無責任賛歌
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| 2003年06月14日(土) |
健康じゃないけどとりあえずは……/『名探偵コナン 特別編』19巻(青山剛昌・山岸栄一) |
昨日の『日本庭園の秘密』の続き。
また、クイーンの映画に関する趣味がそこここに見られるのも嬉しい。 エヴァを取り合う二人の男、スコット医師とテリー・リングは、一方が知的なダンディ、一方が野卑な乱暴者と好対照だが、スコットは作中、エヴァに向かって、「レスリー・ハワードとかクラーク・ゲーブルにうっとりすることは?」と聞く箇所があるのだ。 もちろんこの二人の役者は、1939年の映画『風と共に去りぬ』でハワードが知的なアシュレーを演じ、ゲーブルが野性的なレット・バトラーを演じているが、マーガレット・ミッチェルの手になる原作小説が出版されたのがまさしくこの『日本扇の秘密』の出版されたのと同じ、1936年なのである。この小説は出版当時から映画化が決定しており、誰が誰の役を演じるかが巷間、噂されていたのだが、さて、この二人の名前が登場しているのは果たして偶然の一致かクイーンの慧眼か。
ついでだけれど、映像化されたエラリイ・クイーンについて。 最初の映像化は1935年の“The Spanish Cape Mystery”。もちろん『スペイン岬の秘密』の映画化である。エラリィ役はドナルド・クック、監督はルイス・D・コリンズ。レナード・マーティンのビデオガイドによれば☆☆1/2。結構評判はよかったようだ。 続いて、1936年の“The Mandarin Mystery”。原作は『チャイナ・オレンジの秘密』。エラリィ役はエディ・クィラン、監督はラルフ・スタウブ、どうやらコメディ仕立ての映画になっていた模様だが、当時の探偵ものはだいたいそういう感じのものが多かったようだ。クイーンが後に映画化をしぶるようになるのもこのあたりに理由があるのかもしれない。 三人目のエラリィが一番有名で、シリーズ化もされた。近年まで『大逆転』や『プリティ・ウーマン」などにも顔を見せていたラルフ・ベラミーである。 “Ellery Queen, Master Detective”(1940/カート・ニューマン監督。原案は『日本扇の秘密』だけれど、キャラクター名は変えられ、もちろん日本的なものは一切登場しない) “Ellery Queen's Penthouse Mystery”(1941/ジェームズ・ホーガン監督。以下同じ) “Ellery Queen and the Perfect Crime”(1941/原案は『悪魔の報復』) “Ellery Queen and the Murder Ring”(1941/原案は『オランダ靴の秘密』) の四本が制作、これは全て映画用にクイーン自身が脚本を書き下ろしたもので、マーガレット・リンゼイ扮する女探偵ニッキー・ポーター(この名前が『ジゴマ』に登場する探偵ニック・カーターをもじっているのは明白。クイーンはニックものの映画化も手がけたことがある)とコンビを組む形が作られた。とは言っても、実はその前年のラジオドラマ化でニッキーは既に登場しているのだが。片岡千恵蔵の多羅尾伴内、金田一耕助シリーズに、助手として女探偵がいつもくっついてるそのルーツはこのあたりにあるだろう(『影なき男』シリーズは夫婦だしな)。 後に最初の三作は小説化され、それぞれ『消えた死体』『ペントハウスの謎』『完全犯罪』と題して『エラリー・クイーンの事件簿』に収録されたが、実はこれは全て代作者の手になるもの。原案作品と読み比べてみるのも一興だろう。 リンゼイのニッキーは変わらず、監督もホーガンのまま、エラリィ役者だけをウィリアム・ガーガンに変えて、更に三作、“A Close Call for Ellery Queen”(1942)、“A Desperate Chance for Ellery Queen”(1942)、“Enemy Agents Meet Ellery Queen”(1942)が作られる。 これら戦前作品はみな日本未公開。全て日米の関係が悪化した時期の作品だから仕方がないのだが、これだけの作品が作られていて、戦後になっても一本も輸入がなかったというのは不思議ですらある。 各役者の当時の写真を御覧になりたい方は次のサイトをどうぞ。でもどいつもこいつも鼻眼鏡付けてないんじゃ、エラリィとは言えないよね。 http://www.mindspring.com/~mkoldys/movies.htm
