無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2003年07月26日(土) オタクな本屋にクラシックは似合わない/『TNくんの伝記』(なだいなだ)/映画『デブラ・ウィンガーを探して』ほか

 ノンフィクション作家の鈴木明さんが、22日に、虚血性心不全のため死去していたことが判明。享年77。
 記事にはその代表作として、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作の『「南京大虐殺」のまぼろし』や『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』などが紹介されているが、私が読んでたのは『リリー・マルレーン』の続編とも言うべき『わがマレーネ・ディートリッヒ伝』と『維新前夜』、ともに小学館ライブラリーの一冊である。
 ノンフィクションと言いつつ、情感溢れる筆致は小説のそれに近く、「実録」作家としてはこの書き方は評価されにくいんじゃないかなあと、やや心配した覚えがある。
 『わがマレーネ』はベルリンの壁崩壊時の本人へのインタビューの失敗と、万博の思い出から書き起こされているが、歴史に翻弄されたドイツ女性の歌声が、歴史を愚弄する万博に招聘されたというのもまた歴史の皮肉であるとと鈴木氏は捉えていたようだ。敗戦を16歳で迎えた筆者にとっても、1070年のあの狂乱はいったいどんな意味を持っているのか、簡単には掴めない出来事だったのだろう。
 明らかに「浮いていた」ディートリッヒを私も見てみたかったと今にして思うが、当時小学二年生の私には、鈴木氏が困惑した「狂乱」のほうがむしろ心地よかったのである。


 夕方4時、練習帰りのしげ&よしひと嬢と映画に行こうと、天神の福家書店で待ち合わせ。
 時間ちょうどに店に着いたが、二人の姿はまだない。携帯に連絡を入れたが、少し遅れるとのこと。仕方がないのでしばらく買う本を物色する。
 店内にはなぜかジャズが流れているが、これ、二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』に使われてる曲なのだった。なんか聞いたことあるな、と思ったが題名がどうにも思い出せない。どうやらちょっと前にサイン会が開かれていたらしく、「二ノ宮知子」コーナーが店の一角に設置されていて、サインが飾られている。「のだめは福岡出身です。応援してね」とか書いてるけど、リップサービスじゃないのかな(^.^)。一緒に今流れている曲がズラリと書かれたパネルも置いてあったので、それで確認してみた。

 ・ベートーベン/ピアノソナタ 第8番 ハ短調Op.13「悲愴」
 ・モーツァルト/2台のピアノのためのソナタ ニ長調K.448
 ・ベートーベン/交響曲 第1番 ハ長調 op.21
 ・ベートーベン/交響曲 第1番・第3番「英雄」
 ・ベートーベン/ヴァイオリンソナタ 第5番 ヘ長調 作品24 「春」
 ・ベートーベン/交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 「合唱」
 ・マーラー/マーラー交響曲 第8番 変ホ長調「千人の交響曲」
 ・ベートーベン/交響曲 第7番 イ長調
 ・ベートーベン/交響曲 第3番 Op.55「英雄」
 ・ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 Op.18
 ・ドヴォルザーク/第5番
 ・ガーシュイン/ラプソディ・イン・ブルー
 ・メフィスト/ワルツ第1番S.514「村の居酒屋での踊り」
 ・エルガー/ヴァイオリン・ソナタ ホ短調op.82

 ツラツラと眺めていって、ちょうど今流れてるのがジョージ・ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』であることに気がついた。こんな有名な曲までど忘れしてるんだから、ボケは確実に進行してるんである。
 「クラシック音楽コメディ」とオビに書いてあるが、そのわりには随分ベートーベンが多くないか。イカンというわけじゃないが、バッハとかハイドンとかヴィヴァルディが全然出てこない。けど、好きな曲も結構あるので、とりあえず1、2巻だけ買ってみることにする。
 そうこうしているうちに、二人が到着。待ちあわせ時間より30分も遅れてきたが、アクロス福岡に次回公演のチラシを置いてきたとのこと。それならそうと連絡を入れておけと言うのだ。全く気が利かないったらありゃしない。
 映画までにはまだ時間があるので、よしひと嬢も何か出物はないか、探している。押井守&大野安之の『西武新宿戦線異状なし』の完全版が出ていたので奨めると、「絵が嫌いなんだけどなあ」と言いつつシッカリ買っている。この分なら、押井守ボックスを買うのも時間の問題だろう(^o^)。
 「この本が面白いですよ」、と言ってよしひと嬢が奨めてくれたのが『のだめカンタービレ』。
 「いや、もう買ったよ」
 なんだかヘンな西手新九郎である。

 天神コア7階グルメパークの「喜水亭和楽」で食事。照明が大人しく、落ちついた雰囲気の中、手ごろな値段で定食や海鮮丼などが食べられる。しげもよしひと嬢もこの店は気に入ったよう。
 そのときの私のいでたちが『少女革命ウテナ』のTシャツだったので、よしひと嬢から「その格好で歩き回るのはやめた方が……」と言われるが、出かけるとき、手ごろな私服が見つからなかったのである。それに時間に遅れなければ映画を見てすぐ帰るつもりだったんだしねえ。

 そろそろ映画の開演時間が近づいて来たので、KBCシネマまで歩き。同じ天神と言っても、コアからは三区画ほど離れているので10分ほどは歩くことになる。ここに来るのはよしひと嬢は初めてだ。メジャーどころは殆ど上映しないミニシアターなので、今後も滅多に来ることはないだろうが、本当のことを言うと、ここに掛かるような毛色の変わった映画もいろいろ見てほしくはあるのである。

