無責任賛歌
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| 2003年08月28日(木) |
謎の暗号?(^_^;)/DVD『アパートの鍵貸します』/映画『英雄 HERO』 |
おっと、昨日の『トリビアの泉』の感想、書き忘れてたな。毎週必ず見てる番組って今んとこアレくらいだし、欠かさず書いとこうと思ってたんだが、書きはじめると必ず長くなるんである。 原哲夫がふかわりょうの従兄弟だったとは初耳。もちろん両人にインタビューに行ってるのだが、ふかわりょうが子供の頃どれだけ『北斗の拳』のファンだったかをトウトウと語ってる(長すぎてカット)のに比べて、原哲夫が「まあ、そうですね」と「何を言えばいいのか」顔でヒトコトしか口にしないのが笑えた。実はふかわりょうが赤ちゃんの頃に会ったきりで、面識は殆どないそうである。親戚に有名人がいるったって、そんなもんだよなあ、と思わせるあたりがウマイ。ふかわりょうだって有名人なのにねえ。 しかし、殆どのネタをつまんないと扱き下ろしてるのに(実際、昨日のほかのネタはそれほどでもない)、こういうサベツ的なギャグにだけ受けるというのも、全く業の深いことなのである。
昨晩、私のパソコンにたったヒトコトだけしげから「ごめんね」のメッセージがあり、キョトンとする。 しげがこういうワケの分からぬ書き込みをするのは今に始まったことではないのだが、送られた方はもうどう反応してよいのやら困惑するばかりだ。 ところがしげに言わせれば、「なぜ分からないのか分からない」ということになるのである。私は更に「なぜ分からないのか分からないとなぜ言うのか分からない」と返さねばならないからもう何が何だかである。 「ごめんね」ってどういうことだろう、まさか「さよなら」ってことか。昨日、藤臣さんのマンガ読んでたもんだから、妄想がどんどん膨らんでいくのである。 今朝になって、「あれどういう意味?」としげに聞いたら、「ああ、冷蔵庫のアンタの弁当、勝手に食べちゃったから」。 ……だったらそう書いとけえ!
病院でこないだの診察の結果を確認。摂生したつもりだったけれど、ヘモグロビンA1Cの値は11と最悪。これが下げないことにはなあ。 「ストレス溜まってませんか?」と主治医に聞かれるが、「さあ」としか答えられない。まあ、仕事上、あまり顔を合わせたくない人もいるこたいるからなあ、「ない」とは答えられないが、かと言ってそれが指の痺れに直結してるかどうかは判断がつかないのである。
帰宅して、溜まってるDVDを少しでも見て片付けようと、随分前に買ったビリー・ワイルダーボックスの中から『アパートの鍵貸します』を見る。 これも最初に見たのはいったいいつだったか。多分テレビの吹き替えでだから、完全版ではないだろう。となれば今回の鑑賞が実質上の初見。映画ファンのフリをしていても、この程度のものである。 もっとも、テレビ放映版と比べてどこがどうカットされてるかなんてのはもうよくわからない。同じボックスの中で、吹き替え版を同時収録しているのは『お熱いのがお好き』だけで、これには吹き替えは付いていないのである。 映画はもう下手な解説はしたくない傑作。昔はシャーリー・マクレーンがイマイチかわいくないとか思ってたんだけど、そんなことはないな。ツンとして見えてもちゃんと初めからジャック・レモンへの行為は持っている。愛人生活に振り回されてて、自分の心がレモンに癒されていることにきがつくのに時間が掛かっているだけなのだ。 しげに「見たことある?」と聞いてみたら、「ある」という。しげはコメディ好きではあるけれど、この『アパート』はやや毛色が違う。一応最後はハッピーエンドではあるが、全体的にはサラリーマンの出世主義を背景に、オトナのすれ違う恋心を苦くて渋〜いムードで描いている。