本も見ていないという。いや、私もテレビで流れていてもチャンネルを合わせたことはない。興味がなかったわけではないが、まあ、デート向きの映画じゃないし、後回しにされるのは仕方がないとこである。せっかくだから、ということで、第一作をまず三人で見始める。 今からもう17年も前の作品だから、出演者たちもやはり若い。そのころから既におじいちゃんであったスーさん役の三国連太郎ですら若い。しかもシリーズ化を考えていない単発映画のつもりで作られているから、物語もきっちりまとまっている。原作マンガの初期、ハマちゃんがスーさんを自社の社長と知らずに釣りに誘い、スーさんもハマちゃんを自社の平社員と知らず釣りに興じる、という「勘違いの喜劇」を、テンポよく見せている。三国連太郎も、これが初めてのコメディ演技とは思えないくらいに、頑固だがちょっと寂しい老人を“軽快に”演じている。この「軽さ」が重要なのだ。 スーさんを孤独な老人と信じているハマちゃんみち子さんの夫妻は、スーさんに仕事を斡旋さえする。感動して涙ぐむスーさん。けれど、ハマちゃんを騙している罪の意識にも責められる。スーさん、基本的に小心者なのだ。会社で偶然スーさんを見かけたみち子さんは、真相を知る。悲しむみち子さんを前にオタオタするスーさん。気がついてない人もいるようだが、スーさんはみち子さんに恋もしているのだ。もちろんこれは三角関係というほどに明確なものではないが、三人の間にある種の緊張感は確かにある。これを重く演じてしまっては、ドラマはドロドロになる。屈託のないみち子さんを演じる石田えりの可愛らしさと、青年のころに戻ったような三国連太郎の純情さが、ドラマを明るく収束させる。 ラストでハマちゃんとみち子さんは故郷の土佐に帰っていくが、これはまさしくこの映画を単発として美しく完結させるため必要な手段であった。これまで見ずにいたことが悔やまれる佳作。 でもなんで親父は買っといて全然見ないでいたのか、不思議に思って聞いたのだが、「DVDノ操作の仕方が分からない」ト答えた。……DVD入れて再生ボタン押すだけだよっ!
『キネマ旬報』5月上旬号、岡本喜八監督追悼特集がなんと30ページ。 全39本のスチールに加えて、仲代達矢、佐藤允、小林桂樹、寺田農、大谷直子、本田博太郎、真田広之のインタビュー記事がそれぞれ見開き2ページ、森卓也×石上三登志の対談が6ページという超ボリュームである。岡本喜八が“どういう人であったのか”ということを映画ファンを自称する人も、ちょっとくらいは感じてもらいたいものだが、本当に面白いものを探すアンテナがイカレてる若い人が増えてる現状ではそれも望み薄である。 いや、黒澤明にも言えることだが、岡本喜八がその全盛期からいかに「理解されてこなかったか」、ということも、森×石上対談は明かしている。『独立愚連隊』が「好戦的過ぎる」という批判や、『江分利満氏の優雅な生活』『ああ爆弾』『殺人狂時代』の記録的な不入りなどについても触れる。現代では傑作と評されるこれらの作品がなぜそこまでヒットしなかったか、今では東宝の宣伝の仕方、公開の仕方に問題があったことが指摘されているが、責任は全て岡本監督に帰せられた。岡本監督が酒びたりになるのもこのころからで、これがなければ後年脳梗塞を起こすこともなく、39本と言わず40数本は傑作を世に出してくれたのではないかと思うだに、「バカ東宝が」と愚痴の一つも言いたくなる。 森×石上対談が「勉強になる」のは、例えば日米合作映画である『EAST MEETS WEST』で、岡本監督が、カットごとに独立して撮影する自分のスタイルを捨てさせられ、アメリカ式のマスターショット(登場人物の配置・アクションを把握するためのショット。アメリカでは最終編集権がプロデューサーにあるため、監督が、画面上必要がないと判断しても無理やりこれを撮らされる)を使用させられたことなど、「なぜあの映画が失敗に終わったか」を、感想文的な印象批評ではなくて、技術的な問題として客観的に説明している点である。批評というのは「こうでなくてはならない」。 なぜ、岡本喜八映画を「映画館の大画面で見るべきか」についても、『暗黒街の弾痕』を例に森氏は説明する。