寒い冬の朝、階下からのまな板の音と美味しいにおいに目を覚ますと、 あわてて階段をかけおりストーブの前に座る。
「おはよう」と声をかけてもらいながら、 ストーブの前で洋服に着替え、 髪の毛を結わってもらい、 美味しい朝ごはんをたくさん食べて、 ランドセルを背負って元気に学校に通った。
だけど学校の記憶はあんまりない。 学校ではあまり楽しくなかった。 学校が終わるとよく大声で歌いながら帰ったことを覚えている。 こう書くと近所迷惑極まりなさそうだが、 通学路にそんなに家も建っていなかったので問題ないとする。 歌う曲はなんだってよかった。
私はたんぽぽの歌がとっても好きだった。 「どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りたい」
それから曲名は忘れたけどイエス様の歌、 「かいばの桶で寝ている、優しい顔のイエス様、 お星が空でやさしく寝顔をずうっとみている」
あと、あのうた。 「ねえママ、どうか教えて、ママほど素敵な人に、 いつかは私もなれるのかしら」 っていう歌詞の歌。
残念ながら私は永遠にそんなママにはなれない。 素敵なママはおろか、普通のママにもダメダメなママにもなれない。 ランドセルを背負いながら夢見ていた明るい未来は今影も形もない。
ねっとりとまとわりつくような水分を多く含んだ熱風が 灼熱の太陽の日差しと一緒に私の体を包む。
流れ落ちる汗が熱くなった肌にひんやりと感じ、 肌より冷たい汗を不思議に思う。
今年もまた暑い夏がきた。 あの人のいない2回目の夏。
外からはミンミンゼミの大合唱が聞こえてくる。 暑くてぼんやりとした頭の中にわんわんと響く。 学校から戻ると床にひいたゴザの冷たさを追い求め ごろごろと転がり位置を変える。 あまりにも暑くて暑くて目を開けているのもいやになり目を閉じると せみの声がより大きくぐわんぐわんと頭に響いてくる。
ふと冷たい風を感じて目を覚ますと 外から聞こえるのはいつの間にかヒグラシの鳴き声に変わっていた。
「起きた?あっちーねー」 洗濯物をたたみながら汗だくのあの人が笑顔で私を見る。 「あっちーー」そう答えてだらだらと体を起こす。 「ほら見て。滝のように流れる汗」首から胸に流れる汗を見せて、 「あっちーねーあっちーねー!」楽しそうに笑う。
あの時のせみの声も、においも、風の音も、あの人の気配も、 この夏のそれと何も変わらないのに、あの人はいない。 あの人のいない世界は空虚すぎる。
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