しげもよくこんなの見ていたな、と思ったら、昔、『小堺一機のアパートの鍵貸します』ってのが放映されてて、その流れで見てみたのだそうな。私ゃその『小堺一機』の存在の方を知らなかった。しげにそう言ったら、目を吊り上げて、 「なん、俺がウソついてると思っとうと?」と絡んで来る。 「別にそんなこと言うとらんやん」 しげはいつもこんなふうにすぐに被害者意識全開で突っかかってくるのだから、なにげないコトバもかけにくくなってしまうのである。一緒に見よう、と誘ったが、「いや」とニベもない。一緒に見てるとすぐに私が寝ちまうからだそうだ。でも今日は寝ずに最後まで見たんだがなあ。
仕事帰りにはしょっちゅう寄ってるが、しげとは久しぶりの「バーミヤン」で夕食。特別メニューの酢豚がしげの眼に入った途端、しげ思わず「ハッ!」と声を上げる。食欲がこれだけ態度に出る人間も珍しいよな。もちろん、注文したのはそれ。 そのあと、ワーナーマイカル福岡東で、映画『英雄 HERO』。 秦の始皇帝の暗殺未遂事件を題材にしてはいるが、お話自体は完全なフィクションで、登場人物も全くの架空。
秦王(チェン・ダオミン)のもとにやってきた一人の男、無名(ジェット・リー)。彼は一本の槍と二本の剣を献上し、秦王を付け狙っていた三人の暗殺者を討ち果たしたことを告げる。その功績により、無名は秦王の側、10歩まで近づくことを許される。 秦王はいかにして三人の暗殺者を倒したのかを無名に尋ねる。 「一人目の刺客、長空(ドニー・イェン)は果し合いにて」 無名は静かに答えるが、秦王はその静かさにかえって疑問を抱く。「残りの二人はどうやって討ったのか」 無名は更に答える。 「残剣(トニー・レオン)は侍女の如月(チャン・ツィイー)との関係に嫉妬した飛雪(マギー・チャン)に殺されました。飛雪はそのために動揺し、何なく私に討たれました」と。 秦王はその言葉を聞いて静かに怒る。 「長空はお前ごときに討たれる男ではない。残剣も飛雪も、愛欲に溺れて自らを失うものたちではない」 無名は答えない。 「お前はウソをついている。お前は何者だ?」 おもむろに無名は口を開く。彼が語り始めた第三の物語とは……。
二転、三転するストーリーが黒澤明の『羅生門』を彷彿とさせるが、雰囲気は小林正樹の『切腹』に近い。 ストーリーは重厚だが、チャン・イーモウお得意の原色を多用した映像は美しく、見応えは充分。けれども、最近の中国・香港映画では定番になってしまったワイヤーアクション、カッコイイことはカッコイイのだけれど、こういう歴史モノだとかえってその部分だけ荒唐無稽に見えてしまうのは失敗じゃなかろうか。これが完全なファンタジーだったりしたら気にもならないのだけれども。 特に始皇帝自身が飛んだり撥ねたりするのは、「しねーよ」と突っ込みたくなった。日本で言えば、徳川家康が真田十勇士とチャンバラやるようなもんじゃないかと思うんだが、それとも始皇帝は自身も剣の達人だったんだろうかね? そこんとこを百歩譲っても、特撮に頼らない殺陣を見せてほしかったとは思うんである。
2001年08月28日(火) クリエイターの条件/映画『ハムナプトラ2 黄金のピラミッド』ほか 2000年08月28日(月) 完治には1週間以上かかりそうです/ドラマ『百年の物語』ほか
| 2003年08月27日(水) |
つらいことばかりでもないと思うけど/『江戸川乱歩全集第10巻 大暗室』(江戸川乱歩)/『人生とはなんだ 旅と恋編』(藤臣柊子) |
今日でまた仕事をひと区切りにして、明日から4連休である。 有休使ってだから誰に恥じることもないのだが、芝居に行くためだと思うとちょっと心が痛むのである(^_^;)。休日に行きたかったけど、しげと時間の都合が合わなかったんだよ。 でも休んでるのは私だけではなくてほかにも結構いたので、「仕事をヒトに任せて自分だけ遊んだりして」という罪悪感はちょっと晴れるのであった。でも、ウチの職場、こんなに人が休んで大丈夫なのか?
