Onry Me
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2001年05月30日(水) 「ちらり〜鼻から牛乳♪」と共に散った私の初恋(涙)


突然ですが・・・

私の初恋は幼稚園の時でした。

彼女はさくらちゃんという名前でした。

とても髪が長く色白で名前のごとく
桜のように可憐で本当にかわいらしい
女の子でした。

実は彼女と私は同じ団地に住んでおり、
幼稚園から中学校までずっと一緒の学校
に通っていたのです。

そんな彼女と最初に一緒のクラスに
なったのは幼稚園の時でした。

当時の私は彼女のことを一目見て
ソッコーで好きになってしまいました。
(幼稚園児でも恋ってするもんなんですね〜(笑))

しかし、いくら好きという気持ちが
あってもそこは幼稚園児。

私は自分の気持ちを伝える手段が解らず、
彼女に対してイタズラやチョッカイを
出すなどしてイジメていただけでした。

その後、幼稚園を卒業した私は小学校の
3年と4年の時に、再び彼女と同じクラス
になる事が出来ました。

しかし、同じクラスになっても今度は好きという
気持ちが強すぎて彼女の前に行くとあがってしまい
まともに喋れなくなってしまうのです。
そんなこともあって、3年の時は私は彼女と
ほとんど喋れなかった記憶があります。

そんなナイーブな?私も四年生になり、二学期の
席替えでついに彼女と同じ班になる事が出来たのです。

何処の学校でも同じだと思いますが大体、
自分の席の前後左右の6人くらいが一つの
班を作り、その班のみんなで掃除当番や
給食当番をやるのですが、彼女は私の斜め
後ろの席に座っており私と同じ班でした。

私は嬉しさを堪えながら、

「え〜お前らと一緒の班かよ〜」

などと、さくらちゃんを含め、同じ班の女子に
憎まれ口をたたいたりしていました。

でも内心は心臓がドキドキしており、その晩は
興奮しすぎて鼻血を流したのを覚えています(笑)

勉強が何よりも嫌いだった私は、この当時
学校の楽しみと言ったら

「友達と遊ぶ事」

「給食」

「さくらちゃんに会う事」

だけでした。

しかし、せっかく一緒の班になったにも関わらず
相変わらず私は彼女を前にすると緊張してしま
い、ほとんど口を利くことが出来ませんでした。

それでも私は彼女と同じ班だというそれだけで
とても幸せな気分になれたのです。

一緒にゴミ捨てに行ったり、給食当番をしたりと
そんな他愛もない事だけだったんですけどね(笑)

そして、なんといっても楽しみだったのが
給食の時間でした。
給食は、同じ班の人同士が席を向かい合わせて
食べるので私は斜め前に彼女を見ながら、
いつも美味しい給食を食べる事が出来ました。

しかし、この給食のせいで私は彼女に
嫌われてしまうことになったのです。

当時、男子の間では、給食の時間に牛乳を
飲んでいる人を笑わせて吹き出させて面白
がるというバカな遊びが流行っていました。

いわゆる、

♪〜ちらり〜
鼻から牛乳〜♪


って奴です(笑)

当然お調子物の私も「ちらり〜鼻から牛乳」に
よく参加してたのですが、さくらちゃんと同じ
班になってからは、そんなガキみたいなバカな事
やってられるかって意識がありやっていませんでした。

・・・・・結論から言うと
これがいけなかった。

丁度、私が牛乳を飲んでいた時にお調子者の
男子が私の所に来て私を笑わせようと面白い
顔をしたのです。

普段の私ならその程度の顔ではそうそう、
笑う事はなかったんだけど、この時は長い
事ブランクがあった為、思わず吹き出して
しまったのです。

「ブッブ〜〜〜〜〜〜〜!!!」

さくらちゃんの前では吹き出してはいけない!

そう思った私は、とっさに口を手で塞ぎ吹き出すのを
堪えていたんだけど、それが逆に良くなかった・・・。

逃げ場を失った牛乳はまず最初に私の鼻から飛び出し
次いで口からと、二箇所から一気に吹き出したのです。

私の鼻と口から吹き出した牛乳は私の給食を
飛び越え向かい側の女の子の所まで、水鉄砲
の如く勢い良く吹き出していました。

その直後、さくらちゃんを始め同じ班の女子の
悲鳴が教室中に響き渡っていました。

「ガーーーーーーーーーーーン!!」

私は顔面蒼白になりながら、どうしていいか解らず
とりあえず洗面所へと駆け込みました。
そして鏡を見た私は思わず泣いてしまいました。

鼻からは、牛乳のみならず

青々とした
鼻水も一緒に
垂れていたのです。



・・・それはまるで、
牛乳の白い色と鼻水の
青色が交じり合い、
クリームソーダに溶け出した
アイスのような鮮やかな色を
していました。


私の初恋の全ては、この日に終わりました。

その後は中学を卒業するまで彼女と一緒の
クラスになることはありませんでした。

彼女は中学生になっても学校の男子に
人気がありました。

私は中学三年の時に、友達から同じ団地に
住んでんだから彼女を紹介してほしいと
頼まれたことがありました。

しかし、この頃の私はすでに彼女と長いこと
別々のクラスだった為、学校ですれ違っても
挨拶をする事すらありませんでした。
唯一、彼女との接点があるとするならば、
防災訓練の時に同じ地区という事で家まで
一緒に集団下校するぐらいでした。

私は紹介してくれと頼んできたその彼に
「しらね〜よ!そんな事自分で言えばいいだろ!」
と腹立たしそうに言ってしまいました。

彼は学校で、とても人気がありジャニーズ系の
顔をしていました。
もし彼女が彼とつき合ったら・・・
そう考えると無性に腹が立ちました。
かっこいい彼に対し劣等感を持っていた、
私のせめてもの抵抗だったのかも知れません。
その後、彼が彼女に告白したかどうかは知りません。

中学を卒業して早13年。
私は前の団地から杉並の今の家に引っ越した為、
偶然町で彼女を見かけるといった事すらなくな
りました。

また、同窓会なども一切、行った事がないので
彼女が今、どこで何をしているのかを私は知る
芳もありません。

案外、もう結婚して子供がいたりするのかも?

でも私は、今後もし中学の同窓会があっても
絶対行かないと思います。

だって、あの可愛かった彼女が別人みたいに
なってたら嫌じゃない?(笑)

よく学生時代、可愛くなかった子が
めちゃくちゃ可愛くなってるって事が
あるけど、その逆もまたしかり。

・・・・・・・・・・・・・・・・・えっ!?

まさか、君があのさくらちゃん?
みたいな事になったら嫌じゃない?(笑)

だから私は初恋は初恋として心の中に
留めておくのが一番だと思うんですよね。

青春時代の良き思い出でした。(笑)


2001年05月29日(火) マックシェイクはママの味?

もう、終わってしまったんだけど、今月の25日まで、
マクドナルドでマックシェイクの半額キャンペーン
をやっていました。

当然、大の甘党の私はここぞとばかりに暇を見つけては
マックシェイクを飲みまくる毎日を過ごしておりました(笑)

・・・所でマックシェイクを飲んでてて、いつも思うんだけど
あれを吸うのって結構疲れないですか?
私は昔から何であれってあんなにドロドロしていて飲みにくい
のか疑問に思ってたんだけど、以前テレビで偶然その事が
取り上げられていた番組を見たのです。

そして、その番組を見た私は今までの全ての疑問が解決すると共に
マックシェイクに秘められた恐るべき真実を知る事となったのです。

その真実とは・・・
マックシェイクのあのドロドロした吸いにくい構造って
実は赤ちゃんが母乳を吸うスピードとまったく同じなのだそうだ。

しかも、全世界にあるマクドナルドは各国によってさまざまな
オリジナルメニューがあるにも関わらず、マックシェイクだけは
厳しい世界基準という物が決められているらしいのです。

ストローの太さからマックシェイクの、あの硬さまで全世界
何処で飲もうとも同じなのだそうです。

なぜマックシェイクに限ってそんな厳しい基準があるのかと
言うと、マックシェイクは最初から母乳を吸うスピードに
なるように精密な計算の元、作られており、私達がマックシェイクを
吸ってる時は赤ちゃんが母乳を吸ってる時と同じような
状態になる為、精神的にとても落ち着くらしいのです。

その為、私達がマックシェイクを吸ってる時って精神が
赤ちゃんの頃に戻っており物凄くリラックスした状態に
なっているのです(ほんとかよオイ!!)
・・・すなわちマックシェイクには人の心を癒す

ヒーリング効果


があるということなのだ。

嘘だと思ったらマックの店内を見渡してみてほしい・・・
マックシェイクを吸っているガングロ女子高生も・・・
反抗期の子供を抱えた親子ずれも・・・
リストラの危機にさらされている中年のサラリーマンも・・・
みんながみんな、あっちでチュウチュウ、こっちでチュウチュウと
ホンワカと幸せそうな表情をしているから・・・(本当かよ?)

でも確かに私自身、マックシェイクを飲んでいる時は
吸う事に集中して他の考え事を忘れてしまっている
自分がいるかも(笑)

これって、やっぱマックシェイクのリラックス効果
ってやつなのだろうか?

・・・恐るべし!マックシェイク!

ちなみに私はマックシェイクは好きですが
決してマザコンではありません(断言)
マックシェイクを吸うのが好きなだけです。

もう一度言います!
マックシェイクが好きなだけです!!

誤解のなきように!!
(そういう言い方が誤解を招くって話もあるが・・・)


2001年05月28日(月) 父がガンで死んだ時(???)天国の父から私へのプレゼント

父の一周忌が過ぎたある日
私と母は父の部屋を整理する事にしました。

とにかく一年以上まともに掃除をしていなかった
事と、物置代わりに要らない荷物等を放り込んで
いた事で父の部屋はかなり汚れており片付けは
大変な作業となってしまいました。

結局、その後、用事があった私は途中で
片付けを止め、後の掃除を母に押し付け
出かける事にしました。

私が用事を済ませ家に帰って来ると母は
父の部屋の押入れにカギの掛かった
アタッシュケースがあったと言って私に
大きなカバンを渡したのです。

母が言うにはカバンを振ると中に何かが
入っているらしくカタカタと音がするとの
事でした。

実際私が振ってみるとそのカバンからは
確かにカタカタと物音が聞こえてきました。

とりあえず私は、そのカバンを自分の部屋に
持って帰ったものの暗証番号が解らず、
しばらく適当にガチャガチャと数字を入力
していました。

しかし当然カバンは空くはずもなく
私は途方に暮れてしまいました。
しばらくボーとしていた私の頭の中に、
もしかしたら暗証番号は父の誕生日とか
なんじゃないか、というカンのような物が
働き試しに父の誕生日を入力してみました。

昭和18年1月1日→1811

すると見事にアタッシュケースの
カギが開きました。
そして、中を開けて見ると2本のビデオテープ
が入っていました。

私は何だろうと不思議に思い部屋のビデオデッキ
でそのビデオを再生してみる事にしました。

するとそこには金髪の美女が激しくもだえる
映像が写っておりました。

「オ〜〜イィエイ!!!
 オ〜イィエィ〜〜!!!!!!!!」

「・・・?????」

・・・それは洋物のポルノビデオでした。
もう一本も同じような洋物ポルノ
ビデオでした。

それはまさに、天国の父からの
私へのプレゼントでした(爆)

私は心の中で
「やったね!とうちゃん。ありがとう!」
などと呟き、1人で喜んでしまいました(笑)

ただ、惜しむらくは、かなり古い物らしく
映像が酷く汚い為せっかく見える筈の物も
良く見えないのです(爆)