三橋達也の「早撃ち」を演出するために、岡本監督は銃を構える動作と、銃を持つ動作とをカット割りして繋いでいるのだが、これが映画館で見れば人間の目は画面上の「動体」しか見ていないから、繋がって見える。しかしテレビのブラウン管の画面ではただのつなぎにしか見えないというのである。監督が観客の動体認識を利用するつもりで演出しているものを、テレビは少しも考慮しない、ということだ。映画はレンタルビデオやDVDで見るのが主流という方は、よく「映画を見に行くのには金がかかるんだから仕方がないじゃないか」と言い訳をされるが、せめてそれが「本来の映画の鑑賞の仕方ではない」ことくらいは自覚していただきたいものである。昔からの「映画館派」の人たちは、劇場に無意味なステイタスを感じて「映画グルメ」を気取っているわけではないのである(という「常識」も最近の自称「映画ファン」は知らないのだから困る)。 あまり岡本監督を誉めすぎると、かえって「そんなに傑作ばかり撮れるものなの?」などと逆に疑問を抱かれてしまうかもしれない。石上氏は、岡本作品は決して映画史に残る名作、といった括りで見るのでなく、あくまで日本映画がプログラム・ピクチャーとして量産されていたころの、「ものすごく面白い、上質なエンターテインメント郡」としてみるべきだと主張する。それはその通りだろうが、我々が本当に自分たちの根本的な感性や思想を無意識のうちに培っていくのは、構えて見る「名作」ではなく、そういった、「上質のエンターテインメント」からであることのほうが多いのだ。黒澤明も、岡本喜八も、決してお高く止まったゲージツ家ではなく、「面白いもの」を作りたいと思っていたのだ、ということを「映画ファン」を名乗るのなら知るべきであろうと思う。 岡本喜八映画は、「レンタル」でも置いてあるところは少ない。というよりビデオソフト化されている作品のほうが少ない。日本映画専門チャンネルでの岡本喜八特集はぜひご覧になっていただきたいものである。 最後に、インタビューされた方々が「一番印象的」「好きだ」と言及している岡本作品を、ご紹介しておこうと思う。もちろんご自身が出演している作品が圧倒的に多いのだが。 仲代達矢→『殺人狂時代』(1967) 佐藤 允→『独立愚連隊』(1959) 小林桂樹→『江分利満氏の優雅な生活』(1963) 寺田 農→『赤毛』(1969) 大谷直子→『肉弾』(1968) 本田博太郎→『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979) 真田広之→『EAST MEATS WEST』(1995)
マンガ、G=ヒコロウ『不死身探偵オルロック 完全版』(エンターブレイン)。 以前、ブロスコミックスとして刊行されたものの完全版。てゆーか、2巻が出るほど連載が続かなかったので、もう一回まとめて出しなおしました、という事情なので、何かのトラブルで全編収録できなかったのを完全版として出したということではない。たまにこういうことあるよね。前の単行本買ってる人間にとっては二度買いしなきゃならないから困るけど。 だからまあ、マイナーな作家さんだというか、売れてないといえば売れてない人なのだが、単行本を出してもらえたという点ではカルトな人気を誇っているのである。しかしカルトであるということはカルトになるだけの理由もあるので、まず驚くのはその個性的な“濃い”絵柄だろう。 マンガ家としての画力はすごくある。基本的にアニメチックで売れセンの絵柄も描ける人なのに、どうやらそれでは飽き足らないようで、やたらそれを“崩し”まくる。ブラックなギャグを矢継ぎ早に繰り出すとき、キャラクターの目は血走り口は裂け牙は生える。ひとコマにぶちこまれた情報は、濃過ぎてしばしば話の流れを停滞させるが、そんなことは気にもしていない。ともかく「描きたいことを描く!」というエネルギーに満ち満ちている。 例えば13話でリカがオルロックをぶち殺す(ゾンビだから死なないが)カットでは、撃った瞬間の「ズガゥーン!」という擬音、そして「ポピーン」と飛び出す薬莢、弾は正確にオルロックの心臓を貫いて、その弾の刺さった心臓が飛び出す様子までを全て描き(よく見るとリカは銃声が聞こえないように左耳に指を突っ込んでいる)、更に背景にはアシスタントのアンデッタと人斬り108号が驚いている遠景まで描きこんでおり、そこにリカの「ハートブレイクショット!!!」