エラリー・クイーンの活躍は、戦後はテレビに舞台を移す。 こちらは数が多いので、とても書ききれない。でもそのほとんどが日本未輸入。詳細は次のサイトでご参照下さい。 http://www.mindspring.com/~mkoldys/episodes.htm ここに紹介されているテレビ作品のうち、日本で紹介されたのはピーター・ローフォード主演の“Ellery Queen: Don't Look Behind You”が『青とピンクの紐』というどうしょうもないタイトルでテレビ放映。原作は『九尾の猫』である。ジム・ハットン主演のテレビシリーズも放映されたはずだが、私はいずれも未見。見ても多分つまんなかったんじゃないかな。刑事コロンボのオリジナルスタッフであるウィリアム・リンクとリチャード・レヴィンソンが制作してたのだが、さて、倒叙ものでないミステリだとあの人たち今一つだからねえ。それにどうやら現代に時代を移してるらしいのもマイナス要因なんである。
映画に戻って、『十日間の不思議』がフランスで“La Decade prodigieuse(「異常な10年間」英題/Ten Days' Wonder)”として1972年に映画化。なんと監督はクロード・シャブロルである。オーソン・ウェルズやアンソニー・パーキンスも出演していて、見てみたいのだが、これがまた日本未公開。フランス映画なので、エラリィもフランス人に置き換えられ、「ポール・レジス」という名前になっている。演じるのはミッシェル・ピッコリ。 そして今のところクイーン最後の映像化は、1979年、「エラリー・クイーンが映画になる」のキャッチコピーで本邦で映画化された野村芳太郎監督作品『配達されない三通の手紙』(原作は『災厄の町』)。考えてみたら、クイーンの映像化作品を私はこれしか見ていない。 当時は松坂慶子のセミヌードがやたら宣伝に使われていて(後に『青春の門』や『火宅の人』で完全ヌードを披露するようになるが、このころはまだ出し惜しみしていた)、パンフの裏表紙も全面、胸を隠した松坂さんのヌードであった。こういうことは細かく覚えているのである(^_^;)。 エラリー・クイーンに当たる探偵役はボブ(名字がわかんねえんだよ)というハーフの留学生の青年という設定で、演じていたのは蟇目良。その二年前、朝の連続テレビ小説『風見鶏』で、新井春美の相手役をさわやかに務めていてある程度顔が売れてはいたが、外国作品が原作だから外人を探偵にしたのかと、当時はその安易さに鼻白んだ人も多かったと思う。今だったら黒田アーサーにやらせるのか。ヒロインが安達祐実だったらお笑いになるぞ。 映画は原作よりも随分アッサリした作りになっていて、犯人もトリックも簡単に割れる。脚本の新藤兼人が本格ミステリの書き手としてはあまり妥当ではなかったせいだと思う。『事件』の時はよかったんだけどなあ。 それでも佐分利信・乙羽信子・小川真由美・栗原小巻・神崎愛・片岡孝夫(片岡仁左衛門)・渡瀬恒彦・竹下景子・米倉斉加年 といった演技派の好演に助けられて、地味な印象の強い野村作品の中では珍しく豪華な印象を与えていた。DVDが出れば絶対買うんだがなあ。
つい長々と書いてしまったが、若い読者にとっては細かいウンチクはともかく、今回の新訳は「読みやすくとっつきやすい」だろう。ハヤカワ文庫版でクイーンのほぼ全作品が新訳で読めるようになったことは素直に喜びたい。 もっとも、本来のエラリィ・クイーンであるマンフレッド・リー(本名マンフォード・レボフスキー)とフレデリック・ダネイ(本名ダニエル・ネイサン)の従兄弟が二人で合作していたのは1958年の『最後の一撃』までで、ブレインであるリ―が引退してからは、執筆者としてしか関与していなかったダネイは「EQ」ブランドのプロデューサーとなり、それ以降の作品はすべて代作とならざるをえなかった。1963年の『盤面の敵』などはシオドア・スタージョンの作なのである。 それはそれとして、クイーンの作品は私も未読のものが多いから、これから読んで行くに吝かではないのだが、まだ一度もクイーンを読んだことがない、という方には、とりあえず『Xの悲劇』と『Yの悲劇』をお奨めする。もっとも探偵エラリィは出てこないんだけど。
マンガ、青山剛昌原案・山岸栄一漫画『名探偵コナン 特別編』19巻(小学館/てんとう虫コミックス・410円)。 最近は、特別編のほうがお話自体は青山さん自身が描いてるものより出来がよくなってきてるような。画力を比較するとアシスタントさんたちが描いてるのはまだまだなんだけどね。 もちろんご都合主義はどの話にもつきものだし、トリックに無理があるものも多いんだけれど、「てんとう虫コミックス」だからと言って、手抜きはしないように、という配慮が働いてきているのではないか。昔ほどチャチなトリックが少なくなってきているのである。 本編でも数少ない倒叙推理もの、「名探偵VS完全犯罪」などはもう少しページをあげて、じっくり描いてほしいくらい緊迫感がある。青山さんもウカウカしてると、アシストさんたちに足元救われちゃうぞ。 それにしても『コナン絶体絶命』で強盗犯に撃たれた阿笠博士、なんで助かったんだ?