午前中で今日の分の仕事が全部片付いたので、午後は若い子何人かと駄弁る。というつもりだったのだが、なぜか流れがマジメな話になる。最近いろんな事件が多いねえってとこから、死刑制度の是非にまで。 回りを気にせずに喋ってるから、言葉は相当過激になっちゃってるのだが、殆どの子の意見は「犯した罪は償うべき」というマットウなもの。ここでその言葉の過激さを云々するのは木を見て森を見ず、と言ったところだろう。 ただまあ、意見が一本化しちゃうと何かアンチテーゼを投げこんじゃいたくなるのが私の悪いクセで、「もしも冤罪だったら?」とか、「情状酌量も一切廃止したほうがいいのかな?」とか突っ込むと、途端にみんな沈黙する。根性ねえなあ(~_~;)。 でも実際の私は死刑廃止には反対で(^o^)、死刑制度には立派な犯罪抑止力があると思っている。冤罪の可能性ったって、例えば宅間守のケースなんかそんな可能性は探しようもない。情状酌量については事件の性質によっては必要だとは思うが、安易に連発されてる印象はぬぐえない。実質無罪って場合も多いからなあ。けどまあ、そういうモロモロのことを何も考えずにただ「死刑にしてしまえ」という言質が横行してしまう状況はやはり空恐ろしい。 なんかねー、「攻撃しても心が痛まない」相手を見つけたらここぞとばかりに責めたてるようなイヤラシサっつーかね、みんな日頃からそんなに鬱屈が溜まってるの? と言いたい気がしてくるのである。溜まってんだろうなあ。
江戸川乱歩『江戸川乱歩全集第10巻 大暗室』(光文社文庫/920円)。 『怪人二十面相』との合本。乱歩作品は大方のものは大学の頃くらいまででほぼ全作を読んでいると思うが、全集発刊を機に、ちょっと全作読み返してみようと思ったのである。というのも、これまで刊行された全集、文庫の類はいずれも削除、改訂が施されたものが殆どで、初出の表現が随分カットされている。それはこの日記でも折りに触れ、語ってきたことだ。時代に合わせた改訂とは言え、作品は本来その時代の空気を共有しているものである。少年探偵団の創立者・羽柴壮二くんは学習院初等科に通っていなければならぬし、明智小五郎は満州国政府の依頼を受けて新京に出張中でなければならぬのである(念のために言っておくが、私は作品の持つ普遍性を否定したいわけではない)。 それにしても、この「満州国の事件」、どんな事件だったのかなあ。 『大暗室』は細部を随分忘れていたので、初めて読むような新鮮さがあった。初読のときには中村警部も登場し、文中に明智の名前まで出ているのに、明智が登場しないのはどうしてだと思っていたけれど、多分、最初は登場させる腹案もあったけれど、正義の使徒・有明友之助と悪の権化・大曾根龍次の一騎撃ちに明智の登場は不協和音にしかならないと判断したのかもしれない。 意外にこの作品の映像化は少ないが、『大暗室』の描写が『パノラマ島綺譚』とイメージがダブるからだろう。東京の地下帝国、というイメージは結構好きなんだけどな。
マンガ、藤臣柊子『人生とはなんだ 旅と恋編』(双葉文庫・550円)。 「旅編」は「美味いモンばかり食ってんなー、うらやましー」ってな気分になるので飛ばし読み。 「恋編」は余裕があるので(^o^)じっくり読む。 藤臣さんのオトモダチ? たちの恋愛ばなしがなかなか壮絶で、女房に暴力の限りを尽くされて離婚したのに、また同じ女性と再婚した話とか……。まあ常識的に考えれば「なんでやねん」ということになるのだろうが、男と女の仲ほど常識の通用しないものはない。藤臣さん自身もご本人のココロの病気がもとで、ご主人(知ってる人は知ってるが、本書では名前を明かしてないので、ここには書きません)とお別れになっているのだが、この文庫に収録されてるのは殆どが結婚前、新婚の時期のものなので、読んでて痛々しい。「いいことばっかなんて絶対ないけどふたり暮らしは幸せだよ」って、多分、離婚した今も藤臣さんのこの考え方って変わってはいないのだ。