という絶叫とオルロックの「オモイデポロポロ!!?」という悲鳴がかぶるのである。立ったひとコマにこれだけ時間と空間を圧縮しているのは半端ではない。もちろん全てのコマがここまで濃いわけではなくて、ところどころに気の抜けたようなコマも点在しているのだが、これがギャグに緩急を作り出している。多少読みにくさはあってもギャグが滑っていないのは、この緩急の間のおかげだ。 この詰め込みギャグやコマの構成の仕方は誰かに似ているなあと思っていたが、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』そっくりなのだということにようやく気がついた(前読んだときには気がつかなかったような気がする)。ひとコマの中にギャグのボケとツッコミを同時にぶち込み、そのギャグを更にエスカレートさせて状況を破壊しまくり、怒涛のようなテンポアップを図っていくが、それが突然風船の中の空気が抜けたようにしぼんでいき収束する「間」の取り方、これが「マカロニ」絶頂時にそっくりなのである。作品を見る限り、作者は相当なマンガ好きだろうが、鴨川つばめがそのベースの一つになっているだろうことはまず間違いないと思う。 連載当初はあった「探偵」の設定も、話数を重ねるうちになし崩しにどうでもよくなっていくのもギャグマンガの宿命のようにもので、主人公のオルロックはどんどん影が薄くなり、中華探偵姉弟、ギャルキング、野沢ウォーケン(このネーミングには笑った、確かに野沢那智、しょっちゅうクリストファー・ウォーケンに声当ててるわ)、思い出刑事といったゲストキャラに存在感を奪われていく。それが少しもマンガの質を落とすことになっていないのが素晴らしいのだが、反面、今時の“薄い読者”に、このマンガの面白さがどれだけ伝わるのだろうか、と不安になってしまうのも事実だ。マニアックだから伝わらないのである。ギャグセンスというものは「シュールorナンセンス=わけが分からない=既成の概念が破壊される=面白い」という図式が予め素養として脳内にインプットされていなければ育たないものだが、今時の若い人にはこのセンスに欠けている人が多い。「わけが分からない=つまらない」と単純に判断されてしまうのである。だから、彼らが笑うギャグはたいてい「分けの分かった」オヤジギャグに限定されてしまうことになる。 なんですかねー、皆さんの身の回りに一人や二人はいると思うけれどもねー、オヤジギャグをかましまくって自分はギャグの天才だなどと嘯いて悦に入っているやつって、最近多くないスかあ? あいつらが鬱陶しいのはねー、ギャグのレベルが低いというよりか、「わけが分かっている」ギャグを平然と口に出来る厚顔無恥のせいなんだよねー。 それはさておき、『オルロック』のわけの分からなさというのはどんなものか。例えば19話では、いきなり意味もなく「伊東四朗の顔」がはめ込まれたマクラが現れ、「伊藤ピローです。ニン!」と歯をむいて消える。「伊東四朗」と「伊藤ピロー」だけならただの駄洒落だが、こいつがなぜ何のために出てきたのかが分からない。更に“グルメな枕”「山岡ピロー」が現れ、目が寿司になる。何がどうして寿司。もう全然わけが分からないが、とどめに「岸部ピロー」が現れて「かなんなー」とか言いながらフーリガンにぶっ殺されるのだ。文章で説明してもわけが分からないだろうが、マンガで見てもやっぱりわけが分からないのである。もはやこのマンガがどこに行こうとしているのか、予測のしようがない。つか連載終わっちゃってるけど、終わるよなあ(笑)。 もともとお気に入りに入れてる日記さんの紹介で知ったマンガなんだけれど、こんなマイナーなマンガを楽しんでる人間なんて、探さなきゃ見つかるものでもないだろうと思っていたが、しげも結構気に入ってるらしくて、なんかやたら読み返しているのである。更には鴉丸嬢も大好きで、しげと「いいよねー」とか言い合ってるらしい。マンガファンが百人いたら、G−ヒコロウを読んでる人って、中に一人二人いればいいほうだと思うが、何ですぐ身近にいたりするかなー。 あと、併録の『プロフェッサー・シャーボ』と『オダキュー』も楽しいが、一番ウケたのは、カバー裏表紙の横山光輝『マーズ』ポーズで立つオルロック。なぜかワキから「イデ」が発動しているのが笑えるのである。まあどこからでも発動しそうだけどな、イデ。