朝方、しげに眼科まで送ってもらう。 精密検査は点眼して瞳孔を開き(ルパンがデジレに変装するときに使った手だな。今もアトロピンを使ってるのかどうかは知らないけど)、医師が光を当てて中を覗き込むという、考えてみれば随分アナログな検査である。 糖尿でない人はこの瞳孔が20分ほどで簡単に開くのだが、糖尿病者の場合、これがなかなか時間がかかるのである。私も1度の点眼では効かず、2度点眼して結局は30分以上、目をつぶってじっと待っていなくてはならない。この間、悪い想像ばかりがアタマを経巡って、精神的によろしくないこと甚だしい。 しげは鴉丸嬢と舞台の小道具類を買い物するというので、私の検査中に彼女を迎えに行く。 待機中、目をつぶっていても左目にかけてチックが起こる。しばらくこんなことなかったのになあ。 ようやく瞳孔が開いてくる。目の前のものが白く反射し出してまぶしい。 土曜日ということもあるのか、小さな眼科なのだけれど、待ち合いには患者さんが4、5人。ちょっと待たされて、やっと呼び出される。それでも自分では瞳孔が開ききってないような気がする。 何やらごっつい機械にアゴを乗せ、まぶしい光を当てられ、目を覗かれる。その間、「右見て、もっと右、上見て、真っ直ぐ見て、瞬きしないで、左見て、左下見て、まぶしいの我慢して、下見て」とうるさい注文。でも唯々諾々とするしかない。 検査が終わって、医師が首を傾げる。「念入りに見たんですが、前回の結果にあった白斑も眼底出血も見当たりませんねえ」 「それは異状なしってことですか?」 「異状はありますよ。ヘモグロビンA1Cが高過ぎます。いつ出血してもおかしくありません。そうなったら糖尿はもう相当進行してます」 「写真に映ってたってのは間違いでしょうか」 「わかりませんね。念のため、2ヶ月後に来て下さい。2ヶ月間隔で検査していったほうがいいでしょう」 以前は「1年に一回でいいですよ」と言われていたのが随分短縮されたものだ。ホッとした反面、油断は禁物ということなのだろう。
待ち合いに戻ってほどなく、しげと鴉丸嬢が迎えに来る。 見えない目でムリヤリ雑誌を読んでいたので、「なんだ、目ぇ見えるんじゃん」と鴉丸嬢が拍子抜けしたような声。もちろんメガネをかけていてはまぶしすぎるので、裸眼で雑誌に目を当てるようにして光を遮断して読んでいたのである。 「そうまでして本を読むか」と呆れられたが、それが常識というものだろう。だから本や映画に関しては私は非常識を通してるんだってば。 けれど、さすがにそろそろ本格的に世界がまぶしくて目を開けるのが辛くなってきたので、しげの肩に手を置いて薄目を開けて、車まで案内してもらう。 しげ、「ヘンなのが肩に手を置いてるみたいで気持ちが悪い」と本当にイヤそうな声を出す。ヘンなのって何なんだよ。
昼飯の弁当をコンビニで買ってもらって、私は帰宅、しげたちは買い物に出発。 飯はお握りとハンバーグ。やっぱり薄目を開けて食べる。そのあとは、どうせ目を開けてはいられないので、そのまま昼寝することにする。
起きると午後の2時。帰宅したのが10時半ごろだったから、3時間ほど寝たことになる。ちょうど直後にしげも帰宅。しげはこれから夜の映画に向けて昼寝である。しげは夕べもバイト先の人たちとカラオケ三昧だったので、あまり寝ていないのである。 その間、私はチビチビと日記を書き進める。 6じ過ぎになってしげを起こすが、寝惚けたしげ、自分がなぜ起こされたか、まるでわからない。 「なん、どこ行くと?」 「映画に行きたいって、自分が言ってたじゃん」 「なんの?」 「テリー・ギリアムの新作!」 なんだかよくわからないままに慌てて起き出すしげ。なんとか車にすべりこんでようやく正気に戻るが、時計を見て、「なん、時間まだあるやん。慌てて損した?」と私に聞く。 「ギリギリに行ったら焦るくせに。時間はちょうどよかろうが」 「いきなり起こされたけん、寝惚けとったとよ」 起きてる間だって、ずっと寝惚けてるようにしか見えないんだが。
長くなったので、この続きはまた明日。なんかどんどん先送りになってくなあ(^_^;)。
2002年06月14日(金) 狂ったヒトふたり。片方は軽いけどね/映画『模倣犯』 2001年06月14日(木) ミステリー波止場の片足/『あひるの王子さま』1巻(森永あい)
| 2003年06月13日(金) |
ある正義の死/『日本庭園の秘密』(エラリィ・クイーン) |
実は今日は、前に書いた、「余興」を披露する日であった。 まあ、詳しいことは職場の内部事情に属することなので(ホントかよ)ちょっと書けないんですが、やや物議を醸しちゃったようです。バカやり過ぎたんですね。若い連中にはウケてましたが。 いや、たいしたことはやってないんですよ、コスプレして「白鳥の湖」踊っただけですから。白鳥の首が腹んとこからニョキッと生えてたのがまずかったのかなあ。あくまで腹の上で腹の下じゃあないし、腰も動かさなかったんだけど。 まあ、職場に対するストレスが溜まると、たまにこういうバカもやりたくなるってことで。