当然、母にはその事を言える筈もなく、
カバンは結局空かなかったと嘘をつき、
それを再び物置の奥深くに押し込めました。

この事は死んだ父と私の二人だけの
ささやかな秘密なのです。

しかし、こんな経験すると私もいつ死んでも
いいように見られてマズイ物は処分しとかな
きゃまずいなぁと思う今日この頃です。

もし自分が死んで、その後部屋からHビデオ
とか出てきたりしたらメチャカッコ悪いもん
なぁ・・・


親孝行したい時には親はなし!   (パンチョ心の俳句)
↑本文とは関係なしです^^;


2001年05月27日(日) 父がガンで死んだ時(15)27歳の私、30年後の自分(あとがき)

父がガンで入院してから亡くなるまでは、
あっという間の二ヶ月間でした。

今現在、父が死んでから1年4ヶ月あまりが
経ちましたが本当に時の経つのは早いものです。

時間は私達が何をしていようと毎日、
過ぎ去っていきます。

昨日より今日、今日より明日・・・
私達は確実に年を取っています。
それは言い換えれば1日、1日、僅かづつ、
しかし確実に死へと向かって年を重ねて
いるのです。

普段、平凡で同じような毎日を繰り返して
いると、なかなかその事には気付きません。

私自身、家族がいつもいる事が当然だと
思っていました。

今の生活が何年、何十年と続くと
思っていました。

当たり前のように父が70歳、80歳と生き続ける
ものだとばかり思っていました。

・・・しかし、現実は違いました。

私は父の死を体験し自分が当たり前のように
生きている事が実は当たり前ではないんだと
いう事を強く感じました。
永遠と続くと思っていた「時」が限りある物で
ある事に父の死によって気付かされました。

私自身、正直将来何歳まで生きられるのかは
解りません。
57歳で死んだ父より長生きするのか・・・
それとも早く死ぬのか・・・
それは誰にも解らないことでしょう。

しかし、私はいつ死ぬか解らないからこそ
限りある人生を精一杯生きなければいけない
んじゃないかと思うのです。

私自身、後悔をしない人生を送る自信は
正直ありませんが後悔を減らす事は出来
ると思います。

少なくとも
「あの時、ああしとけばよかった・・・」
「こうしとけばよかった・・・」
などといった後悔はしないよう、今後私は
なるべく妥協のない人生を送りたいと考え
ています。

父の会社を継ぎたいと思ったのも
その思いがあったからです。

父は確かに仕事には恵まれず借金を作って
しまいましたが人生を精一杯生きた事は確かです。

その父の死によって私の心の中で確実に
何かが変わりました。

それが何なのかは具体的には、うまく表現
出来ません。

それは人生に対する前向きな姿勢だとか考え方
みたいな物かも知れませんが、もっと言葉では
言い表せない深い物のような気がします。

今後私は、父の意思を心にとどめ一生懸命、
限りある人生を生きて行きたいと思います。

1ヶ月が1年になり、1年が2年・・3年・5年
・・・・・10年・・・。
人が生きるという事は結局は、
日々を積み重ねる事なのです。
そして、どうせ同じ日々を積み重ねるのなら
私は出来るだけ充実した毎日を送りたいと
願っています。

30年後、もし私がまだ生きており、父と同じ
57歳という年齢を迎える事が出来たなら、
その時には、ゆっくりと自分の今までの人生を
振り返ってみようかと思っています。

尊敬する父に自分がどれだけ近づけたのか・・・
自分の57年の人生は父と比べてどうだっただろうか・・・
そんな事を父のお墓の前で考えて見るのも
いいかもしれないと思います。

それまでは限りある毎日を精一杯生き、
充実した人生を送っていきたいと思います。


最後に・・・
私を生み、育ててくれた父と母には
心より感謝いたします。



あとがき:

私は昔から妥協を繰り返す人生を送って来ました。
人生の中で何かに一生懸命取り組んだ事が
今まで一度もありませんでした。

しかし、父の死によって私はこんな事では
いけないと思い始めました。
私自身、せっかくの一度きりの人生なのだから
一生懸命何かに取り組んでいきたいと思ったのです。

ただ、そうは言っても人間、どうしても辛い事や
苦しい事があると楽な方へ楽な方へと足を向けて
しまいがちです。
私自身も今までそうやって辛い事や苦しい事から
逃げてきました。

そこで私は父の亡くなるまでを書いた日記と共に
自分の今の思いや考えを残そうと思ったのです。

もし、今後私が辛い事や苦しい事に出会って
逃げそうになった時は、この日記を読み返し、
この時の自分の思いを呼びさまして初心に
返って頑張ろう。
そんな思いから、この日記を書き始めました。

そして日記を書き続けているとある日、
私のこの日記に投票して下さっている
方々がいる事に気がつきました。

さすがに書き続けて2週間ともなると
結構大変な時もありました。

そんな時には私の日記を読んで下さって
いる方々がいる事を思うと本当に勇気
づけられ励みになりました。

正直、文才のかけらも無い私です。
読みにくい個所や誤字脱字などが、
かなりあった事と思いますが最後まで
読んでいただき、さらには投票までして
下さり本当に皆様には大変感謝しております。

この場を借りて心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。


パンチョ


2001年05月26日(土) 父がガンで死んだ時(14)私の決意

私の両親はよく父の借金の事で
ケンカをしていました。
その度に父は

「今に札束を目の前に山積みにして渡してやる!」

と言うのが口癖でした。

入院中も、父が弱気な発言をすると母は
「あんだけ借金残して絶対、死なせないからね!」
などと憎まれ口を叩いていたそうです。

父自身、母に物凄く迷惑をかけている事を
誰よりも感じていた筈でした。
父の夢は仕事で成功して母に楽をさせて
あげる事だったのです。

しかし既に父は夢を実現出来ずに
この世を去ってしまいました。
その事を思うと、父はさぞかし無念な
気持ちで死んで逝ったんだろうと思います。

今年の1月、父の一周忌を前に私は
父の会社を継ぎました。
仕事での成功を夢見ながら、志し半ばで
亡くなった父の無念な気持ちが痛いほど
解る私は、亡き父の為にどうしても会社
を継いであげたかったのです。

ただ今は継いだと言っても代表取締役の名義を
父から私の名前へ変えただけで今は実質的には
まだ何もしていない状態です。

現在私は、自分自身の仕事を持っている事と
それなりに資金を貯めなければならない為、
すぐに父の会社を私がやっていく事は出来ません
がいずれは父の会社を本格的に継いでいきたいと
考えています。

正直、会社を経営して行く事がどれほど大変な
事なのかを私は父を見てそれなりに理解してい
るつもりですし、恐らく、将来多くの困難や挫折
などがある事と思います。

正直私自身、将来の事を考えると、とても不安
になる事が多々あります。
しかし、私はもう自分の目の前にある現実から
逃げる事はしたくありません。

私は十代後半〜二十代前半にかけて数年間、
ほとんど何もせず、無職に近い生活を送って
いた時期がありました。

その頃の私は自分が将来何をやりたいのかが
解らず、自分の将来は一体どうなるんだろう
と漠然とした不安感に悩みながら、日々を
無為に過ごしていました。

もう私は将来に対する不安感から
逃げないと心に誓いました。

確かに会社を経営する上で将来、失敗する事や
倒産する事があるかもしれません。
しかしそれらを恐れて自分自身に妥協して生きて
いく事はもうしたくありません。

私は今までずっと仕事に対しても、人生に対しても、
妥協をし続けて、勇気を出して新たな挑戦への一歩
を踏み出す事が出来ないでいました。

確かに現状の自分に妥協して一歩を踏み
出さなければ失敗する事はありません。
しかし、その一歩を踏み出さなければ成功
もありえない事に私は気付きました。

今、私は将来の失敗を恐れず父の会社を継ぐという
目標に向かって新たな一歩を踏み出していきたいと
思っています。
死んだ父に対して私自身、恥ずかしくない
人生を歩みたいと思っています。

天国は本当にあるのだろうか?
父が死んでから、たまにこんな事を
思う事があります。

私は正直な所、死後の世界だの天国だの地獄だの
といったものが本当にあるとは思っていません。

しかし万が一、そういった世界があるのなら・・・
自分が死んだ時にもう一度、父に会う事が
出来るのなら・・・

私はその時は胸を張って父に自分の送った人生が、
いかに充実した素晴らしいものであったのか等の、
たくさんの土産話をしてあげたいと考えています。

私は今後、そんな人生を歩んで行きたいと思っています。


2001年05月25日(金) 父がガンで死んだ時(13)父の証し

以前、私は父がこの世に残したかった
証しを知っていると書きました。

父の残したかったその証しとは
仕事で成功する事だったのです。

父は仕事に関しては非常について
いない人でした。

父は昔、貿易会社で働いていたのですがその会社
が倒産した為、その後、父は自分で会社を興し、
前の貿易会社で一緒に働いていた社員数人を雇い
仕事を始めました。

しかし、最初から多くの仕事があるわけでもなく、
社員の人件費ばかりが、かさんでしまい次第に
自転車操業のような状態に陥ってしまいました。

この頃は母が保険の仕事で得た給料までも父の
会社の社員の給料として支払ってしまうという
ヒドイ状態でした。

結局会社は2年程度で経営に行き詰まり社員には
辞めてもらうことになったのですが、その頃には
かなりの額の借金が残っていました。

その後、手先の器用だった父は知り合いの大工
と共に補修工事の仕事を始めました。

そして運良く父は、とある不動産関係の会社の社長
と知り合い、その会社の所有する物件の補修工事の
仕事をちょくちょく貰えるようになりました。

仕事の量は月によってまちまちで、収入もあまり安定
していませんでしたが、昔のように多額な人件費が
かかる事もなく、少ない収入ながらも徐々に会社は
軌道に乗り始めていました。

私自身も人件費節約の為、よく父の仕事を
手伝わされていました。
ビルの外壁のペンキを塗ったり、床のタイルを
張り替えたり、時には引越しや廃墟同然の古くて
汚いビルの清掃等、父は依頼されればどんな仕事
でもやっていました。

父の仕事はいわゆる3K(きつい・汚い・危険)
でしたが働いている時の父はとてもイキイキして
いました。

以前、父と私はビルの屋上で排水溝の詰まりを直す
仕事をした事がありました。

その排水溝は大きな貯水タンクの下にあり、僅かな
隙間しかありませんでした。
その為、父はその僅かな隙間に寝転がって入り必死に
排水溝に詰まったゴミやヘドロを除去する作業をして
いました。

この頃は丁度、梅雨の時期で排水溝が詰まった屋上は
水浸しの状態でした。
父は泥水まみれになりながら必死に排水溝の詰まりを
直していました。

私はその父の様子を見て、仕事でお金を稼ぐという
事がどういう事なのかをまざまざと見せつけられました。

私は父から給料として日給5千円〜1万円を
貰っていました。
給料の額は仕事量により毎回変わっていたのですが
父から貰った給料は私が今まで経験したどんな仕事
の給料より重い物でした。

一万円というお金は誰がどう見ようと一万円の
価値しかありません。
ギャンブルで得た人がいようと・・・
援助交際で得た人がいようと・・・
人から脅し取った人がいたとしても・・・
路上で拾った人がいたとしても・・・
どのような状況で得たお金であろうと貨幣の
価値に差はありません。

