無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月18日(木) めんどくさいのは私も好かんけど/『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』(大塚英志)

 飛び石連休で、今日と明日が出勤、そしてまた二日休んで、一日出勤して、また休んで……。なんだかえらくめんどくさいんでかえって体調崩しそうなんだけど、そんなんなっちゃってるからなあ。祝日はやっぱり全部月曜か金曜にズラしてもらったほうがいいなあ。


 昨日はずっとしげと一緒だったので、パソコンを殆ど見てなかったのだが、チャットの方にあやめさん、グータロウくんが書き込んでくれている。
 あやめさんは前の職場をお辞めになったあと、新しい職場が決まったことのご報告。めでたいめでたい。技能職だから決して楽じゃない職場だとは思うけれど、頑張ってほしいものである。
 グータロウくんは『座頭市』と『英雄』をハシゴしたとか。体力あるなあ。
 『座頭市』は、ところどころ気に入らない部分があった由。絵のツクリ方や編集の悪さを指摘していたが、それは確かにその通り(^_^;)。ただそれを必ずしも欠点と捉える必要はないのではないか、というのが私のあの映画に対する見方なんである。もちろん、どっちが正しいという問題ではない。
 映画とかモノの見方はいろいろってことでね、それが基本認識になってるから、意見が違っても彼とはケンカにならない。

 「自分が面白いものを貶されたから怒る」ってのはモノを判断する時に一番やっちゃいけないことなんだけど、なんかもー、そういう人、やたら増えてきてるもんねえ。なら世の中、批判は一切許されないのか。少しくらい腹が立ったからって、貶される原因はどこかにあるんだから、堪えることくらいしろよと言いたい。
 「誉められりゃ嬉しいし、貶されりゃ怒るのは自然でしょ?」とはよく主張されるのだが、コドモじゃあるまいし、人間をそんなに単純に決めつけるのは失礼なんじゃないか。見え透いたお世辞で喜べる心理の方が私にはよくわからない。ごくたまに私も人に誉められることがあるが、「誉められ方」によるんでね。ズレた誉められ方したって嬉しくも何ともない。それよりは堂々と批判してもらったほうがはるかにありがたい。
 みんな、そんなに傷つくことが怖いのかね? まあ、「うわべだけの付き合いですら怖い」シンジ君シンドロームな人に、むりやりオモテに出ろとは言わないけど。
 藤子・F・不二雄の『エスパー魔美』の最終回で、魔美のパパが自分の絵を批評家に酷評されて、思いっきり激怒はするけど、次の瞬間には「それでおしまい」とあっさり終わらせてるのを見たとき、「ああ、これなんだよなあ」と思ったことを思い出す。藤本さん、オトナだよ(T.T)。こうあっさりとキモチを収められるのが「節度」ってもんなんだけど、それのできる人ってのが随分少なくなっちゃってるのが淋しい。

 しかし、「『座頭市』も『英雄』も美少女が出てきてよかった」と書いてたけど、『座頭市』には確かに子役がいたけど、『英雄』には誰かロリーな女の子がいたっけか?


 道頓堀飛びこみでついに死人が出た。しかもどうやら誰かから突き飛ばされたらしいが、犯人はまず捕まらないだろうな。つか、犯人自身、自分が犯人だと自覚してるかどうか怪しい。多分「飛びこもうとしたヤツを突き飛ばした」人間って、もう何10人といるだろうから。
 こういう事態になることがわかっていて、あえてみんな飛び込んでるのだから、もう何をか言わんやである。押した方も押された方もその本質は同じだよ。酔っ払って誰かに迷惑かけようがお構いナシって人種だ。でもそういう連中が堂々と大手を振ってノシ歩ける世の中になってるんだからなあ(-_-;)。
 こういう形での「許容される犯罪」がどんどん世間に伝播していくとするなら、それに巻きこまれないための防衛手段だって一般庶民は講じなければならない。これもまた淋しいことだけど。
 野球ファンだけでなく、何かのスポーツの熱狂的なファンには近寄らないようにすること。いつ「一緒に飛びこみましょう」と誘われるかわかりゃしない。それから酒飲みとつきあわないこと。大人しい酒飲みもいないわけではないが、10人、人が寄ればそのうちの一人は確実に飲んだくれである。冗談で川に突き落とされちゃたまったものではない。そう言えば大学時代に、歌舞伎町の噴水に叩き込まれたことはあったな(^o^)。
 簡単なようで、これ案外難しい。宴会はできるだけ避けなきゃなんないし、人付き合いに摩擦が生じるのも覚悟しないといけない。つか既に病気を理由に職場の宴会からは逃げ回っているのだが、人間関係はお世辞にも良好とは言いがたい。酒一つで人格見られるというのも理不尽ではあるのだが、それが日本の現実なんである。
 ああ、ホークスが優勝したら福岡でも那珂川に飛び込むバカがゴマンと出るのだろうなあ(T.T)。