 映画は『デブラ・ウィンガーを探して』。
 ロザンナ・アークウェットが「女優と家庭は両立できるの?」と自分の尊敬する女優たちにインタビューし続けるドキュメンタリー(?)映画。
 だもんで、キャストだけはやたら豪華。
  パトリシア・アークェット、エマニュエル・ベアール、カトリン・カートリッジ、ローラ・ダーン、ジェーン・フォンダ、テリー・ガー、ウーピー・ゴールドバーグ、メラニー・グリフィス、ダリル・ハンナ、サルマ・ハエック、ホリー・ハンター、ダイアン・レイン、ケリー・リンチ、フランシス・マクドーマンド、ジュリアナ・マルグリーズ、キアラ・マストロヤンニ、サマンサ・マシス、キャサリン・オハラ、ジュリア・オーモンド、グウィネス・パルトロウ、マーサ・プリンプトン、シャーロット・ランプリング、ヴァネッサ・レッドグレーブ、テレサ・ラッセル、メグ・ライアン、アリー・シーディ、エイドリアン・シェリー、ヒラリー・シェパード=ターナー、シャロン・ストーン、トレイシー・ウルマン、ジョベス・ウィリアムズ、デブラ・ウィンガー、アルフレ・ウッダード、ロビン・ライト・ペン、総勢34人。
 でも、みんな言ってることは同じで、「四十過ぎたら仕事がなくなる」とか愚痴ばかり。タイトルにあるデブラ・ウィンガーにしてから、引退の理由は「演技力が上がってもそれに見合う映画がハリウッドにはなくなったから」だからなあ。選り好みしてただけなんでねーの? 『愛と青春の旅立ち』などはプロデューサーにセクハラされてて、手抜きの演技しかできなかったそうであるが、それもなんだか言い訳っぽい。
 多分、女優を使い捨てしているハリウッドの現実に問題があるという彼女たちの主張には、一理も二理もあるんだろう。けれど、そればっかり延々2時間も愚痴られ続けると、見ている客は、いい加減飽きる。そのうちだんだん、「愚痴ばかり言ってねえで仕事しろよ」という気分にもなってくるのだ。これって、逆効果ではないのか。気がつくとしげは隣で寝ているのである。
 話が面白かったと言えるのは、ウーピー・ゴールドバーグくらいのもの。
 「トシ取るとチチも垂れるケツも垂れる、垂れるなっつっても垂れる、どんどん垂れる。怒鳴って言うんや、『何垂れとんねん!』、そしたら『おまえのケツや!』て怒鳴り返されたわ」(意訳)とかそんな話(^_^;)。「垂れるチチやケツ整形してどないすんねん」っての、多分デミ・ムーアのこと揶揄してんだろうな。
 「聞ける」話をしてくれたのは大御所ジェーン・フォンダ。
 「入魂の芝居はたった8本だけ。神が降りて来たと感じたのはそれだけだけと、その瞬間があるからどうしても役者を辞められなかった」と。
 よしひと嬢も、唯一感動できたのはその部分だけだったとか。しげは「テレビで見りゃ済むじゃん」とすごく不機嫌。私だってハズレだなんて見るまで気がつかないよう(T∇T)。

 帰り道、博多駅前で知り合いの女の子二人に偶然出会う。いきなり若い子から呼びとめられたんで、てっきり逆ナンかと思った(嘘)。
 「何してるんですか?」と聞かれたので、「映画の帰りだよ」と二言三言会話。ところが、振り返ってしげとよしひと嬢を紹介しようとしたら、二人とも姿が見えない。さっさとバスセンターに向かっていたのだ。そのままはぐれるわけにもいかないので、女の子たちには早々に挨拶をして、しげたちを追いかける。タイミングよくバスが来ていたので飛び乗ることができた。女の子たちに引っかかっていたら、30分は待たねばならないところだったので、置いてきぼりにされたのがかえってラッキーだったということになるのだろうか。
 でもなんかちょっと納得いかないよねえ。


 今日もよしひと嬢はお泊まりなので、DVD『オーバーマン キングゲイナー』1巻をお見せする。オープニングのモンキーダンスは予想通りウケて頂いたが、本編は「何がなんだか」である。
 設定資料を見なきゃ物語はおろか人物も世界観もつかめない作り方ってのは、若いころはともかくトシヨリにはちとキツイ。とは言えこの人に「もっとわかりやすい作り方を」と要求するのはねえ。ヘンな人にマトモなものを作れと要求するっていうのは、八百屋に向かって肉を売れというようなものである。
 トミノさんは基本的に変人なんだから、決して巨匠扱いしちゃいけないのだ。巨匠扱いされたら妙に思想的なもの作りかねないからねえ、この人の場合は。


 帰宅が遅くなったので、チャットを覗くのが遅れる。
 あぐにさんがお久しぶりの書きこみ。けれど、しばらく実家に帰省されるとのご報告であった(^_^;)。ああ、学生さんには夏休みがあるんだなあ。サラリーマンには遥かに懐かしい過去である。
 あぐにさんにもお話できたら何か原稿をお願いしようかと悪企みをしていたのだが、見事にかわされてしまった(^o^)。まあ、ヒトの褌ばかり当てこんでないで、自分でちゃっちゃと更新しなきゃってことだわな。

 
 なだいなだ『TNくんの伝記』(福音館文庫・840円)。
 昨年8月から創刊されていた児童文学の新レーベル。私ゃ大学の専門がこっちなんだから、本当はこういうのをもっと読まなきゃなんないんだよなあ。でないと同窓会に出ても話が合わないんである。
 「創刊」と言っても、絶版になっていた単行本の新装版(「文庫」と銘打ってはいるが、サイズは17×13センチの新書版よりやや横長)が殆ど、ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』シリーズやヨハンナ・シュピーリの『ハイジ』、マイケル・ボンドの『くまのパディントン』シリーズなどが再刊されている。
 なだいなだ(どんなだ <c.筒井康隆>)の本作も、初刊は1976年だが、ようやくこうして廉価版が出た。多分、昔は図書館とかにも結構置かれてたと思うんだけど、私は眼にしたことがなかった。こういう名著にはもっと早く、学生のころにでも触れておきたかったと今更だけど残念。