なんかなー、こういう不可効力で離婚したカップルってのは本人同士に責がないだけに慰めようがないしねー。いや、別に私ゃ慰める立場になんぞないのだが。 男と女は、男と女ってだけでトラブルのタネを抱えてるようなものである。更に二人を結ぶカラダとココロは、時間とともに必ず変質する。身もフタもない言い方だが、カラダはお互いジイさんバアさんになるし、ココロは段々磨耗して、相手に飽きて来る。藤臣さんは「だから努力が大切」と語るが、人間、努力ほど嫌いなものはないんだよね(^_^;)。つか、恋人時代にたいていその努力のためのエネルギーは使い果たしているのだ。そうなるとあとには「夫が○○をしてくれない」「妻が○○をしてくれない」という不満が積もるばかりということになる。離婚はもう目の前だ。 こないだよしひと嬢とも話してたんだが、「結婚すれば疲れる」ことを前提としてない夫婦ってあまりにも多過ぎるんじゃないか。つか、甘く見てる。「ダメになったら離婚すればいーやー」と最初から軽く考えてとりあえずくっついてみたってんなら離婚したって構わないだろうが、一章添い遂げようって考えてんなら、もちっとそのために何をしなきゃならんかってことを考えなきゃならんのじゃないか。 ウチの場合に話を移すが、とりあえず10年ちょっと、我々夫婦の仲が持ってきたのは、僥倖の部分が大きいと思う。お互いの不満に対して腹を立て続けるには私はあまりに体力がないし、しげには記憶力がないのだ。マイナスとマイナスが掛け合わさってプラスになってるってのは、実に平仄が合ってるなあ(^_^;)。 もちろん、我々夫婦の形が正しいあり方だなんて主張するつもりは毛頭ない。念を押すが、夫婦の形にスタンダードなどはないのである。恋愛論の類の本は多いけれど、「あの夫婦に比べてウチはどうして」なんて思わない方がいいと思うよ。
2001年08月27日(月) ノンマルトの後裔/映画『ウルトラマンコスモス ファーストコンタクト』ほか 2000年08月27日(日) 自動車とはケンカしないように
| 2003年08月26日(火) |
サヨナラの季節/『のだめカンタービレ』3〜6巻(二ノ宮知子)/『ホントの話』(呉智英) |
『ニュースステーション』の久米宏キャスターが、来年3月いっぱいで番組を降板することが正式に発表された。久米さん本人は「疲れというより衰え」と降板理由を語っていたが、若い若いと思ってた久米さんも来年60歳なのである。下手に『ぴったしカンカン』のころから知ってると時間の感覚がなくなっちまうな。 最初に久米さんがNステのキャスターになった時には「似あわねえなあ」とか感じたものだったけれども、いつの間にか一番キャスターらしいキャスターになっちゃってたのはいつの間にかこちらのほうが意識改革されたせいだろうか。もの静かで重々しく、といった従来のニュースキャスターのイメージを2ステア分くらい「軽く」しちゃった印象なのだけれども、今や久米さん程度の「重さ」がスタンダードになってしまっているのである。筑紫哲也じゃ華が無くって仕方がない。 久米さんの後任が古館伊知郎、というのもその「軽さ」路線の継承だろう。プロレスの実況中継をしてたころの古館さんがNステのキャスターになることなど誰が想像していたろう。これはまたニュースが結局はワイドショー的興味本意なものとしてしか世間に受け取られなくなってしまっている現実を象徴しているのだけれど、あまりテレビに踊らされ続けのもなあ、とちょっと眉に唾つけて見る習慣も忘れてちゃいかんよねえとも思うのである。