 WEB現代『あなたとわたしのガイナックス』、4人目のゲストは摩砂雪氏。サブタイトルの「のしあがるためには」というのが凄いね。
 劇場版『エヴァンゲリオン/DEATH編』が代表作ということになるのかな、ああいう映画を作っていながら(私は好きだが)、あまり批判されることが少ない。「『DEATH編』は殆ど摩砂雪の仕事」と庵野さんが断言してるのに、批判が殆ど庵野さんの方に集中してしまうのは、やはり摩砂雪さんがメディアに露出することを避けてるからかもしれない。だって、人柄が特にいいというわけではないことはこのインタビューを読んでもわかるから(^o^)。
 「今のアニメはCGだなんだと山ほど使ってて、確かに1画面1画面はすごく緻密でもの凄く上手い。しかし演出にセンスがないために、映像としての魅力が全然ない、って感じはあります。そういうものを見ると『作画が上手いだけで面白くないものを、なんで毎週毎週こんなにいっぱいつくってるんだよ』と感じてしまうわけですよ」と具体的な作品名は挙げてないが、心当たりのある作品をアレとアレと……と挙げてくと、なかなかキケンなことを喋っていらっしゃるのである。でもせめてこれくらいのこと言う人がいないと、業界は活性化しないんだよな。言う人は自分でも言うだけの作品を作るから。
 しかし、こんなに「絵の描ける」人が「画を描くような面倒くさい作業は嫌いなんです」なんて言うとはなあ(^_^;)。
 話の内容には関係ないけど、摩砂雪さんも「〜じゃないですか」を連発してる。「静物や風景みたいな静止画は、描いていてもすごくつまらないじゃないですか」なんて言葉は、使い方を明らかに間違ってると思うんだが、もしかして、モノゴトを全て自分の決めつけで押し通したいって心理が蔓延しつつあるのかね。


 夜、チャットで昨日見損ねた『トリビアの泉』のネタを鍋屋さんに教えてもらう。今回の内容は普通、といったところらしい。「近藤勇はコブシを口の中に入れられた」っての、確か水木しげるがマンガに描いてなかったか。記憶だけで言ってるので自信がないが。
 「床屋に置いてあるマンガで一番多いのは『ゴルゴ13』」というのはナルホドと納得。みんな「床屋政談」をしたいんだよね。ウチの実家でも多分80巻くらいまでは買ってたはずだが、ある日どこかに行って見えなくなった。古くなったんで捨てたんだろう。残して置くのが何となく恥ずかしいって点でもいかにも床屋向きである。

 
 大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』(角川文庫・620円)。
 「今日ナショナリズムは『私』の仮託先として『国家』や『日本』や『石原慎太郎』が語られながら、しかし『天皇』が“何気に”忌避されている。『天皇抜きのナショナリズム』に変質していった点が現在のサブカルチャー化するナショナリズムの大きな特徴である」という大塚さんの指摘は面白い。
 そう言われれば、「象徴天皇制」の「象徴」という言葉の意味についてすら深く考えようとしてこなかったが、それは必ずしも「ヘタなこと言ったら右翼が怖い」ということだけではないように思う。