しげが父に低反発枕をプレゼントに買っていたので、父の店に行く。 プレゼントを渡してすぐに帰るつもりが、ちょうど店がヒマだったので、散髪させられる。 散髪中、二人して北朝鮮の悪口などを言い合う。相変わらず口さがない親子なんである。 帰りしなに明後日の夕食に誘われる。さあ、これで一食分、お金が浮いた。これなら明日、しげを誘って映画に行けそうである。
俳優グレゴリー・ペックが昨12日に老衰で死去。享年87。 厳密に言えば私の両親の世代のスターなので、私自身はそれほど思い入れはないのだが、それでも片っ端から映画を見てれば自然と10本以上は彼の映画を見ることになる。リアルタイムで見た最初の映画は『オーメン』だろうが、これとてもう27年も昔の映画だ。当時、名優グレゴリー・ペックがこんな安っぽいホラー映画(あくまで当時の第一印象です)にも出るのか、と驚いた記憶があるから(あるいはそれは母の述懐であったかもしれない)、それ以前に名前くらいは知っていたのだろう。少なくとも『ローマの休日』はもう見ていたと思われる。 ところがその誰もが名前を挙げる『ローマ』にしたところで私の関心は専らオードリー・ヘプバーンに向いていたし(男ならたいていそうであろう、あとは脇役でカメラマンのエディ・アルバートが好きだったね)、初期の『白い恐怖』はイングリッド・バーグマンの美しさに専ら見惚れていた。晩年の『私を愛したグリンゴ』に至っては、ジェーン・フォンダのヌードしか覚えていない(^_^;)。 いかにもヒーロー然としたペックの風貌と演技には、女と悪役を偏愛する私には引っかかるものがほとんどなかったのだろう。もちろん「そういう人」がいなければ映画が成立しないことは承知していたのだが。 確かにカッコイイ人ではある。『ローマの休日』のラストシーンで、ポケットに手を突っ込んで無造作に去っていく彼をアオリのアングルで捉えたときの「足の長さ」はえらく印象に残った。アレが「長い足はカッコイイ」ということを私に認識させた最初の記憶ではなかったか。 足の長さに反発したわけではないが、アメリカ流の正義とか民主主義とかに子供の頃から反発みたいなものを覚えていた私にしてみれば、彼の「カッコよさ」にも何かしら欺瞞のようなものを感じていたのだと思う。もちろん、私生活では敬虔なクリスチャンであった彼自身はきっと誠実な人だったのだろうが。 同じくアメリカの民主主義を代表しているように見えても、どこかイラついてて腺病質に見えるジェームズ・スチュアートや、無骨で融通の効かなそうなヘンリー・フォンダの方が私の好みだった。その点、ペックはいささか「カッコよ過ぎ」たのである。 そう言えばある掲示板で、ペックを追悼しながら、その代表作として、『ローマ』のほかに『めまい』や『北北西に進路を取れ』を挙げている人がいた。しかもその掲示板の誰一人としてその間違いを指摘していない。若い人なんだろうが、ちょっとこの間違いはひど過ぎないか(念のために書いておくが、『めまい』の主演はスチュアートで、『北北西』はケイリー・グラントである。始終スケベったらしいグラントと間違えられるとは!)。 けれど、ちょっと冷静になって「いかにもヒーロー」なペックのアメリカ映画における立ち位置を考えてみると、この勘違いも仕方がないようにも思えてくる。ヒーローを演じようとしてもどこか滑稽に見えてしまうジョン・ウェインには彼は決して間違われないのだ。 そう思うとき、さほど思い入れのなかったはずの彼の死の大きさが私にもようやく見えて来る。アメリカが失ったものは白井佳夫が指摘しているような「民主主義」の代弁者ではなく、映画の持つ真っ直ぐなカッコよさではなかったか。ヒーロー映画は作られる。主人公の苦悩も昔と変わらぬように描かれる。けれど、その苦悩を乗り越える力をペックほどに感じさせてくれる俳優が彼以後、どれだけいただろうか。『スーパーマン』のクリストファー・リーブも『バットマン』のマイケル・キートンも『スパイダーマン』のトビー・マクガイアもみんな弱っちく見えないか。『白鯨』をモチーフにした『ジョーズ』のロバート・ショウはどうだったか。 理屈抜きの、批評することを拒絶した、単純なスターへの憧れ。もはやアメリカはどこか屈折した形でしか映画を見られなくなっているように思う。
エラリィ・クイーン『日本庭園の秘密』(大庭忠男薬/ハヤカワ文庫・819円)。 エラリィ・クイーンの国名シリーズの最終作……と言っても実はクイーン自身からそうは認定されていないこともミステリファンには周知の事実。でもまあ、この日記を読まれる方にはその辺の事情をご存知ない方もおられるだろうから、簡単に。 この小説の原題は“The Door Between(間の扉)”と言い、「日本」という単語は冠されていない。しかし雑誌掲載時には“The Japanese Fan Mystery(日本扇の秘密)”というタイトルであって、『ローマ帽子の秘密』以来の国名シリーズを踏襲していた。変更の理由は、原作発表時の1936年という第2次大戦前夜の時代背景が影響しているということだ。