ここんとこ糖尿病が悪化して、手足が痺れて来たことばかり日記に書いてたものだから、各方面に心配ばかりかけてしまっている。 ヨナさんには、ありがたくも掲示板で「ヒジキにキンピラ、わかめ、山芋なんかが糖分吸収を防ぎますよ」などとご教示頂いたので、早速仕事の帰りにコンビにに立ち寄ってみたのだが、セブンイレブンもローソンも、そういう惣菜をほとんど置いていない。あるのは白菜やキュウリの漬物とかキムチばかりである。トロロうどん、トロロそばはカップ麺で売っていたのでそれだけ買ったが、あとは休日にスーパーにでも行かねばムリのようだ。 あまり自分の病状を事細かに書いちゃうのも同情を誘おうとしているようで心苦しいのであるが、日記書くときに「自分に都合の悪いことを隠すことはしないようにしよう」と決めて書き始めたので、やっぱり書くしかないのである。極端な話、私が浮気したり犯罪犯したりしても、それはそれでちゃんと事実は書こうとまで考えているのであるが、こればっかりはそういう事態に陥ってみないとホントに書くかどうかわからんな(^o^)。
マンガ、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』3〜6巻(講談社/講談社コミックスキス・410円)。 よしひと嬢オススメのクラシックラブコメだが、しげも「6巻までしか出てないの?」と結構ハマっちゃった様子。実際、読んでて気分がこんなにハレヤカになるマンガも近頃滅多にない。月9の連ドラにでもしたくなるくらいドラマチックでメリハリの利いたお間抜けマンガなのである(いや、誉めてんのよ、これ)。どこがどう魅力なのかってのはぜひ現物に当たって頂きたいが、お馬鹿で不器用なキャラクターたちと、意外にシリアスな(失礼)展開との緩急の妙が読ませてくれるのである。 音楽の才能はとびきりなのにそれをうまく行かせずに鬱屈もしてて、融通の利かないマジメ一徹だった千秋が、Sオケの破天荒な演奏に音楽の楽しさを思い出したり(バイオリンを縦に振り上げて一斉に弾くなんてパフォーマンスもどこかの楽団でやってそうだなあ。前見た九響のコンサートじゃコントラバス回してたし)、のだめにセクハラしまくるただのスケベ親父の呑んだくれにしか見えなかった世界的な指揮者、シュトレーゼマンが千秋をちゃんと自分の弟子として認めていたり。 もちろんヒロイン「のだめ」ちゃんの不思議少女(と言ってももうハタチになっちゃったんだろうけど)ぶりっつーか大迷惑ぶりが暴走しまくってるからこそここまでドラマが盛りあがってることも忘れちゃいけない。Sオケの再公演じゃ、マングースの着ぐるみ着てピアニカで「ラプソディー・イン・ブルー」吹いてるんである。それだけふざけていながら(と言っても本人は天然なので大マジメ)、千秋のピアノ演奏を聞いて無性に「ピアノ弾きたい!」と音楽に目覚めるあたりの展開も感動ものである。でもいくら興奮したからって、妙齢の女性が「ムキャー」なんて叫ぶのはどういうものかな(^_^;)。もちろんのだめのことだから千秋に曲を合わせてもらったらすぐ安心して食欲遊び欲に戻っちゃうんだが(^o^)。 でも一つだけ難を言えば、クラシックにゃ詳しくないから、いろんな曲が演奏されてもそれがどんなんだかシロウトにはピンと来ないことである。作者の二ノ宮さんはラフマニノフを2ヶ月も聞きながらマンガ描いてたそうだけど、ラフマニノフったって、私が思い浮かべられるのは、マリリン・モンローの『七年目の浮気』くらいのものなのである。私の知識ってホントに映画とアニメからしか得てないな(^_^;)。
呉智英『ホントの話 誰も知らなかった現代社会学<全十八講>』(小学館文庫・560円)。 ニッポンは自由の国なのかどうかということをマジメに考え出すとなかなか微妙な問題がある。まあアレやコレやとタブーがあることは事実なんだけれども、それを全く活字にできないかというとそうでもなくて、かと言って圧力が公的私的にないかというとそうでもなくて、要するにどっちなんだと頭を抱えてしまうことがいっぱいあって、なにかモノを言おうと思えばひと苦労もふた苦労もさせられてしまう。 「人権と民主主義について」「ナショナリズムについて」「民族差別について」「現代人の愛について」「教育とマスコミについて」。 