 「戦後民主主義」は我々の世代にはどっぷりと染みこんでいる。
 主権が国民一人一人にあると“本気で”考えてしまいそうになるのはそのせいだ。しかしそう考えれば、「天皇」は極めて困った存在、ということになる。リクツで行けば「天皇なんて要らないじゃん」という結論にどうしてもなってしまうからだ。
 でも、「既にあるもの」を積極的になくすためにはそれ相応の理由が必要となる。
 「天皇の戦争責任」という、「個人の地位・立場の責任」が、「制度の責任」という形にすり替えられ、「天皇不要論」の根拠として語られがちなのも(「天皇制があり続ける限り戦争の危険は去らない」とかね。天皇がいようがいまいが戦争の危険はあるって)、要するにそれだけ「天皇を排除する理由」にこと欠いており、「天皇制廃止」を実行することが困難だからだ。
 熱狂的な天皇信奉者ならばともかく、一般的な感覚としては、天皇制は必要なものでもないけれども、なくしてしまう理由も特にない。「象徴天皇」という正体不明の概念を我々がすんなり受け入れたのも、こういう「何だかよく分からないもの」をその「分からない」ままに存在させ続けるのに都合がよかったからだと思う。
 紀子様、雅子様の結婚に狂喜し、子供が生まれるたびに「幸せな家庭の典型」のように報道され続ける天皇家を「忌避されている」と主張するのは事実に相反するようにも見えるだろうが、じゃあ「天皇って何?」と質問して明確に答えられる人間がいないのも事実なのである。もちろん「象徴天皇」以外の答えを明確に持っている人もいるだろうが、それは決してスタンダードではない。だから前総理の「天皇を中心とした神の国」発言が問題視もされたのだ。
 あの発言は、問題視もされたが、「軍国主義との絡み」で明確に批判した論調も殆ど目立たなかった。批判はあったのに、それが「天皇批判」に移行することをマスコミは極度に恐れていた。どちらかというと、あの騒動は「人がせっかくアレには触れないで過ごしてきたっていうのに、あのバカ総理、うっかり触れやがって」という意味で、右も左も一様に困ってしまって、その困った怒りをあの何も考えてない人にそのままぶつけているような雰囲気だった。実際、何が問題だったかも不明瞭かつ曖昧なまま、「で、日本は神の国だったの、そうじゃなかったの!?」という肝腎な結論は等閑になって終わっちゃいましたね。
 「天皇」のこうした世間における「居心地の悪さ」というのは、簡単に言えば、自分と全く付き合いのない家族が隣に住んでるけれども、それがまるで筒井康隆の『俺に関する噂』のように、「意味もなく」ニュースで流され続けているために、何でやねんと首を捻ってる、という感じじゃなかろうか。もちろん「うるさいから出て行け」なんて言えないし、かと言って仲良くしたいわけでもないという宙ぶらりんの状態なのである。

 ワールドカップの狂騒が「ぷちナショナリズム」として称賛も批判もされたが、あのファンたちの心の中にある「日本」は多分、「国家」ではない。もちろん「天皇」もいない。じゃあ何がいるかというと、「日本という名のムラ」である。
 その天皇の「不在」を大塚さんはもう一度見直そう、と説く。ただしそれは「かつての天皇制の復活」を目論んでいるのではない。
 「私たち個々人が自分に望むにせよ望まないにせよ帰属する行政単位としての『国家』に委託した自己の責任を自明のものとして引き受けるためには『天皇制』という政治制度をやはり断念すべきだ」と主張する。
 この考え方自体を私は否定しない。先に書いた通り、「民主主義」こそがこの国のナショナリズムであるとし、その制度を本気で遵守するつもりなら、「象徴天皇制」は、たとえ「権力集中を抑止する」効果があったとしてもその理念に沿わない、というリクツは筋が通っているからだ。
 けれど、何かが否定されたとき、それを正当化するために人はしばしば排除されたモノを「悪」と断ずる。たとえその排除の理由が善悪の彼我にあるものであってもだ。
 大塚さんはそのことの及ぼす「危険」まで考えて意見を主張しているのだろうか。そのことがちょっと気になるのである。

2002年09月18日(水) 復讐するは誰にある?/映画『恐怖のワニ人間』/『Q.E.D. 証明終了』13巻(加藤元浩)
2001年09月18日(火) 声だけ美少女/『スタジアム 虹の事件簿』(青井夏海)ほか
2000年09月18日(月) ゴキブリと音痴娘と構造記憶と/『僕らは虚空に夜を視る』(上遠野浩平)ほか


2003年09月17日(水) そう言や久しぶりのカラオケだったな/『雑多なアルファベット』(エドワード・ゴーリー)

 昨日はテレビニュースをリアルタイムで見ていた、例の爆発事故、昨日に続いて詳細がニュースで流れる。
 犯人は軽急便の委託業者の別府昇容疑者(52)。
 容疑者が、刃物・洋弓銃を手にして、名古屋市東区のビル4階の運送会社事務所に押し入ったのは、昨日の午前10時すぎ。台車の上にポリタンク2個を乗せて、うち1個をけり倒して、床一面にガソリンを撒いて、「7、8、9月分の給料25万円をすぐ払え」と要求、支店長を含む8人を人質に立てこもった。
 県警は捜査員をドア越しに配置し、犯人の説得を試みた。しかし犯人は7人を解放後、ガソリンに火をつけた。捜査員が突入しようとした瞬間、爆発が起きた。
 犯人及び最後の人質だった支店長、そして捜査員の一人の計3人が死亡。近くにいた24人が重軽傷を負った。