それまでの長編には必ずあった「読者への挑戦状」も省かれているし、エラリィの決めゼリフ「Q.E.D.」もない。 しかし、この小説のタイトルは絶対に『日本扇の秘密』でなくてはならない。それは本作に他の国名シリーズ以上にクイーンの日本趣味が横溢しているからであるのだが、それだけではない。たとえ「日本」と謳っていても、『日本庭園の秘密』や『日本庭園殺人事件』(石川年訳・角川文庫)や『ニッポン樫鳥の謎』(井上勇訳・創元文庫)ではダメなのである。その点では今回の新訳も、原作タイトルの意味を理解していない、と言える。 実は、本作には「日本扇」は全く登場しない。翻訳者たちが首を傾げつつタイトルを変更しただろう事情は、創元版の脚注であの最低訳者の井上勇が「内容とはあまり関係がない」と書いてることからも見当がつくのだが、これは実際の扇を指すのではなく、「寓意」としてのタイトルなのである。 「扇」は何に使うものか。風で仰ぐものでしょ? と答えてしまってはその寓意は掴めない。日本の古典世界において、扇は「人の顔を隠すもの」であった。特に女の。本作の登場人物たちはみな、見事に自らの「顔」を隠している。探偵エラリィ自身が「単純に見えてこんな複雑な事件はない」と、最初ネを上げかけるのは、主要人物たちの本当の顔が見えてこないせいであるのだ。まさしくミステリ中のミステリを象徴するようなタイトル。これを「樫鳥の謎」などと改題した井上勇のマヌケさには、腹立たしさすら覚えてしまう。
日本贔屓の閨秀作家、カレン・リースが、日本庭園を望むニューヨークの自邸で怪死を遂げる。癌研究の大家、ノーべル賞受賞学者のジョン・マクルーア博士との結婚を控えていた彼女に、いったい何が起こったのか? 現場は窓に鉄格子がはめられ、屋根裏部屋へ通じる扉には鍵が内側から差し込まれ、入口の扉の見える居間にはずっとマクルーア博士の娘、エヴァがいた。 誰も入れるはずのない「密室」の中でカレンは殺されたのである。“もしもエヴァがカレンを殺したのでなければ”。 容疑をかけられ、パニックに陥るエヴァ。なぜかエヴァを助けようと策を弄する私立探偵、テリー・リング。固くなに証言を拒む琉球人のメイド、キヌメ(漢字で書くと「絹女」か?)。それぞれに秘められた思惑を暴き、隠された真実を解き明かすべく、エラリィは、父親クイーン警視とも対立しつつ捜査を進めて行く。 謎を解くキーワードは「ニッポン」。そして最後の決着をつけるマクルーア博士とエラリィとの頭脳比べ。果たして勝利の女神はどちらに微笑むのか。日本人ならずとも、これだけワクワクさせるプロットを持ったミステリは滅多にない。
ところがこれが、以前読んだ創元版では(角川版は未読)、例の悪訳のせいで実につまらなかったのだ。今回の新訳と引き比べてみると、訳文を見ただけでも明らかな誤訳と思われる部分が随所にあり、時には段落を一つ飛ばして訳しているところまであった。キャラクターの描き分けをセリフで工夫することもしていないし、ともかく読みにくい。以前も書いたが、クイーンの評価がクリスティーに比べると著しく低いのは、この悪訳のせいである点、非常に大きいのではないか。
一例を挙げる。カレンを発見した時のエヴァとテリーの会話の部分である。
A〔創元版・井上勇訳/99ページ〕 「ひまがない」褐色の男は低い声でいった。「そのほうがまだましだ ―― あんたは泣いていたように見える。あちらでは何に手をつけた?」 「なんですか」 「なににさわったかというんだ。さあ、早く」 「机と」エヴァは低い、ささやくような声でいった。「窓の下の床と、おお」 「なんたるこった」 「わたし、すっかり忘れていたわ、あることを。ぴかぴか光る宝石の飾りがついた鳥の形をしたもののことを」 エヴァは、またもや、男から平手打ちをくらおうとしていると考えた。それほどに男の目は熱っぽく、狂気じみていた。「鳥、宝石。なんたることだ。よく聞くんだよ。あんたは、その口をしっかり閉じておくんだ。ぼくのいうとおりにするんだよ。泣きたければ泣くがいい。卒倒してもいい。好きなだけ醜態をさらしていい。ただ、しゃべりすぎてはいかん」 男にはよくわからなかった。鳥とは。鳥のお化けとは。「でも ――」
B〔ハヤカワ版・大庭忠男訳/109ページ〕 「時間がない」褐色の男は小声で言った。「とにかく、そのままの方がいい ―― 泣いていたように見える。寝室では、なんに手をつけた?」 「え?」 「なんにさわったんだ? 早く言え!」 「机」エヴァは、ささやき声で言った。「窓の下の床。あ!」 「なんだ?」 「忘れてたわ! あるものを。ピカピカ光る石のついた鳥を!」 エヴァはまたぶたれるのではないかと思った。それほど彼の目は怒りにもえていた。 「鳥。石。なにを言ってる! いいか。その口をあけるな。おれの言う通りにするんだ。泣きたけりゃ泣いてもいい。失神してもいい。なんでも好きなようにやっていい。ただ、あんまりしゃべるな」 男にはわかっていなかった。鳥とか、半分の鳥のことは。「でも ――」