しかし私が父の仕事で稼いだ一万円はどんな一万円
よりも間違いなく重いものでした。

父と共に汗水流して働き、時には怪我をして血を流す
事もありました。
そんな思いをして稼いだ一万円は心から胸を張って
誇れる物でした。

私は汗まみれになって働く父の背中を見て
熱意をもって働く事の大切さを学んだよう
な気がします。


2001年05月24日(木) 父がガンで死んだ時(12)灰になった父

2月10日。
昼過ぎに父は遺体となって自宅へと
戻ってきました。

父の顔には白い布がかけられており私が
その布を取ると父はうっすらと死に化粧
をされ、綺麗な顔になっていました。

父の遺体を目の前にしても不思議と悲しい
といった気持ちは湧きませんでした。
それよりも父が目の前にいることによる
安心感のような気持ちが大きかったです。

この時の私は非常に穏やかな気持ちでした。

その後、父と共に来た葬儀屋が今後の葬式に
関する準備等の説明をおこない、家の中が
とても慌ただしくなりました。

一通り今後の段取りが決まり葬儀屋が斎場へ
予約の電話をした所、火葬場の方が大変混み
あっており空きが無いので父の告別式は最短で
月曜の朝になるとの事でした。

父が死んだこの日は木曜日だったので父は
金曜、土曜、日曜と自宅で最後の時を過ご
す事になりました。
父が亡くなってから荼毘にふされるまで
実に4日もあり、それはとても異例な事でした。
しかし私は一日でも長く父と一緒にいられる
事を思うと決して悪い気はしませんでした。

その晩、父の看病でほとんど寝ていなかった
母を先に寝かし、私と姉は寝ずに父の線香に
火を灯し続けました。

父の葬儀告別式は月曜の早朝に行われました。
その日は月曜の早朝にも関わらず多くの友人、
知人が訪れてくれました。

父の葬儀は別段変わった事もなく、
極々普通に執り行われました。

最後に父の棺桶を開け皆で花々を
父の周りに入れてあげました。
好きだった草花に囲まれて父の表情は
ひときわ穏やかになったように私には
見えました。

棺の蓋を閉める前に私は最後に
父の顔を触りました。
しかし、その感触は生前に触った
それとはまったくの別物でした。

ドライアイスで4日間冷やされた父の顔は
非常に冷たく既に肌もコチコチに固まって
いました。
そこには既に生前の父の温もりはなく、
まるで蝋人形を触っているようでした。

その後、皆の前で母による最後の別れの
挨拶が行われました。
さすがにこの時、母は泣いていました。

父が火葬場に運ばれ、いよいよ最後の別れを
する時が来ました。
父の棺を乗せた台車は作業員の手により事務的
に火葬の場へと運ばれ父の棺はあっというまに
業火の中へと消えていきました。
姉と母は泣いていましたが私はただ、無言で
最後まで父を見送りました。

それから1時間。
控え室で待っていた私達の元へ父の火葬が
終了したとの知らせが来ました。

火葬場へ行くと父は生前の面影を一切
とどめる事なく灰になっていました。
そして、そこの職員も驚いていたのですが
父の骨は非常にいい状態で残っていました。
普通はここまで綺麗には残らないとの事でした。

私達は父の喉仏を見せてもらいました。
父の喉仏は名前の如く仏様があぐらを
かいて座っているように見えました。

私達は父の遺骨を骨壷へと入れ合いました。
最後に喉仏を中央にしまい込み、父の愛用
していた老眼鏡を入れてあげ蓋を閉めました。

以上で全てが終わりました。

私は今までの二ヶ月間の気持ちに区切りがつき、
何かホッした気分になりました。

帰りがけに、斎場で頭の先から爪の先まで金キラキン
のとてもゴージャスなお坊さんの二人組みが私達の
前を通りました。

私と姉はそれを見て

「あんな成金趣味の坊主にお父さん、
 念仏唱えられなくてよかったよね」

と言って笑い合いました。

私達のお願いしたお坊さんは近所の昔から
付き合いのある貧乏寺の地味な住職でした。

多額の借金をして常にお金の事を心配していた
父にとっては逆に地味なお坊さんで喜んでいた
のではないかと思います。

身なりは地味ですが心のこもった住職のお経は
父にとっても私達にとっても、とてもあり難い
ものになりました。


2001年05月23日(水) 父がガンで死んだ時(11)父が死んだ朝

2月9日。
私が夕方病院へ行くと既に父は
完全に危篤状態に陥っていました。

父の呼吸は荒く、とても、息苦しそう見えましたが
表情は別段、苦しそうにしている様子もなく本当に
ただ眠っているだけのように私には見えました。

私は危篤の父を目の前にして、何もしてあげる事が
出来ずただ、何時間も冷たくなりかけていた手や足
をさすってあげる事しか出来ませんでした。

夜、面会終了の時間になり帰ろうとすると、母は
私に荷物を持って帰って欲しいと大きな手提げを
手渡しました。

それは大量の血で染まったベットシーツと父の
パジャマでした。
父は昨日の晩、大量の下血をしたとの事でした。

父の血圧が下がり、危篤に陥った原因は大腸の
腫瘍部分からの大量の出血が原因でした。

私はその血に染まったシーツとパジャマを見て、
改めて父の死が目の前まで迫っている事を痛感
すると共に自分自身、今ある現実から目をそら
さずに父の死を受け入れようと覚悟を決めました。

2月10日。
早朝6時頃、私の携帯が突然鳴りました。
恐らく父に関する事だろうと思って急いで
電話に出てみると、案の定その電話は母から
のものでした。

母は疲れきった声で一言、父の容態が
危ないので至急病院に来て欲しいと言
いました。

一時間後、私が病院に駆けつけると姉が先に
来ており母と二人して泣きながら父を見守っ
ていました。

ベットで寝ている父は明らかに昨日の状態とは
違っていました。
とても呼吸が浅く、ぱっと見ただけでは息を
しているかどうかさえ解りませんでした。

しかし、呼吸をするたびに微かに上下する父の
胸の動きと血圧と心拍数を表示しているモニター
は間違いなく父がまだ生きている事を私達に
教えてくれていました。

姉は泣きながら私に、父の下がり続けていた血圧が
私が来た途端、奇跡的に上がったと言っていました。
私が来てくれた事を父がわかってるんだと泣きながら
言っていました・・・。

私は正直、今病院に来たばかりで私が来て本当に
父の血圧が上がったのかどうかは良くわかりませ
んでした。

私が血圧と心拍数を表示されているモニターを
見ると父の血圧は微妙に上がったり下がったり
を繰り返しているだけでした。

体が人一倍丈夫だった父でした。
恐らく心臓も人一倍丈夫に出来ていたのでしょう。
父の体は最後まで死と戦い続けていました。
それは病院の医者ですら驚く程でした。

ただ私は父にはもうこれ以上がんばって
欲しくはありませんでした。
もう助からないと判っている以上、
早く楽になって欲しいと思っていました。

私は必死に頑張る父の手を握り
一言だけ父に声をかけました。

「もういいよ・・・十分がんばったんだからさぁ、
 もう頑張んなくてもいいって・・・
 苦しかったでしょ?・・・もう楽になりなよ・・・」

危篤の父に聞こえているとは思いませんでしたが
私は父に対して何か言わずにはいられませんでした。

姉と母は再び泣きだしました。
しかし私自身は、もう涙が出る事はありませんでした。

その後しばらくして、私の言葉が届いたのか
私の思いが通じたのかわかりませんが、父の
血圧は徐々に下がっていきやがて血圧や心拍数
が表示されているモニターは永遠とフラットな
横棒だけを映し出している状態になりました。

それは紛れもなく父の心臓が完全に
停止した事を知らせていました。

父は眠るように息を引き取りました。
とても安らかな死に顔でした。

2000年2月10日午前9時5分。
57歳にて父は亡くなりました。

・・・父親の死を看取る。
それが私の父にして上げる事が
できる最後の親孝行でした。

父の死は大変辛く悲しいものでしたが、
私は父親の死に目に立ち会えた事・・・
家族みんなで父を見送れた事を
今では心から良かったと思っています。


2001年05月22日(火) 父がガンで死んだ時(10)危篤

2月8日の午前10時ごろ。
私の携帯に病院から緊急の連絡がありました。

それは父の血圧が急激に下がり始め意識が朦朧
としだしたので至急病院へ来て下さいとの電話でした。

突然の電話に私は頭の中が真っ白になって
しまいました。
前日まで普通に話をしていた父が危篤になって
しまうなど私には想像できませんでした。

私はすぐに病院へ駆けつけました。
病室に入ると先に来ていた母と姉の姿があり、
その背中越しに父の姿が見えました。

父は意識はまだあるものの目を開けたり、体を
動かしたり喋ったりといった事が出来ない状態
になっていました。

私は思わず「父さん。俺の事解る?」と
父にかけより手を握り大きな声で叫びました。

父は私の必死の問いかけに対し力強く私の手を
何度も何度も握り返してくれました。
私の手を握り返す父の手の力強さはとても意識が
朦朧としている病人のものとは思えないくらい
力強いものでした。
今でもその時の父の手の感触を忘れる事はありません。

そして、父は私の手を握りながら必死で何かを
言おうとしていました。
私は必死に父に顔を近づけ何を言ってるのか聞き
取ろうとしましたが父の口は微かに動くだけで
その言葉は声にはなりませんでした。
私は父が最期に何を言いたかったのかを
知ることは出来ませんでした。

私は意識が朦朧としている父を目の当たりにし、
もうこのまま一生、父と話をする事が出来なく
なってしまうのかと心の中で思った瞬間、
ふいに涙が出てきてしまいました。
父のいる目の前で初めて私は泣いてしまいました。

その後、しばらくして、父の兄弟である兄夫婦が
父の危篤の知らせを受けて病院に来ました。

私と姉は大勢人がおり、病室が狭いので気を
利かせて一旦外に出る事にしました。

外に出た私と姉は近所にあった公園で
時間を潰す事にしました。
その公園には私達以外誰もいませんでした。
私は回りに誰もおらず、人に見られていない
という安心感から初めて大きな声を上げて
泣いてしまいました。
それは、子供が泣きじゃくるような感じに
似ていました。
激しい嗚咽で喉が詰まり呼吸が苦しく、あんな
泣き方をしたのは子供の時以来だったと思います。

そんな私の様子を見ていた姉は近所のコンビニで
ハンカチを買って来てそっと私に手渡してくれました。

「まだ、お父さん死んだわけじゃないんだから・・・」

姉は笑顔で私に言ってくれました。

私はこの時ほど兄弟がいる事を有り難いと
思った事はありませんでした。
恐らく自分が一人っ子だったら、もっと
私はショックを受けていたと思います。

1時間程度公園で時間を潰して病院に戻って
みると父の病室が大部屋から個室に移されて
いました。

最後の時が近い父に対して家族だけで個室で
過ごさせてあげようという病院側の配慮でした。

夕方6時を過ぎ兄夫婦も帰り、個室に居るのは
私達家族だけになりました。
母、祖母、姉、私が静かにベットに
寝ている父を見守っていました。

しかし、父のおかれた状況を解らない1歳半に
なる姉の息子だけは、しきりに父の手を握り
「ジィ〜ジ、ジィ〜ジ」と喋りかけていました。

父は元気だった頃、よく孫の遊び相手を
していました。
恐らく姉の息子は父に向かって寝てばっかり
いないで自分と遊んで欲しいという事を言い
たかったんだと思います。

しかしこの後、驚く事に父は孫の問いかけに
答えたのです。
指を孫の方に向けクルクルパーという
ジェスチャをやったのです。

もう既に目も開けられず、声も出せなくなって
いる状況だったにも関わらず、父は気を使い孫
の相手をしてくれたのです。

意識が朦朧としている父は、間違いなく自分が
このまま危篤に陥りその後、死ぬであろう事は
解っていたと思います。

それなのに、父は最後まで私達に心配を
かけまいと気を使い続けてくれました。

本当に最後の最後まで人に対する気遣いを
忘れない素晴らしい父親でした。

この日から母は病院に泊り込み、つきっきりで
父の看病をする事になりました。

それは母にとっても父にとっても二人っきりで
過ごす最後の時間となってしまいました。


2001年05月21日(月) 父がガンで死んだ時(9)2月:最後の一週間

2月に入り父の容態は目に見えて悪化
していました。
幸いガンによる痛みは無かったのですが
腹水が溜まり出した事でお腹が張ってしまい、
しきりに呼吸が苦しいと訴えていました。