 ガソリンを撒いただけで爆発なんて起こるんかいな、と化学的知識の全くない私はぼんやりテレビを見ていたのだが、気化したガソリンが密閉された空間に充満していたところに一気に火がつき、唯一開いていた小さな窓目掛けて吹き出したものだという。へぇ。
 犯人は自殺を試みたのではないかということだが、そんな爆発の知識があったとも思いにくい。金が目的だったのだから、火に紛れて逃げようとか、その程度のことしか考えてなかったんじゃなかろうか。
 事件そのものについての感想は特になし。巻き添えくらった支店長さんとお巡りさんがホントにお気の毒ってことくらい。


 突然しげが「カラオケに行く!」と言い出す。なんかストレスが溜まってたらしい。
 「何のストレスが溜まってるんだよ」と聞いたら、眉間にシワ寄せて(もっともしげの眉間にはしょっちゅうシワが寄ってるのだが)「アンタ」と言われる。
 「オレがオマエに何のストレス与えてんだよ。逆だろ」
 「いんにゃ、アンタもオレに与えてるね」
 「オレがオマエになんか与えてるとしても、オマエがオレに与えてるストレスのほうがずっと大きいね」
 「五十歩百歩じゃん」
 「五十歩百歩ならたいしたことないけど、千歩一歩なら大きな差だね」
 「そうやってすぐ自分を美化するし」
 「『美化』ってそういうときに使う言葉とちがうぞ!」
 なんか思い出して書くだにコドモの会話である。これで40と30の夫婦だからなあ。


 「シダックス」の会員券、私はどこかにやっちゃってるので、しげので入る。しげはバイト先の同僚の人たちとも時々出かけてるらしいので、あちこちのカラオケ券を持っているらしい。しょっちゅう「今度はどこそこのカラオケ屋に行こう」と誘われるのだが、そのたびごとに店の名前が違う。カラオケ屋荒らしでもやってるのかこいつは。
 新番のアニソン・特ソン、いくつか歌えるのがあるかどうか探してみたが、番組自体は見ているのに、主題歌が思い出せないというものが多い。『ナージャ』はキィが合わないから仕方がないとしても(そもそも歌おうと考えること自体がなあ)『ガオレンジャー』も『555』も『ガッシュベル』も全然覚えてない。20代のころまでは、斜め見してたアニメだって2、3回聞くだけで殆ど覚えていたのに、40の坂を越えた時点でもうアウトなんである。
 しげは外人にでもなりたいのか洋モノばかりを歌う。私もむりやりデュエットで『The Phantom of the Opera』を歌わされるが、舞台で一回、カラオケで一回しか聞いてない歌を何で歌えるものか。それでもしげの方は音程を外しつつもなんとか歌っている。「よく知ってんな、こんな曲」と聞いたら、しげ、「オレも一回しか聞いたことないよ」と言う(舞台は私しか見に行ってないのだ)。オモテに出たがらないクセにこういう隠れたところではやたらチャレンジャーなのだな。
 日頃は歌いつけてない歌を歌おうとアニソンを探しているうちに、いくつかの事実を発見。耳には馴染んでてもちろんソラで歌えるのだけれども、私は『オタスケマン』の歌を一度も歌ったことがなかった。なんかこういうのほかにもある気がするなあ。


 エドワード・ゴーリー(柴田元幸訳)『雑多なアルファベット“The Eclectic Abecedarium”』(河出書房新社・1050円)。
 今回随分版型が小さいなあと思ったら、原書と同じ体裁にしたからだそうな。ほぼ文庫版サイズで、絵本のコーナーに置いていたら、他の書に混じって見つからない可能性が大。ご購入の際にはお気をつけを。
 柴田氏の解説によれば、原タイトルの“The Eclectic Abecedarium”は「折衷的なアルファベット・ブック」という意味になるそうな。「エイビーシーデアリアム」とはラテン語起源の語で、あまり使われることのない物々しい響きのする言葉だとか。ムリヤリ日本語で雰囲気を出そうとしたら「寄せ集めのイロハ読本」てな感じになるのだろうか。日本でも種種雑多な「いろはがるた」があるから、あちらでのそういうお遊びものだと思って頂いて、基本認識は間違ってはいまい。もちろん作者が「あの」ゴーリーなだけに、一筋縄ではいかない。なんか意味ありげな、皮肉っぽいような短詩(?)もあるし、単にナンセンスなだけのもあって、種々雑多。でも残酷さはゴーリーにしては少ないので、これなら女の子や子供へのプレゼント用にいいかも。訳者の柴田氏はあとがきで「それでフラレても責任持ちません」と書いてるが(^o^)。

