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ただ一つの思いに執着しているだけの自分に気付いたとき、自分に対する偽りの罪の重さに打ちのめされる。人と人との間に、偽りの流れ込むことができる空間は目に見えずとも常に開かれているのかもしれない。一方的にそれを閉じることも、閉じたように見せかけることも不可能なのだ。それぞれが認識の上で、その空間の存在を知ることで初めて、偽りそれ自体は全て流れ去ったかのように見えるだけである。しかし、そこに他者の存在しない自分自身という空間に偽りがあるとしたら。それが見つかったとしたら。どこから生じたのかさえ分からないとしたら。罪であることを認めるしかない。自分自身を裏切った罪。自分自身に偽られたその未熟さ。偽る事を無意識に許した自分を悔やんだら、もうくり返すことは意識的に選択されないはずだ。
厳しいことを厳しい口調で言われてから2日ぶりにバイトへ。甘えを許していた自分を叱咤してくれる存在があることはありがたいことなのだと自分に言い聞かせつつも、闘争心だけは表情から隠せない。そしてそれは決して憎悪から来るものではないのだ。表情の奥にあるのは、二度と自分を甘やかさない決意と、二度と相手にちょう笑させる余地を与えないという意地ともいえるものだ。
最近は一日二食の生活が続いている。しかも2回とも全く同じメニューだったりする。栄養、美味、手軽という三要素を常に心がけ、美食より知食を重んじているゆえに、95%はベジタリアンメニューであるが、同じものを食べ続ける点では知的食生活からはほど遠い。流通経路を少し変える必要がある。鳥fluにもBeefにも、影響を受けないにしても。
感傷的になるのは勝手だが、いつまでもそれに浸っていると進めないだけでなく、破滅へと追いやられる。繊細さゆえに感じる、感傷は何も生み出さない。感傷的な詩や歌があっても、それは哀傷がいつしか時に彩られ一種の美を備えた記憶となり、感傷を抱いたことそれ自身に対する歓喜をも伴ったときに描かれてものであり、感傷それ自体から直接生まれたものではない。センチメンタリストを私は信じない。
昨日に続き、温かい。昨日は見上げて深呼吸したくなるほどの青空。そして、何より日差しに熱を感じる。これじゃまるで「春」。目を閉じると、まるで春の陽気のもと、京都の疎水沿いを散歩しているような幻想が現れる。春といえば京都なのだ。記憶。懐かしさに春を求める。それでも本当の春は、まだ遠い。
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