 タイトルに「伝記」とある通り、これは幕末から明治にかけて生きたある人物の実録小説である。
 彼、TN君は、1847年に生まれ、1901年に死んだ。土佐の足軽の子に生まれ、長じて渡仏し、ジャン・ジャック・ルソーを学び、帰国して新聞活動を通じて自由民権運動を繰り広げた。「東洋のルソー」と称せられ、著書にルソーの訳書『民約訳解』や、『三酔人経綸問答』『一年有半』『続一年有半』などがある。大逆事件の幸徳秋水は彼の弟子である。
 こう書けば、「TN君」が誰なのか見当がつく人もいるだろうが、作者のなださんは、「ぼくの知ってもらいたいのは、彼の名前ではなくて、彼がどんなふうに生きたか、ということだからだ。そのためには、名前なんてじゃまになる」「名前と顔を知れば、なんとなく、その人間をよく知っていると思ってしまう」と書く。確かに、歴史の勉強を通り一遍に流しただけの学校の授業などでは、「坂本竜馬は薩長同盟のお膳立てをした」「勝海舟は江戸城を無血開城させた」「西郷隆盛は征韓論に破れたあと西南戦争を起こした」とか、そんな「出来事の知識」しか得られないだろう。名前はまさしく「知ってるだけ」なのである。こういうのこそ「ムダ知識」だと思うが、どうだろうか。
 私も、なださんに倣って、ここでは、あえて「TN君」の名前を明かさないが、まだ全然見当がつかない人は、あえて調べるのはやめて、本書を読んだあとで確認してほしい。TNはイニシャルだが、本名のそれである。

 TN君の印象は、一言で言ってしまえば「活動家たらんとして動けなかった学者」である。ヒドイ言い方だが、本文中にも「行動力のない、口だけの民権家」と非難されていたことが書かれている。実際に政治家として議員になって最初の国会に参加したこともあるのだが、仲間の裏切りに合い、わずか三ヶ月で辞職している。
 西南戦争のさなか、TN君は西郷軍に合流し共に死なんとする若者を目の当たりにしながら止めることをしなかった。若者は、西郷に共感しながらも共に立って政府を妥当しようとしないTN君をなじったが、一切、口を開かなかった。ただ、熊本に向かった若者に付いて行っただけだった。いったい、TN君は何を考えていたのか。熊本まで同行しながら、結局は反政府のために戦わなかったのはなぜか。 
 けれどなださんは、そんなTN君のことをこう擁護する。
 「西郷は死ぬために立ち上がった。自分の死を利用させるために。だからこそ、自分たちは生き残らねばならぬのだ。そして、西郷の死を利用しなければならない。死を利用する。それはいやなことだが、それをやらねばならないのだと。しかし、TN君には、とうとういえなかった」
 「TN君は、学者として、ただ正しいと思う意見を口にし、自分の思うことをいい、信じるままに行動しただけなのだ」
 知行合一の陽明学的思考で考えるなら、TN君の哲学は机上の空論でしかあるまい。しかし「実行」は本当に「思想」や「理論」よりも上回るものなのだろうか。純粋理性は実践理性に劣るものだろうか。
 もしそうなら、戦時中の軍部の暴走は、全て正当化されねばならないだろう。戦争は常に肯定されなければならないだろう。
 TN君は常に座して動かなかったわけではない。自らが語る場所、語るための立場を確立するための手段は常に模索し続けていた。藩閥政府が民権運動を敵視し、自由のための言論をありとあらゆる権謀術数を用いて封殺しようとしていたことを熟知していたからだ。
 新聞が続々と政府によって発禁処分に合う様子を見て、社主に西園寺公望を担ぎ出して圧力を避けた。それでも西園寺が節を屈して社主を退いたあとは拠点を関西に移して新聞発行を続けた。「言論を守るための戦い」はTN君の一生を通して続いていたのである。
 「力」を持たない普通の人間であっても、自分の信じる道に従って、語り続けることができる。なださんはTN君の一生を通じて、「言論人のあり方」を若い人たちに伝えようとしている、そのように思える。

 TN君は聖人君子ではない。
 活動資金調達のためとはいえ、汚れた事業に手を出した。売春宿を経営しようとしたこともある。なださんはそれを「TN君は呼びかける相手がどこにいるか、見失うべきではなかった」と痛烈に批判する。仲間に裏切られ続けたTN君は、少しずつ政治の、歴史の表舞台から消えていきつつあった。
 TN君をもう一度「思想家」として復活させたのは、皮肉にも彼の死ゆえである。ガンに罹り、余命一年半と宣告されたとき、TN君は自らの全てを『一年有半』『続一年有半』の二冊の著作に纏めた。
 TN君は、日本人が未だ合理的な理論を持たず、転変する様々な思想に振り回され続ける様子を見ていた。明治末期に至って、TN君の目に最後の敵として映ったのは、今やその姿を徐々に表しかけていた「愛国心」「軍国主義」「帝国主義」という名の幽霊であった。TN君はその敵に向かって、「無神論の哲学がないところでは、理は感情に常にうちのめされてしまう」と、最後の闘いを挑んだのだ。TN君は力尽き、一年有半どころかガン宣告の後9ヶ月で死んだ。
 TN君の「無神無霊魂」の思想は多くの人々の心を打った。しかし、歴史はそんな人々の思いをも飲み込んで、幽霊の支配する時代へと突入していった。
 現代、未だ様々な亡霊の呪縛に捕われている人々の姿を見るにつけても、TN君の無神論が語っていたことの意味を、再検証してみる必要はあるのではなかろうか。

 まあちょっと固っ苦しい書き方をしてしまったけれども、奇人としても知られたTN君のこぼれ話も本書には満載である。
 「TN君は若いころ坂本竜馬のパシリだった」とか、「フランスに留学するために一面識もない大久保利通に道端で頼みこんだ」とか「外見で人を判断する連中を嫌って元老院に浮浪者のような汚い格好で通っていた」とか「芸者に向かってキ○○マ袋を広げて酒を飲ませたら、熱燗を注がれてヤケドした」とか、そんなんである。衒いのない生き方を標榜する人間は多いが、実践できる人間は少ない。果たしてTN君はただの奇人にすぎなかったのであろうか。それとも。

2002年07月26日(金) 親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか
2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか


2003年07月25日(金) ムダじゃムダじゃ/『フラッシュ! 奇面組』2巻(新沢基栄)/『ぼくんち 全』(西原理恵子)/『ねらわれた学園』(眉村卓)

 一昨日の『トリビアの泉』、帰宅が遅くて見逃してたので、ネットでネタだけ紹介してるサイトで確認をする。
 そこまでして見たいのはやっぱり好きなんじゃないかと突っ込まれそうだけど、そこがまた微妙なところで、「ここんとこをもちっとこうすれば面白くなるのになあ」という物足りなさ、隔靴掻痒感が強いからどうしても文句が口をついて出るのだ。とりあえず司会とゲストのツマラン喋りカットして、せめてあと二つくらいはネタを増やそうよ。
 「少年の声変わりの瞬間が録音されたレコードがある」ってのは見逃したのが惜しかった。随分昔に何かの科学番組でこれ流してたの(恐らく『四つの目』あたりではなかろうか)聞いたことはあったんだが、もうしばらくその存在自体忘れてたのだ。
 このネタがまた『へぇの本』にまとめられたとしても、CDをフロクに付けるわけにはいかないだろう(それともDVDで出るか?)。映像は写真で紹介できても、こういう「音モノ」は現物に当たるしかない。とは言え、1968年に発売されたという『変声期』というレコード、実際にそれを聞いてみたいと思っても多分もう売ってない。こういうネタこそ、テレビ向きなんである。
 「午前十時十分の『十分』の読み方は『じゅっぷん』ではなく『じっぷん』である」ってのは記録を見るとたった「12へぇ」であるが、高得点の「へぇ」(『変声期』は90へぇ)とのバランスを取るためにわざわざこんな誰でも知ってるようなネタ(マトモに学校に通ってた子なら小学校の時に先生から注意されてるはずである)を取り上げてるんだろうか。それとも制作スタッフは小学生並の学力もないのであろうか。もしも視聴者に対して「どうせテレビを見てる視聴者なんてこの程度で『へぇ』というに決まってる」なんて侮りがあるとしたらふざけた話である。
 ちなみに「十返舎一九」も読みは「じっぺんしゃいっく」である。高校のときに「じゅっぺんしゃ」とフリガナ打ってペケをもらった記憶のある方は多かろう。もっともこの間違いは圧倒的に多いんで、国語審議会もいい加減「じゅっ」の読みも現代語に関する限りは(古語や人名に関しては別)認めたらどうかと思うんだが。少なくともパソコンはもう「じゅっぷん」でも「じっぷん」でも変換してくれるぞ。

 さてこの『トリビアの泉』についてだが、西日本新聞に連載されている宮原哲氏(西南学院大教授)の『コミュニケーション哲学』77回に、次のような解説が載っている。
 本文は長いので要約すると、「現代は情報化社会である。溢れ出る情報に晒されて、我々は心の健康を害することもある。そうならないために仕入れた情報を他人に発信して新陳代謝を図らねばならない。しかしその情報を思いこみで解釈したまま発信してしまうと、他人を傷つけかねない。この番組に投稿された情報は、『へぇ』のボタンで評価されるが、その数が少なければそれだけ無駄な知識なのである。みんなで『へぇ』と言いあってコミュニケーションを図り、その平均値をつかむことが一人よがりの情報発信を少なくすることになるのだ」
 なんだかこの論法だと、「へぇ」のポイントが高い情報は「ムダ知識ではない」とでも言いたげだが、ポイント高かろうが低かろうが、ムダはムダではないのかね。どっちかと言うと、ポイントが高いほうがムダ度が高いと感じる人の方が多いんじゃなかろうか。
 宮原氏が、「もともとムダ知識なんだけど、コミュニケーションの道具として使える点ではムダではない」という意味で語っているとしても、じゃあ例えば「へぇ」度の低い「『十分』の読み」はコミュニケーションに役立たないムダ知識かというとそうではなくて、これ単に正しい読みを知ってるべきな基礎知識だから「へぇ」度が低いだけなんである。「消耗」は本当は「しょうこう」と読むとか「憧憬」は本当は「しょうけい」と読むとか、こんなのは知らない人が多くても、トリビアのネタにはならない。ムダ知識だけど、「使いようによっては」会話が楽しくなるとか、その方法を見せてこそコミュニケーションの道具となりえるのだ。 
 「クラーク博士って知ってる?」
 「知らなーい」
 「……『青年よ、大志を抱け』って言った人だけどね」
 「ふーん。で?」
 「その人、詐欺で訴えられたことあるんだよ」
 「ふーん、で?」
 「……」
 会話相手の知識を随分低く見積もってると思われるかもしれないが、仮にこれが「知ってる」であっても状況はあまり変わらないのである。
 逆に「『十分』の読み」でも、「最近の若い子って、『十分』の読みも知らないんだよ」と口火を切れば、コミュニケーションの道具に使えないわけではない。
 もちろんそこまで番組が「演出」してやる必要はないし、そもそもコミュニケーションの仕方を覚えましょう、というのが主眼の番組ではない。こういうトンチンカンな批評が出てくるあたり、やっぱり「ムダでない知識の方がエラい」、と思いこんでる御仁の方が世間には多いのである。ムダはムダだからこそ意味があると思ってる人も多いと思うんだがなあ。


 『ひょっこりひょうたん島』のキャラクターで、NHKのテレビ放送50年キャラクターであるドン・ガバチョの声を、先月亡くなった名古屋章に代わって栗田貫一が演じることになったというニュース。
 作者の井上ひさしの推薦ということだけれども、ルパン三世の時と言い、いらぬプレッシャーばかり与えられて、ちょいと気の毒な気がしないものでもない。役者の立場から考えれば、こういうオファーがあったら、これはとても断れない。叩かれることを承知で引き受けざるを得ないのである。それは名古屋さんが藤村有弘さんの跡を継いだ時も同様だったと思われる。
 実際、栗田さんのルパンの声、批判は多いがそれほどひどくはない。山田さんにしたところでよかったのは初期のルパンのときくらいのもので、『カリオストロの城』だって、クラリスとのやりとりなんか臭い部分が目立つ。何度か書いてるが、栗田さんより山田さんの方が上なんてのはただの先入観だ。
 問題なのは「似た声を」と発想する製作者側のほうなんで、藤村さんと名古屋さん自体、声質が全く違うので、この際、新しいイメージの役者さんを探してもよかったんじゃなかろうか。だって、このまま行くとトラヒゲの熊倉さんが亡くなったら、それも栗田さんにさせるのか、若山弦蔵、楠トシエ、中山千夏、堀絢子各氏、全員、栗田さんにやらせるつもりか、ということになってしまう。バカボンのパパだってもう三人もいるのだ。製作者も視聴者も擦りこまれたイメージに拘らず、「役者の演技」を見て評価してほしいものなんだが。