 柴田氏の訳については、これまでの訳もぎこちなく感じられて不満足ではあったが、今回は文句を付けるのはやや憚られる。なんたって、こういう言葉遊びの本で、英語の韻を日本語に引き写すのはほぼ不可能に近いからである。かつて北原白秋は、『まざあ・ぐうす』で果敢にそれに挑戦して敗れ去った(「とっぴょくりんのとん吉」なんて訳されてもなあ)。和田誠氏が『オフオフマザーグース』で偉業と評していいほどの成功を収めたのは稀有の出来事なのである。
 英語や中国語と違って、日本語は韻を踏むこと自体に難しいところがある。五味太郎の『さる・るるる』のように「る」だけを共通させるとか、その程度のことしかできないので、これは如何ともしがたい。
 内容は短いので、以下にそれを示してみる。

Alms(施し)乞われた施し ためらうな。
Bird(鳥)歌は聞こえど 姿は見えず。
Clumbs(パン屑)親指で拾え パン屑。
Door(ドア)ドア閉めるなら うしろ見てから。
Eye(目)地に人あり 空に目あり。
Fan(扇)扇舞うには 元気が肝腎。
Glass(硝子)硝子の向こうで 過ぎ行く人生。
Hail(雹)雹取る秘訣 常備のバケツ。
Indian Ink(墨汁)赤子泣くとも 墨汁飲むな。
Jam(ジャム)無闇に食わすな 犬にジャム。
Kelp(昆布)昆布選るなら 寄りあって。
Library Paste(澱粉糊)嘗めたらあかん 澱粉糊。
Mouse(鼠)家あれば 鼠あり。
No(ノー)つれない一言 悲しみの元。
Oar(櫂)櫂を持たずに 岸去るな。
Pill(薬)病んだら早急 薬を請求。
Queue(行列)行列は 手仕事の機と心得よ。
Rope(縄)もつれた縄は うっちゃるな。
Sun(陽)一日が済み 陽を拝む。
Toad(蝦蟇)人も歩けば 蝦蟇に当たる。
Urn(甕)触らぬ甕に たたりなし。
Vine(蔓)絡まる蔓に 御用心。
Well(井戸)地獄の道も 井戸から。
X(X)Xの字は 苛つく字。
Yarn(欠伸)欠伸するたび 三文の損。
Zinc(亜鉛)台所流し 亜鉛製。

 例えば、“A”の原文は“Betray no qualms/When asked for Alms.”。
 「施しを求められたら、心のまま迷わずに表せ」という意味だから、訳としては正しいのだけれど、“qualms(不安・良心の呵責)”と“Alms(施し物)”との韻を踏んだ調子はどうにも表せない。
 「施し」あるいは「おめぐみ」という単語は見出し語だし、イラストにも描かれているから、外すわけにはいかない。更にABCに合わせようと思うなら、出だしは「あいうえお」の「あ」とか「いろは」の「い」で始めなきゃならない。で、どこかで必ず韻を踏まねばならないと来たもんだ(-_-;)。
 そういう条件を考え合わせると、相当の意訳、超訳をせねばならない。
 試みに私が捻り出したのは「愛のおめぐみ あなたの御心」ってやつだが、まあゴーリーの雰囲気はやっぱり消えている。付いてるイラストが、汚いホームレス(つか毛むくじゃらのバケモノにしか見えん)に仕方なく何かをあげてる人の絵だから、皮肉っぽさは出たかと思うが。
 ついでだから「あいうえお」に合わせて全部以下のとおり訳してみた。言語と内容がかなり離れているものもあるが、ゴーリーの絵と合わせると何となく「そう見える」ようにしてみたつもりだが、もちろん柴田氏の訳よりこちらのほうがいいと言うつもりはない。ご覧の通り相当以上に苦しいものばかりだ(これだけで半日かけた)。アルファベットとあいうえおの数が合わないのがそもそも苦しいんだけど。

あ 愛のおめぐみ あなたの御心。
い いずこに鳥よ 今鳴いたかしら? 
う 失せ物パン屑 うろたえ探せ。
え えらい扉だ えいっと閉めろ。
お お目々があるから お空を見上げて。
か 勝手に踊れば 傾く扇子。  
き きれいな硝子に 厳しい人生。
く 雲間に舞う雹 食えやしないね。
け ケチでも墨汁 決して呑むな。
こ 子犬にジャムは 困りもの。
さ 探しておくれよ 浚った昆布。
し 渋い味だよ 湿った糊は。
す 隅々探せば 住んでる鼠。
せ 責めるだけなら せつないばかり。
そ その櫂なくしちゃ そこから落ちる。
た 助かりたいから たくさん薬。 
ち ちまちま並んで 小さな仕事。
つ 綱だか縄だか つまらぬ絡み。
て 諦観しみじみ 天を巡る陽。
と トノサマガエルは トンデモガエル。
な なぜ甕壊すか 中身も知らず。 
に 逃げろや逃げろ 逃がすな蔓よ。
ぬ ぬばたま地獄へ 濡れ井戸続く。
ね 練り歩く×(バツ)を ねめつける。
の のんびり欠伸 呑気な人生。
は ハウスの台所流し 映えるは亜鉛。