2004年05月02日(日) 東京の夜は更けて(3)/『スター・ウォーズ』展とシティボーイズ 2003年05月02日(金) 東京の空の下�� 2002年05月02日(木) 私は病院に行くかしら/『COMAGOMA コマゴマ』2巻(森下裕美)ほか 2001年05月02日(水) 行って来ます。/『20世紀少年』5巻(浦沢直樹)ほか
| 2005年05月01日(日) |
深まる溝(ずっとヒビキ風タイトルで行こうか)/映画『コックリさん』 |
一応、日曜の朝は『かいけつゾロリ』から一通りアニメは見てるんですが、まあハマッてるのは『仮面ライダー響鬼』だけですんで、感想もこれだけ(別に『マジレンジャー』や『プリキュア マックスハート』が嫌いってわけではないです。誰に言い訳してるんだ、オレ)。 気がついたら、オフィシャルサイトを覗いて、「今週の魔化魍は何かな?」とかチェック入れ始めたから、かなり病気は進行しつつあるのである。『ニュータイプ ザ・ライブ』も買うのやめてたけど、また買うかなあ。 十四之巻「喰らう童子」。サブタイトルは毎回「動詞連体形+名詞」の形を取っているのだが、一話一話だと大して気にもならないが、ズラッと並べていくと、付け方に何だか無理があるような印象。そう感じる理由の一つに、自動詞と他動詞が入り混じってるせいもあると思う。「叩く魂」「呑み込む壁」「喰らう童子」なんて、特に気にならん人もいるかもしれんが、私は気になる(笑)。目的語がねーぞ、目的語が。「叩く魂」とか、「魂が(何かを)叩く」のか、「魂を叩く」のか、迷った。いや、そもそも各話を象徴する「動詞」を探さなきゃならないこと自体、毎回しっくり行くとは限らないわけで、スタッフの苦悩がしのばれることである。 前回、仲間のヤマビコを喰らってパワーアップした「乱れ童子」。威吹鬼(渋江譲二)の攻撃も物ともせず、あきら(秋山奈々)に襲いかかろうとするが、なぜか鼻先で匂いをかいだだけで立ち去ってしまう。あきらはこないだから“どういうわけだか”この「襲いかかられ」シーンが増えてきてるんですけど、メインのヒロインの座がひとみ(森絵梨佳)からあきらに移りつつありませんか? ヒビキ(細川茂樹)から魔化魍退治にかけずりまわされている学校のことを心配されて、こりゃ大きなお友達の反響、さぞや大きいことでしょうねえ(笑)。なんつーか、こういうおいしいシチュエーションの前には、そろそろ顕在化し始めたストーリー上の様々な疑問が置いてきぼりされている。「こないだまで、平気で人間喰らってた童子が、急に人間に見向きもしなくなったのはなぜなんだよ」とか、どうしても感じちゃうものなあ。いや、裏設定はいろいろあるんだろうが、同じ魔化魍を喰らってくれて人間は食わないんなら、「人間の味方じゃん、倒す必要ねーよ」と、画面を見ている限りでは納得できないものを感じてしまうのだ。 今回は、入院した明日夢(栩原楽人)と以前、名前だけ登場していたザンキ(斬鬼/松田賢二)が邂逅する新たな展開も(鬼たちは変身前はカタカナで、変身後は漢字で表記して区別しているみたいだ)。彼もまた明日夢のよきアドバイザーとなっていくのだろうか? 「外堀」が少しずつ埋められている感じで、日菜佳(神戸みゆき)もヒビキに「明日夢君なんか弟子にどうっスか?」なんて言ってるし、3クール目に入るころには「修行」を始める明日夢の健気な姿が見られるかも、という期待も高まる。 逆に、今ひとつ煮え切らないヒビキの情けなさが一話ごとに際立ってきている気も。明日夢が入院していると聞いたときのヒビキの「少年があ?」という声の元気のなさというか、間抜けっぽさというか、まあそれがいかにもヒビキらしくてヨイのである。 次回は斬鬼も含めて、ひとみのいとこの戸田山(川口真五)も変身するらしい。弦楽器を使うことだけは決定しているようだが、名前から察するに、「音で斬る」パターンになるような気配。最終回は巨大大首領相手にオーケストラかな(笑)。