 しげがまだ『プリンセスチュチュ/雛の章』を見てなかったので、最後までぶっ通しで見る。しげは滅多に作品を誉めないので、ドキドキものだったのだが(つまんないものを見るとヤツアタリされるので困るのだ)、最後まで気に入ったようで助かった。
 そうだよなあ、もしもアレがアレになっちゃってたらアレと同じだもんなあ。アレがアレのままだったからアレはよかったのだ。毎度のことですが、ネタバラシにならないように書くと何が何だか分らんのだけど、そこんとこはどうぞ御容赦。

 もともと今日はしげの仕事が休みだと聞いていたので、『チュチュ』を見終わったあともDVDマラソンをするつもりだったのである。ところが見終わるやいなや、急に「仕事に行く」と言い出してしげは支度を始めた。
 「休みじゃないのか?」と聞いたけれど、「今日は人出が足りないから」とのこと。何だかいたたまれなくなったらしい。
 こういうところを見て「奥さん、優しいじゃないか」とか誤解してはいけない。単に「自分だけが楽をしてるんじゃないか」という思いがプレッシャーになって、不安になってるだけなのである。でもこれが決してワーカホリックなわけではないから(家事はしないんだからとてもそうは言えない)、要するに心のバランスが取れてないだけなのである。
 家でやることと、仕事でやれること、どちらにも限界はあるんだから、もちっとアタマを使えば自分自身のプレッシャーからも解放されると思うんだが、どうしていつまで経っても学習しないのかね。


 夜、チャットで鍋屋さん、あやめさんと。
 あやめさんは久しぶりのお出ましだが、めでたく今回ご退職が決まったとのこと。退職したのに「めでたい」というのもおかしな話だが、ご本人が大文字で「めでたいの!!」と仰るから、めでたいのであろう(^_^;)。まあ才能のある人は何らかの形で頭角を表すものだから、退職されてもあまり心配はないんだろうね。ああ、羨ましい(T∇T)。
 私ももう職場の人間関係にホトホト疲れているので(つか、相手って一人だけなんですけど)退職できるものなら退職したいのだが(マジで「あの人に会いたくないから辞めたい」なんて感じたのは初めてである)、四十の坂を越えてこんな病気持ちが再就職できるはずもない。
 それでもいつかリタイアしなければならない時が来るかもしれない。あの、知り合いのみなさん、お願いなんですが、もしそんな事態になって、私の再就職先から探偵が来て(^o^)「藤原さんってどんな人ですか?」とか聴かれたら、「そうねー、典型的な生活無能力者のオタクだねー」とだけは言わないでくださいね(^_^;)。でもそれしか言えんか。


 マンガ、新沢基栄『フラッシュ! 奇面組』2巻(スクウェアエニックス/ガンガンコミックス・410円)。
 続編ではなくリメイクされての第2巻。ここからが高校生編で、新作なのに懐かしいギャグが満載である。でも、昔ファンだった人間なら分ると思うけど、今の若い人がこのギャグの「古さ」を楽しんでるのかどうか、本気で気になるねえ。ケータイにルーズソックス(東京ではまだ流行ってるのか?)の女生徒が描かれるようになっても、一応高校にはちゃんと番長がいるのである(^o^)。
 まあクラスメートのみんなが再登場するのは分るが、まさか手目小野若蔵まで
出てくるとは意外だった(^_^;)。
 あと、ゴルフねたで6回(半年)も引くのはちょっとやりすぎとちゃいまっか。その間、他の名物グループ出演できないし。


 マンガ、西原理恵子『ぼくんち 全』(小学館/ビッグスビリッツコミックス・550円)。
 カラー版単行本を全1巻に纏めた廉価版。映画化に合わせての発売だけど、4ページだけ描きおろしが付いてるので、そのためにだけ買いました。ファンはツライよ(T∇T)。
 描きおろしは特に続編ということではなくて、神子姉ちゃんと二太が裏山に登って沖の船に手を振る、それだけの話。それだけの話だけど、これ、文章だけでも立派な小説になっている。

> おねえちゃんが、船が帰ってくるから手をふりに行こう、とゆうので、ふたりで裏の山に登った。
> 「おねえちゃん、今日の船、誰か知ってる人のってんの?」
> 「むこうの町で、ひと月働いたら、毎日 朝のみそ汁にたまご入れられるて、それっきり。たまごなんて入ってなくてもええのになあ。みんながいっしょにおれたら、それが一番ええのになあ」
> 「あっそれはな、ボクもサンセイやっ。みそ汁なんてな、フジツボでええねん。ええにおいするし。朝ていぼういってな、フジツボと岩のりぴゃっとはがしてくんねん、ボクあれ大好きや」
> 船がきたので、ねえちゃんとボクは手をふった。
> 船からはみかんの花みたいにちいさい手がぴらぴらするのがみえて、みんな自分の一番好きな人とまちがえてるんだろうと思う。