一読して、どちらがわかりやすいか歴然としているとは思うが、いくつか注を。 まず全体的にテリーの口調がAとBとではまるで違う。テリーは下町のしがない私立探偵だから、ノーベル賞受賞学者令嬢のエヴァとは立場がまるで違うのである。粗野で乱暴なBの方がずっとキャラクター性が表されているし、一人称だって、「ぼく」より「おれ」のほうがずっと自然だ。 Aのエヴァの「なんですか」は、多分、“What?”の訳だろうが、死体発見の現場で相当焦ってるだろうに、エヴァも随分のんびりした聞き方をしているものである。Bの「え?」のほうが簡潔で正解。 Aのテリーの「なんたるこった」は明らかに誤訳。エヴァはまだ何に触ってしまったのか、言い終わっていない。なのにもう驚くなんて、テリー、おまえはテレパスか。「なんだ?」と問いかけているBの方が正解だろう。 エヴァが触ってしまった「鳥」というのは、この段階では何のことだか分らないが、実は凶器に使われたと思われるハサミのことである。日本製で、ハサミの両刃が鶴のクチバシに模されていて、それのネジが取れて片方だけになっていたのである。 Aではこれを「鳥のおばけ」、Bでは「半分の鳥」としており、訳が全く違っているが、原書ではどうなっていたのだろうか。断定はしかねるが、元の単語は“freak”とかなんとか言ってたのではないか。つまり、クチバシが半分になって欠けている鶴を「奇形」と例えたのである。それをAは「お化け」と訳したのだろうが、これじゃ何のことだか訳がわからない。まだしも「かたわの鳥」と訳した方がしっくり来るが、Bの方はそれでは表現的に問題があると考えて、実質的な意味として「半分」と訳したのだろう。 どうもこの比喩自体、Aの訳者には意味がわかっていなかったような雰囲気がある。その前のセリフでテリーは「なんたることだ」と言っているが、エヴァがパニックに陥って「ハサミ」という単語が思いつかずに「鳥」としか言えなくなっている状況を見ているのだから、Bのように、「なにを言ってる!」と戸惑うのが自然である。いったいAのテリーは何にアタマをかかえているというのか。 こんなのはほんの一例に過ぎず、Aの方はこんな愚訳がページをめくるたびに頻出するのだ。全く、「適当な訳してるんじゃねえや」と怒声を浴びせたくなる。文章の「わかりやすさ」という点では、このようにどうしてもBの方に軍配が上がるのである。 とは言え、Bの訳に問題がないわけではない。 例えば、引用される人名について、訳者が知らないと勝手に名前をカットするということをやってのけている。Bの285ページで、マクルーア博士が結婚しても別居生活をしようと主張していたカレンを評して、「新しがリやの女優をまねた気まぐれ」と語る記述があるが、これがAの259ページと比較すると「リューシー・ストーナーふうの気まぐれ」と書いてあるのである。実は「リューシー・ストーナー」という女優は存在しない。これはルーシー・ストーン(1818-1893)という19世紀の女権拡張論者のことを踏まえた記述なのである。つまりこれはAもBも誤訳。正しくは「女権拡張主義者のルーシー・ストーンをまねた気まぐれ」か「ルーシー・ストーン主義者をまねた気まぐれ」としなければならない。こういう知識的なことはちゃんと調べて書いてもらわないと、本当に困る。 また、先の例でもわかるが、Bの訳では差別的に思える表現を極力抑えている。ところが、どうもそれがやり過ぎの感が強いのだ。 Aの28ページ「スコット医師は、片目で、あたりをちらりと見まわした」がB30ページでは「スコット医師は、ちらりとあたりを見まわした」と、「片目で」がカットされている。別にこのスコットは目が潰れているわけではない。単に片目をつぶっていただけのことだ。それをいちいちカットする神経過敏ぶりはどうだろう。 Aの175ページにはクイーン警視に「ジャップ」と言われたキヌメについて、「キヌメは、またおじぎをして、警視の不注意な代名詞などは気にもかけないようすで、落ち着きはらって階段をおりて行った」との記述がある。これがBの194ページでは、「キヌメはふたたびお辞儀をして、静かに階段をおりて行った」と、「警視の不注意な代名詞」の部分がカットされているのだ。 これなどは逆に差別を助長しかねない、全くバカな措置だろう。「ジャップ」が日本人に対する侮蔑的な意味を表すことを説明している部分を削除してしまっては、事実を知らぬ人間にとっては、これが普通に日本人を指す言葉だという誤解を与えてしまう。これなどは、作者クイーンが戦前の反日の風潮の中で、それでも日本に対する一方的な偏見を持ってはいなかった何よりの証拠になるではないか。 こういう例が本書にはほかにも随分ある。これが「言葉狩りの弊害」なのである。判断力のないバカに差別を語らせちゃいかんよ。 翻訳のことを語りだすとキリがないから、この辺で切り上げるが、こうなると結局、「そんなに訳に不満があるなら、英語を勉強して原書で読めば?」ということになってしまうのである。そんなヒマがあるかい(でもこれは本当に原書で確かめられるものなら確かめたいのだ)。 多少の誤訳は私は気にはしない。