呉さんが立てた項目の内容は、どれも日常的に会話され論議されていて、そこにはタブーなど存在しないように見える。 けれど、例えば第十一講での呉さんと趙宏偉氏との特別対談『「支那」か「中国」か』一つを取ってみても、こういうお互いの意見の論拠を示してキチンと論議した例がどれほどあったかと言えば、甚だ心許ない状況だったのではないか。 「日本でももっと議論がなされるようになればいい」とは、呉さんならずとも、折りに触れかなり多数の人々が主張している意見ではあるが、さて、現実にはせっかく行われた論議とやらもたいていはお互いの主張をぶつけ合うだけでモノワカレに終わってしまっている。『朝生』が一度でも結論とやらを出せたことがあったか(^_^;)。 「和をもって尊しとなす」の精神は現代日本にもしっかりと生き残っているが、つまりは「論理」などでは人心をまとめることなどできない、呉さんはいやがるかもしれないが、意見の対立があれば「理屈抜きで」一方が一方に合わせるという形でその場を収めてきたのが日本人の取って来た選択であった、ということなのである。 もちろんそれで全てが解決するわけではない。いつまでも飽きもせず片方が片方に合わせることを続けていれば、当然ストレスは溜まるし、そこに「ほころび」も生まれてくる。そのほころびが修復できないところまで来れば、お互いの感情は爆発してしまう。まあ個人同士のトラブルならばモノワカレになったところで大勢に影響はないが、これが国家単位の問題になったり、「世論」を巻きこむような事態になれば、コトは単純に傍観ばかりもしていられなくなる。気がつかないうちにとんでもない「流れ」の中に巻き込まれて逃げ出せなくなってしまうような状況も起きてこよう。日本人は自分たちの方がよりストレスを感じているように思っているかもしれないが、それは中国人の方だって変わりはない。 本来、そうならないために「論議」をしなければならないのだが、如何せん、日本人は論議を放棄してきた歴史が長過ぎた。おかげで「何のための論議か」ということを確認しつつ話を進めることすらできない。呉さんも苦労する道を歩いているなあ、という印象である。 私が、呉さんの意見に賛同を示しつつも、中国を「支那」と呼ばずに「中国」と呼称するのも、現代の中国の要求する正式な国名が「中華人民共和国」であることが紛れもない事実であり、それをあえて「支那」と呼ぶことで両国の関係をあえて破壊しようとする姿勢を取る意図を感じないからである。繰り返すが、これは「個人レベル」の話ではないのだ(これが「わが国内での」差別語の問題になるとまた話が違ってくる。かつて差別語でも何でもなかったものが、いつの間にか「ナニモノかによって」指定されていったことについては、「断りもなくテメエの勝手なリクツを押しつけてんじゃねえ」と文句を言うのは当然のことだ。「侵略」を受けているのは差別語とされた言葉を全く差別的な意図なくして使っている我々の方なのである)。 呉さんの「『支那』は支那を呼ぶ歴史的な名称」で「差別的な意図はない」という主張もわかる。「日支事変」を「日中戦争」と後代に言い換える愚も指摘すべきだろう。ただ、現代、中国を呼ぶ呼称に困るのであれば、「チャイナ」でよいのではないか。「過去に日本はチャイナを『支那』と呼んでいた」という文脈で「支那」という言葉を使うのであれば、中国人も呼称の改正を要求したりはしないと思うのだか。
2001年08月26日(日) アノ娘にもツバがついていたのね/DVD『2001年宇宙の旅 スペシャルエディションBOX』 2000年08月26日(土) 森の木陰でドンジャラ補遺/『金髪の草原』(大島弓子)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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