 サイバラさんのこういう「感動モノ」を、「ウケ狙い」と嫌う人もいるようだが、私は情感を込めているようでいて実は細かいところに働いているストイシズムや冷たさが好きである。
 例えばサイバラさんは「人」を「ひと」とも「ヒト」とも書かずに「人」としか書かない。誰とは言わんが、やたら「ひと」に情感込めてひらがなでしか書かないポエマーとかいるでしょう。そういうのを毛嫌いしてれば、自然、「人」は「人」としか書けないのである(すみません、私もしょっちゅう「ひと」とか書いちゃいます)。
 「ゆう」という表記の仕方も同様である。「いう」という正式な書き方がサイバラさんには絶対に納得できないのであろう。「ゆう」が無教養さの象徴であるなら、サイバラさんは絶対に「教養」ある側には行けない人なのである。
 描かれる人間関係も、ベタベタな「絆」などではない。かの子も二太も船の人々もみな嘘をついている。嘘をつかなければ人間関係など結べないことを熟知している人ばかりなのだ。「優しさ」も「笑い」も「涙」も、全て虚構であることを喝破するサイバラさんの視線が、どうして暖かかろうか。
 人の心を揺さぶるのが愛情だと信じている人にはサイバラさんのこの冷徹さも暖かく見えてしまうのかもしれないが、私はこの『ぼくんち』のラストシーンの二太の笑顔を見たとき、「サイバラさん、鬼だ」と思って戦慄が走るのを覚えたものだ。
 あんたね、人生には別れしかないってラストで「あえて笑え」って、そんなふうに躾られてるガキ見て、感動できますか? このマンガ、見方によっては第一級の「ホラー」だとも言えるのだ。 
 てなわけで実は私、この本では泣いてません。泣いたと思ってた人もいるでしょう。いや、泣ける人はそれはそれで幸せなひとだと思いますよ。たぶん。


 眉村卓『ねらわれた学園』(講談社/青い鳥文庫fシリーズ・651円)。
 ここしばらく児童書のコーナーを回ってなかったので気が付かなかったのだが、講談社が小学生向けにSF・ミステリーのジュブナイルを積極的に提供しようと新シリーズを続々と創刊し始めている。
 「fシリーズ」の「f」は、SFの「f」、未来(future)の「f」、ファンタジー(fantasy)の「f」、ふしぎ(fushigi)の「f」なんだそうな。先月から、楠木誠一郎『お局さまは名探偵!』、小松左京『空中都市008』を皮切りに、毎月、2、3冊を上梓して行く予定で、今月はこの『ねらわれた学園』が目玉となる。
 本作はもちろん、これまでにも何度も版を重ねてきたし、映像化も何度となくされてきた(我々の世代には何と言ってもNHK少年ドラマシリーズの『未来からの挑戦』や、薬師丸ひろ子主演の映画&原田知世主演のドラマ化が印象に深い)ジュブナイルの傑作である。

 阿倍野第六中学校は、勉学一本槍の校風に反発する生徒が年々増えていく傾向にあった。新しく生徒会長となった美少女、高見沢みちるは、その魅力的な微笑と不思議な力で「校内パトロール」を結成、少しずつ、そういった「反動分子」を「粛清」していく。彼女の正体は、その真の狙いは何なのか? 校内が日に日にただならない雰囲気に包まれて行くのを感じた関耕児と楠本和美の二人は、高見沢みちるの通う「栄光塾」にその秘密が隠されていることを知る……。

 私が最初にこの小説を読んだのは、主人公の耕児、和美たちと同じ中学2年のことだと思う。
 これにどれくらい影響を受けたかというと、中学校の生徒会で「最近、校内の風紀が乱れているように思います。生徒で校内パトロールを実施したらどうでしょうか」と提案し、見事に却下されたことがあるくらいだ(^o^)。
 もちろんこれは、却下されることが目的だったのである。いやね、心情的には当然、耕児たちに共感を覚えてたんだけど、私本人は別に熱血漢でも正義漢でもなかったから、あえて逆の立場を取ってみて、当然みんなもこの本を読んでいるんじゃないかと思って「遊んで」みたのよ。まかり間違って、提案が通ることにでもなったらそのときはかえって困ることになってたんじゃない? という疑問を抱く方もおありだろうが、その心配はいらなかったのだ。
 会議の席である女の子が「それ、『ねらわれた学園』でしょう?」と言って、本作の村田和美そのままに、パトロールの不当性を訴えた。私もあっさり自分の提案を取り下げた。
 もちろんその子にも私が提案したことの意味はよくわかっていた。校内の風紀の乱れは現実にあって、先生たちも何か厳しい方策を、と考えている雰囲気がそのころにはあった。かと言って過激な「取り締まり」に何か意味があるのか、私はそのことに疑問を抱いていたので、その問い掛けを生徒たちに投げかけるのが目的だった。つまり「そこまで厳しくしなくても、自分たちの意志で何とかできる」という雰囲気を校内に作りたかったのである。
 その女の子が『ねらわれた学園』を読んでいるだろうと私は目星を付けていた(別に図書カードとかをチェックしていたわけではないぞ。当時の「本好き」の子なら、たいていは文庫になったばかりのこの本を読んでいたのである)。予測は違わず、私の思惑はちゃんとその子に伝わったのである。そのときの彼女の微笑は忘れられない思い出になった。中学生に腹芸なんてできないだろうと考えるのは大間違いなのである。
 私たちの「計略」は効を奏して(会議の内容は生徒に全部公開されている)、我々が生徒会をしていたころの母校は、その前後の年に比べると風紀の乱れは随分と抑えられるようになった。その子は知的で、けれど勉強ができるのを鼻にかけたようなところはなく、相当な美人でもあったので、「あの子が頑張ってるならちっとはマジメにするか」という気分になった男子生徒も多かったようだ。
 私は私で、この件をきっかけにその女の子ともちょっとだけ親密になることができた(本の話をするようになっただけである。誤解なきように)。全く中学生のナンパというのは可愛いものである(^_^;)。