この頃の私と母の家での会話は次第に父に
もしもの事があったらどうしようかという
話をする事が多くなってきていました。

勿論、二ヶ月前まで元気だった父が死ぬなんて
事は私も母も考えてはいませんでした。
しかし、心のどこかでは父が近いうちに死んで
しまうであろう事を感じていたのかも知れません。

生前父は会社を自分で経営しており、かなりの
額の借金をしていました。
しかし私や母は父がどこの金融機関に、どれくらい
の借金があるのかといった細かい事は一切教えても
らっていませんでした。

私は母から再三に渡って父に借金の事や会社の
事など今後父にもしもの事があった場合の事を
聞いておくように頼まれていました。

何故私が母に頼まれていたのかというと、昔から
両親は父の借金の事で夫婦ゲンカが絶えなかった
からです。
もし、母が父にその事を聞こうとしたら恐らく
病気の身とはいえケンカになっていたかもしれ
ませんでした。

しかし結局私自身、父に何度も借金や今後父の身に
万が一の事が起きた時の事を聞こうと思ったのですが、
いざ父を目の前にするとどうしても聞く事は出来ません
でした。

なぜなら、私自身それらを父に聞く事は父の死を肯定
してしまうような気がしたからでした。

うまく表現が出来ないのですが、父に遺言めいた事を
聞いたら本当に父が死んでしまうような気がしたのです。

当然、父は末期のガンであり、常識的に考えれば
父の命がもう長くない事は解りきった事なのですが、
そんな状況にあっても未だに父と死というイメージ
を私の中で結びつける事が出来ませんでした。

どこか私の心の中で、父にかぎって死ぬはずはない・・・
父だけは絶対に奇跡的に助かるはずだ・・・
そういうふうに思いたかったのかも知れません。

しかし、2月に入ったこの時期に父は生への執着
を断ち切られるようないくつかの辛い出来事がありました。

ある日、父のお見舞いに行くと父が大変なショック
を受けていた事がありました。
私がどうしたのかと尋ねると父はベットの
背もたれの角度を変えようと思い、足元にあるレバーを
回そうと中腰になってしゃがんだ所、そのまま自力で
立てなくなったのだと言いました。

体力には人一倍自身があった父でした。
元気な時はタンスや机程度なら1人で運んでしまう位、
力があったのです。
それが、病気になって二ヶ月足らずで自力で立てなく
なるまで体力が衰えてしまった事に父は相当なショック
を受けていました。

今まで自分で出来る事は常に自分でやって来た
父でしたが、この出来事の数日後にはもう自力
では立てない体になってしまいました。

また父は、よく眠れない時や暇な時はラジオを
聞いていたのですが、
ある日、冗談半分で

「朝方のラジオって宗教とか誰かが死んだとかいう
 ニュースばっかで嫌なんだよね」

と言った事がありました。

この頃から父は夜、眠れないという事で点滴に
睡眠薬を混入してもらうようになっており父自身、
次の日、目が覚めなかったらと思うと眠りにつく
のが怖かったんだと思います。

父はいつ来るとも解らない死への恐怖と
毎晩戦っていたんだと思います。

その後も一緒の部屋に入院していた父の隣のベットの
おばあさんが深夜に亡くなったりと父にとっては大変、
嫌な出来事が続きました。

しかしこんな状態になりながらも父は私や姉には
大変、気を使ってくれていました。

父の気遣いを特に感じたのが、いつも私が父の
お見舞いに行くと30分も経たないうちに

「ありがとう!もう帰っていいよ」

と言う時でした。

父のその発言は明らかに仕事と学校の合間を
縫って見舞いに来ている私に対する気遣いでした。

しかし私は息子として父に気を使われるのが
物凄く嫌でした。

父には家族である私の前では本音を言って
欲しいと思っていました。
痛い時は痛い・・・。
辛い時は辛い・・・。
何かやって欲しい事があればやって欲しい・・・。
と気を使わずに何でも言ってほしかったのです。

私はこの頃、何も食べれなくなった父の目の前で
わざとサンドウィッチを食べた事がありました。

それは、私なりに父に対して自分は父さんに何一つ
気を使ってないから父さんも自分には気を使わない
でほしいという思いを込めたメッセージを父に伝え
たかったからでした。

しかし、父は私のその様子を見て微かに
微笑んだだけでした。

結局父の私や姉に対する気遣いは最後まで
変わる事はありませんでした。

近いうちに父が昏睡状態になる事も知らず、
この頃の私と父は相変わらずお互いに気を
使いあい、自分の本心も言えず、父の本音も
聞けず、ただ何となく無為に毎日が過ぎてっ
たような気がします。

今となっては何でもっと本音で父と会話を
出来なかったんだろうと後悔するばかりです。


2001年05月20日(日) 父がガンで死んだ時(8)転院 

1月26日
ガン告知から一週間が過ぎ、父は免疫療法の治療を
受ける為、板橋区の病院へ転院する事になりました。

しかし、父は病院を移る事に乗り気では
ありませんでした。

それというのも担当医や看護婦の皆さんが
とても親切だったからです。
病院自体も非常に綺麗でベットやトイレも
全自動と入院している父にとってはとても
過ごしやすかったみたいでした。
そして何より家が近いという事が父にとっては
安心だったのかもしれません。

しかし転院の手続きはもう済んでいます。
今更、キャンセルする訳にもいきませんでした。

ただ、転院と言っても実は2週間程度の短いもので
またすぐに今の病院に戻って来る予定だったのです。

免疫療法という治療法は治療を受ける患者専用の
免疫を作って患者に注射すれば後は月1回程度の
割合で、この注射を打てばいいとの事でした。

その為、一度注射を打てば後は月1回通院という
形でも良いとの事でした。
しかしその治療を行う為の準備期間として、
どうしても2週間程度の入院が必要だったのです。

父には2週間経ったら、また今の病院に帰って来れる事を
説明し、その言葉に父も渋々承知しました。


父の転院が無事に済んだその夜、
私は早速新しい入院先に行きました。

今まで私は朝晩父のお見舞いに行っていましたが、
新しい病院は電車で1時間程度かかる為、転院して
からは夜しか見舞いに行けなくなってしまいました。

当時私は、昼間仕事をして夜は調理師の専門学校の
夜間部に通っていました。
その為、仕事が終わったその足で父の見舞いに行き、
その後に学校に行くという慌ただしい生活を送って
いました。

私が病室に入ると父は丁度、気功を受けていました。
相変わらず父は気功が効くらしく、まだ何のガン治療
も受けていない父にとっては、間違いなくそれが心の
より所になっていました。

しかしその後、気功師のある発言によって父の
気功治療を断念せざるえない出来事が起こりました。

父の治療を終えて病室から出てきた気功師が事もあろうに
母に治療費の値上げを要求して来たのです。

気功師の言い分は、この病院に来るには今までより
1時間以上かかるので治療費を明日から6万円に上げ
て欲しいと言うものでした。

私と母はあまりに身勝手な気功師の発言に怒りを
通り越し呆れてしまいました。
現在の一回の治療代4万円という金額ですら払うのが
やっとという状況なのに通う距離が遠くなったから
6万円払えなどという気功師の条件は到底私や母には
のめるものではありませんでした。

何故、人助けを生業としているはずの気功師が
このような発言をするのか私にはまったく解りません。

それが、国民性の違いから来るものなのか?
外国人だからビジネスと割り切っているのか?
それともこの気功師がもともとそういう性格
だったのか?
・・・いずれにしろ、私にはまったく理解が
出来ませんでした。

結局、そんな大金を毎日払える筈もなく、父への
気功治療はこの日が最後となってしまいました。
父の心の支えであった気功をやめてしまうのは
私も母も非常に心苦しかったのですが人の足元を
見て商売をする気功師のあの態度を私と母は許せ
ませんでした。

母は翌日父へ、気功師の先生は緊急の用事で中国に
帰らなければいけなくなりもう父の治療は出来なく
なってしまったのだと嘘をついていました。

しかしながら、この出来事があった数日後、
待ちに待った漢方薬が自宅に届きました。
私はすぐにでも飲んで欲しいという思いから、
その日のうちに父へ届けることにしました。

私が病室へ入ると父はイラついていました。
漢方薬を渡すと、一応ありがとうとお礼を
言ってはくれたものの、それを飲もうとは
しませんでした。

母が「せっかく買ったんだから飲んでみれば?」
と漢方薬の蓋を開けようとすると父は怒りを
あらわにし、「今日はいらない!」と母を怒鳴りつけ
その漢方薬を引出しの奥へと閉まってしまいました。

父は転院しても一向にガンの治療が行われない事・・・。
気功師が来なくなった事・・・。
体調が日に日に悪くなってきている事・・・。
自分の命がいつ終わるのかわからない不安感・・・。
恐らく父はあらゆる事で悩み、苦しみ、絶望し・・・
とても辛い思いをしていたのだと思います。
それらの思いが怒りとなって表れたのだと思います。

しかし翌日、父は私や母が見ている目の前で
漢方薬を飲んでくれました。
漢方薬は液状で非常に飲みやすい形状をしており
父も比較的楽に飲んでいました。
しかし、せっかく飲んだ漢方薬も飲んだ直後に
ほとんど、胃の内容物を出す為につけている鼻の
チューブを通って外へと出ていってしまいました。

既に腸が詰まり栄養を腸から吸収できなくなっていた
父にとって漢方薬はあまり効果があるとはいえません
でした。

それでも多少なりとも漢方が効いてくれれば
いいと思いその後も父には飲み続けてもらう
事にしました。

1月もあと数日で終わりを迎えようとしていた
ある日、父はお腹の張りを訴えるようになりました。
点滴しか受けておらず筋肉や脂肪が落ちた父なのに
お腹だけが異常に膨れていました。
医者が言うには、それは腹水が溜まってきている
為に起こってるのだという事でした。

腹水が溜まりだすというのは末期がん患者に
表れる特有の症状でした。

そしてそれは父の死がそう遠くない将来、
確実におとづれるであろう事を暗に示す
ものでもありました・・・。


2001年05月19日(土) 父がガンで死んだ時(7)告知

1月18日
夕方、父は母の付き添いで担当医から
ガンの告知を受けました。

その夜、家に帰って来た母は私にガン告知を受けた時の
父の様子を、語ってくれたのですが、私はその話を聞き
父の偉大さに心底驚かされました。

父は担当医から大腸に出来たガンの事・・・、
そのガンが肝臓に複数に渡って転移している事・・・、
そしてもう既に手術が出来ない状態である事などを
包み隠さずに聞かされたのですが、父はすべてを冷静に
聞き先生の話が一通り終わった後に一言だけ

「・・・その状態じゃ、しかたないですね。
 私は素人で病気の事はよく解らないので、
 今後の事は先生にすべてお任せします」

と表情一つ変えずに言ったのだそうです。

息子の私が言うのも何なのですが、父は昔から
非常に根性のすわっている人で人前では絶対に
弱い所を見せた事が無い人でした。

もし私が父と同じ立場だったらと思うと、
気が動転してとても父のような振る舞いは
出来ないと思います。

手術が出来ないという事は近いうちに間違いなく
父の身に死が訪れるという事を意味しているのです。

それを表情一つ変えずに自分の現実を受け止めた
父の事を知った時、私は改めて父の偉大さを知る
と共に父の息子に生まれた事を心から誇りに思いました。

翌日、私は父の病院にお見舞いに行く事が出来ませんでした。
今まで父が入院してから一日も欠かさず病院に行っていた
のですが、父が相当なショックを受けているのではないか
と思うと、どんな顔をして父に会ったらいいか解らなかっ
たからです。