「訳文を読んだだけでも誤訳だとわかるような稚拙な訳」が問題だと言ってるんである。 このことは先日、よしひと嬢にも話したのだが、「翻訳者である前に、作家でないといけないですよね」と仰っていた。蓋し、至言であろう。 翻訳のミスを割り引いて考えれば、クイーンへの評価は格段に上がると思う。しかし、この『日本扇の秘密』が大傑作かというと、そこまで言えないのもまた事実である。 トリックも既成作品に依拠しているものがあるし、何よりある人物の心理の過程に不自然さがありすぎる(誰かは書けんが)。読了したあと、どうにも「しこり」が残るのである。 けれどやはり私はこの小説が好きだ。日本知識をひけらかす作者クイーンの稚気がこれだけ感じられる作品も滅多にない。カレンの書いた小説のタイトル『八雲立つ』のタイトルはもちろんラフカディオ・ハーンの筆名、元をたどれば日本最古の和歌と伝えられる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(素戔嗚尊)から取られているし、スコットがエヴァの足にフェティッシュな執着を見せるシーンなんか、まるで谷崎潤一郎の小説である。クイーンが谷崎を戦前に読んでいたかどうかは定かではないが、クイーン編によるアンソロジー『日本文芸推理12選&ONE』では谷崎の『途上』を選出しているから、もしかして以前から作品に親しんでいた可能性はある。
長くなったので続きは明日。
2002年06月13日(木) 暗い木曜日/『名探偵コナン』37巻(青山剛昌)ほか 2001年06月13日(水) とんでもございません(←これも誤用)/『少女鮫』6〜9巻(和田慎二)ほか
| 2003年06月12日(木) |
正義に勝たれても/『少年名探偵 虹北恭助の新冒険』(はやみねかおる) |
終日小雨。梅雨入り宣言はされたはずだが、まとまった雨が今のところ降ってない。今年は空梅雨かな。また水不足にならなきゃいいけど。1日中ジメジメしているが、風は吹いているのでそれほど不快というほどでもない。 仕事は忙しいが、この程度の気候なら、体調を崩すギリギリの線で何とかカラダも持っている。……と言いつつ、今日は早出の仕事があったのに、どうにも起きられずに同僚に連絡、遅れて出社。無理はやはり効かなくなっているのである。
奈良県市町村人権・同和問題啓発活動推進本部連絡協議会というところが(長いよ)、インターネットの掲示板への差別的な書き込みを監視する「インターネットステーション」を開設したとのニュース。 悪質な書き込みについては、プロバイダー法に基づいて発信者を特定して、名誉棄損や脅迫容疑で告発する方針だという。 とは言っても、いきなリ告発というような乱暴なことはせず、初めのうちは人権の大切さを理解できるような新たな書き込みをしていくんだとか。 気持ちは分らないではないのだが、この「悪質な書きこみ」っての、基準が設けられるものじゃないからねえ。なんだかんだでただの言葉狩りになっちゃうんじゃないかという危惧は否めない。 早い話が、今、私がこうして感想を書き連ねているこの文章ですら、「悪質」と判断されてしまうのであろうか? 出版業界の自主規制は、差別語、僭称語とされるもの自体を完全排除する方向に向かっているが、そんなことをすればこの手の問題について語り合うことすら困難になってしまう。 特に気になるのは、この協議会の人たちの姿勢が、「告発するのは認識を改めることなく、名誉を傷つけたり、脅迫したりする書き込みを続けたケース」と言ってる点で、もちろん法的に問題がある場合、それも仕方ないとは言えるが、初めから「認識を改めない」と、あたかも「認識を改めるのが当然」という考えで望んでいる点である。こういう何が差別で何が差別でないか、といったような明確な線引きのできない問題に関しては、自らもまた差別者でありうる可能性を常に忘れてはならないのではないか。絶対正義の姿勢がどれだけ危険かは、具体例をいちいち挙げるまでもなく、容易に想像できることだと思うのだが。 少なくとも、私が今まで出会ってきた被差別者の方々、部落出身の方々や、身障者の方々で、真剣にこの問題について考えている方々は、決して自分たちを被害者としてのみ捉えてはいなかった。巷間よく言われることのある「傷つけられた人間には、他人の痛みもわかる」というのがウソであることは、虐待されたことのある子供が親になったときに、その子をまた虐待するケースが多いことでも証明できる。 本来この言葉は、「傷つけられたことがあるのなら、他人の痛みも理解できるようにならなければならない」であって、自らが加害者になり得る可能性を否定しちゃいけないのである。 同協議会の平岡恭正事務局長さん、「差別は人を傷つけるという基本的なことを理解してほしい。賛同者を増やし、全国に啓発運動の輪を広げたい」と話しているんだそうだ。このコメント、どの程度ご本人の言葉のニュアンスが反映しているかよくわからんけど、これだけだと逆に差別に関する認識がえらく低いように見えてしまう。