 話が横に逸れたが(^o^)、今回の新版、新たに作者眉村卓の前書きが付け加えられ、挿絵を『ブギーポップ』シリーズの緒形剛志が担当している。
 眉村氏は「主人公と反対側の敵対者とか、直接かかわりがなさそうな人物の身になって、そうした目から見ればどうなるか、という読み方もしてほしい」と書いている。「敵対者」は高見沢みちろや京極少年のことを指しているし、「直接かかわりがなさそうな人物」とは耕児の父親などだろう。中学生のころには気が着かなかったが、読み返してみると耕児以上にみちるや京極、耕児の父を描く眉村さんの筆致に熱いものが感じられる。
 「お前たちの戦いは、一時に高まった闘志によって盛りあがった、言わば短期的なものにすぎない」
 これは全ての戦いが終わったあとに父が耕児に語った言葉だが、こんなに「重い」とは中学生の時には気がつかなかったな。現代の「オトナの」運動家たちもこのセリフの意味をちょっと考えてみたらいいように思うが。
 緒形さんのイラストは、もう高見沢みちると楠本和美の魅力を満喫するに尽きる(京極さんもちゃんと楽しめます。女の子たち向けに念のため)。みちるはもうまんまマンティコアなんだが、一見ごく普通の正義漢に見える和美の「予感よ。私の、ただの予感」というセリフのシーンをちゃんとイラスト化してくれているのがスバラシイ。女はどんなにフツーに見えてもやはり魔物である(^o^)。

 それから「阿倍野」という地名で今回初めて気がついたんだが、これ、大阪での事件だったんだね(眉村さんは大阪出身)。共通語で書かれてはいるけど、これは「翻訳」されたものなんだろう(^o^)。ということは、みんなホントは大阪弁で言いあってたわけだ。
 和美は実は「予感や。ウチの、ただの予感」とか言ってたワケやね。高見沢みちるだけは大阪にいても共通語使ってそうだけど。今度ドラマ化するなら、原作通り大阪を舞台にして作ってみたらどうだろうか。 

 講談社のジュブナイルは、更に8月から書き下ろしシリーズの「ミステリーランド」を創刊するようだ。第1回配本として、小野不由美『くらのかみ』、殊能将之『子どもの王様』、島田荘司『透明人間の納屋』が広告されている。
 ミステリー、SFの最先端はもしかしたらこうしたジュブナイルから生まれてくるかもしれない。

2002年07月25日(木) 本当にあった怖くない話/『くっすん大黒』(町田康)/DVD『ミニパト』ほか
2001年07月25日(水) 福岡腰痛クラブ/『庵野秀明のフタリシバイ』ほか


2003年07月24日(木) 他に売れてるものがあるからいいじゃないか/『コータローまかりとおる!L』6巻(蛭田達也)/『灰色の乙女たち』1巻(加藤理絵)ほか

 昨23日、マルチメディア総合研究所が、2002年度の東京圏の店頭パソコン販売概況を発表。それによると、秋葉原のパソコン販売台数割合が、前年度比3.2ポイント減の29.9%、初めて30%を割り込んだとのこと。逆に新宿は前年度比0.9ポイント増で21.2%。研究所は「秋葉原地区では大型販売店の閉店など空洞化が進む一方、新宿地区では西口に大規模店が進出した」と分析している。けど「空洞化」って言い方は何なんだかねえ。別に空地が増えたわけじゃあるまいし。
 これってつまり、秋葉原にオタクショップが増えたことを言ってるんでしょ? ニュアンスとして、「オタクな野郎が増えたせいでパソコンが売れなくなっちまったじゃねえか」って含みがあるような気がして仕方ないんだが、これって私の勝手な思いこみか妄想だろうか。


 ハリウッド版『Dragon Ball Z』の監督を『GODZILLA』のローランド・エメリッヒが引き受けたかも、というウワサ。
 『ドラゴンボール』は全巻買ってるわりには思い入れがないので、誰が引き受けても構わんのだけれども、エメリッヒがばかすか予算注ぎ込んで作るとなると、『北斗の拳』とか『ストリートファイター』みたいなちょうど香ばしい程度のヘタレな映画にはならないで、随分大味なバカ映画になっちゃいそうな気がする。キャストがどうなるのかまだ全く伝わって来てないけど、エメリッヒが監督するとなると、これも結構ネームバリューのあるやつ選んだりしかねない。
 孫悟空をジェット・リーと言うのはありきたりだから、キアヌ・リーブスとかはどうかな?(^o^) で、ジェット・リーにはクリリンの方を演じてもらうと。そっちの方がハマリすぎかな。マイケル・ジャクソンとジャネット・ジャクソンで悟空とクリリンというのも考えたが、思いついただけであまり面白くはないな。
 チチは、マギー・チャンあたりが似合ってるように思うが、ルーシー・リューあたりが来るかも。スパルタママっぽい東洋人のイメージっつったら、アメちゃんにはこんなキャストくらいしか思い浮かぶまい。まあ必ずしも東洋人をキャスティングするとは限らんのだが。
 悟飯(息子の方ね)もそうなると必ずしも東洋人に拘る必要ないよなあ(つか、東洋人の子役なんて今誰がおるか殆ど知らん)。もうハーレイ・ジョエル・オスメントくんでもダニエル・ラドクリフくんでもいいけど、『ハリポタ』流れならロン役のルパート・グリントの方が似合ってるか。イライジャ・ウッドはもうデカくなっちゃってるからムリだろうな。
 ピッコロやベジータは誰がやってもなあ。ハリウッド俳優で顔が緑っぽいのを捜すと……おるかい(^_^;)。
 もちろんこんなのは、誰が何やろうがどうでもいいと思ってるから適当なことを言ってるんで、『DB』ファンの方はあまり目くじら立てないでくださいね。