実際、父はガンの告知を受けても顔色一つ変えずに
いましたが、その晩に再び腸が詰まってしまい食べた
物を戻してしまいました。
表情や態度には出さないものの、父の精神的ショックは
やはり大変大きなものだったのだと思います。

父のガンは既に他の場所でも肥大化し、複数の場所で
腸が閉塞状態を起こしつつありました。
父はガンの告知を受ける前に晩御飯を食べたのですが、
このご飯が父の最後の食事となってしまいました。

私が父に会いに行ったのは父がガン告知を受けた
2日後の事でした。

私が、おそるおそる病室に入ると父は鼻から
チューブを入れられていました。
このチューブは胃の内容物を吸い上げる為に
つけている物でした。
胃から下に物が落ちないため常にチューブで胃の
内容物を吸い上げておかないと苦しくなってしま
うのです。

病室に入った私に父はすぐに気がつきました。
父は笑顔で
「おう!久しぶりだね!」と声をかけてきました。
私も2日しか経ってないのに何だか父に会うのが
久しぶりのような気がしました。

父の様子は表面上は告知を受ける前とあまり
変わりませんでした。
私はその父に
「ごめん。昨日はちょっと忙しくて来れんかった」
と嘘を言ってしまいました。

父は自分がガンである事を母から聞いたかと尋ねて
きたので私は軽く頷きました。
父は一言「驚いただろ?」と言いました。
私は何と答えていいか解らず
「・・・もしかしたらとは思ってたけど・・・・」
と言うのがやっとでした。

それから数分間、私と父はお互い何も喋りませんでした。
長い沈黙の中、私は父のベットの脇にある卓上カレンダー
に目がいきました。

普段から非常にマメな性格だった父は入院してから
毎日、卓上カレンダーにその日、どんな検査を受けた
か等、病院での出来事を日記代わりに事細かく、書く
ことを日課にしていました。

・・・しかし、告知を受けた18日以降は何も書かれて
おらず真っ白の状態でした。

私は改めて父が私などでは想像も出来ない程の
ショックを受けている事をそのカレンダーを見て
思い知らされました。

私は長い沈黙を破り父に話かけました。
「あのさぁ、今、ガンに良く効くって評判の漢方薬
 を頼んでるんだけど・・・
 それが凄いらしくてさぁ、実際、ガンになった人が
 何人も治ってるらしいんだよ。
 多分、一月の末くらいまでには来ると思うから、
 それ飲めばきっと良くなるよ」

私は父に対して何の励ましにもなっていないと
知りつつも何かを言わずにはいられませんでした。

父はニッコリと微笑みながら

「・・・ありがとう。
 でもそれまでお父さん生きてるかなぁ・・・」

と冗談とも本気とも取れる発言をしたのです。

しかし実際、その発言は父の本音だったのかも
しれません。
私は父を何と言って励ましてあげたらいいのか
解りませんでした。
ただ一言、

「あのねぇ・・・
 人間なんてもんはそんなに簡単に死んだりしなの!
 ・・・大丈夫だって!」

精一杯の作り笑顔で、その一言を父に言うのが
私には精一杯でした。
それ以上私は何も言うことが出来ませんでした。
言えば涙が出そうになってしまうからです。

男として、息子として父の前で涙を流す事は
絶対に出来ませんでした。
一番辛いのは誰でもない父自身である事が
痛いほど解っているからです。

父は私の前では必死に強い父親を演じていました。
この想いに私も何とか答えようと努めて冷静な
自分を演じました。

父と話していて涙が出そうになると私は、
さりげなく窓の外に目を向けて心を落ち
着かせました。

窓の外では楽しそうな親子ずれや買い物帰りの主婦
など、平凡な日常の風景が広がっていました・・・。


1月18日。
ガンの告知を受けたこの日を境に
父の体調は徐々に悪化していきました。


2001年05月18日(金) 父がガンで死んだ時(6)再入院

1月11日
お正月の一時帰宅もあっという間に過ぎ、
父は再び病院に入院しました。

1月に入り、私や母はとても焦っていました。

父のガンが末期の一歩手前だという事実を知ってしまった
以上、一刻も早く父にガン告知をしてガンの治療を受けさ
せてあげたかったからです。
・・・しかし、病院の担当医は父が再入院した後も
一向にガンの告知をしようとはしませんでした。

父にガンの治療を受けさせる為には
父へのガンの告知は避けては通れません。

母は、何度も担当医に早く告知をして欲しいとお願いを
していましたがその都度、

「ご主人のガンは何年もかけてあそこまで
 大きくなったんです。
 今更そんなに焦ってもしょうがありません。
 現在、今後のご主人の治療方針を検討している段階
 なのでもうしばらくお待ち下さい」

と、焦る私達に対し担当医は毎回、同じような返事を
繰り返すだけでした。

実際この時の担当医の対応には私も
多少なりとも腹が立ちました。

しかし、これは後になって知った事なのですが、担当医も
父の精神的ショックを考えると、どのような状況で告知を
すればいいのかとても悩んでいたんだそうです。
担当医自身、外科医としてはもう治療の方法がなく
お手上げの状態だった中で父にガンの告知をしなければ
いけないという現実に苦慮していたのです。

私と母は年末からずっと、いろいろなガン治療に関する
情報を集めていましたが1月に入り、ある程度家族の中
での話し合いがまとまり、今後病院を移り新たな治療を
受けさせていこうという意見で一致しました。

それは、このまま今の病院でただ、死を待つよりも
病院を移って少しでも父が生き残れる可能性に賭け
ようというものでした。

私達は手術も出来ず放射線などの科学治療も効果の
期待出来ない現状の父を救う為には西洋医学、
東洋医学を問わずに出来る限りの治療を試して
みようという結論を出したのです。

その結果、私達は今後父に対して漢方薬と気功と
ガンの免疫療法という三つの治療法を試みる事に
しました。

漢方薬に関しては中国でとても実績のある漢方
という事で、届くまで半月程度の時間がかかる
との事でしたが注文をする事にしました。

気功は、母の会社の知り合いが教えてくれた有名な
中国人の気功師が来てくれる事になりました。
その気功師は、今まで気功で何人ものガン患者の
人たちを治した実績があるとの事でした。

早速、気功師の先生には正月明けから、来てもらい
父に気功の治療をしてもらいました。
まだ、ガン告知を受けていない父に対して母は、友人の
知り合いの気功師が病気の父を知りわざわざ無料で父
を見に来てくれる事になったと言ってごまかしていました。

しかし実際はわずか、1時間足らずで4万円もの
金額を支払っていました。

病は気からと言う言葉が昔からありますが、実際父は
その気功が結構、効いているみたいでした。
しきりに気功を受けた後は体が暖かくなり、腸がゴロゴロと
活発に音を立てて動くと言っていました。

そして、私達がもっとも期待していたのが、ガンの免疫療法
という治療法でした。
当時、私達は板橋区にガンの免疫療法という治療法を
行っている病院がある事をを知り、そこで父に免疫療法
を受けてもらう事にしたのです。

免疫療法とは健康な人の細胞からガンを攻撃する細胞を
取り出してそれを培養しガン患者に注射してガンを攻撃
させようというものでした。

私達が免疫療法に賭けてみようと思ったのは副作用が
ほとんどないという事と、末期の患者でも治る可能性
が十分あるとの情報を信じたからでした。

しかしながら、結論から言ってしまえば、これらの
治療法は父にとって、まったく無力なものでした。

ただ、当時の私達にはその事を知る芳もありませんでした。

今になって冷静に考えてみると、どの治療法も効果の
程は疑問符が付くものばかりなのですが、その時の私達
の心理状態はまさに苦しい時の神頼みの状態でした。

その当時は「なんとかして父の病気を治してあげたい」
と願う、必死な思いしかありませんでした。

そして、慌ただしい毎日に追われる中、ついに父への
ガンの告知が1月18日に行われる事が決まりました。

父が再入院してから一週間・・・。
とうとう1月18日の当日を迎え、父がガンの告知を
受ける日が訪れました。


2001年05月17日(木) 父がガンで死んだ時(5)1月:最後の正月

父が家に帰って来て数日・・・、
私達は父に対してかなり気を使っていました。

父にはガンである事を知らせていない為、私達は
父と喋る時、うっかり病気の事を喋らないように
いつも気を使って喋らなければ、ならなかったか
らです。

実際父が電話で仕事先の知人等に自分が腸閉塞で
入院していることや年明け手術するかもしれない
がすぐ退院出来るらしい等と言っているのを何度
か聞いたのですがその度に私の心は嘘をついて父
に申し訳ない気持ちで一杯になりました。

1999年12月31日
大晦日はあっという間にやって来ました。
姉夫婦も埼玉から来て家族全員が久しぶりに
実家にそろいました。
しかし、家族が全員そっろったからといって特別な事は
何一つありませんでした。
みんなでご飯を食べ、年末の特別番組や紅白を見たり
して過ごしました。

唯一、去年の年末と違っていたのは、この年は姉が
ビデオカメラを持ってきており、みんなの様子を
長時間カメラに納めていました。
姉は一生懸命、私達の家族の様子をビデオに
撮っていました。

今でもこのビデオは「2000年正月」のタイトルで
ビデオ棚の片隅に当時の私達や父の様子を残しつつ
眠っています。

その出来事以外は本当に特別な事もなく
平凡な大晦日でした。

しかし、私にとってはその平凡が何よりも幸せでした。
平凡な事、何事もない事が幸せだと感じたのは
この時が初めてでした。

2000年1月1日
朝、私が起きると他のみんなはもう既に起きていました。
私が居間に行くと、ちょうど父は姉の子供にお年玉を
あげていました。

姉には1歳半になる子供がいるのですが、父にとっては
初孫という事もあり、とても可愛がっていました。
目の中に入れても痛くない。
そんな表現がぴったりな程、父は孫に対して愛情を
もって接していました。

「ジィ〜ジ、あいがろ〜!」

姉の息子は姉に促され覚えたての言葉で父に
お礼を言っていました。
その孫の様子を見て父はとても、とても
嬉しそうに笑っていました。

その後、昼頃に父が私に買って来てほしい物があると
新聞の折込広告を見せました。
そのチラシはディスカウントショップの正月セール
の広告でした。
父の指は本日限り¥1000と書かれたカメラの三脚
を指していました。

「ちょっと三脚買って来てくれよ。今日、新春セールで
 安くってさぁ・・・。
 見てみろよ!このカメラなんかも安いぞ!一眼レフカメラ
 が4万じゃ普通買えないぞ」
などと父は三脚の隣のカメラを指差しました。

父は昔からガーデニングが趣味で草花の写真を
撮るのがとても好きでした。
しかし、ちゃんとしたまともなカメラを一つも
持っていませんでした。

私はカメラにはまったく興味がなく、4万円のカメラが
高いか安いかについてまったくわかりませんでしたが、
父の欲しそうにしている表情を見ていたら、どうしても
買ってあげたくなりました。

「いいよ!買って来てあげるよ」

私は父に内緒で三脚と一緒にこっそりカメラも買って
あげる事にしました。

当時の私にとって4万円というお金は実際の所、
安い金額ではありませんでした。
今後の治療費の事も考えると少しでもお金を貯めときたい
気持ちもありましたが、それよりも父の喜ぶ顔が見たい
気持ちの方が上回りました。

そして実は1月1日は父の誕生日なのです。
この日が、ちょうど父の57回目の誕生日でした。
今まで父にまともな誕生日プレゼントなんてをあげた
事などなかった私は初めて父にプレゼントをあげる事
にしたのです。