「映画の日」で、市内の映画館はたいてい千円興行。キャナルシティに出かけたら、AMCの前に長蛇の列が出来ていて驚いた。ゴールデンウィークと重なったとは言え、ざっと見ただけでも200人くらいは並んでいる。しかもエスカレーターを上ってきた人の殆どみんながその後ろに付いていくので、列が途切れる気配がない。館員さんが「『名探偵コナン』は完売でーす」と叫んでいる。親子連れが目立つから、目当てはやはり『コナン』や『プリキュア』なんだろう(『クレしん』はキャナルでは上映していない)。 我々の目当ては『レモニー・スニケットの世にも不幸な物語』だったのだが、今日から公開予定だったはずなのに、3日公開に延期されていた。多分、『コナン』あたりがヒットしているので、同じファミリー映画ということで競合を避けたものだろうか。仕方なく、『コックリさん』を見ることにする。
映画『コックリさん』。 『友引忌』『ボイス』に続く、韓国のアン・ビョンギ監督によるホラーシリーズ三部作の完結編、前作の『ボイス』のときも感じたことだけれども、ワンシーンごとの恐怖描写はそう悪くもないが、一本通した幹となるストーリーが今ひとつ説得力に欠けていて、「面白い」と感じるまでには至らない。そのホラー描写も和製ホラーの模倣臭くて、世評と違って私が見る韓国映画はどれもこれもハズレが多い。今や映画は韓国映画のほうがパワーがある、という煽りも、どこまで本当なんだか。 日本から伝わって流行したとされる「コックリさん」(韓国ではそのバリエーションの一つである「分身様」がなまって「分身娑婆(ブンシンサバ)」と呼ばれる)、日本ではコインを使うのが主流だったと思うが、映画を見る限りでは、韓国では鉛筆をみんなで握る形式が多いみたいである。私も小学生のころ、友達とやったことがあるが、男子が三、四人でこれをやると、必ずイタズラモノがわざと動かしたりしてわやくちゃになるので(「○○はむっつりスケベエである」と言うと、○○以外のやつが一斉に「イエス」にしようとするのだ)つまんなくなるのである。かといって、何も動かさないでいると、当然コインは動かないままなのでやっぱりつまらない。これもただのお遊びでやってただけでマジで信じるやつなんていやしなかったから、あっという間に廃れた。オカルト好きなやつでも、コックリさんに信憑性を感じる人間は、あまりいなかったように記憶している。 けれども韓国じゃ「ブンシンサバ」は長いブームになっていたようで、パンフレットを見てみても主演陣がこぞって「やってたし当たるのが不思議」とか言っている。だから誰かがわざと動かしてるんだってば(笑)。「遊びの文化」はそれぞれの地域の民俗を探るための原点であるので、感覚的な差異はそのまま基本的なところでの「文化の違い」を象徴することになる。この映画になかなか入り込めないのも、「こんな幼稚な遊びに熱中してること自体、そもそもヘンだし、実際に呪いが発動しちゃうのも映画を成立させるための無理やりな展開で、乗るに乗れない」という感覚が生じるせいなのだが、結局これは「お国が違うから」と納得することしかないことで、文句をつけたって仕方がないことでもある。鉛筆が勝手に○や×を描くシーンが少しも怖くないどころか、笑っちゃいたくなる感覚は、韓国人には薄くて、結構みんな真剣に見入ってしまっているのだろう。 『ボイス』のあの子を、ああいう形で出すというのも何がやりたいんだかよくわかんないんだけどねえ。ヒロインはみんな美人なんだけど、「女子高生」役者が軒並み二十歳過ぎってのは、いくらなんでもちょっとなあ。コスプレだ、あれじゃ。
日本映画専門チャンネルで映画『大誘拐』。岡本喜八特集の一本である。 大ヒットもし、後期の岡本監督の代表作のように言われつつも、往年の脂の乗り切ったころの傑作郡に比べると見劣りするとも批判されている本作。私も、公開当時に見に行って、「虹の童子」の車の出現シーンが全然かっこよく撮れていないところや、ラストでお山を見つめるとし子刀自をどうしてアップにしないのかとか、往年の岡本演出を考えれば、明らかに年齢による衰えを感じて寂しく思ったものであった。しかし、今回見返してみてもう一つ思ったのは、この映画に対する「イマイチ」感は、やはり「役者の違い」によって生まれている、ということである。同じカット割り、同じギャグであっても、これが60年代東宝映画の役者陣で演じられていたら何倍、何十倍面白かったろう、と思わせるものが多いのである。 