 東宝が、19日から公開されている映画『踊る大捜査線 THE MOVIE2/レインボーブリッジを封鎖せよ!』の公開後3日間の興行収入が、18億円、観客数が126万人になったと発表。これはこれまでの記録、『千と千尋の神隠し』の16億円を抜く勢い。気の早いマスコミは最終的な興行収入でも「『千と千尋』を抜くか!?」と煽ってるが、映画のヒットは今や口コミとリピーターによって支えられているから、『ターミネーター3』や『ハルク』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』を向こうに回して、果たしてそこまでの魅力を観客に与えてくれるかどうか、ちょっと心許ない気はするんだが。
 もっともそのヘンは制作者側も充分考えているらしく、年末には「ディレクターズカット」版とか、音響を入れ直して更に迫力を増した「ニューバージョン」とかの上映も考えているという。……いやね、映画に各バージョンが生まれるのはもともと製作者と監督との間に異見が生じたせいとか、不可効力の面が大きかったんだけどね、それをわざわざ作るってのは道義的にどうなんだかねえ。そういうのが「戦略」になるって考えるのは分かるけど、せめてDVDになるときにしてくれんか。バージョン違いがやたらあるのって、観客にしてみれば「どれがホントの作品なの?」って悩まされるだけなんだが。
 映画は当然ヒットを狙わなきゃなんないものなんだけど、現実には、製作者の予測を越えた「何か」を観客が感じとった場合にのみ、爆発的なヒットにつながるってケースが圧倒的に多い。その「何か」ってのはまさしく「時代の要請」だったりするのだ。製作者が「読み通り」とほくそ笑むのは、そこに「思いあがり」が入ってるのは確実なんで、かえってヒットの分析を妨げてしまう危険があるんだけどね。


 昨日に引き続き、シティボーイズDVDボックス2、『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1995−1997』。
 『愚者の代弁者うっかり東へ』『丈夫な足場』『NOT FOUND あるいは、レイヴ・ウィズ・ザ・キャッチボール・シスターズ』の三本を収録。シティボーイズ三人に、中村有志・いとうせいこうが加わってギャグもシュールさもパワーアップした傑作群。シティボーイズの神髄を知りたい人はこのあたりからご覧になるのがオススメである。
 最初の二つはWOWOW放送時と殆ど同じで、前説のインタビューがカットされているくらい。つか、『丈夫な足場』には「この番組は平成8年5月4日に収録されたものです」というWOWOW本放送時そのままのテロップが流れるところまで同じ(^_^;)。これ、当時大竹まことが自動車事故起こして謹慎中だったんで流れたテロップなんだよね。そんなもんまでDVDに再録するかよ(-_-;)。字幕をマスターに焼きこんでたんなら、上から斜をかけるくらいのことはできるだろうに。大竹さん、これ見たら頭かかえるんじゃなかろうか。
 最後の『NOT FOUND』は、実際には凱旋公演として日比谷野外音楽堂での『非常識な青空』(と言いつつ、殆ど夜になってたが)を収録している。WOWOW放送時はこれが実に変則的な放送の仕方をしていて、始めこの『非常識な青空』を放送したとき、『外された人達』のスケッチだけはパナソニックグローブ座の公演バージョンのものと差し替えられていた(理由は不明)。更にその後、グローブ座版も完全放送されたのだが、そのときは野音版のときは演じられなかった「拡声器家族」のスケッチが一つ増えていた。
 DVD版は野音版の完全収録(ビデオ版と同じ)なので、『外された人達』は野音版が初めて収録それている。
 グローブ座版と野音版を見比べると、スケッチの完成度ではグローブ座版のほうが高いのだが、野音版には最後に特別ライブ「無間地獄&恋人たちのゴム脳」が追加されているので、できれば同時収録してほしかった。せめてボーナスディスクを付けるとか、そういうサービスが欲しいところなんだが、こういうライブDVDはたくさんハケるものでもないし、あまり予算をかけられない、というのが正直な事情なんだろう。
 チケット即日完売のこれだけ面白いライブショーでも、世間的な認知度はまだまだなんだなあ。見たことない人、いっぺん見てみようよ。今年行われたシティボーイズミックス『NOTA 恙無き限界ワルツ』のWOWOW放映は9月11日深夜12時(9月12日A.M.00:00)から。もっとも今回のライブはシティボーイズライブのレベルとしてはちょっと低調なんだけどね。


 マンガ、蛭田達也『コータローまかりとおる!L』巻の六(講談社/少年マガジンコミックス・410円)。
 掲載誌が「マガジンスペシャル」に移ってからの分だけれども、話がなかなか先に進まない。アクションを大ゴマで見せてるせいなんだけど、それがイケナイってことじゃなくて、単行本を3巻くらいまとめて読むとちょうどいいペースなんだよね。それにしても今回のシリーズのヒロイン(?)功流美母さんが全く出てこないっての、ちょっとまずくないか。人気あると思うんだけどな。
 久方ぶりの登場、天光寺のフィアンセの小夜子ちゃんが“わずか一年で”巨乳になったのにはちょっとねえ(^_^;)。いや、流行ものを取りこむのはこのマンガの昔からの定番だったからこれもありえることではあったんだけど、ロリコンキャラをいきなりイエローキャブにするかよ。これから活躍するならともかく、今までイロモノ以外の役に立ってなかったからなあ。ま、いいんだけど。


 マンガ、加藤理絵『センチメンタル漫画文學作品 灰色の乙女たち』1巻(スクウェア・エニックス/ステンシルコミックス・580円)。
 タイトルと表紙の絵柄だけで購入。つまんないとまでは言わないけど、まあ普通の少女マンガ。あまりこういうのに「文學」なんて惹句を付けないでほしいんだけどなあ。
 母親をなくして、父親と二人で生活してる村山ミサキ。ところが気が弱くて亡妻のことを忘れられない父親は、なんとミサキを放り出して家出してしまう。一人で気丈に生きる決意をするミサキだが、ステキな彼、春原純に出会ったことから、少しずつ頑なな心がほぐれていくのを感じ始める……。
 まあ、そういうマンガです。20年くらい昔だったら読みながら滂沱の涙を流したかもしれないけど、ちょっとこのトシになっちゃうとねえ。どうしても「その程度の不幸な子ならいくらでもいるよなあ」と思ってしまうのである。それでも主人公は別に自分の不幸に甘えてはいないから、不快感はないんだけれども、もう少し話のキモになるような工夫が作れないものかな。

2002年07月24日(水) ウソから出たアホウ/『追悼の達人』(嵐山光三郎)ほか
2001年07月24日(火) 目標達成!……って何が/『腐っても「文学」!?』(大月隆寛編)ほか



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)