早速私は、カメラと三脚を購入し父に渡しました。
すると父は不思議そうにカメラの入った箱を
見て言いました。

「これ、どうした?」

私は父に対する初めてのプレゼンに照れてしまい
何と言っていいかわからず、

「安かったから買ってきた。今日、誕生日でしょ?
 それあげる」
などと、ぶっきらぼうな言い方をしてしまいました。

父の方も何か照れがあるらしく「ふ〜ん・・・」等と
言いながら別に喜ぶ様子も見せずにカメラを取り出し
眺めていました。

その後、私は照れ隠しに
「まぁ俺も前からちゃんとしたカメラ欲しかったし
 一緒に使わせてもらおうと思うから買ったんだけどね・・・」
などと、笑いながら一言付け加えておきました。

父からは、ありがとうの一言はありませんでしたが
熱心にカメラの説明書を読む父の姿を見て私はとても
満足していました。

結局私の買ったカメラを父が使う機会は訪れる
事がありませんでした。
しかし私は父にカメラをプレゼントした事を
今でも心から良かったと思っています。

2000年1月1日。
この日に買ったカメラが私にとっての最初で最後の
父への誕生日プレゼントになってしまいました。


2001年05月16日(水) 父がガンで死んだ時(4)一時帰宅

手術から数日後、父の腹痛も解消され久しぶりに
ご飯を食べる事を許されました。
メニューはおかゆを中心とした質素なものでしたが
父にとっては待ちに待った数週間ぶりに食べるご飯でした。

父はそれほどの量は食べられなかったものの、おかずで
出た味噌田楽につける甘い味噌が大変美味しかったらしく、
しみじみと旨い、旨いと繰り返し言いながら食べていました。

12月も中旬に入り師走で世の中が慌ただしくなる中、
私と母は担当医に呼び出されました。
父が入院して一週間以上が過ぎ、検査の大まかな結果が
出だしたので今後の治療方針を決める為、病院に来て
ほしいとの事でした。

しかし担当医から父の検査結果を聞かされた私と母は
愕然としてしまいました。
父のガンは私達の想像を遥かに越えるほど進行して
いたのです。

担当医はレントゲンを私達に見せ1つずつ丁寧に
父の病状を説明してくれました。
ガンの大もとは腸閉塞をおこす原因を作った横行結腸
にできた腫瘍でした。
その他、大腸の他の部分にもガンの転移が見られ、
肝臓にも星状に細かなガンの転移が見られるとの事でした。

父は既に末期ガンの一歩手前の状態でした。

母は担当医にどうにか治療の方法がないかと
しきりに尋ねていましたが担当医からは色よい
返事はもらえませんでした。

担当医が言うには、あまりにもガンが広範囲に
転移しており手術は技術的にも肉体的にも不可能
だろうとの事でした。

担当医のその発言は私や母にとっては父が死刑宣告を
受けたのと同じ事でした。

うな垂れる私達をよそに担当医は今後の
治療方針を話し始めました。

父の手術が出来ない以上、今後は対処療法を中心に
やっていくとの事でした。
対処療法とはガンに直接、薬剤を注入したり放射線を
当てたりして父の体力を落とさない程度の抗ガン治療
を行い体力を維持させながら、ガンの進行を出来るだけ
遅らせようという物でした。

しかし、この治療法がガンを治すための物ではなく単なる
気休めにしかならない延命治療である事は素人の私達にも
明らかでした。

母は父があとどれくらいの命なのか・・・、
あとどれくらい生きられるのかを医師に尋ねました。

先生は一瞬困った表情をしましたが慎重に言葉を
選びながら言いました。
「・・・それは、はっきりとは申し上げられません。
  半年なのか三ヶ月なのか・・・。
 人によってガンの進行には個人差がありますから
 一概にいつまでとは断言できません・・・。」

そしてその後、はっきりとした口調で続けました。
「・・・唯、今年のお正月が最後の
 お正月になる事だけは確かです」

もう母も私も何も言えなくなっていました。

とりあえず担当医との話し合いの結果、父には正月を
自宅でゆっくり過ごさせてあげる事とガンの告知は
正月明けに再入院したときに最終検査を行いその結果が
出たら告知する事が決まりました。

その後、私達家族はテレビ、雑誌、本、インターネット、
友人知人・・・、
ガンに関する何か良い治療法はないか必死になって探す
毎日を繰り返しました。
そして、父の命を救う為、今後どうすればいいかを
毎晩話し合いました。

まだ、私達は父が生き続ける道を諦めてはいませんでした。

実際、母は、都内の有名な病院の先生を知人に紹介して
もらい話を聞いてもらったりしましたが、父のレントゲン
を見せるとやはり治療は難しいとの事でした。

父のガンに対し科学治療に活路を求めるのは
限界に達していました。

12月27日
慌ただしい毎日を送る中、父の一時退院の日が訪れました。
私が車で迎えに行くと父は久しぶりの帰宅が嬉しいらしく
心なしか表情が晴れやかでした。

家に着くと父は早速、自分のいつも座るソファーに
どっかりと腰を下ろしリラックスした表情でテレビ
を見始めました。

父のその姿は病気になる前の父の姿と何ら変わる事が
ありませんでした。
私はその父の姿を見ていると何だか父が病気だという
事を忘れてしまいそうでした。
そこには、何年、何十年と繰り返されてきた私達
家族の日常の風景がありました。

唯、家に帰って一つだけ父にとって悲しい
出来事がありました。
それは、一番父になついていた家で飼ってる愛犬コロ
が2週間程度家に居なかっただけの父の事をすっかり
忘れていた事でした。

これには父も心底ガッカリしていました。
コロの散歩に行くのも、体を洗ってやるのも、
餌をあげるのも、予防接種等を受けに病院へ
連れて行くのもすべて父がやっていたのです。
それどころかこの犬を貰って来たのが父自身なのです。

その愛情を2週間程度で忘れ、恩を仇で返すような
バカ犬を見るにつけ私は父が心底、気の毒に思えて
しかたありませんでした。

今でも寂しげな表情で愛犬コロを見ていたあの時の
父の表情は私の脳裏に焼きついて離れません。


2001年05月15日(火) 父がガンで死んだ時(3)緊急手術

父が入院した翌日、母と私は担当医に呼ばれ
父の詳しい病状を聞きました。

検査の結果、父は横行結腸に出来たガンにより
腸閉塞を起こしている事がわかりました。

担当医の話によると父の腹痛は大腸に出来たガンが
大きくなり腸を塞ぎ便を詰まらせている事が原因だ
ということでした。

その話を聞き、父の吐き気や腹痛の原因が腸閉塞に
よるものなのだとわかりました。

激しい吐き気は腸が詰まり食べた物が胃から下に
落ちなかった為です。
腹痛に関しては、ガンが大きくなり腸を詰まらせ
便が排泄できなくなった為でした。

医者はこのまま腸閉塞の状態を放置しておけば
腸が破裂して命に関わるので今すぐに腸閉塞を
解消する為の緊急の手術が必要だと言いました。

手術はとりあえず腸の一部を切り、そこから溜まった
便を排泄させてその後、人工肛門を取り付け腸閉塞の
状態を緊急的に解消しようというものでした。

何の医学的な知識も持たぬ私と母は医者に
すべてを任せる事にしました。

父も執刀医に簡単な説明を受け、手術に同意し、
すぐに手術が行われる事となりました。

この時、父はまだ自分の腸閉塞が、ガンによって
引き起こされた事を知りません。
単に腸に詰まった便を排出する為の簡単な手術
という説明しか受けていませんでした。

手術は1時間程度で終わり、無事成功しました。
先生に話を聞くと父の腸は普通の状態の倍以上に
膨れ上がっており、いつ破れてもおかしくない状態
だったそうです。

取り合えず手術が無事終わった事により何週間も
苦しんだ父の腹痛は治まりました。

病室では父が寝ていました。

苦しかった腹痛から開放され久しぶりに安らかな
眠りを手にした父は非常に気持ちの良さそうな寝顔
をしていました。


2001年05月14日(月) 父がガンで死んだ時(2)12月:父がガンだと知った瞬間

1999年11月下旬のある日。
深夜に父がトイレで吐いていました。
私の部屋からトイレまでは廊下を挟んですぐの場所に
ある為、父の吐いている苦しそうな声が私の部屋まで
聞こえて来たのですが、それが普通の吐き方ではなか
ったのです。

とても長い時間に渡り、今まで聞いた事もないような
苦しそうな吐き声でした。

翌日、その事を父に尋ねると父は、昨日食べた肉マン
が古くてそれがあたったんだろうと苦笑しながら話し
ていました。

それから数日後・・・。
今度、父は激しい腹痛に苦しんでいました。
ご飯もほとんど食べられず、水すら満足に飲めない
状態に陥ってしまったのです。

私が父に大丈夫かと尋ねると父は市販の腹痛薬を
飲んでるから大丈夫だと答えました。

しかしこの時、腹痛に顔を歪め脂汗を流す父の様子を
見て私の中に漠然とした不安感が生じていました・・・

その後、一時は具合が良くなり父は私と車に乗って
出かけたりしていたのですがその数日後、父はまた
腹痛で苦しみ始めました。
そして、その苦しみ方は以前より激しくヒドイもの
となっていたのです。

さすがの父も痛みを我慢出来なくなり私が付き添い、
近所の総合病院に行くことにしました。

12月11日(土)内科の診察を受けた父はとりあえず
薬を飲んで様子を見ようと言われ帰されました。

12月12日(日)翌日、症状が一向に良くならない父は
日曜だったのですが救急で診察を受ける事にしました。

・・・しかし、この日もどういう訳か何の治療も
して貰えず家に帰されました。

結局、父が入院したのは翌13日の月曜日の事でした。
この日、ベテランの医者に見てもらった所、今すぐ入院
して検査をした方がよいと言われ、そのまま入院手続き
を行い入院する事になりました。
私はとりあえず父の着替え等を持ってこなければならない
為一旦家に帰る事にしました。

夕方、父へ着替えを届ける為、祖母と共に病院へと
向かいました。
病室に入ると、そこには父の姿はなく母がいました。
昼間働いている母は、仕事帰りにその足で直接病院に
来ていたのです。
父は地下の検査室で検査を受けている最中だと言うので
私達三人は父のいる地下へと向かいました。

私達三人は地下の検査室の前にあった長いすに腰をかけ、
父の検査が終わるのを待っていたのですが、検査が終わ
るまでに何時間かかるかわらないとの事なので母だけを
残し、私と祖母は一旦家に帰る事にしました。

祖母と私が病院を出ようとした所で祖母が自分が持って
きた手提げカバンを先ほどの長いすに置き忘れた事に
気付き、取りに戻る事にしました。

地下へ行くと、そこには母と女性の医者が何やら
話しこんでいました。
私と祖母が母の側に寄ると私の耳に会話の内容が
聞こえてきました。

「・・・まだ、検査の段階ではっきりとした事は
 言えませんがレントゲンを見た所、ご主人の体は
 間違いなくガンに侵されています。
 ・・・それも、かなり進行した状態です」

その女性の医師は冷静な口調で淡々と父の病状に
ついて説明していました。

私と祖母は偶然にも父の体がガンに侵されている事を
聞いてしまったのです。
それは、良くあるドラマのワンシーンのように思えました。
あまりにも自分にとって非現実的な状況だったのです。
・・・まさか、自分の家族がこんな事になるなんて
今まで生きてきて想像した事も考えた事もなかったからです。

私はあまりに突然の出来事に頭の中が一瞬、
真っ白になってしまいました。

しかし医者の次の一言が私を現実へと引き戻しました。

「今すぐ、ご主人にガンである事を告知しますか?」

父がショックを受ける事を考えると今すぐ告知など
出来る筈もなく母はガンの告知はとりあえず詳しい
検査結果が出てからにしてもらうようにお願いして
いました。

父がガンである・・・。

この受け入れがたい事実を頭の中で繰り返すうち、
私は漠然と父が近いうちに私や私の家族の前から
いなくなってしまうような気がして言いようのない
不安と恐怖に襲われました。