井狩警部役の緒形拳、これを『殺人狂時代』のころの仲代達矢が演じていたらどうであったか。緒形拳に風格がないとまでは言わないが、仲代達矢が演じておれば、その茫洋とした演技がかえって見えない犯人との間に緊迫感を醸し出しえたのではなかろうか。健次役の風間トオル、これを『肉弾』のころの寺田農に演じさせられたら、若いというだけでは収まりきれない命のほとばしりのようなものを感じさせて、役にもっとハマっていたのではないだろうか。ヘリの操縦士の高野、本田博太郎の演技はわざとらしすぎやしないか、同じ演技をさせたとしても、『独立愚連隊』のころの佐藤允だったら、「粋」に演じてくれたのではないか。橋本功の刑事も「フガシね!」と繰り返すあたりは力みすぎだ、これが堺左千夫か大木正司だったらもっとサラリと演じてもっと笑いが取れるはずだぞ、などと、いちいちどうしても考えてしまうのだ。嶋田久作の「東京」など、こういう下っ端のコメディ・リリーフならば、『ああ爆弾』の砂塚秀夫が演じるべき役だろう、と言えば、納得してくれる喜八ファンも多いはずである。 主演の北林谷栄ですら、ハマリ役ではあるのだが、撮影時は年を取りすぎている、と感じていた。企画が立てられていた十年前に“ちゃんと”この映画が撮られていたら、もっと台詞にも演技にも切れあっただろうと思わざるをえないのである。正直、岡本映画のリズムを体現していて安心して見られたのは、くーちゃん役の樹木希林くらいであった。 「もしもあの人が……」という仮定は、いずれももはや望むべくもない夢の話であり、日本映画の力が一番低かったころにこの映画が作られたことを考えれば、映画が完成したこと自体を慰めとして、その出来如何については諦めるしかない。つくづく岡本監督に映画を“撮らせないでいた”当時の日本映画界を恨みに思うことである。 こんなことばかり言ってると、『大誘拐』がすごくつまんない作品のように聞こえるかもしれないけれど、岡本監督リスペクトを公言している庵野秀明監督の『キューティーハニー』、樋口真嗣監督の『ローレライ』に比べりゃ、はるかに面白いのである。エンタテインメント映画としての岡本作品は、一等劣るものであっても充分に面白い、そのことを強く指摘しておきたいのである。
夕方に父から電話。急に食事に誘われる。 本当はシネリーブルで『獣人雪男』を見に行く予定だったのだが、仕事を続けるか店をたたむかで姉とモメてる最中なので、無碍に断るわけにもいかない。東宝特撮映画で見損ねている映画はもうこの『獣人雪男』一本になってしまったが、また見る機会を逸してしまった。もしやと思って念のために父を誘ってみたが、やっぱり断られた。 もっとも、昨年、私が入院したときには、父に博多座の「北島三郎ショー」のチケットを無駄にさせてしまった経緯があるので、文句も言えないのである。 「ビッグ・ボーイ」で父、私、しげの三人でミックスグリル。本当は姉も交えて話が出来ればとちょっと期待していたのだが、父は私と姉を合わせようとはしなかった。姉は店の片づけで置いてきぼりである。これは姉に気を悪くしろ、と言っているようなものだ。 父は「会っても話をしてくれる状態じゃない」と言うのだが、本当なのかどうか。父の話だけを聞いていると、姉がすっかり仕事をする気が失せてしまったように聞こえるのだが、そこまで姉が無責任だとも思いにくい。だいたい父は自分では首尾一貫したものの考え方をしているように思い込んでいるけれども、結構その場限りの適当なことを言い散らすことも多いのである。どうせ、「それを言っちゃおしまいよ」的な暴言を吐いて、そこから姉との溝が深くなっていったってことだろうな、と見当はつくのだが、だからと言って父が会わせようとしていないのを私がこっそり会うようなことをすれば、父がまた拗ねることも分かりきっているのである。おおまんなくせに細かいところにこだわる癖があって、そこが生前の母にも「お父さんは何であんなにしつこいかね」と非難されていたところなのである。 散々愚痴を聞かされたあと、マンションまで父を送って帰宅。全く、姉が来ないのなら映画に行きゃあよかった。ぶつぶつ。
夜中に地震。震度3。だから寝られないって(涙)。.