っつーか、理念だけが先走ってて、現実がまるで見えてないように聞こえちゃってねえ。差別がよくないことがわかってても現実には差別が横行してるわけだし、人を傷つけちゃいけないったって、人を傷つけずに生きていけるはずもない。「気をつけよう」なんてスローガンだけ言ってて世の中どうにかなるなら、とっくの昔にどうにかなっている。我々はこの現実をどうにも変革のしようもないジレンマの中で生きてるんであって、その事実を踏まえずにご大層な言質だけを撒き散らすのは、それこそ「賛同者」を増やすことだけを目的としたカルト宗教と何の変わりもない。 まあ、実際に、この人たちがどんな「書き込み」をしていくのか、それを見てからでないとこれ以上の即断はできないことだが、標的にされるのはまず真っ先に2ちゃんねるだろう。結構ハデな攻防戦が展開されるかもという気がするが、協議会、2ちゃんねらー、双方ともに頑張って頂きたいものである。私ゃいつも通り、傍観させていただきますんで(^o^)。
バタバタと仕事忙し、今日も帰りが遅くなる。 食事はミニストップで買ったお握りを歩きながらパクつく。“二つ折りにした”平たいお握りの間にハンバーグを挟んで、海苔で包んでいるのがちょっと変わっている。少しでも食べやすいように、という工夫だろうが、見かけはあまり美しくないので、あまり売れ筋ではなさそうな気がする。でも歩いて食べるには実にちょうどいい。 歩きながらなんて、なんて行儀が悪い、てなことは重々承知しちゃいるのだが、あまり非難しないでいただきたい。食事の時間と帰宅の時間をこうして兼用できれば、それだけ本を読む時間が確保できるのだ。 こないだよしひとさんから「雨の日まで傘差して本読まなくても」と言われてしまったが、確かに風呂でもトイレでも私は本を読んでいる。傍目から見て無節操だとか変人だとか、そう言われてしまうこともわかっちゃいるのだが、そうでもしなけりゃ、一日のうち本読む時間なんて、一般人がどうして取れようものか(^_^;)。
はやみねかおる『少年名探偵 虹北恭助の新冒険』(講談社NOVELS・735円)。 『少年名探偵 虹北恭助の新・新冒険』との同時発売だけれど、一冊だと厚過ぎるので二分冊としたもの。でも、そのおかげで一冊分のナカミが薄い印象がどうしてもしてしまう。活字を二段組にすればこの問題は解消できるはずなんだが、小・中学生も読むのでそれは避けたんだろう。まあ、私はオトナなのであまり目くじらは立てません(^o^)。 小説の内容よりも、イラストのやまざきもへじさんの絵で売れてるんじゃないかという気もするが、まあジュニアミステリとしてみれば、内容もそう悪くない。こういうのに日常描写が多くてミステリとしての味わいが希薄だとか、トリックがたいしたことないとか突っ込むのは野暮というものである。そういうミステリもあるのよ。 わたしはこの主人公の恭助が中学生のクセにペシミストで、けれどどうにも人間が好きでたまらなくて、だから不登校でずっと放浪しているけれど、たまに故郷の虹北商店街に帰ってくる、という設定が好きなんである。幼馴染の響子ちゃんには心配ばかりかけているけれど。 ……と書くと、もう気がつく人もいると思うけれど、この話、ベースは『男はつらいよ』なのだね。恭助の細い目は寅さんの目なのか(^o^)。 作者が「寅さん」ファンであるのは、作中に劇中劇として登場する若旦那たちの自主制作映画『名探偵はつらいよin虹北大決戦』『名探偵はつらいよ リターンズ』というタイトルからもわかる。ここまで堂々と寒いタイトルを付けられるのは、ファンであることの証明以外のナニモノでもないよ(^o^)。 今巻の大半は、この自主映画の監督である、カメラ屋『大怪獣』の若旦那が主役になって大活躍する外伝『おれたちビッグなエンターテインメント』で占められている。虹北商店街に昔からある映画館「虹北キネマ」には「つまらない映画をかけると『北斗七星が舞い降りる』という伝説がある」とか、「上映中に心霊現象のラップ音が聞こえたり、精神的な圧迫を覚える」映画の謎とか、ミステリ風味はちょっとあるものの、まあ、メインは若旦那ほか、映画オタクの狂乱ぶりだ。どこの世界に怪獣映画と横溝ミステリと寅さんとインディ・ジョーンズを混ぜて映画を撮るバカがいるか(^o^)。日本酒と青汁とレモネードと酢醤油を混ぜて飲むようなものである。飲んだことはないが。あっ、でも、平成『ガメラ』シリーズは怪獣映画とミステリを混ぜてたな。そこまでは許容範囲か。 でも、そのおかげで作中に恭助がほとんど出て来ないから、タイトルに偽りありではあるのだけれど(^o^)。
2002年06月12日(水) 悲しい日/『B型平次捕物控』(いしいひさいち)/舞台『笑の大学』ほか 2001年06月12日(火) マンガの画力って?/『新しい歴史教科書 市販本』(西尾幹二ほか)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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