私はいつの間にか自分でも気付かないうちに涙を
流していました。
人前で涙を流す事など、かっこ悪いので涙をこらえよう
としたのですが涙を止める事は出来ませんでした。

検査室の父に泣き声が聞こえてはいけないと
声を押し殺し涙を流し続けました。

その頃、何も知らない父は検査室でまだ検査を
受けていました。

その父の事を思うと私の涙は一向に止まる事が
ありませんでした・・・。
私はその場に立ちつくし、ただただ、
涙を流し続けました・・・。


2001年05月13日(日) 父がガンで死んだ時(1)一周忌を経て思う事

始めに:

以下の文章は去年亡くなった父に対する私の気持ちや
考えを書いたものです。
その為、極めて私的な内容になってます。
個人の日記スペースとはいえこのような公の場に書く
ような事ではないと思ったのですが、一周忌を過ぎ
現在の私の父に対する思いや考え、そして何よりも父の
存在した証しを残したく思い、この場を借りて書かせて
頂く事にしました。
    

お願い:

つきましては偶然この日記をご覧いなる方もいる事と
思いますが、正直面白くも何ともないと思いますので
興味のない方は読み飛ばす事をお勧めします。
    

2000年5月13日。
去年の今日、父方の祖父が亡くなりました。
93歳でした。
今日がちょうど祖父の命日です。

去年は私にとって、二人の身内が亡くなるという
不幸が続きました。
二月に父が亡くなり、その後を追うように三ヵ月後に
祖父が亡くなりました。

正直、祖父の死に関しては93歳という事もあり大往生
をまっとうしたという思いが強く、それほど悲しみは
なかったのですが父が死んだ時はとてもショックでした。

2000年2月10日。
父はガンにより57歳の年齢でこの世を去りました。

私は父に関して、いまだにやり切れない気持ちが心の中に
強く残っております。

亡き父を想う時、思い出されるのは後悔の気持ちばかりです。

「あの時、ああしとけばよかった・・・こうしとけばよかった・・・」
「あの時、ケンカなんかしなければよかった・・・」
「あの時、父に何って酷い事を言ってしまったんだ・・・」
「もっと親孝行してあげれば良かった・・・」etc

永遠と続く後悔の気持ちを中で私はいつも父に迷惑ばかりかけ、
何の親孝行も出来なかった不甲斐ない自分自身に腹が立つのです。

父が死んであっというまの1年が過ぎ、それから数ヶ月・・・

私は父の人生について最近良く考えるようになりました。
父は一体何の為に生きて来たんだろう?
何を思って死んでいったんだろう?
果たして父は幸せな人生を送れたんだろうか?・・・
父の死後、そんな事をちょくちょく考えるようになりました。

私は最近、人生とはその人が死ぬまでの間に、この世に
どれだけ自分の存在した証しを残せるかって事なんじゃ
ないかと思う事があるんです。
うまく言えないのですが・・・

自分の生きた証しを残す事=人生

なのではないかと最近考えるようになりました。

以前、テレビのドキュメンタリー番組で末期ガンに
侵された30代の男性の闘病の様子を放映していたの
ですが彼が言っていた言葉で私の心の中で非常に印象
に残っている言葉があります。

彼曰く「死ぬ事に関しては早いか遅いかの違いはあれ、
    いずれは誰にでも訪れる事だし、いつ死んでも
    大丈夫な覚悟は出来ているから怖くはないのです」
   
   「ただ・・・・、唯一怖い事があるとすればそれは、
    私の存在をみんなに忘れられるのが怖いのです。」

彼は今まで三十数年積み上げてきた人生が死によって無に
なってしまう事、自分が存在した証しがなくなってしまう
事を恐れていたのです。

その男性はガンと戦いながらインターネットを使い自分の
闘病の様子を日記にして自分の存在している証しを、生き
ている証しを他の人に知ってもらおうと必死に書き続けて
いたのです。

その当時、テレビを見た私は何故そこまで彼が自分の存在
を他の人に覚えて欲しかったのかピンとこない部分もあっ
たのですが、父を亡くした今なら彼の気持ちが痛いほど
解る気がします。

父は私と姉という人(生物)として子孫という最高の証し
を残しはしましたが、はっきり言って私は父がそれ以外に
もっとも残したかった証しを知っています。

父が個人として残したかった証しを知っています・・・。

私は父が非常に無念な気持ちで死んでいった事も知ってる
つもりですし、やりたい事がまだまだたくさんあった事も
知っています。

そんな無念な気持ちで死んでいった父を想う時、
私は何か父の生きた証しを残してあげたいと思うのです。

だからこの場を借りて父の生きた証を書くことにしたのです。

これは誰に見て欲しいとかそういう事で書くのではなく、
父の為、そして私が父を亡くしてからの1年間、父に対する
気持ちの整理をする為に書こうと思っています。

☆父が入院してから亡くなるまでの約二ヶ月☆

1999年12月13日・・・地元、杉並区の総合病院に父入院

1999年12月27日・・・正月の帰宅許可が出て一時帰宅

2000年1月11日・・・・再入院

2000年1月18日・・・父、ガン告知を受ける

2000年1月26日・・・板橋区の病院に転院

2000年2月8日・・・昏睡状態に陥る

2000年2月10日・・・AM9:05分。父、息を引き取り永眠する

父が入院してから死ぬまで、わずか二ヶ月弱の出来事でした。
それは、あっというまの二ヶ月間でした。


2001年05月12日(土) 第一回!内臓美人コンテスト開催?目指せ内臓美人!?

新宿や渋谷に行くといつも若い女の子達の
ファッションセンスの良さに驚かされる。

どの女の子もみんな今時の流行に敏感らしく、
頭の先から爪の先まで派手な服装で、
一見すると、どこかのモデルの卵か芸能人の
卵なのではと思うくらい綺麗なのである。

それにしても、ある程度、顔がイケてない女の子
でも流行のファッションで身を包みそれなりの
化粧をするとぱっと見、可愛く見えて来るのだから
不思議なものだ。

こういう事を書くとオヤジ的な発想だなぁなどと
自分でも思ってしまうのだが、一昔前では考えら
れないくらい今の女の子はファッションセンスも
スタイルも良くなっているのは紛れもない事実み
たいです。

そこで最近ふと思った事があるんだけど・・・
それは、どうして彼女達は外見にはあんなにも気を
使っているのに体の内面の方は綺麗にしようとしな
いのだろうかという事なのです。
 
今時の若い女性の大半はタバコを吸い、酒を浴びる
ように飲み暴飲暴食の限りを尽くし深夜まで友達と
カラオケ等をして遊びまくる生活を送っているでしょ?

当然そんな生活を送る彼女達の内臓って実は結構
汚れてるんじゃないかって私はいつも他人ごとな
がら思ってしまうのです。

肺はタバコのヤニで真っ黒、
胃は暴飲暴食で荒れまくり、
大腸は偏った食生活により極度の便秘状態
etc・・・

そう考えると外見の綺麗な女の子でも体の内側は
さぞかし汚いんだろうなぁなどと思えて来てしま
うのです。

いわゆる内臓ブス?ってやつです。

そこで私、内臓ブスがあるのなら内臓美人
があってもいいんじゃないかなどという
アホな事を思ってしまったのです。

ここで私は提案したい事があります。
それは・・・
「目指せ内臓美人!貴女も体の中から美しく」である。

これを合言葉に内臓美人を21世紀の新スタンダードに
したいと我ながら密かに思っているのだ(爆)

例えば・・・

「私、二十歳まで山奥で暮らしていたんで肺は
 とっても綺麗です。
 勿論、タバコは一切、吸いません」とか

「私、暴飲暴食は一切しないし、胃の事を考えて
 いつも食事は腹八分目で止めてます」とか

「私、ベジタリアンで毎日野菜ばっかり
 食べてるんです。
 だから毎日快便でうOこの出ない日はないのよね。
 大腸の綺麗さだったら自身があります」等

こういった女の子がいても
いいような気がしません?・・・(謎汗)

どこの企業でもいいんだけど内臓美人コンテスト
とかやってくれないかなぁ・・・

2001年ミス内臓コンテストグランプリは
山O花子さん!!!

花子さんのコメント
「グランプリ受賞出来てホンマ嬉しいわ〜
 顔に自身はないけど内臓の綺麗さだったら
 誰にも負けへんで〜!!」とか(笑)

・・・う〜ん!何かいつの間にか話が思いっきり
訳の解らない方向に行ってしまったみたいだけど・・・
ようは私が言いたいのは若い女の子も外見ばっか気に
しないでたまには体の内側を綺麗にする事も考えても
いいんじゃないかって事?・・・だと思う・・・。
(何か自分でも、もうよく解らないです)(笑)


2001年05月11日(金) ゴキブリバスターズ始動!!

私はゴキブリが超超超超超・・・超を100個つけても
足りないくらい嫌いなんだけど、そのゴキブリが今日部屋に出た。

今年の初物だ(爆)

初物って良く縁起がいいなんていうけど、今日出た
ゴキブリも縁起がいい初物らしく堂々とした風格の
超ビックサイズの奴だった。

ゴキブリ嫌いな私は当然、パニックに陥り殺虫
スプレーで瞬殺しました。
私はゴキブリを見つけると探し出して殺さないと
怖くて寝る事も出来なかったりします(恥)

「何さ!男のくせにだらしない」

なんて言う女性陣の声が聞こえて来そうだが
嫌いな物は嫌いなんだからしょうがない。

たとえ愛しの松島菜々子?に私の為にゴキブリ
嫌いを克服してってお願いされようとも、
木村佳乃にゴキブリ嫌いを克服したら結婚して
あげるって言われようともそれだけは出来ない
相談なのである。

大体、ゴキブリのやつらは何様なんだよ!
デカイ図体しやがって人の家を我が物顔で
走り回りやがってさぁ・・・

可愛げがないんだよね。

チョットはノミやダニを見習ってほしいものです。
彼らも人に迷惑はかける事はかけるが彼らには

「私ら目につかない所で細々と暮らしてくんでご厄介になります」

的な謙虚さがあるではないですか!!

それに比べてやつらは天井だろうと壁だろうと
所かまわずあっちでカサカサ、こっちでカサカサ、
しかも夜行性と来たもんだ。
悔しかったらせいせい堂々と昼間に顔出して
みろっちゅうの!
せめて歩くスピードがカブトムシ並に遅けりゃ
少しは可愛げあるんだけど・・・
あの足の速さは反則でしょ!
やつらドーピングでもしてるんじゃないかねぇ(マヂで)

そんなもんだから私がゴキブリを
見つけたら大変なのです。

殺虫スプレー片手にゴキブリを殺すまで
永遠と私の戦いは続くのだ。
例えるならエイリアンと戦う主人公のような
心境って感じでしょうか・・・
全神経を研ぎ澄ましゴキブリの居そうな所に向けて
スプレーを発射するのです。

でも、めでたくゴキブリを殺しても
その後ちょっとした問題があるのです。

・・・それは、

実はゴキブリの死骸をつまんで捨てるのが
気持ち悪くて出来ないんです(爆)
いつもゴキブリの死骸を前に何十分も悩み
続けその後、意を決してエイッっと掴んで
トイレに流すんだけど・・・
ゴキブリの死骸って気持ち悪いと思わない?