 原文も併記すりゃいいんだけど、もうそこまでは疲れちゃうんで本書にあたってみてください。「こんな風に訳したほうが面白いぞ」というご意見がありましたらどうぞご遠慮なく。
 ついでだから、「いろは」でやりたい人はやってみてください。私ゃもう、とてもやれません(-_-;)。

2002年09月17日(火) 放生会の掘り出し物/『博多の心』(朝日新聞福岡総局)/『魁!! クロマティ高校』5巻(野中英次)
2001年09月17日(月) 祝日には旗を。私は出さんが/『クラダルマ』1・2巻(柴田昌弘)ほか
2000年09月17日(日) クウガと絶叫としゃぶしゃぶと/『少年探偵虹北恭助の冒険』(はやみねかおる)ほか


2003年09月16日(火) 狂熱の一夜/映画『南の島に雪が降る』/『C級さらりーまん講座 付和雷同編』(山科けいすけ)

 休日出勤の代休で、今日と明日は休みである。
 夕べのチャット中に、阪神が18年ぶりに優勝。
 野球にホントに興味がなくなってるので、今、阪神にどんな選手がいるのかも知らない。まあまたアホな連中が道頓堀に飛び込むんだろう、くらいに思っていたら、今朝のテレビニュースでその数5300人とか。こりゃあちょっと多いなんてもんじゃないね。既にただのヒステリー状態だ。脳内の発酵具合は、関東大震災の朝鮮人虐殺の時とおんなじ。自分が何をやっているのかを認識することが完全にできなくなっているのだね。本人はワザとバカやってる程度の意識しか持っちゃいないんだろうけれど、一人の行為が誰かの「犯罪」に繋がる可能性が「極めて高い」行為なんだからなあ。警察からも、いや、アンタらが好きだと称する阪神チームからも「飛びこみは止めてくれ」と勧告されてて、あえてやってんだから反論の余地はねーよ。
 それともガキみたいに言うか? 「聞いてませんでした」って。
 こういう時期の大阪には行きたくない、と言うか、阪神ファンがどこにいるかわからないから、街中自体に行きたくないと思う。巻き添え食らって何かの被害に会う危険が全くないとは言いきれないんだから。今、ノボせ上がってる連中は、自分たちを危険人物(ただのバカとか既知外ではない)と見てる人間も結構いるってことを少しは自覚して、ちょっとアタマを冷やしてほしい。マジで。
 いち野球チームの優勝に留まらず、阪神V経済効果は全国規模で6355億円に昇る、というUFJ総合研究所の試算もあるようだが、この手の数字が当たったかどうか検証されたって話は聞かないから、まあ怪しいもんである。景気のいい話だけ聞かされて、実際の効果はそこそこで、企業努力自体を忘れで産業がジリ貧になるとこだって出ると思うけどね。
 よく分からんのだけど、UFJ総研は、主要なファン層である10代半ばから50代半ばの人口の約2割、約1500万人が阪神ファンと想定して試算したそうだけど、そんなにファンがいるのか? いや、前のサッカーのワールドカップの時だって、別にサッカーファンでもなさそうな人もいっぱい熱狂してたみたいだから、にわか阪神ファンってのも増えてるだろうとは思うけれど、それにしても甘く見積もってんじゃないかという気はどうしてもしてしまう。
 飲食費や関連グッズ、優勝セールなどの1848億円の直接需要に、関連産業の活発化による波及効果も計算に入れてるとのことだけれど、「波及」って、どこにどう波及するんだか。
 結構優勝してるのに、全然経営状況が改善されず、毎年身売り話の出るダイエーホークスを見てると、所詮野球チームの優勝に過ぎないし、何かが変わるってわけでもないんじゃない? って気がしてくるんだけれどもねえ。
 一応、18年ぶりの優勝って「怨念」がみんなにあるみたいだから、少しは効果が上がるのかもしれないけれど、そんな気色の悪いモノに頼らないとどうにも経済が上向かない状況だってんなら、やっぱり気分的には憂鬱を感じてしまうのである。

 まあこういう阪神ファンを敵に回すような発言をすること自体、マジで危険なのだろうね。念のためにホントに何のゴマカシもなく言っとくけど、私は巨人ファンでもないよ。熱狂するのはいいけど、どこかに冷静な自分を持ってないと人の命に関わることだってあるって言いたいだけなんだからね。
 でもこの程度の発言も、HNじゃあるけれど、やっぱ匿名でなきゃモノが言えないのである。この国に渦巻いてる情念の凄まじさってのは、ホントに恐ろしいよなあ。