2004年05月01日(土) 東京の夜は更けて(2)/小鹿番さんの死去と、またまたテンパる妻。 2003年05月01日(木) メモ日記/淡白なメールの夜。 2002年05月01日(水) 疲労度の爪/『コミック伝説マガジン』No.6ほか 2001年05月01日(火) 実は某大学推理研OBです/『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン)ほか
| 2005年04月30日(土) |
続く事故(ヒビキのタイトル風)/『ビジュアル探偵明智クン!!』1巻(阿部川キネコ) |
F(遠心力)=m(質量)×v(速度)2/r(距離) 兵庫県尼崎のJR福知山線の脱線事故、死亡者はついに107人。最終的な事故原因はどうやらやはり「スピードの出しすぎ」「急ブレーキをかけたための脱線」ということらしい。過密ダイヤとか何とか言われてるけど、結局は運転士の責任なんで、今の報道は、「憤懣の持って行き所」を探して、迷走しているように思える。 電車事故だのバスの転覆だの、人為的な事故がこれだけ相次ぐと、「ミスは許されない」という言葉がかえって空々しいものに聞こえてくる。人間はどうやったってどこかでミスをしてしまうものなのだ。だったら、そもそもミスを誘引する要素自体を減らしていくしかしようがないのではなかろうか。福知山線の事故についても、運転士にプレッシャーを与えた過密ダイヤも問題だが、時間に縛られた現代日本人の精神構造が招いた悲劇だとも言えるのである。生活にもっとゆとりを、とは誰もが口にするが、具体的にのんびりできる余地がないんじゃ、いつか何かの事故が起きることを覚悟するしかないのが「現実」というものではなかろうか。 昨29日夜、羽田空港で間抜けなトラブルが起きた。 工事のため閉鎖されていたA滑走路に、管制官ら管制グループ18人全員が滑走路閉鎖を失念して誤った指示を出したために、帯広発の日本航空1158便(エアバスA300型機、乗員・乗客51人)が着陸した。当時、滑走路上には工事車両などがなかったため、けが人などはなかったが、この2分後、札幌発の日航1036便(ボーイング777型機、乗員・乗客161人)も閉鎖中の滑走路に向けて最終着陸態勢に入っており、気づいた管制官が慌てて着陸をやり直させている。つまり、一歩間違えば、飛行機と工事車両、飛行機と飛行機が滑走路上で接触するなど、重大事故にもつながりかねない深刻なミスだったのである。 にもかかわらず、18人全員がモノワスレって事態はあまりに間抜け過ぎで、ニュースを知らない人に伝えても冗談としか受け取ってもらえないのではなかろうか。例えて言うなら、管制官みんなガンビー。これが小説だったら、読者は絶対「リアリティがない」と文句をつけるはずである。着陸の指示を出した管制官も、事情聴取に対して「漠然とは閉鎖があることは頭の隅にあったが、昨日がその日との認識はなかった」と話しているというから、やっぱりガンビーである。
例年、この時期はシティボーイズの公演を見に上京していたのだが、今年は北九州公演があるのでパス。のんびりと朝からテレビを見る。 日本映画専門チャンネルで『クレージーの大爆発』、『放浪記(1935/夏川静江主演版)』、時代劇専門チャンネルで『木枯し紋次郎』など。感想は長くなるのでパスね。 あとは、マンガなど読む。