おのれぇ、やつらめぇ、死んでもなお
人の気分を悪くしやがるなぁ・・・


2001年05月10日(木) オバ酸化する姉

私には今年30歳になる姉がいるんだけど
最近、この姉が急激におばさん化している。

姉には子供が2人おり今は旦那を含め
家族4人で埼玉の方で暮らしているんだけど
姉に会うたびに見た目がおばさんになって
いるのに気付かされる。

なんって言うか化粧っけが無く眉が元々
薄いため見た目はアホな平安貴族のマロ
って言うかバカ殿さまのような表情をし
ているのですよ。

特に最近、性格の方がヒドクおばさん化している。

一般的におばさんと呼ばれる人達が取る行動は
姉も当然するんだけど中でもヒドイのが姉は
トイレでおしっこしても水を流さないのです(汗)

姉に何で流さないのかを聞くと
「だって水がもったいないじゃん」
って言うのです。

・・・・・オイオイ
そういう問題、違うでしょ〜!

昔は便器にうOこがこびり付いてただけ
でも怒りまくってたあの姉が・・・

化粧に1時間以上時間をかけていたあの姉が・・・

みんなこうしておばさんに
なっていくんでしょうね・・・(怖)

でもまぁ、結婚してたって綺麗な人は
たくさんいるわけだし結局は普段から
の気の持ち様なんでしょうけどね。

そう考えるとおばさんかおばさんじゃない
かっていう線引きって絶対年齢じゃないと
私は最近思うのです。


2001年05月09日(水) ぐっすりおやすみを英語に訳すと?

今、私は三谷幸喜のエッセイを
読んでいるんだけどこれが非常に面白い。

その本に書かれていた事なんだけど、よく
寝る時、ぐっすりおやすみって言うじゃない?
あれの語源ってどっから来てるか知ってます?
私も本読んでビックリしたんだけどあの言葉
ってどうやら英語から来てるらしいのですよ。

・・・そうです。
もうお気づきの方もいらっしゃるかも
知れませんがぐっすりおやすみって
英語のGOOD SLEEPの略
なのだそうです!
私は読んでいてあぁなるほど
確かにGOOD SLEEP
を直訳すると、
よくおやすみ=ぐっすりおやすみ
になるなぁなどとえらく感心して
しまったのです。

でも改めて冷静になって考えてみると
チョット嘘っぽい気もするんですよね(笑)
What time is it nowが
掘った芋いじるなって聞こえるのと同じように
たまたまそう聞こえるだけなんじゃないの?(笑)

まぁでも本を読むのって自分の知らない
事や経験した事のない事をいろいろ知る
ことが出来るからいいんだよね。
大げさな言い方だけどその本に書かれている
事を疑似体験出来る気がするのです。

だから私がリングを読んだ時は大変だった。
あまりの恐怖に一週間まともに
寝られなかったのだ。
何か貞子の呪いが実際有るような
気がして一週間後に自分も死ぬん
じゃないかと微妙に思ったりしてね(笑)
リングは映画より小説の方が絶対怖いよ!

たまには読書するのも良いもんですよ。


2001年05月08日(火) 食キングな出来事!

・・・いきなりだけど!
とんねるずの番組で食わず嫌い王って
コーナーがあるじゃない?

もし、あのコーナーに自分が出れるとしたら
どんな喰わず嫌いな一品を出しますか?

私だったら間違いなく鯉(コイ)を出します。
それぐらい私、鯉(コイ)が嫌いなんですよ。
そもそも、私って好き嫌いは、ほとんど無くて
何でも食べる方なんだけど鯉(コイ)だけは
ちょっとしたトラウマが・・・

実は遡る事10数年・・・
私が小学生だった時の事なんだけど
ある日、父が一生懸命、魚をさばいてたんですね。
その事自体は料理好きな父で魚をさばく事など
日常茶飯事だったんで私も気にして無かったん
だけど・・・

夕食の時間になって先ほど父が一生懸命
さばいていた魚の刺身が皿に綺麗に並べ
られてました。

刺身が好きな私は真っ先に目の前にあった
刺身に手を伸ばしたんだけど、醤油を
付けて食べてみると何か今まで味わった事の
無いような食感だったのですね。
何って言うか、ほのかに甘味があるような
それでいて少し泥臭いような・・・
私は気になり父に

「この刺身、何の魚?」って聞くと
父は笑顔で
「美味いだろ!それは鯉(コイ)だぞ!」
と言ったのです。

その当時、鯉(コイ)なんて食べれる事を知らない
私はビックリし「えっ!コ、コイって?」
などと鳩が豆鉄砲を喰らったような表情で
父に聞き返しました。
父は相変わらずな笑顔で

「いやぁ、さっき水槽見たら鯉(コイ)が
 死んでたからもったいなくてさぁ、
 せっかくだから喰おう思ってさばいたんだよ
 ・・・結構美味いだろ?」

などと言ったのです。

一瞬私は父が何を言ってるのか解らなかったの
ですが次の瞬間私の背筋を寒いモノが走り抜け
ました。

その当時、釣りが好きな私はよく近所の
釣堀で鯉(コイ)を釣って家の水槽で
飼っていたのです。

・・・まさか!

私が玄関に置いてある水槽を見に行くと確かに
先日釣ったばかりの黒い大きな鯉(コイ)が
いなくなってたのです。

パニック状態の中、私は頭の中を必死に整理した。
         ↓
・・・と言う事は私の食べた鯉(コイ)は?
         ↓
先日釣堀で釣って来た黒い大きな鯉(コイ)?
         ↓
昨日まで水槽で泳いでたのは知ってたけど・・・
確かにチョット元気がなかった。
         ↓
それが死んだって事は明らかに病死したって
ことじゃない!?
         ↓
その鯉(コイ)を私は今、食べた!!
         ↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!?

そうなんです!
父は釣堀で釣って来た、しかも病死した鯉(コイ)
をご丁寧にも調理して食卓に出してたんです。
ゲェ〜〜〜〜〜!
ゲェ〜〜〜〜〜〜〜〜!
ゲェ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!

その事実を知った私は一瞬で気分が悪くなり
吐き気をもようしてしまいました。

普通、いくら食べれる魚だからって釣堀の魚は
食わんでしょうが・・・(養殖じゃあるまいし)
しかも病死つき(キモイ〜)

それ以来、私の輝かしき嫌いな物ランキング
の一位にコイがめでたく就任したのでした。

ちなみに今もこの王座はコイによって
守られているのである。


2001年05月07日(月) パンチョ27才!お子様ランチを食す!

昨日の夜、外出先で友人達が腹が減ったって
言うんで近くにあったレストランに行ったん
だけど・・・私自身は、その時あまりお腹が
空いてなかったのです。

でも店に入って何も注文しないのも
悪い気がして(小市民)
取り合えずメニューを見ることにしました。

何気なくパラパラとメニューをめくっていると
私の目に「お子様ランチ」の文字が飛び込んで
きたのです。

「うわ〜なつかし〜!」

そこで、あまりお腹の空いていない私は
量の少ないお子様ランチを食べる事にしたのです。
・・・っていうか実はどうしてもお子様ランチを
食べたくなってしまったんです(笑)

私は子供の頃、家族でデパートに行くのが
とても楽しみでした。
それは、買い物の後、デパートにあるレストラン
でお子様ランチを食べれるからです。
あと食後の後に飲むクリームソーダ!
あれがまたメチャメチャうまいんですよねぇ・・・。
もう20年以上も前の話だけどね。

だが、いざ注文しようと思った時に
ある問題が発生してしまったのである。

男パンチョ27才!(独身)

恥ずかしくてお子様ランチを注文出来んのですよ(爆)
さすがに野郎3人で店に入ってお子様ランチを注文
するのはとてつもない勇気がいるのですよ(恥)

そうこう考えてるうちに友人達がウエイトレス
を呼んで次々と注文をしだしてしまったのです。

あっという間に二人の注文が終わりウエイトレスの
女の子が「アンタも早く決めなさいよ」的な視線で
私を見るのです。
「お子様ランチ下さい!」
心の中では言えるのに、どうしても
口に出しては言えないのです。

私はメニューを見ながらしばらくわざと
悩むふりをしてたんだけど・・・
その内徐々にウエイトレスの無言のプレッシャー
が強くなってきました。
友人達も「早く決めろよ」などとかなりイラついて
きてしまったので私は勇気を振り絞って
「お、・・・・・・・・・・・・オムライス下さい!!」
って言いそうになるのを堪えて
「う〜んあまりお腹も減ってないし量も少なそう
 だから、このお子様ランチでも注文しようかなぁ」

などと自分としては主演男優賞を受賞できるのではと
思えるくらいな冷静な演技(・・・オイオイ)をして
お子様ランチの注文に成功したのである。
(今考えるとかなり不自然だったけど)

友人達とウエイトレスは明らかに呆れていたが
もうそんなことはどうでもいいんです!

注文出来たんだから(笑)

そして待つ事20分、待望のお子様ランチ
が来ましたよ(喜)
チキンライスにチーズと目玉焼きの乗ったミニハンバーグ、
ミニ、クリームコロッケ、ウインナー、スパゲッティー、
ポテトフライ、サラダ、コンソメスープ、飾り切りしたりんごに
イチゴ、ミニプリン、と確かこんな感じの中身でした。
勿論チキンライスには旗が建っていました。
(ちなみにイギリス国旗でした)

かんじんの味の方はと言うと・・・
なんか少年時代に食べた時のような感動は
正直なかったなぁ・・・
味も別にたいした事なかったし・・・
これが大人になるっていう事なのかいなぁ・・・(寂)
まぁでも20年ぶりにお子様ランチ食べれて満足はしたけどね(笑)



2001年05月06日(日) パンチョ、メンチョになる

今日の朝、メンチョになった。

そもそもメンチョって何?って人がいるかも
しれないのでメンチョについて少し説明します。

メンチョとは要するに鼻に出来るおできの事を言
うのです。
それを何故メンチョと言うのかは私も知らないが
私の家では、このおできの事を昔からメンチョと
呼んでいるのです。
もしかすると地方によっては別の呼び方をする所
もあるかも知れんけど・・・

一週間位前から鼻の頭が痛くて何か嫌な予感が、
してたんだけど今日、朝起きて鏡を見たら案の定
鼻の中央が真っ赤に腫れ上がっていた。
・・・メンチョになってしまったようです。
とにかく痛くて痛くて顔もまともに洗えない
状態なのですよ。

しかもメンチョになって何が情けないって、あなた
鼻を真っ赤に腫らしたその表情・・・
誰がどう見ても酔っ払いにしか見えないのですよ。
酔っ払いのコントなんかでよく鼻の頭、赤く塗っ
てるでしょ?

もろあんな感じ!

今日も昼間、友達に会って来たんだけど、
そいつ私の顔を見るなり

「あれ?昼間っから酒飲んで来たの?」

だって・・・
失礼な!
そんな訳ないっちゅうの!(怒)

アル中じゃあるまいし朝から酒なんか
飲むかいボケッ!

まぁ遊びならまだいいけど仕事場でアル中、
思われるのは、かなわんなぁ・・・

そこでこんな時に、我が家には代々メンチョ
を治療する為の秘薬があるのです。
その名も・・・「タコの吸出し!」
何とも情けないネーミングなのだがこれがとにか
く良く効くのですよ。
そんじょそこらのメンチョ?なら、この「タコの吸
い出し」塗っとけばニ、三日であら不思議!!
みるみる膿が抜け腫れが引くのです。
昔からメンチョになり易い私はこの秘薬にお世話
になっているのです。

・・・所がその秘薬がいくら薬箱を探しても
見つからないのです。

しょうがないから近所の薬屋に薬を買いに
行ったんだけど、どこの薬屋行っても秘薬
「タコの吸出し」が置いてないのである。
あの秘薬がどこにも無いなんて・・・(ショック)
もしや製造中止になってしまったのだろうか?(涙)

しょうがないんで家に帰って切れ痔の時に活躍し
たお馴染みのオロナインを塗る事にしたんだけど・・・
オロナインじゃ当分治らないんだろうなぁ・・・

ちなみに顔の中心に出来るおできは下手にいじる
と危険らしいのでいじらない方がいいですよ
・・・って自分の事だよ!!(爆)


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