 朝、CS日本映画専門チャンネルで映画『南の島に雪が降る』を見る。ちょうどしげも起きてきたので、一緒に見る形に。名のみ知れど、これも機会がなくて見逃していた一本だった。勝手に白黒映画だと思い込んでいたが海の青と木々の緑も鮮やかな総天然色映画。
 古くは『人情紙風船』から、代表作『七人の侍』や『大番』シリーズで活躍した名優、加東大介が、敗戦の色濃い中、従軍地のマノクワリで兵隊の慰問のために劇団を結成して芝居公演を打った実話をもとに書かれたドキュメンタリーを、自身の主演で映像化したもの。
 監督は一時期『パレットナイフの殺人』『蝶々失踪事件』ほか、ミステリの佳作を多数作った久松静児。時代ものから文芸ものまで手がける職人監督である。脚本は『若大将』シリーズの笠原良三。東宝としては手堅い人を加東さんのために用意してくれたというところか。
 解説がなぎら健壱さんなのだけれど、凄いキャストが揃ってると語る通り、当時の東宝映画の名優、喜劇人が勢ぞろいという雰囲気である。
 伴淳三郎・有島一郎・西村晃・渥美清・桂小金治・森繁久彌・三木のり平・フランキー堺・小林桂樹といった人たちがそれぞれに「一芸」を披露してくれるのだから、これが面白くならないわけがない。
 ところが、なぎらさんは「フランキーさんのピアノのシーンは長すぎて映画を壊してる」と言い切っちゃうんだから手厳しい。それ言ったらマルクス兄弟映画のチコの一本指ピアノも、ハーポのハープシーンもムダって言われそうなんだけど。
 個人的に嬉しいのは有島一郎の篠崎曹長が披露してくれる博多にわか。にわか面付けていきなり演じ始めるけど、何の説明もないあたり、昔は博多にわかも全国区的な知名度を持ってたんだろうなあ。今はねえ、博多の人でも、若い人になるとナマの博多にわかは見たことないって言う人、増えてるんだよね。
 知ってる人は多いと思うが、この篠崎曹長のモデル、小林よしのりのお爺ちゃんである。『戦争論』のどれだったかにそのエピソードが載ってたんで、興味ある人は探して読んでみてみることをオススメする。思想がどうのじゃなくて一エピソードして面白いんでね。有島一郎に自分を演じてもらえて、ご本人もきっと嬉しかっただろうな。
 しげがラスト近くで風呂に入って、結末は見なかった。なんだもったいない、と思っていたら、上がってきて、「ねえ、みんな死んだ?」と聞いてきた。
 「死んでるわけないやん! 加東さん、戦後まで生きてたろ!?」
 「じゃあ、何人生き残ったと?」
 「3千人生き残ってるよ!」
 どうも戦時中、島にいた人は全員玉砕したとか思ってたようなのである。やっぱ「知識として」戦争のことはもっと詳しく、学校で教えたほうがいいよなあ。


 昼どきは、ずっとビル爆発のニュース見てたけど、細かい情報は明日にならないとわかんないだろうから感想は明日の日記に。
 しかし休日だけでなく、平日にこうしてリアルタイムでニュース見られる生活ができる人はうらやましいよなあ。