マンガ、阿部川キネコ『ビジュアル探偵明智クン!!』1巻(芳文社)。 世の中に妖しいマンガは数あれど、これくらい本屋のカウンターに持って行き辛いマンガもあるまい。いや、女性は全然平気でしょうが(笑)。表紙に登場しているのは、一見、長髪の美女、よく見ると全裸のオトコ。これが主人公の明智くんだ。『新・ルパン三世』主題化付きOPの峰不二子のボーズで、ライフル構えてるんだけど、なんかねえ、潤んだ瞳にマニキュア塗って伸ばした爪がもう完全に男の客を引かすこと請け合いってなキャラでねえ。阿部川さんの『辣韮の皮』や『WAKIWAKI タダシさん』が面白かったのでこの本も買っちゃったのだが、表紙だけなら絶対に買ってない。誰が買うか。 しげが一時期ボーイズにハマッてたおかげで、ウチには妖しい表紙のマンガがそこここに散らばっていて、これ以上、自分の生活環境を不穏にしたくはないのである。 けれど、帯にはなんと桑田乃梨子の推薦文が! 作者どうしがお友達なんだろうが、これだけ傾向の違うマンガを描くお二人が……ってのもフロイト的になかなか興味深い(おおげさ)。 タイトルから分かるとおり、お話は名探偵もののパロディ。でも主人公の明智くん(下の名前は不明)はオリジナルの明智小五郎とは何の関係もない。まあナルシストってところは似てるかもしれないが、やたらと脱ぐわコスるわ、鬱陶しいったらありゃしない。探偵になる以前の過去は謎に包まれているが、路上詩人だったことがあるとか。もちろん詩の中身は独りよがりで芸術家気取りで、でもリリカルという一番困ったタイプ。「レモネード色の街に一人ぼっち……」ってどんな街や。黄砂、降り積もっとるんか。桑田さんがなんでこんなのが好きなのかよく分からないのである。 依頼人だった山村美々(通称みっちょん)をなし崩し的に助手にして、数々の何事件に挑む! というのが基本的なストーリーラインだけれど、もちろんマトモなミステリマンガのはずもなく、次から次へと現れる変な探偵仲間が、事件を逆に紛糾させていく。不思議ちゃん探偵悪梨須(アリス)はただのストーカー、自称明智くんのライバル金田一くんは霊視ができるパンク探偵、陰陽探偵京極院晴明はモロあの人。 しかし極めつけなのは何と言っても「横溝ドイル」くんだろう。“体は大人(33歳)、心は子供”、つまりはただのアダルトチルドレン(つかとっちゃんボーヤ)で、女と見れば“ぶって”擦り寄るあたり、キモいったらないのだが、オリジナルだって子供の演技してるときは気色悪いんだからどっこいどっこいだろう。たまたま出かけた先で必ず事件が起こる「地獄の探偵」ぶりもオリジナルと同じ。オリジナルの腐れぶりに腹を立てている人にとっては、毎回エロ行為に走ってみっちょんにぶちのめされるドイルくんは、すこぶる溜飲の下がるキャラだろう。ちゃんと「眠りのドイル」を見せてくれるところも芸コマである。 作者の阿部川さん、『辣韮の皮』でもチラッとそのミステリオタクな面を見せてはいたが、実際、かなり内外のミステリを読み込んでるんじゃなかろうか。明智くんがボソリとつぶやく「ああ……ドラマ化しないかな……あの探偵事務所がうらやましい」という台詞、もちろんこれは関崎俊三『ああ探偵事務所』がドラマ化されたことを指しているのだが、同時に江戸川乱歩『二銭銅貨』の冒頭のフレーズのパロディにもなっている。こういうミステリファン向けのくすぐりも多く、某有名推理作家のデビュー作の「見えなかった」オチや、理系人気作家の「回転する館」オチに対して、「なめんなよミステリー」と突っ込んでるのも、同じ思いを抱いているファンにとっては小気味よく感じられることだろう(私はアノ二作ともアリだと思ってるんですが)。
2004年04月30日(金) 東京の夜は更けて(1)/中洲の夜のキティちゃん 2003年04月30日(水) メモ日記/白い人たちの夜。 2002年04月30日(火) 今もまだへにょへにょ(疲れてんだよ)/『開田無法地帯』(開田あや・開田裕治) 2001年04月30日(月) 別れのトワレ/映画『名探偵コナン 天国へのカウントダウン』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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