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| 2004年02月15日(日) |
nothing but |
会話だけではなく文章までも支離滅裂であることに、最近になってようやく気付く。会話は、相手の流れに乗せられやすいこともあるが、せめて文章にしたためる際は、完全に理路整然であることを心がけたい。読む習慣以上に、書く癖がなかったことが何よりの原因ではないか。
癖といえば、口癖。最近多いのは"I have nothing"という、この生存をも否定し得る、究極にネガティブな3語のフレーズ。のように、書いてみて一瞬思ったが、消極的な意味ではもちろん使っているつもりはない。むしろ、"nothing"に重きを置いてよいと思うからだ。今の人生は満ち足りているか。Yesとはいえないだろう。手に入れたいものは数え切れぬほど存在する。だけど、今のところそれが足りないからといって、決して不満ではない。手に入る可能性が残っている限り、生き続けることができる。野心を持って目標に向かうことができる(つまりはより長く若者でいられる?)。
今幸せか、と聞かれると幸せだと答えるだろう。なぜなら何も持っていないからだ。人は永遠を欲する。永遠の美貌だとか愛だとか富だとか。しかし、心のどこかでは、それらはいつか尽きるものだと分かっている。物事には終わりがある、と自分に言い聞かせる。あきらめ。しかし尽きないものがある、それが"nothing"だったり。そこでは喪失の悲しみを知らない。
書くことがないので、仏教にもある話を挙げました。メールを読みながら聞いていた、ケミストリーのsecond to noneに入っている曲の歌詞に、ふと気付かされたのがきっかけ。ちょど今の自分だろうと。
| 2004年02月10日(火) |
be changed |
結局のところ、誰によっても彼を変えることはできなかった。今の時点での結論だ。本人さえも望んでいるにもかかわらず。しかし、変わらない彼によって、私自身は変わったと思う。これは確か。彼を見つめること、それは同時に、自分自身をも見つめることを含んでいた。どう変わったのか。端的に言えば、良くなった。それならそれでいいわけで、ありがとうと感謝して、それ以上に何もいらない。
人が人を変えるのは難しい。人が人によって変えられるのは、それに比べると容易ではないか。またもや受動・能動態の観点から考えると「変えられた」物(者)がその実感を持って初めて「変えた」という現象が認められるのであって、その逆は無いと私は考える。
今日はほとんど家の中で過ごす。夕方に息抜きに散歩、帰りにカフェで読書。日常は時が経てば非日常に変わるであろうことに気付く。もう、カナダに戻ることはないでしょう。
頭痛を昨夜からひきずっていた。バイトも終盤になったころに、ようやく収まり始める。たまにこういうことが起きる。寝ても静まらない頭痛と疲労。
数日前に、某辻仁成作品を一晩で読み切り、物語のショックから直後に吐き気がし、翌日は絶望にも似た表情を消すことができず、精神的な戸惑い、迷いを今日あたりまでひきずっていた。ケミストリーの軽いラヴソングを聞きながらメールを書いたり読んだり。C&Aの歌を、都合の良いように解釈しながら聞く。なるべく深くは考えないようにする。所詮は小説だったり歌だったり。あくまで人が「創った」ものに過ぎない。小説のように生きている人が側にいる。まるで創られた世界を、現実のものとして生きているのだ。むしろそれが本人の人生、哲学であるかのように。私にも似た傾向がないとはいえない。自分のしてきたことを、人の創った歌や物語に重ねて回想することがある。馬鹿みたいな話だが。
しかしこれ以上、他人の作った物語に惑わされたり、希望を裏切られたりしたいと思わない。常識や理にかなう物語から外れたとしても、私の思うような人生を描いている小説が必要だ。かつて誰も創っていないというのなら、私が創ることが使命なのかもしれない。物語と現実のあいだで、揺れた数日だった。
「ある行いをした後で、悩まされ、眼に涙をためて泣き叫ぶ。そのような報いを受ける行為は、してはならない。」(ダンマパダ)
常に正しいしい選択を、ということを心がけていたが、今になってもやはりどちらが正しいのか間違っているのか、迷うことがある。その時の自分の気持ちに正直になることだけが、賢明な選択であるとは限らないからだ。それは、誰か自分以外の相手に向ける言動である場合はなおさらである。その瞬間だけの感情に決して押されてはなるまい。考えるまでもなく、正しいとはいえないと行動する前に自覚する場合もあれば、考えさらに考え、結果、感情を抑えなければならないときもあるだろう。正しいとは思えないと判断された行いを為すことがないように。少なくとも自分自身を認めてくれている相手だからこそ、ここまで考えなければならない、それだけの価値があるのだから。誰に対しても、そして自分自身に対しても公平に振舞えるようになるために。
率直に言うと、恋多き人生を過ごしてきたかもしれない。恋をするというよりも、むしろ無闇に、無秩序に恋心を抱きやすい質だったのだ。恋と愛の違いとか、よく議論されたり、作家にも語られたりしているが、それぞれの定義などどうでも良い。今思えばあれは恋ではなかった、などと言うつもりもない。質の良い悪いはあったにせよ、その時々においては、全身全霊でその時の自分なりの恋にぶつかっていたのだから。愛とは何か、なんてわざわざ考えるまでもなく、恋をしているということはその対象に愛を見出しているわけで。気付かなかったのは、その愛と見なすものが、真の優しさからくるものなのか、あるいは単なる執着なのか。静かに、止まらない涙を流し続け、心の奥底からこみ上げる思いを抑えられない自分を認め、他人を愛することがそのにとっての幸せであり、ひいては他人の幸せが自己の幸せであると気付いた時に初めて、いわゆる本当の愛とは何かということが分かるのかもしれない。真実だと信じるものを謙虚に信じ、謙虚に生きる、それで良いのだと思う。
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