 先週だったか、某掲示板に福岡関連の書き込みがあって、なんか間違ってること書いてるなあ、と思ったのだが、今度は「天神は福岡だ」とかなんとか、適当なことが書かれている。しかも同じ人だから、この人は本当に福岡・博多のことを何も知らないらしい。
 いや、それだけなら間違いとは言えないのだ。地域的に那珂川の西側に「今の」天神地区があって、間には「福博出会い橋」なんてのまでがかかってるから。ただ、その人が「あんなとこ(天神)と博多を一緒にするな」と博多の人間が思ってる、と書いてるところが大間違いなのである。
 前にも書いたが、もともと「福岡」という地域は博多にはなかったのである。黒田氏が居城を構えた時に地名を移殖した(実を言うと、その時点では博多の海岸線はもっと南にあって、今の天神地区はほほ全部が海だった。従って、厳密に言えば天神は福岡でも博多でもない)。「博多湾」という言い方からして、全体が博多だった、ということに気づいてもよさそうなものなのだが。「博多」の語源の一つに、「羽形」=「鳥が羽を広げている形」という説もある(俗説だけど)。つまり今の福岡地区も含めて、もともとは全部が、「博多」であったわけ。
 「天神」はもちろん、太宰府天満宮の菅原道真を祭神としているので、「福岡」よりも歴史は古い。道真公が一時、今泉に立ち寄って、それから大宰府に移られたので、そこに「水鏡天満宮」(つまりそこが当時の海岸線だったのである)を建てたのがその始まり。もともと博多の神様なのだから、「あんなとこ」なんて博多んもんが思うはずがない。
 問題なのはそこからで、ここでまた黒田氏が出てくるのだが、福岡城を築いた時に、その鬼門である現在の位置に天満宮を移した。つまりは、「神様は福岡の武士だけ守ってくれりゃいいんで、博多の人間はどうとでもなれ」という措置なんである。武士の、博多の町人に対する差別意識が、こういうところに表れていたということだね。それでも博多の人間の天神さまに対する信仰が変わるわけではないから、「天神は博多」という言い方も間違いとは言えないのである。
 というわけだから、福岡にだって、もともとの博多の人間はいる。単純に地域だけで分けられるものでもない。博多の人間が嫌うのは、おエライさんに媚びへつらって、「福岡」人の意識で「博多」を差別的に見るやつらなんである。
 こないだはくだくだしく説明したくないからと、こういう細かいところまでは書かなかったけど、その土地のことをよく知りもしないのに知ったかぶって、博多の人間が差別的な意識を持ってるかのように真逆のデタラメを書くってのはどういう心理なのか。どうもこの人、単純にモノを知らないだけではなくて、底意地の悪さというか、下劣な悪意すら持って博多のことを見てるんじゃないかという気もしてくる。少なくとも、他人を見下したいという傲慢な気持ちがなけりゃ、こういうことは書けない。
 無知なこと自体は恥でもなんでもない。しかし「無知のままでいい」と開き直ったり、無知を指摘されることを逆恨みするような態度は、ただ醜いだけではなかろうか。

 その人がここを読んでる可能性もあるので、ハッキリ書いときましょう。
 あなたの行動に対して怒ってもいないし、見下してもいないし、何か反省を求めたいとか思ってるわけでもないです。もし私がそう思っているとお考えでしたら、それはただの妄想です。
 もちろんあなたが、今後もデタラメを書き散らしても、あなたにとっては自分の感覚がデタラメだとは思ってないんでしょうから、別に構いはしませんし、訂正を求めもしません。「真実」は人の数ほどあります。あなたの言うことを信じる人間がいても、それはそれで仕方がありません。ですから、そちらの掲示板に訂正の書き込みをするようなマネもしません。
 ただ、あなたの言葉を真実と思わない人間も、圧倒的多数でいます。私の言は私だけの思いこみではありません。それは博多の歴史を少しでも調べてみれば分かることです。かと言って、調べろなんて押しつけもしませんし、それを「正しい」と強弁する気持ちもありません。
 私はここで勝手に「分析」と「訂正」をしてるだけなんで、こちらに悪意がないことはご理解いただけると思います。


 マンガ、山科けいすけ『C級さらりーまん講座 付和雷同編』(小学館/ビッグコミックススペシャル・872円)。
 この本自体はもう何ヶ月も前に出てて、買ってたんだけど、しげが本棚の奥に隠してたんで見つけるのに手間取った。だからどこにでも本を持ってくなよって。
 6巻を最後に巻数が書かれなくなったのでわかりにくいのだが、これが8巻。旧巻を増刷するのを避けてるのか、すぐ絶版にできるための措置なのか、ファンとしてはちょっと嬉しくないことではある。どこにも旧巻の案内が載ってないんだものな。
 連載作品を全部収録してなくて、セレクトしてるとは思うのだけれど、そのおかげで内容は濃くなっている。ただ、新キャラの男山課長、顔がゴツイから周囲から男らしく思われてるけど実は小心者っての、『黒イせぇるすまん』の「たのもしい顔」のネタとかぶってるよなあ。いや、「顔のわりに小心」っての、ほかのマンガにもよく出てくる設定だから、今更パクリだとは思わないけれど、「サラリーマンもの」でそれやっちゃうととどうしても類似性が気になるんで。喪黒福造に「ドーン!」ってやってもらったらどうだとか思っちゃうんだよね。
 ビルにガソリン撒こうとする左遷された平社員のマンガがあったけど、まあ何というシンクロニシティ(^_^;)。

2001年09月16日(日) オタクの輪ッ!……古い(^_^;)/『(週)少年アカツカ/おまわりさんを追いかけろ!号』(赤塚不二夫)ほか
2000年09月16日(土) 電波とスケルトンと二人乗りと/アニメ『バットマン マスク・オブ・ファンタズム』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)